塔アーカイブ

2019年11月号

2019年「塔」全国大会 対談
 
小島ゆかり×吉川宏志「古典和歌の生命力」    
 
吉川 今日は暑い中をたくさんの方に集まっていただきまして、ありがとうございます。古典和歌は敷居が高そうなんですけれども、小島ゆかりさんは独自の見方で古典和歌も読んでいらっしゃる方で、『和歌で楽しむ源氏物語』という本も出されています。先ほど高橋源一郎さんから、過去からの〈声〉を聴く、という話がありましたが、古典和歌の〈声〉を聞き取って書かれている感じがします。ぜひ今日は小島さんからいろいろ学ばせてもらいたいなと思って「古典和歌の生命力」というテーマを選びました。
 初めにお聞きしたいのですが、小島さんはどういうきっかけで古典和歌に関心を持たれたのでしょうか。
小島 今日はこんな晴れやかな席に呼んでいただいて大変うれしく思います。実は古典和歌については本当に知らなかったんです。今は無知であるということがわかるぐらいにはわかるようになりましたけれども。学生時代というのはやっぱり勉強なので、読んでもややこしいんですよね。掛詞とか縁語とか、何でもっとストレートに言わないのかなと思ってあまり好きではなかったんですね。歌を作るようになっても、若いころは自分が作る歌と古典とを結ぶものというのは感じたことがなくて、ずうっとそのまま恥ずかしながら作っていたんですが、いつからか、過去からの声というのでしょうか、「読まなあかんぞ」という声が聞こえるようになって。それというのは、古典に関わる会に呼ばれたりする機会が増えるんですね。源氏物語千百年とか、今年令和になったとか。そんなことで無理やり過去から囁かれているうちに読むようになって、あ、おもしろいなと思いはじめて、やがて、どんどん好きになったという感じです。
吉川 僕も国文科だったんですが、連綿体といって、ぐにゃぐにゃとした字を読む練習をずっと続けたり、パソコンもない時代なので古い写本を何冊もめくって言葉の使用例を探したりという作業をしているうちに、だんだん興味を失ってしまったんですね。まあ、根気が無かっただけなんですが。古典和歌をおもしろいと思う前に、大学を卒業してしまった。でも、十年くらい前に、あるきっかけがあって、突然目がひらいた感じがしたんです。
小島 あるきっかけって何ですか?
吉川 京都では時代劇の撮影が多いから、その小道具を作ってる会社があるんですね。その会社の方とたまたま一緒に仕事をしたことがあるんです。「伏籠(ふせご)」というのがあるんですね。竹でできた籠ですが、香炉を置いて籠をひっくり返して載せる。その上に着物を被せておく。そうして着物に香りを焚き染めるわけです。その小道具の人から、「吉川さん、これ何のためにやるか知っています?」って聞かれたんです。それで「当時はちゃんとした風呂もないから、体が臭くならないためですか。または防虫のためもありますか」と答えたんですね。すると、「もちろんそれもあるんですけれど、一番大きな理由は、平安時代って夜は真っ暗でしょ、夜中の真っ暗な闇の中で、女の香りをたよりに男が忍んでいったんです。だから、こういうふうに香りをつけたんですよ」と言われたんです。香りを区別できないと、間違って別の女のところに行っちゃうことになる。これって、すごい話でね、現代の我々の嗅覚ではとてもそんなことはできそうにない。
 この話を聞いて、藤原定家の
 
  梅の花にほひをうつす袖の上に軒漏る月の影ぞあらそふ
 
という歌を思い出しました。初めて読んだときは、すごく大袈裟な歌やな、と思ったんです。袖の上で匂いと月が競っているという、そんなことあるわけないじゃん、って。でも、当時の暗闇の中では、月の光と匂いの両方を感覚で捉えることで、着物の存在感が初めてくっきりと浮かび上がってきたんじゃないか。だから実は、リアリティがある表現だったのかもしれない。古典和歌は、すごく敏感な嗅覚とか、今とは全く違う感覚を想像しないと読めないんじゃないか、と気づいたんです。とても難しいんだけれど、当時の身体のありかたを想像して読む必要がある。逆にそれに気づくと、古典和歌が非常におもしろく感じられるようになった。
小島 おっしゃるとおり、『源氏物語』を読みますと、光さんが夜這い、忍んで来たときに女性の方も、あ、この香りは光さんだなというふうにわかって待っていたり、また空蝉なんかはそれで逃げたりするということがあるんですね。今なんかそんなのあったら大変です。光フレグランスとか売り出されてね、みんな光源氏と間違われるようなことになって大混乱!
吉川 今は消臭剤でできるだけ体臭を消す時代ですからね。だから、今の感覚や語感を、当たり前だと思って読んではいけないんだなというのが、最初に分かったことでした。
小島
  あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む
 
