塔アーカイブ

2006年7月号

座談会

「高安国世と塔の歴史」

(出席者)澤辺元一・黒住嘉輝・藤井マサミ・澤村斉美・西之原一貴
(記録) 干田智子

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●「塔」創刊のころ

澤村 二〇〇一年七月号から始まりました「塔」クロニクルは、今年の七月号で連載が終了します。この連載は、毎回見開き二ページ、一回につき半年分の「塔」を取り上げて、一九五四年の創刊から、一九八四年の高安さんが亡くなるまでが回顧されています。回顧してみると、高安国世による選歌後記や編集後記が引用され、その短歌観や人柄が垣間見える記事も豊富にありました。私自身は「塔」への入会が二〇〇〇年の二月で、高安国世を知らない会員ということになるのですが、しかし、「国世の歌会好きは有名」、とこれは、池本一郎さんが一九六四年の前期を振り返るクロニクル(「塔」〇三年二月号)で書かれていることですが、こういうのを読むと、現在の「塔」で歌会が大事にされているところと、もしかしてつながっているのかな、と感じます。そんなふうに、風土といいますか、自分がいる現在の「塔」の土壌を、今日は様々な角度からうかがいたいと思います。

澤辺 私らが高安さんに会うた時に、その時代の平均的に若い者は高安さんの周囲に集まり、そこから「塔」が生まれたわけですけれども、高安さんの周囲に若い人が集まるっていうのは、一つは人柄の魅力と、作品としての魅力、そういうものがあると思うんですよ。

黒住 そうね、「未来」が昭和二十六年に創刊されてますからね、それに高安さん刺激受けて、近藤芳美さんは文明選歌欄の兄弟弟子、同い年なのね。大正二年生まれで仲もいいし、東京行ったり、こっちに来たりのね。

澤村 お人柄もという話が今ありましたが、作品は、どういう所が魅力的だったのでしょう?

藤井 時代を先取りするというか、新しい側面をとらえる、ということがとても論議されましたし、そういう作品は喜ばれました。

黒住 いにしえよりこれありで行くっていうのじゃないからね。高安さんは面白い、子供みたい、バスに乗ったって、一番前空いてたら一番前に乗るの、電車でも。

澤辺 「塔」の発足のあたりで、若い人たちがいたわけなんだけども、その人たちが大体「アララギ」系だった。ところが、「アララギ」系の歌の中には今見ても非常に古くさい、いわば日常茶飯の歌っていうのが相当並んでるわけね、写生歌であっても。だから、それに飽き足りん人たちが高安さんの所へ寄ってきたということ。

藤井 その若い人の中に田中栄さんやら、澤辺さんやらが入ってられた。

澤辺 いや、私はちょっと後で、河村盛明とかね。

黒住 太宰瑠維とか、河村盛明とか、出崎哲郎とかね、全部京大の……

澤辺 その人たちが「塔」のスタートを形作ってくれた。

黒住 それに藤牧(坂田)久枝とか、加藤和子とかね、そういう人たち……

澤辺 そういう人たちの作品私らが今見てもね、そんな古さは感じられない。若者らしい清新な感じのする歌を作ってますね。

黒住 ええ、そういう雰囲気だから田中栄さんなんかも来たわけ。元は大村呉楼という「アララギ」の高安さんより先輩の選者がいて、そこの弟子だった。それを田中さんに言わすと「裏切って」高安さんの方へ来た……

澤辺 その話は有名だから皆知ってる。大村呉楼さんの門下として裏切って「塔」へ入った。田中さんの極端に言えば一生の負い目みたいなもん。

澤村 田中栄さんはそのことによって人間関係が大変苦しい状況に置かれた。でも一方では、自分だけが高安国世の方に来たことを誇りに思っておられた、という文章を読んだことがあります。

