塔アーカイブ

2021年12月号

そもそも歌集ってどう読んでる?
~「悩み」に答えるQ&A~

山下 泉・澤村 斉美・魚谷 真梨子

 2021年9月号の「800号記念特集」では「そもそも歌集ってどう読んでる?」と題し、歌集の読み方について会員アンケートを実施しました。
 その設問の一つ「歌集を読む際の悩みがあれば教えてください」には、たくさんの悩みや疑問が寄せられました。
 その中からいくつかについて、選者の山下泉、企画部長の澤村斉美、会員アンケートを取りまとめた編集委員の魚谷真梨子が話し合ってみました。
 正解はありませんが、例えば、こんなふうに考えてみるのも一つの手です。

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【歌集の入手のしづらさ・扱いにくさ】
Q 歌集は一般に流通していないものが多く、入手が難しい。
 一冊当たりの値が高い。
 一冊が分厚く、本棚がすぐいっぱいになる。文庫になっているといいのに。


魚谷 共感します。すぐ絶版になる。図書館に入ってないことが多い。
 好きな歌人の歌集なら買うけれど、ちょっと気になる歌集などを試しに読んでみるのが難しい。
澤村 新しい歌集はインターネットで購入するとか、版元さえ分かれば注文すればよいので、入手のルートははっきりしている。
 古いものは手に入りにくいですね。
山下 手に入りにくいという問題は私の若い頃からあって。
 結局、持っている人に借りて、許可を得てコピーをとるとか 親しい人となら一緒に購入して共同で持っていて、さらに要る人に回すなど。
 古いものはネットの古書店で探すこともあります。
 『塔事典』の編集作業をしたとき、図書館に足を運んで探したりもしました。
 司書の方に相談したら書庫の奥の方から出てきたこともありましたね。時間はかかりますが探すしかないです。
澤村 評論を書くなどの目的で、資料として歌集を探す場合は国会図書館、詩歌文学館など手に入れられるルートはありますね。
 一般的な読書の目的で手元に歌集をおいておこうとすることが難しく感じられるのかな。
山下 文庫なら、短歌新聞社文庫とか、国文社の現代歌人文庫、砂子屋書房の現代短歌文庫などにお世話になってきました。
澤村 復刊の試みには期待したいですね。私も例えば、河野裕子の『桜森』などは新装版で手に入れられてありがたかった。
魚谷 塔はいろんな年代の方があり、古い歌集を持っている方もいるはず。歌会で情報交換したり、貸し借りしたり、それを気軽にできたらいいなと思います。

【漢字や言葉の難しさ】
Q 文語や旧仮名遣い、旧漢字がよく使われている歌集を、調べながら読むのが大変。
Q せっかく感情移入して読んでいても、読めない漢字があると「急ブレーキ」を掛けられたような状態になり、リズムが止まってしまう。
 地名や植物の名前、難読な古語などはできればルビをいただきたい。


魚谷 これも共感します。
 旧漢字が出てくるとそのつどひっかかってしまって、歌の内容まで入っていけず、読むのにも時間がかかることがあります。
 そういう歌集を敬遠してしまう方も多いのかも。
山下 地名とか読みづらい特殊な固有名詞は、たしかにルビはほしい。
 でも、今はネットや電子辞書があって、調べることは難しくないので、調べながら読んでもいいのでは。漢和辞典を引く楽しみというのもあると思いますし。
 調べることは、言葉に対する愛着と、言葉をどう捉えていくかということにつながっていくと思うので。読めないことをマイナスに考えるのではなく、調べていくことを楽しんでは。
澤村 「ルビはまったく要らない」という人もいますね。自分で読み方を探るのも読みのうちだから、と。
 反対に「ルビは逐一ほしい」という人もいます。
 私はその中間かな。絶対に読めない、作者独自の読み方をしている場合はルビがほしい。植物名や地名は要らないかも。自分で調べることができるから。
 ルビの振り方の基準として、河野裕子さんの方法は参考になります。固有名詞で読み方が難しいものや、例えば「午(ひる)」のような独特な読みをするものにはルビが振ってある。河野さんのなかに一定の基準があるようです。
魚谷 ルビに作者の意図があるというのは面白いですね。
 そういうことを考えながら読むと楽しめるのかも。
澤村 自分が作者として迷うのが「夫」。
 私はルビを振らず、「おっと」「つま」どちらで読むかは読者におまかせ。
 私なりの読み方はあるのですが、そこは読者がご自分のリズムで読んでください、という気持ちです。
 でも、それがストレスになる読者もいるんでしょうね。
 もし分からない読み方や言葉があったら飛ばしてもいいと思う。すぐに分からなくてもいいのでは。それも歌との一期一会です。慌てずに長い目で歌と付き合えばいいのではないかと。
山下 ということは、分からないものは保留するわけですね。
 私は、それはたまらなくて。なんらかの形でも読んでしまいたくて、時間はかかるけれど、なんとか読もうと調べる。
魚谷 一人で読むのはたいへんなので、読書会というのも良いかもしれない。
 私は以前、河野裕子の歌集の読書会に参加していたのですが、その時は植物の名前や分からない言葉について回りの 人にいろいろと教えてもらって楽しかったです。