という柿本人麻呂の歌(『万葉集』では作者未詳)も、私たちは、「夜が長い」の「長い」と山鳥の尾っぽが長いのと、それを比喩にしたりはしませんよね。
 
■「恋の荷物」
小島 「古典和歌の生命力」というテーマをいただいて、私は四つのキーワードを考えてみました。一つは「恋の荷物」、もう一つは「韻律の妙」、それから「俗世の力」と「あはれ(身にしむ)」という日本人独特の感情です。
 まず「恋の荷物」。令和になって大人気になった大伴旅人の息子の大伴家持は、旅人が亡くなったときにはまだ十四歳だったんですね。大伴家のリーダーになるにはまだ年少なので、大伴家の主導権というのはよそへ移るんですけども、旅人の妹であり、家持にとっては叔母さんである坂上郎女が家刀自として大変に大きな役割を果たしたんです。家の管理はもちろんですけど、もう一つとても大きなことは歌です。この叔母様が家持初め甥たちに恋の歌を送って、そして返歌をさせて歌の技術を磨く、歌の中心は恋の歌で、こう作るんだっていうことを教えた役割が大きかったと思うんです。当時の貴族社会のインテリジェンスの高い家系で、豊かな文学サロンが開かれていたということに驚きます。
 家持は二十九歳から五年間ぐらい越中の国司として今の富山県の高岡市、そこに赴任をいたしました。家持の越中時代に坂上郎女と贈答した歌を紹介します。郎女の歌
 
  片(かた)思(おもひ)を馬にふつまに負(お)はせ持て越(こし)辺(べ)に遣らば人かたはむかも
 
 「ふつまに」というのはどっさりということです。私があなたを思う片思いの気持ちを馬にどっさりと背負わせて、あなたのいらっしゃる越のあたりに行かせたならば、「かたはむかも」というのは、助けてくれるかしらというような意味ですけども、ここではあなたも私を思ってくださるかしらというような意味ですね。
 それに対して家持が返歌をしていますね。
 
  常の恋いまだやまぬに都より馬に恋(こひ)来(こ)ば担(にな)ひあへむかも
 
 普段からあなたを思っているこの恋でさえ未だやむことがないのに、これ以上都から馬にどっさりそんな片思いが乗せられてきたらもう私はとっても背負いきれないよっていうね、千三百年ぐらい前にこんなに洗練された叔母さんと甥のやりとりがあったかと思うと驚くばかりです。一番驚くのは、恋という心に関わる感情みたいなものを荷物という、大変にユニークな見方で表現して、ちょっとユーモラスでもある歌になっているところです。これは遡ると、
 
  春さればしだれ柳のとををにも妹は心に乗りにけるかも
 
という『人麻呂歌集』の歌があるんですけど、春になったら柳に芽がいっぱいついて重くなって撓むんですね。「とををにも」というのは撓むようにも、という意味。そのように重たく、あの子を思う気持ちが乗っかってくるよ。これも恋の気持ちに何か重量や形のようなもの、そういうことを思っている。
 そしてやがて、恐らくこういう考え方を能作者であった世阿弥が学んで「恋重荷(こいのおもに)」という能の曲を作ったんですね。その世阿弥を通過して、馬場あき子さんがこういう歌を作られています。
 
  父といふ恋の重荷に似たるもの失ひて菊は咲くべくなりぬ
 
 これは馬場さんがお父さんを亡くされたときの歌集『阿古父』の中の歌。父というのは大事な人だけれども、何か重たいような、そしてちょっと嵩高いような独特の存在であったということを馬場さんはエッセーなどで書いておられます。そして、お父さんのことを一人で看病されたり、介護されたりして見送った。その後に「父といふ恋の重荷に似たるもの」、ここに世阿弥の「恋重荷」という曲名がそのまま使われてくるんですね。「恋重荷」というのは、菊作りの老人がシテ、主人公です。菊作りの老人が高貴な女性に恋をするという話なんですけど、それがあってこの歌に菊が出てくるということで、大変よく配慮の行き届いた、心深い歌だなと思うのです。つまり「恋の荷物」という『万葉集』の捉え方が世阿弥を経て馬場あき子さんの歌に結実した。
 もう一つ驚くのは、次の歌。これは昨年の「高校生万葉短歌バトル」で最優秀賞を取った高校三年生の方の歌です。
 
  片思ひいつも寂しい風が吹く ときに熱(ほめ)きて球体となり
 
という歌なんですね。やっぱりこの子も片思いという思いを、時々もう何だか情熱にうかされて心が熱きて球体となるって言ってるんですね。これに大変驚いて、しかも坂上郎女の歌とこの子の歌は片思いという同じ入り方をしているんですね。千三百年を隔ててこんなふうに思いと心がリレーされているんです。
吉川 恋を馬に乗せて運ぶというのが今読んでも新鮮な表現です。恋とか心とか、目に見えないものを、実体化するという表現っておもしろいですね。
小島 古典の中で、心っていうのを「玉の緒」って言うでしょう。尾っぽがあるような、球体に近いけれど、勾玉みたいなものを想像してたらしくて、一方、古代中国では心は方寸、四角なんですよ。アメリカはハートでしょ、だからやっぱり会談は絶対うまくいかないだろうってね。
吉川 犯罪関係のニュースで「心の闇」とよく言いますよね。あれもじつは和歌から来ている。
 