黒住 後悔はしていない。それから二上令信なんかもおったわけだ。二上令信も京大大学院の学生で。

澤辺 「塔」が発足した当座は、その「塔」を発足せしめた若い人たちと高安さんとが渾然と一体になって、そういう歌風というのでずーっと……

藤井 私はそのことについてよく知らないんですけど、どういうことだったんでしょう。大村呉楼さんの選歌の基準に飽き足らなかったのですか。高安先生も選者でしたね。

澤辺 その前に「関西アララギ」というのがあって……

藤井 「高槻」があって、「関西アララギ」に変わった。

澤辺 そのうちに大村呉楼さんだとか、ほかに選者が四、五人おって、高安先生はそこの人たちの中の一人でしょ。

藤井 で、高安先生の選を愛する人たちが……

澤辺 そう、高安選歌欄に集まってたわけやね。おおむねその人たちが後の「塔」を形成するわけ。

黒住 中島栄一なんかもいたわけだしね。それから住友の鈴江幸太郎とか、「アララギ」の偉いさんいっぱいいたから。最初は、「地上」という名前を考えたでしょう。そしたら、既にあったんだってね。それでだめになって。「塔」というのはこれ「アララギ」とも読みますね。誰が決めたんかね、「塔」って。

澤辺 「塔」で良かったなと思う。初期はそういう、私や黒住君よりも半世代ぐらい前の人たちがおったわけね。その人たちは「塔」以前でいろんな短歌活動してたわけ。ところが、「塔」が発足した頃は、その人らがちょうど学生から社会人に変わってしまって、短歌活動もそれまでとは様変わりになっていくわけね。「塔」は発足したけれども、その後に従来の中核の、勢いが退いた空間みたいなものがぽっかり空く。そこへまだろくろく短歌がわかってない私や黒住君が入っていくわけ。やらなきゃ「塔」が動いていかないから、本当に夢中になって動いてたっていう印象がありますけれど。

黒住 僕が「塔」に入った時は二上さんが編集やってた。その頃の思い出の時に書いてるけど、太宰瑠維さんが会計やってたかな。他にもほら、野場鉱太郎とか、何かいるよな。

澤辺 高安さんの歌集で言うと『夜の青葉に』のあたり。

黒住 『夜の青葉に』より前じゃないかな。

藤井 「塔」創刊の翌年に『夜の青葉に』が出てますね。

澤辺 私は『夜の青葉に』の高安作品というのは、いわば高安さんの、どちらかと言えば「アララギ」のいい意味での影響を残す非常に格調の高いいい歌だと思ってるわけね。一つの到達点。

黒住 広島の道下桂司も京大の学生でしたよ。「黒住君、今度の高安先生の歌集知ってるか、『夜の青葉』いうんやぞ」、できたのは『夜の青葉に』だったけどね。そういうことを教えてくれた。それから、今の古川裕夫とか、藤重直彦なんかも京大やけど、藤重の方がちょっと後やね。

藤井 私が入会した時に藤重さんはよく動いてはったですね。学生でしたね。

黒住 古川裕夫とかね、それから道下桂司、そこいらは皆京大の学生で。

藤井 でも、先生ね、くり返しくり返し「アララギ研究」ということを「塔」に打ち出されましたでしょう。「アララギ」を離れたけれども自分は「アララギ」だと思ってらしたのと違いますか。

黒住 高安さんは土屋文明の弟子でしたね。終生それは変わらんかったし、僕は「先生の鞄持って行きましょう」なんてあんまり言わんけど、高安さんなんか、「土屋先生、鞄をお持ちします」式のあれ。

藤井 三歩下がって師の影踏まず。文明さんがね、関西へ来られて歌会に出られると、高安先生も出られました。その時見ていたのです。三歩下がって師の……。

澤辺 藤井さんがそう言うのは大体何年ごろ?

藤井 四十年代かな。文明さんがしょっちゅう奈良へ来られて、京都へも来られましたね。

黒住 大阪で歌会やるのでね。

澤辺 黒住君と、私も連れ立って行きました。

藤井 田中栄さんなんか自分の歌の批評を受ける時はもう直立不動で立ってて、最後は最敬礼されて、びっくりして見ていました。

澤村 歌会で最敬礼ですか。

藤井 はい。

澤辺 百人ぐらい集まってる。

藤井 それを文明さん一人で評なさる。それが一言なのです。「これは歌でない」「こういう言い回ししない」「複雑にしない」「簡単にする」「これはよし」って言われたら褒め言葉。それをばーっともう百人以上の選を一気にやってしまわれる。