【解釈の難しさ】
Q 歌集の起承転結がよく分からない。


山下 「起承転結」は、そもそも漢詩からきたらしいですが、あることが説き起こされて、それを展開させ、変奏されて、最後に締めくくられるという四部構成をいいますね。
 それを敷衍して、ものごとや文章の順序の捉え方として「起承転結」という概念が使われていますが、歌集の場合、それはあてはめにくいと思う。小説などと同じように歌集も起承転結というだいたいの約束でできている、と、思われているかもしれないけれど、歌集は構成が独特で、構成の独自性があり得るべき価値と結びついている場合もありますから。
 あまり一般論にとらわれないで、歌集独自の構成を見ていく方がいいのではないでしょうか。
澤村 歌集を初めて読むと、その一般的な構成の概念とのギャップに驚かれるかもしれませんね。どう読み進めていいか分からないと戸惑われる方も多いのでは。
 お二人は初めて歌集を読んだときに戸惑いませんでした? 
 初めて読んだ歌集のエピソードをお聞きしたいです。
山下 私は高校生の時、女子高で短歌部があったのですが、短歌をやっていた先生がけっこういらっしゃって。
 角川短歌賞の次席になった歌人の東淳子、この方が赴任されて、その先生の第一歌集『生への挽歌』を大学生の頃に読んだのが最初です。女性として先鋭的なところがあり、恋愛問題を軸にしながら教師としてどう生きていったか詠っているんですね。
 当時、五島美代子さんらがすごく推されていた。単に恋愛というのじゃなくて、人を愛するって深くて難しくてつらいんだということを私はこの歌集を通して知って、衝撃的でした。歌集を読んでそういう体験をしました。無心に読んで、驚きがあった。歌っていうのはこういうものなんだと刷り込みのように読んでいました。
 だから、後々歌集を読むときも無心に入り込んで読んでいますね。
魚谷 高校生の時に読んだ『サラダ記念日』ですね。自分たちがふだんしゃべっているような言葉で短歌を作るということにびっくりして。
 それまでは教科書で習う文語の和歌や短歌が多かったので、ふだん使っている言葉を五七五七七にあてはめていくのが新鮮で、くり返し音読をした記憶があります。
 小説とは違い、章ごとにテーマがあって、いろんな場面や気持ちが詠われているというのも、こういう組み立て方があるんだと新鮮でした。
 私が生まれるちょっと前ぐらいの時代で、時代の空気感とかが短歌を読んでいるだけで伝わってきて、こんなことが短歌でできるんだと思いながら読んだ記憶があります。
 その後大学に入って、最初にオリエンテーションで自分の興味のあることを発表する機会があっったんですけど、私はライトバースなどを調べて、面白いと思っている歌をまとめて発表したら、担当に当たった先生が考古学か何かの先生で、けちょんけちょんに言われました(笑)。僕はこんなの大嫌いだとか言われちゃって。
 まったく興味のない人からするとまったく伝わらないんだな、とそれも衝撃的でした。
澤村 私も最初に手にした歌集は中学生の頃に『サラダ記念日』でした。それまでに一首単位での歌との出会いはあったんですけど、図書館で見つけて読んでみようかなって。
 でも、私は一冊を読み通せなかったんです。現代の口語で詠われているにもかかわらず、とても難しく感じました。好きなフレーズはあって、そういうのを部分的に拾い読みするような感じになってしまって。
 初めて読み通せたのが同じ俵万智さんの『チョコレート革命』。
 今から思えば、年齢が長じたというのもあったかもしれないけど、あの歌集は恋の物語がわりと分かりやすく伝わる構成をしていたので、その物語性に引っ張られて読めたんでしょうね。
 だから、初めて歌集を読む人が「起承転結がよく分からない」って悩むのは分かる気もします。
 でも、今から思うと、歌集の面白さってさらにその先にあるんですよね。