  人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道にまどひぬるかな
 
という藤原兼輔の歌が有名ですね。もともとは親が子供のことで悩むことを、「心の闇」と表現したわけなんです。心って目に見えないけど、そういうふうに表現されると、確かに闇があるように感じられますね。「心の奥」というように、心を立体的に捉えている表現も和歌にあります。言葉によって、心というものをどういうふうに認識するかが決まってくる。心のイメージは、和歌によって作られてきた面が大きいのかなと感じますね。
小島 日本人の文化の中に気づかないうちに和歌ってすり込まれているんですよ。
吉川 そうですね。あと恋の歌だと「恋の奴(やっこ)」っていうのもすごく好きで。
小島 「恋の奴」、穂積皇子ですね。
吉川 さすがですね。

  家にありし櫃(ひつ)に鍵刺し蔵めてし恋の奴のつかみかかりて

という歌があるんですね。家の櫃に恋の奴を閉じ込めて鍵をしたんだけれども出てきて、自分に恋が襲いかかってくるという歌。これはすごく好きですね。ほんとうに恋というのは、自分でもどうしようもなく抑えられないものだという気がする。見えないものを実体化する、とさっき言いましたが、現代的に言ったら実体化なんだけど、当時は本当に何か生きてるという感じがあったんでしょうね。
小島 当時は映像というのはないし、夜は闇が濃かったから、何かを想像する力が私たちより数倍豊かだったと思いますね。
吉川 物の怪なんかもそうですよね。単なる抽象語ではなくて、何か肌に触るものとして言葉を感じていたのかなと思います。今それが一番失われてきている面でもあります。言葉って記号化されていて、パソコンでパパッと打ったらネットでどこにでも飛んでいくという感じだから。
 
■動詞の力
吉川 藤原定家の
 
  梅の花にほひをうつす袖の上に軒漏る月の影ぞあらそふ
 
という歌に戻ります。「あらそふ」は当時は「競う」という意味の方が強かったらしいんですが、とても意外な動詞の使い方をしている感じがします。現代短歌ってたくさん名詞を使いますから、名詞の方が強い面があるんだけれども、古典和歌を読むと、動詞にはっとさせられるときがあります。
 
  夜昼と人はこのごろたづねきて夏に知られぬ宿の真清水
 
という藤原定家の歌もそう。夏の暑い時期にも、宿に清水が湧いてたらしいんですよ。それで、みんな冷たい水を求めてやってくるわけですね。清水が夏に知られたらぬるくなっちゃう。でも夏に知られていないからこの水は冷たいんだと表現している。これ読んで、定家って発想がすごいなあとあらためてすごく衝撃を受けました。「夏も冷たき宿の真清水」だと平凡になってしまうんだけれど、「夏に知られぬ」で非常に印象的な歌になっている。
小島 一番わかりやすいのは「にほふ」ですよね。「にほふ」という言葉のニュアンスは、あでやかでつややか、今「匂う」ってスメルになっちゃうからね、そういう「匂う」という言葉のニュアンスが違うんですね。それは言葉を取り巻いていた空間と時間が違うからだろうなと思うんです。
吉川
  墓石と竹藪照らししづかなり月を離れし月の光は
              『月の夜声』
 
 これは現代短歌で、伊藤一彦さんの歌なんですけども、月を離れた光が地上にやってきているという表現がとても新鮮でした。こういう動詞の使い方は、もしかしたら和歌にもともと含まれている発想なのかなと思っています。我々って、どうしても月の光が射すとか、照らすとか、動詞は決まっているように思うんだけど、ほんとうはそうじゃなくて、いろいろな動詞を自由に使えるはずなんですよ。その自由に気づけるかどうかが、歌の表現の幅を変えていく。小島ゆかりさんの『六六魚』に
 