澤辺 選か、講評ね。

澤村 「塔」の初期の歌会というのは、そのような土屋文明さんの歌会の雰囲気というのを受け継いだところが……

黒住 全くありません。

藤井 先生が真剣勝負で会員に迫ってくるという感じでした。怖かったですよ。

澤辺 澤村さん、あなた「安居会」っていう言葉わかります?。

藤井 仏教の言葉でしたね、あれは。

澤辺 「アララギ」では夏にそういう、一種の「塔」で言えば全国大会、それで山の上のお寺の一室に籠もって、そこで歌会をしてね、一つの修行なんです。

藤井 全国大会が八月というのが決まってたのはその「安居会」のことからだと聞きました、先生から。

黒住 でも、内容的には夏安居とは手を切ってた。「塔」は「塔」で全国大会を初めから持ってて、夏安居的な雰囲気っていうのは意識的に断ち切ってたと私は思うけどね。

●高安国世と歌会

黒住 「クロニクル」にもいろんな人が書いてるけど、高安さんていうのはね、歌会好きなんだよ。集まったら、「君、歌会やろうか」、こっちは「ええ」って感じ。

澤村 池本さんが「クロニクル」に「国世の歌会好きは有名」って書かれています。

藤井 初めのころ歌会を休まれたのは、お父さんの法要の時一回と、それからお嬢さんの結婚式に出るために中退された、それぐらいですよ。飯綱に山荘持たれるまでは絶対休まれない。で、時おり私なんかが休んだりすると、すぐ電話で歌会に出なさいとおっしゃる。

黒住 僕なんか高安さんが今日は大阪の歌会に行かれたいうからこっちには来んと思って、前に出したのと同じ歌を出したんですね。そこへ高安さん来はったんや。これはやばいことになったな。僕もちょっと照れ隠ししてたいうのも高安さん癇に触ったんかもしれんけど、「先生どうですか」って司会者が言ったら、「黒住君は今日は僕の批評を聞きに来たのではないらしいから批評しない」。前に歌会に出して、そこで僕は評を聞いているわけだから。そういう厳しいとこありましたよ。

藤井 厳しかったですよ。お菓子なんか持ってくる人があって開けてるでしょう。そういう音がしたらもう。その上ぱりぱりいうようなもんなら、先生は機嫌を悪くされました。歌会は物を食べにくるとこじゃないって。

澤村 批評の中身といいますか、姿勢はいかがでしたか。藤井さんは「クロニクル」で、酷評されることが多かった、と回想されていますけれども。

藤井 それはもう私はよく叱られました。

澤村 例えば、どういう表現について厳しかったんでしょう?

藤井 その当時の私の作品がノートにあります。

  水の跡乾きし河原に石並ぶ記憶の中の 景と同じに

「水の跡」というのは説明的だ、下句、説明的だ、それで「景と同じ」のところに×印つけてるから、これもいけない所ですね。当時の先生の作品

  昼山の地底に誘う口見えてオレンジ色の灯が連なれり

既に『虚像の鳩』時代の作品ですけど。

澤村 歌会に参加している人たちは皆先生も参加者も対等で、酷評しあう、と。

藤井 そういう感じでした。刀ではっしと打ち合うような感じでした。

澤辺 高安国世さんの「歌会は真剣勝負だ」という詞は有名ですからね。

黒住 上から、高みから見下ろしてどうこうというようなとこはなかったね、対等で。

藤井 先生の歌もね、みんなが酷評をするわけでした。

黒住 高安さんが新たな試みをしはるときに、それは失敗もあるわね。僕は今でも覚えてるんやけど、テレビで見てんやね、ひび割れた田んぼが映ってね、「一本一本稲植うる農婦」なんかいう歌を出さはって、僕はてっきり初心者の歌やと思った。だから懇切丁寧に批評したら、先生の作品とわかって汗が出たわ。

藤井 さっきの「昼山」でもね、みんなの批評は「地底」という言葉は考えものとか、「昼山」は雑であるとか、言っています。歌集では「昼の山」となっています。

澤村 黒住さんが『高安国世秀歌鑑賞』に書かれていることなんですけれども、高安国世は自信作を提出されることもあったが、実験的な作品を歌会に持って来られることが多かったと。新しいものが好きで、時代の動向に敏感であったというふうに書かれています。

黒住 ある程度、指導者になるとね、テストパターンみたいなものを出したりしなくなるんだけど、高安さんは若い人が読んでわかってくれるかとかね、そういうことは気にしてたと思うね。若い人がどう読むだろう。だから、極端な失敗作でも出さはる。