Q 抽象的な詩感覚の歌(ことに若い世代の)が理解しづらいので読んでいて共感が少ない。
 そのことにわが身の感受性の衰えも覚えてしまう。
 そんな時はもう歌を作ることの意味に悩んでしまう。


魚谷 「ことに若い世代の」と書かれているのですが、あまり世代は関係ないのかな。分かりにくい歌とか歌集はたくさんあるので。
澤村 「抽象的な詩感覚の歌」ってどういう歌かな。作者像を明らかにしていないとか。
魚谷 私も現実離れした歌がけっこう好きで、例えば服部真里子さんの歌とか。
 批評してどういうことなのか説明してって言われたら難しいけど、なにかすごくいい、というのは分かる。
 そういう批評のしづらさでひっかかってしまう歌のことかもしれません。
山下 この「詩感覚」という言葉について、昔は短歌のなかに詩を求めていくんだっていう方向で歌論を展開してきましたが、今はもう「短歌は詩だ」という考え方が普通になってきていますね。
 この質問で言っているのは、一首として了解するには飛躍がありすぎるとか、言葉の使い方が従来とは違う試みがあるとか、そういうことかな。
 そもそも歌の読みは理解だけじゃないと思うんです。
 共感もされればいいんだろうけど、共感だけでもなくて。自分とは異質な言葉づかいをする作品世界をじかに受けとめてみることが基本かなと思うんですね。批評はしづらいけれど何か響いてくる、それを手がかりに読んでいくのがいいんじゃないでしょうか。
 「わが身の感受性の衰えを覚える」なんて、そんなことを思う必要は全然なくて。分かりにくいのはこの歌が下手だからよ、と批判するぐらいの気持ちで読んでいいのでは。
 あるいは、その歌集を書かれた人が若い人だとしたら、その若い世代がどう感じるのか聞いてみるのも一つの手ですね。
 私は時々娘に聞いてみるんですね。こういう歌があってね、ちょっといいなと思うんだけど、解釈に自信がなくて、あなたどう思う?ってちょっと聞いてみる。するといろいろと言ってくれる。なるほどね、自分が変だなと思う感覚が若い人にとっては割と普通なんだ、と発見になる。
 世代間ギャップとまでは感じなくて、そういうものの見方があるんだと参考になります。
澤村 葛原妙子とか山中智恵子とか、理解や共感で読むのではない歌というのは昔からありますね。世代の違いや感受性の問題ではない気がする。
 「歌を作ることの意味に悩んでしまう」ということですが、衝撃を受けるほどにその作品から何かを感じているということでしょう。それは逆に感受性が活発に働いているからなのでは。分からないことを面白がってみてはどうでしょう。
山下 そういうのに出会えるっていうのは貴重なことよね。
澤村 共感だけが歌の良さではないですね。「分かる分かる」って言われてもね。
山下 いなされた感じがする時もありますよね(笑)。

【「良い」と思えない時】
Q 他の人が「すごくいい!」と言っていた歌集、なんらかの賞を受賞した歌集などに自分が上手く乗ることができないと非常に申し訳ないような気持になってしまう。


澤村 前の話の続きで、これも共感だけが歌集の読み方じゃないと思うんです。人の感想に共感しなければならないこともないですし。
 「申し訳ない」というのは作者やその歌集に対してなのでしょうが、うまく乗ることができなかった自分を大切にしてみては。
魚谷 自分がどこを良くないと思ったのか突きつめて考えてみるというのも一つの手です。歌集批評会でも、みんながその歌集を褒めているだけだと面白くないですよね。
山下 ある歌集の長所短所について、距離をとって客観的に考えてみる。それが大事なのではないでしょうか。