  疾風のひと日暮れつつひしひしと木はみづからの歪(ゆが)みを正す
 
という歌がありますが、「歪みを正す」という動詞の使い方に驚かされました。
 
■「韻律の妙」
小島 次は動詞ではなく名詞が続く明恵上人の歌を紹介します。
 
  あかあかやあかあかあかやあかあかやあかあかあかやあかあかや月
 
 「あか」は何個あったでしょうか?
 十二個あるんですね。これはすごくおもしろい歌だなと思うんですけども、これについてちょっと調べてみたんですが、この場合の「あか」は当然レッドではなくて明るいなあですね。明るいなあ、明るいなあ、本当に明るいなあ、月はということなんですけども、これは月の明るさに感動した無心の境地の歌なのか、それともこの明恵上人という厳しい修行をした人が至り着いた、いわゆる遍く照らす遍照世界の歌なのかなということを思うのですが、明恵という人は華厳宗のお坊さんで、八歳、数え歳九歳のときにご両親と死に別れている、そして京都の神護寺で修学し、出家している人なんです。非常に孤独な人で自分に厳しい人で、やがて栂尾で華厳宗の道場みたいなものを開いた人なんです。
 ここでこの「あかあかや」の歌の成り立ちはどういうことなんだろうなと思ってさらに調べていくと、華厳宗、密教の基本的修行の中に「月輪(がちりん)観」というものがあって、心の中に月輪を、満月を思い浮かべる、じいっと思い浮かべているうちにそれが何か実体として意識されるようになったら、それこそが自分の菩薩心だと思え、こんなような教えがあるらしいんですよね。そういう「月輪観」というようなものがもとになってこの「あかあかや」なんていう歌が出てきてるらしいんです。
 ただ、自分は歌が大好きですから、教えよりも歌として興味がある。何度もこの歌を声に出して言ってみると、これは「あをあをや」じゃだめだなと。月じゃなくて「あをあをやあをあをあをやあをあをやあをあをあをやあをあをや海」というふうに作ったとしても、こんなに気持ちよくないんですよ。やっぱり「あかあかやあかあかあかや…月」って言うと、すごく気持ちいいんですね。どんどん心がからっぽになっていくような気がするんです。「アー、カー」という、開口、開放的な音が「あかあかあか」。一方「あを」では「を」がこもる音になりますよね。だから、こんなに無心になれないんですね。その不思議さというのに気がついたんです。
 しかも「月」という非常に鋭くて、硬質な響きが最後に来るんですね。この何とも言えない韻律ですかね。最後がもし「月」じゃなくて「花」だったら、そんなに感動しないでしょう。何かちょっと緩くなる。最後が「月」だからこそこれほどの韻律の陶酔感が訪れるんだなあと気がついて、韻律の持っている力に仰天する。最初は笑いながら読んだ歌なんですけども、やがてもう大好きになって、ちょっとつらいことがあると、「あかあかやあかあかや」と唱えて、だんだん、だんだん心がからっぽになっていって、そうすると無心という境地と、あるいは明恵が修行して行き着いたかもしれない遍照の境地は、ルートが違うだけで、意外に近いところにあるのかもしれないなという気もしてきます。
吉川 明恵ってすごく不思議な人で、京都の栂尾に高山寺という「鳥獣戯画」で有名なお寺があって、そこに住んでいたんですね。山深いところなんですが、何回か行ったことがあります。仏画を前にして自分の右耳を切ったという、ゴッホみたいなエピソードもある人です。
 歌人の上田三四二さんがこの歌について『この世この生』という本にこんなことを書いています。「これは身体の声である。身体は言葉を持たない。身体は月を指さして、こういう片言を口にするだけだ。そして片言は、しきりに月を呼んでいる」。そして、この歌は言葉のはじまりにつながってるんじゃないか、とも上田さんは言うんですね。原始人が月を見て何か片言を言ったはずだけれど、それを再体験している歌ではないかとか、赤ちゃんの声と同じなのではないかとか、そういうことを書いているんだけど、本当にそうかもしれない。初めて月を言葉で呼んだときの喜びを感じさせられるのかもしれませんね。
小島 「あか」と「月」しか意味がないのに、歌に肉体感がある、そして声が聞こえてくる歌ですね。現代短歌はどちらかというと非常に意味の方に偏ってしまって、韻律というリズムというものが推敲の時に後からというようになりますけど、もしかしたら六割ぐらいはリズムが大事なんじゃないかと思い始めていて、それは古典を読むようになってからです。意味は単純でも、声が遠くまで届くような歌を作りたいと、このごろ特に思います。
 斎藤茂吉の
 
  あかあかと一本(いつぽん)の道(みち)とほりたりたまきはる我(わ)が命(いのち)なりけり
 
 これも「あかあかと一本の道とほりたり」だからこそ「たまきはる」と続いていけるんだと思うんですね。これはその頃原っぱであった秋の代々木で作った歌なんですけども、もしこれが「煌々と一本の道とほりたり」だと、「たまきはる」につながっていくときに不思議な神秘性というものがあまりない。「あかあかと」というのがとてもいいなあと思うんですよね。もしかしたら明恵の「あかあかと」にある「月輪観」に通じる何かがあるのかもしれないなと思うんですけど、これは茂吉の三十二歳の歌です。
 それに対して西行の最晩年、六十九歳とも七十歳とも言われているころの、『新古今集』の歌。
 
  年たけてまた越ゆべしと思ひきやいのちなりけり佐夜の中山
 
 同じ「いのちなりけり」が使われているんですけども、三十二歳の茂吉が自分の前途を不安ながらも何か非常に大きく恃むような形で歌った「命なりけり」と、政治と歌の世界の中で非常に孤独でありながらも最後まで政治の世界とどこかでつながっていた西行という人の、若い修行時代に一度越えている佐夜の中山を年を経てまた越えることがあると思っただろうか、いや、思いはしなかった、命あってのことだなあという、そういう非常に屈折した、歳月が幾重にも畳まれているような「いのちなりけり」というのと同じ「命なりけり」でも違うなあと思うんですね。茂吉の「あかあかと」を挟んで明恵の歌を思い出し、また西行の歌を思い出す、やっぱりつながってる感じがします。
吉川 茂吉の歌、前から気になってたけど、「たまきはる」というのは枕詞ですよね。枕詞って五音のところに持ってくるじゃないですか。たいてい初句で「あしびきの山鳥の尾の……」というふうに。でも、茂吉の「たまきはる」は第四句の七音のところに入ってますよね。こんな表現って古典和歌ではたぶんほとんどないはずで、それが近代的な新しい表現だったんじゃないか、という気がします。古い言葉を使っていても、音の響きが必然的に変わってくる。
 それから、光源氏のお母さんの桐壺が亡くなる前に作った歌、
 