【歌の何に感動しているのか】
Q 「事が」悲しければ、やはり感動し、共感もする。
しかし、事に感動したのか、歌そのものに感動したのか時々わからなくなる。


山下 病気や災害などがテーマになっている場合、そういう出来事に引っ張られて読むことはあるけれど、そういう歌集こそ冷静に読みたい。
 悲しい出来事や、人生上の重いことに作者がどう対峙しているのか、無心に読む。
 世の中苦しいこと悲しいことに満ち溢れていて、それが歌のテーマとして大事になってくることは確かなんですが、やはり、そのことがなぜ歌になったのかというのを深く読んでみる必要がある。
澤村 同じテーマ、同じことを扱っているとしても、心を動かされる歌と、そうじゃない歌があります。
 作者が歌にした時点でなんらかの表現意図が働いていて、読者はその表現を見て心が動いているわけだから、やはり歌に感動しているのでは。
魚谷 例えば、お母さんを亡くされた川野里子さんの『歓待』と、お父さんを亡くされた江戸雪さんの『空白』を同時期に読んだんですけど、詠い方も、取り上げる場面も全然違いますし、心揺さぶられるポイントが全然違う。
 読者としての私たちは、作者の目を通して出てきたものしか見ることができないので、やはり出来事に感動しているのではなく、立ち上がってきた歌に心が動いているのでは。
澤村 「作品は作者の人生と切り離して鑑賞すべきと言われるが、どうしても境涯とむすびつけてしまう」という悩みも寄せられていました。
 この場合、作者の人生が「事」に当たると思うのですが、歌集を一冊読んで心が動く時、作者の人生に心を動かされているのかというとちょっと違う気がする。
 極端なこというと、そんなに人生の出来事って大きく変わらないですね。それぞれの生は無二なんだけれども、出来事としてはどこかで聞いたことのあるエピソードばかりでそんなにバリエーションはない。
 それで、作者は人生のことを訴えたくて歌を作っているのかというと必ずしもそうではないのでは。作者の実際の人生と、言葉として表れたものの間にはレイヤー(層)があるといいますか、言葉にすることによって位相が変わるといいますか。
山下 作者の境涯っていったい何なのか。私たちは他者についてどれだけ知っているかというと、概略を知らされているにすぎない。
 それを「境涯」にまで深めているのは歌自体の地力ですよね。作者のフィルターや心の働きを通して作品化されているわけで。
 いわゆる人生と歌に表れた「境涯」は等価ではない。その点をわきまえておくべきだなと思っています。「事」がかなしくて感動しているのではなくて、作者の気持ちの働きを歌に見ているのだということを自覚しておきたいです。
澤村 事と歌が等価ではない、というのは本当にそうですね。
 作者は自分が得た材料を言葉で構成するということを行っていますが、読者の側でも歌に表された言葉を通して、そこに詠われたものを再構築する。それが読みなんだと思います。
山下 「読み」というもう一つの創作行為ですね。
 短歌には読みの積極性が必要ですよね。恣意的に読んではいけないんだけど。
澤村 読者の側での恣意的な読みがいき過ぎると、事の方を想像して、読者自身の経験を重ねたりしてしまいがちですね。

【歌集を読むことで受ける影響】
Q 無意識に影響を受けて、自分の歌が分からなくなることがある。


魚谷 どんどん影響を受けたらいいのではないかと思います。
 私は先にお話しした『サラダ記念日』を読んだ頃、そればかり読んでいました。歌も作り始めていたんですが、今読み返すと俵さんぽい歌ばかりで恥ずかしい。でも、そういう経験を通して五七五七七が体に吸収されていったんだと思います。
 ずっとまねをしているだけではだめなんですが、影響を受けて自分の歌が変わっていくのはポジティブなことと捉えてよいのでは。

Q 歌集を読み返すと「良い」と思う歌が前回読んだ時と異なってくるが、それはいいことなのか分からない。
 自分の読みが進化しているのか、単に自分のその時の心の状態でいい歌の基準がぶれているだけなのか。