  限りとて別るる道の悲しきにいかまほしきは命なりけり
 
と、さきほどの「いのちなりけり」の歌を、『和歌で楽しむ源氏物語』の中で関連させて書かれていて、すごく感動して読みました。
小島 ありがとうございます。桐壺の更衣という人は、身分がそんなに高くなかったのに桐壺帝にこよなく愛されてしまったので、ジェラシーで、いじめられて病んでしまって、早くに亡くなってしまったような人ですよね。だから『源氏物語』の最初の方にちょっと出てきてすぐ死んじゃう人なんです。もうこんなところで生きてるのはつらかったんだろうなって思っていたら、最期、「限りとて別るる道の」って歌っている。「限りとて」というのは宮中の掟ということです。宮中で死というものを迎えてはいけないという掟があったので、宮中を出なきゃいけないんですね。そこで桐壺帝と別れるわけですけど、別れる道が悲しいにつけても「いかまほしきは」、このときに私の本当に行きたいのは「命なりけり」、生きる命の方ですと言ってるんですよね。
 だから、物語の中でただただかわいそうな人かなと思ったら、はかなさを押し返すような強さでもって「命なりけり」という本音を歌っている。私が『源氏物語』について書きたいと思ったのはこの歌があったからで、多くの注釈書って『源氏物語』はストーリーがおもしろいから、ほとんど歌は素っ気ない解釈が書かれて飛ばされていくんですけど、そうじゃないだろうなと。この歌を読んだらここにこんなに本音が歌われてる、桐壺の更衣という女性は芯がすごく強い人で、最期にこの歌を辞世の歌として遺していった。『源氏物語』はこの歌から始まるんじゃないかと思ったんです。そういうこともあって、ぜひとも『源氏物語』はストーリーだけじゃなくて、和歌をじっくり読んでほしいなあと思います。
吉川 やっぱり「命なりけり」は、一生に一回しか使えないような、大切な言葉だったんじゃないかなという気がしますね。
小島 そうですね。茂吉もほかに「命なりけり」ってあまり歌ってない。
吉川 鴨長明が書いた『無名抄』という歌論書に
 
  逢ふと見てうつつのかひはなけれどもはかなき夢ぞ命なりける
 
という藤原顕輔の歌が引かれてるんですね。実際には逢えないんだけども、夢の中では逢えて、その夢が自分の命そのものなんだという歌です。鴨長明の歌の先生である俊(しゅん)恵(え)法師が、普通の歌人だったら「はかなき夢ぞうれしかりける」と詠んでしまうだろう、と言うんですね。それを「はかなき夢ぞ命なりける」と歌ったところがすばらしいんだということを書かれています。これもなるほどなあ、と思いました。ほんとうに大事なときは、「命」と強く歌うことで、歌が深くなることもある。
小島 もしかしたら「塔」の歌会に「命なりけり」の歌が増えるかもしれないですね。
 
■西行の魅力
吉川 西行に
 
  うれしとや待つ人ごとに思ふらん山の端出(い)づる秋の夜の月
 
という歌があって、あまり有名じゃないんだけど、前からすごく好きなんですね。当時西行は吉野の山にこもっていた。たぶん、周りには誰もいなくて、真っ暗で、とても孤独だったと思う。すると月が山から上がってくる。月を見た西行は、ああ、うれしいと思う。そしてそのとき、いま同じ時に、都の人たちも一緒にうれしいと思ってるだろうな、と気づいたんだと思います。さっきの「月輪観」とも近いんですが、月を見ることによって、みんなが同じ気持ちになれるんだという発見があったんじゃないかな。西行が生きた時代は乱世のはじまりで、人々は戦へと駆り立てられていた。そんなとき、どうすれば人々は一つの心を持てるのか、という問題意識はあったはずだと思うんですよ。
小島 「あの素晴らしい愛をもう一度」という歌詞もそうですよね。「あのとき同じ花を見て美しいと言った」「心と心が今はもう通わない」という。
吉川 人と真向かうことだけがコミュニケーションではなくて、並んで同じものを見ることによってコミュニケーションが生まれるということもありますよね。だから、恋の歌って、何をいっしょに見たか、ということが大事になるんじゃないでしょうかね。
 
  ひきかへて花見る春は夜はなく月見る秋は昼なからなん
 
という西行の歌もとても好きです。これもあまり知られていないけど。春は花が見たいから昼ばかりであってほしい、秋は月が見たいから夜ばかりであってほしい、どうせなら秋と春で夜と昼を交換してはどうかと歌ってるんです。何という大胆な発想するんかなと思って、これ読んでもう「西行さん、大好き」になっちゃったんですよ。
小島 やっぱり独特の生き方をした人なので、ある種独特の発想がありますよね。
吉川
  こととなく君恋ひわたる橋の上にあらそふものは月の影のみ
 
も西行の歌です。これは恋の歌のようだけど、実は、西住上人という友達がいて、その友達と別れた後の歌なんですけどね。まあ、恋に近い友情だったのかもしれません。「こととなく」は「何となく」の意味。何となく君を恋しく思いつつ橋の上で月を見ているんですね。西行の歌はなかなか現代語に訳しにくい歌が多くて、「あらそふものは月の影のみ」という下の句の意味を調べてみると、本によって微妙に解釈が分かれています。僕は「寂しさを、自分と競い合うのは月光しかないんだ」というふうに読みました。月の光も寂しそうだな、と思いながら見ているんじゃないかな。ここでも「あらそふ」が出てきます。もしかしたら定家もこの歌を読んでいたのかなと思ったりします。「あらそふ」という言葉が、歌でリレーされている感じもします。
 西行の『山家集』って魅力のある歌が多くて、『新古今』とか『古今』とか勅撰集っていうのはやっぱりちょっとお行儀がいいじゃないですか。個人の家集のほうがわりと変わった歌が含まれていて、そこに個性が出ていて、刺激を受けることが多いですね。
小島 『古今集』ね、『古今六帖』なんていうのがあって、『古今集』に入れられなかったというか、とても入れることができなかった歌なんかを見ると、やっぱり貫之の歌も躬恒の歌も何かとても変な歌やエロチックな歌があるんですね。そこはおもしろいところだし、そういうものがあってこそですよね。両方あることがいいところだと思うんです。
 
 ■「俗世の力」
小島 藤原定家の『玉葉和歌集』の
 
  行きなやむ牛のあゆみに立つ塵(ちり)の風さへ暑き夏の小(を)車(ぐるま)
 
 もう暑いから牛がのろのろしてちっとも前へ進まない、さらに砂埃とか土埃が立って、それがまた熱風を巻き込んで、何とも暑苦しい夏の「小車」、牛車で行く、という歌なんですね。
 この歌を読んで、当時の都大路も真夏こんなに暑かったんだなあって思うと同時に、これまで読んできた和歌と何か違う、こんな暑苦しい和歌は初めて見たなと思って感動したことがあるんです。藤原定家の自選歌集『拾遺愚草』によると、内大臣であった藤原良経の家で催された「韻歌百二十八首」、これがすごいんですよ。韻歌というのはもとは中国の漢詩の「韻字」、つまり脚韻です。歌の中にもそれを応用しようというので、字をいただいてはそれを結句の一番最後に据えて詠み込んでいくというのをやってるんですね。ここでは「車」という字を最後に「小車」というふうに詠み込んでいますが、同じ「韻歌百二十八首」の中でこういう歌があるんです。
 
  立ちのぼり南のはてに雲はあれど照る日くまなき頃の虚(おほぞら)
 
 これもまた真夏の白昼の歌でしょ。立ち上って南の果てに雲は出ているけれども、それでも照る日、日射しが「くまなき頃の虚」。この「虚」という字を与えられたので「虚(おほぞら)」と定家が詠み込んだ。同じ「韻歌百二十八首」の中で暑苦しい歌とシュールな歌と両方作ってるんですね。
 藤原定家というと幽玄の人というイメージなんですけど、三十五歳ぐらいでこういう歌を作るって、やっぱり挑戦ですよね。いつもとはまた違う歌を作ってみるその挑戦、しかも俗世というようなものに力点を置いたような歌を作っている。
 私の先輩の高野公彦さんという人もそういう人で、お若い頃はシュールな、びっくりするような名歌がたくさんある人ですけど、一方で非常に俗世の力に満ちた歌を作る人なんですね。
 
  寒き夜肉焼きて食ひ酒のめり生まれて、食ひて、生きて、老いて、去る
 
 「イ」の音が続いて、歯がぎりぎりして、力強く肉を噛んでるような、そんな作り方の歌が、堂々と五十代の歌集、『地中銀河』に入ってる、そういう力というのに私もとても憧れます。ロマンチックなもの、美しいもの、シュールなものも大好きですけど、一方でやっぱり俗世を生きている力に満ちた歌を作りたいという気持ち、そうすると定家という人の見方もまた変わってきます。
吉川 最後の「去る」が悲しいですよね。おいしいものを食べたり酒を飲んだりして俗世を楽しんでいるけれど、結局はこの世から去っていくんだ、というところに、本当にしみじみとします。
 
■句割れから見えるもの
吉川 俊成卿女(しゅんぜいきょうのむすめ)の歌
 
  うき世とやあだに契りし山桜まがふも峰に消ゆる白雪
 
 これは馬場あき子さんの『女歌の系譜』という本の中で取り上げられています(結句が「白雲」になっている本もあります)。『女歌の系譜』はすごく丁寧に、女歌のリズムについて分析していて、感嘆するんですよ。たとえばこの歌について、「四句に『まがふも』が挿入されたことによって意味は取りにくくな」る。「にもかかわらず『まがふも峰に』という句割れした四句の声調は強く、強引に読者を納得させる律の気迫をもっており、いかにも俊成卿女らしいのである」というふうに書いているんです。この歌は「浮世というものだからだろうか。つまらない契りを結んでしまった、山桜が峰に消える白雪と見間違うように」というような歌なんですが、句割れしたところに屈折した悲しみが込められているんだと述べられていて、すごく印象的だったんです。馬場さんは、男性主導であった前衛短歌の時代の中で、どのように女性は歌っていけばいいのか、ということをずっと考えられてきた人なんですね。それで古典和歌を読みこむことで、前衛短歌のリズムとは別のリズムを生み出そうとした。その一つの答えが、第四句で揺らぎを生み出す文体だったのだと思います。
 馬場あき子さんの
 