山下 こういうことってよく経験します。
 最初読んだ時と、しばらくして読み直した時に目に飛び込んでくる歌が変わってくる。それは自分がちょっと進化したのかもしれない。
 ぶれているんじゃなくて、歌の受け止め方ってどんどん変化していくところがあると思うんですね。年を重ねていくにつれて、いろんなことを知ったり、がっかりすることも体験したりしているうちに感じ方が変質していくっていうか。
 前回読んだ時と異なっているというのは自己発見でもあるので、よい体験をされているんじゃないかと思います。
澤村 以前の自分なら読み過ごしてきた歌が心に留まるというのは、ぶれているというよりは、自分のなかの歌に対する「解像度」が上がっていると捉えてはどうでしょう。
 実際、私は、前には選べなかった歌が目に留まるようになってきて、それが楽しいと思うんです。
 逆に、歌を始めた頃にしか選べない歌も確実にあるので、進化しているわけではないのだけれど。

Q 新しく出た話題の歌集をその都度読んでいないと話題に取り残されてしまうような空気に時々しんどくなる。
 総合誌やSNSを見るたびに自分の読書姿勢に不安を感じる。


魚谷 次々に歌集が出てきて追いつかない、読む時間が取れないというのは私もそうで、頑張って読まなきゃと思って朝の通勤電車の中で読んでみたりもしたんですけど、全然読めなかった。
 やはり、自分のタイミングでじっくり歌集に向き合いたいと思って、最近はどんどん未読の歌集が積み上がっていますね。
 SNSはどんどん情報が飛び込んでくるので、自分だけが取り残されているという感覚もよく分かります。
山下 ある程度割り切って、自分が好きな歌集を優先して読むとか。いつもかばんのなかに入れておいたりね。好きな歌集を身の回りに増やしていくのが大事なことかと思います。
 苦手な歌集があったら、それが良いと言っている人の意見を聞いてみるとか、意見交換してみることが大事ですよね。
 SNSは便利だけど、あまりこだわるのもしんどくなるので、ある程度のところでこう薄い壁を作って、ここから先は自分だけの考えというのを守っておくとよいですね。
澤村 歌集の出方が速く、数も多くなっているのは感じますね。新しい歌集や話題についていっているかというと、私はついていけてない。
 でも、好きな歌集や気になる歌集はあります。網羅しているわけではないので、俯瞰的に現代短歌の状況が分かるか、説明できるかというとまったく自信はないのだけど、ほんのひと握りの作品、何人かの歌人を心のよりどころにして短歌をやっているという感覚はあります。
 総合誌の話題やSNSを見ないわけじゃないけれど、全部を追っていく時間がないというのが実際。話半分に聞く、右から左へ流していく感じで、情報の波に漂っていて、ごくたまに、自分のアンテナにひっかかるものがある。そういうものを大事にしています。自分が軸ですよね。
魚谷 SNSは取り残されるという面もあるけど、いい面もあって、新しい歌集の情報が入ってきたり、自分の好きな歌人や批評者の感想が上がっていたりすると興味を持つきっかけにもなる。
 情報を取捨選択しながらうまく付き合っていきたいです。

【最後に】
澤村 「歌集の読み方」のマニュアルのようなものがあるわけじゃない、読むこともまた創作行為なんだという話が今日ありましたが、だからこそ労力が必要で、ちょっとハードルが高いと感じてしまう人もいるかもしれない。
 でも、何冊か読んでいくことで、そこはたぶん乗り越えることができると思います。
魚谷 今日は山下さん、澤村さんも歌集や話題を全部追いかけているわけじゃないんだと分かってほっとしたというか。分からないものはしばらくそのままでいい、自分のペースで歌集と向き合っていったらいいんだなと思えました。
 いろんな人の、初めて歌集を読んだ時の経験を聞いてみたいですね。皆さん、はじめは慣れなかったのかも。
山下 歌集は本当にそれぞれ違っていて、毎回迷うんですよね。さて、どう読もうかと。
 「書評を書くためにポイントを探しながら読んでしまうのが自分でもイヤ」という悩みもありましたが、書評っていうのは読み筋を示すことでもあるから、批評としてとても大事なんですね。
 だから、ある歌集を読んで、この歌集にはこういう特徴があると気がつくことがあったら、ブックレビューのような感じでちょっと書評を書いてみるのもよいかもしれません。(了)         

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