  都鳥沖へ去りゆく夕暮れをみておりわれと昔男と
             『ふぶき浜』
 
という歌は、「昔男と我とみており」にしたら句割れにならないんですが、それでは全然、思いが入らない。語順が違うだけなんだけど、「みており/われと」と一瞬の間(ま)が入ることで、深い息づかいが生まれてくる。この歌はもちろん『伊勢物語』の東下りを踏まえていますね。馬場さんがどのように、古典からさまざまなものを汲み上げてきたか、ということを調べると教えられることが多い。
小島 迢空が言ったこともそれに近いかもしれません。女歌の中の大事なものを失っちゃいけない、意味があるようなないような、言葉をつなげていくところの不思議な魅力というのを大事にしなければということを言ってる。
吉川 これは個人的なことなんだけれども、以前馬場さんに、「自分は古典和歌は無知なんだけれども、勝手に読んでいてもいいんでしょうか」と質問したことがあったんですね。そうしたら、馬場さんから「古典も自分の感覚で読んでいいんだよ」と言われたことがありました。まあ、あまりにも無知では駄目でしょうけど、その答えを聞いてすごく気持ちが楽になったことがあるんです。勉強で読むというより、自分が楽しんで読めばいいんだなと、ほっとしたことがありました。
小島 そうすると楽しくなりますよね。
 
■「あはれ(身にしむ)」
小島 建礼門院右京大夫の歌です。
 
  月をこそながめなれしか星の夜の深きあはれをこよひ知りぬる
 
 歌の意味は、これまでは月ばかりを美しきものとして眺めてきたけれども、今宵星空の星の夜の深い詩情を、「深きあはれ」を初めて知りましたという歌なんですね。建礼門院右京大夫という人は建礼門院徳子に仕えた女房です。ですから、平家の悲劇をともにした人なのですが、年下の恋人、平資盛という人がいて、その人が壇ノ浦で沈んでしまった。その年の冬に傷心の心を抱えて旅に出て、これは比叡山の麓で詠んだ歌で、文治元年一一八五年の十二月一日のことだったようです。比叡山の麓の坂本で、この日は天候が悪くて夜になっても雨とも雪ともつかず降り散って、荒れ模様の雲が消えそうもないので、一休みしようというのでお眠りになった。そして、夜更けに起きて外に出てみると、よく晴れた空に満天の星が広がっていたんですね。闇の藍色が非常に潤いを帯びて、そこに星空が広がった。これを薄い藍色の紙に箔を散らしたような、そんな星空を初めて見た気持ちがしたというふうに記してるんです。
 不思議なことに、月の歌はたくさん古典和歌にあるんですけども、星は歌われていないんですね。星というと七夕、星合いのロマンですけど、これはもう星の歌ではなくて、織女伝説の七夕の歌になってしまう。「星月夜」という言葉も月夜のように星がきれいだというので、あくまでも美の主役は月なんですね。星空というのが主体として「あはれ」、美というもので歌われた歌はほとんどなかった。だから、この歌は発見の歌だなあと思いますね。大変に孤独な、悲しい気持ちで見て、この美しい星空を亡くなった恋人と見たかったと思ったかもしれないし、星空を見る時は顔を上げますよね、そのときに、次に生きていく勇気が出たかもしれないなあとも思うんです。
 この「あはれ」ということで、忘れられない思い出があるので、最後に河野裕子さんの歌を引きたいのですが、『歩く』という歌集、二〇〇一年のちょうど今頃、八月二十日に刊行されています。裕子さんが手術なさって、少しずつ回復に向かってリハビリをしたりいろんな努力をされて、歩くことがどんなにかけがえのないことかということをテーマにされた歌集です。
 
  さびしさよこの世のほかの世を知らず夜の駅舎に雪を見てをり
 
 解釈なんかする必要もないですが、何が思い出深いかと言いますと、この歌集は若山牧水賞を受賞されて、その授賞式のときに、私も裕子さんには大変お世話になってたのでぜひお祝いしたいと宮崎まで参りました。その頃まだ大岡信さんがご存命でいらして、この歌集が受賞に至る講評をされたんですね。そのときに「この世のほかの世を知らず」という表現は、ほんの少しでも「この世のほかの世」を垣間見た人でなければこんな表現は出てこないだろうとおっしゃったんです。たとえ似たような表現をしても、ここまでの「あはれ」は読者に伝えることができないだろうと。そして続けて、この「さびしさよ」の歌のみならず、河野さんの『歩く』という歌集で一番自分がよしと思ったのは、「しみじみ」あるいは「身にしみる」、「あはれ」っていう、そういう心なんだとおっしゃいました。こうした翻訳不可能な言葉、日本文学の中心にあった情感を、現代短歌は少し忘れてしまっている。その意味でこの『歩く』という歌集がそれをもう一度呼び覚ましてくれたというようなことを大岡さんがおっしゃったんです。
 私は、本当にそのことに感動して、それから改めて現代を生きる自分自身が「身にしみる」とは、「あはれ」というものはどういうものなのかということを考えるようになったんです。そういう意味で、大岡さんの話を含めて河野さんのこの歌は自分にとって大事な忘れられない歌になりました。
吉川 河野さんの歌は、京都のこの近くを走っている叡山電車の駅なんじゃないかと思っていて、哀しさとともに身近な親しみも感じる一首です。「知らず」と言っているけど、じつは「ほかの世」を知った表現なのではないかという大岡さんの言葉もすごいなあと思います。「身にしみて」というと、藤原俊成の
 
  夕されば野辺の秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里
 
という歌を思い出しますね。
小島 『伊勢物語』ですね。
吉川 『無名抄』に載っているんですが、「身にしみて」という表現が、言い過ぎだという評も当時はあったらしいです。でも俊成は、やっぱりこれが自分の一番の自信作だと言っていたそうです。俊成の歌を見る目は、ほんとうに確かだったと思います。俊成は「身にしみて」という言葉を、とても大事に思っていたんじゃないでしょうか。
 「月をこそながめなれしか」の歌もそうなんだけど、風景が自分の中に入ってくるというか、自分と外界が溶け合うというか。
小島 境目がなくなるみたいな感じですね。
吉川 そういう状態のことを「身にしみる」という感じで言ってきたのかなとも思いますね。
 『源氏物語』に「夕霧」という段があります。
 
  山里のあはれをそふる夕霧に立ち出でん空もなき心地して
 
という歌を引いてきたのは、今日の会場に近いところが舞台だからなんです。今では赤山禅院というお寺があるんですが、そのあたりの風景をイメージして紫式部は書いていたらしいです。時間がある方はぜひ行ってみてください。光源氏の息子は、この歌によって「夕霧」と呼ばれることになるのですが、その友人(柏木)が不倫の恋の末に死んでしまうんです。夕霧はやがて、死んだ友人の妻(落葉の宮)に恋心を持つようになります。落葉の宮は、比叡山の麓に隠れ住んでいたのですが、そこに夕霧がやってきて、弱っている女を追いつめるようにして関係を結ぼうとする。読んでいて辛くなる話なんですけれども、「山里のあはれをそふる夕霧に……」の歌はとても優美ですね。夕霧がかかっていて、どこに帰ればいいか分からないので、このままここに居たい、という意味なんですが、夫を亡くした女は、とてもそんな気持ちになれず、困惑してしまう。『源氏物語』は精神的に残酷なところが少なくないんだけれど、それさえも四季折々の情感のある風景とともに描かれていて、美しい毒が、身体的にじわっと入ってくるような感じがあります。
 
■言葉のリレー
吉川
  雲払う風のコスモス街道に母の手をひく母はわが母
            『本所両国』
 
 小高賢さんの歌では、これが一番好きなんです。老いた母の手を引きながら、この人は私のかけがえのない母なんだとあらためて思っている。しみじみとしたいい歌です。亡くなった小高さんは、「歌はテクニックじゃない」とよく言っていました。だけど、あるとき『山家集』を読んでいたら、はっとしたんです。西行に
 
  雲払ふあらしに月のみがかれて光えて澄む秋の空かな
 
という歌があるんですよ。「雲払う」という言葉は、ああ、ここから取っていたんだと気づいた。小高さんは、古典和歌にはあまり関心がないふりをしていたけど、実は読んでたんだなあと分かって、妙に感動しちゃった。それも死者からの〈声〉という感じがしましたね。言葉ってリレーしていくんだなと感じたりもして。
小島 みんなやっぱり囁かれてるんじゃない。
吉川 本当にそうで、囁かれているんだけれど、こっちが耳を持たないときは――
小島 聞こえないんですよね。
吉川 最後に、これから古典和歌を読む方にメッセージをお願いしたいのですが。
小島 勉強のときには古典和歌っていうのは言葉とか歌でしかなかったんですよね。ですけど、本当に好きになって読んでいくと、必ず歌の背後に、歌のその場所に肉体を持った人が立っている。その人は私と同じように、人を愛したり、憎んだり、ねたんだり、いろんな感情を持ってそこに佇んでいるんですね。端からどんなに幸せそうに見えても、やっぱり命を生きている以上、いろんな悲しみを繰り返しながらみんな生きているわけで、そういう人がこの歌とともに佇んでいるんだということに気づく、生身の声みたいなものと出会う、ボイスと出会うという感じですかね。
吉川 最初はすごく距離感があったのだけれど、私の場合、まず西行の声が聞こえるような感じがした。それがきっかけで、自分なりに古典和歌が不思議に親しく感じられるようになりました。その楽しさをぜひ伝えていきたいと思っています。
小島 好きなように読めばいいということで。
吉川 そうですよね。名歌・秀歌を選んだ本はいくつもありますが、それにあまり縛られず、自分がおもしろいと思う歌を見つけていくことが大切かなと感じます。有名でなくても、今の目で読むと新鮮な歌も、いくつも見つけられると思います。今日は本当にどうもありがとうございました。
小島 どうもありがとうございました。(拍手)

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