澤辺 歌会いうのは試金石だと思ってはったと思うな。

藤井 ちょっと、これはどうかなって思われるような作品を持ってくる。これなら大丈夫というような作品は持ってくるなって言われました。

澤辺 私らの作品よりは自分の作品がどう評価されるかというのは気にしてた。誰でもそうなんだけどね。

澤村 読むことが好きというのが「クロニクル」からはよく伝わってきます。読み手を大事にする姿勢というのは現在の「塔」にも続いてきている、読みの問題ですね。

澤辺 それは、先生から受け継いでるね。

藤井 みんながわかりにくがっているのを先生がぴたりと作者の心を言い当てて、作者がその通りと言ったら、うーんて喜ばれました。読みとれたと思われたのでしょう。

澤村 ちょっと作品を見たいんですけれども、

  春山のふところ深く隧道のナトリウム灯がすこし見え居り

これは五十周年記念号の「高安国世秀歌六十首鑑賞」で吉川宏志さんが挙げてまして、『一瞬の夏』からです。吉川さんが指摘されていることなんですけど、ここに

  薄雪の降りし街路にアセチレンなげきのごとく灯し蟹売る

という坂田さんの歌を挙げてて、この「ナトリウム」っていう言葉の挙げ方がもしかしたら坂田さんの「アセチレン」からの影響じゃないかということ書かれてるのですが。

藤井 でもこの「ナトリウム灯」というのはその当時、道路工事、道路開発やらが行われて、こういうものを新しく作られたのじゃありませんか。トンネルに入ったらその明かりの色はナトリウム灯だっていうの、その当時はとても珍しかった。初めてナトリウム灯を見た時代の作品じゃないですか。だから「ナトリウム灯」を入れはったと思いますよ。

澤村 桃の歌も面白いなと思いました。

  桃二つ寄りて泉に打たるるをかすかに夜の闇に見ている

これは西東三鬼の俳句「中年や遠く実れる夜の桃」から摂取した所があるという指摘がありますけど、こんなふうに俳句、それから「塔」の若い歌人の試みや、時代の新しい素材っていうのを積極的に取り入れていこうという作歌の視点を持ってらっしゃったように見えます。

藤井 確かにそういう点はおありでしたけれども、できるだけ見せないようにして作られたと思いますよ。もしご自分の作品を真似て作る会員がいたら、ものすごう怒られました。『虚像の鳩』時代の「虚像」という言葉を誰かが使っても怒られたですね。

澤辺 そういうとこは敏感だね、うん。

黒住 模倣みたいなのは良くないって。

西之原 高安国世はどんどん新しいものを取り入れるところがあったということだったんですが、消極的な模倣ではなく、貪欲に取り入れていかれるという点はあったのではないですか。

黒住 それはあったと思いますね。とにかく今までなかったものを作り出そう、そういう気持ちは強かったと。だからどんどん歌風が変遷していったと言われるのもね、今までのものに安住しないというかな、もっとより新しいものを作りたい。

藤井 「桃二つ」の歌なんですけど、先生の家の庭に、水が噴水のように出て流れ落ち、溜まる所がしつらえてあったんです、庭の真ん中にね。そこに桃を奥さんの分と二つ並べて冷やすんだっていうお話は私聞いたことがあって、歌になっていいなと思いました。

澤辺 素材的には写生的な歌ではあるんだけれど、でも高安先生の自信作ね。

●高安国世と前衛短歌

黒住 高安先生と前衛短歌との関わり合いって、どうなんだろう。

藤井 一生懸命見てはったと思いますよ。でも、全幅的にそれにご自分が染まることは避けて、部分的には取り入れたいと思わはったと思いますよ。

澤辺 取り入れるっていうのはどちらかと言えば少し軽薄な言い方でしょう。そんなもんではなかった。前衛の作品で高安先生の短歌は明らかに変わってる、変わった。

藤井 『虚像の鳩』で随分変わったのは前衛の影響だと。

澤辺 それよりもっと前なんだね、そこでちょっと意見分かれるんだけど、『街上』がそうでしょう、既にね。

藤井 私そんな時代知りませんからね。

澤辺 いや、だけど歌集読んだら大体わかるよ。高安さん喘息体質だということ知ってるでしょう。高安さんが書かれている講演の抜き書きの中で、自分の喘息体質について触れてるのがあるんですよ。苦しい喘息の発作が来る前の予感てすごく恐怖があると。ところが、それが治まった時に向こうに見えてくるものがある。普段のいわゆる現実的な事実を超えた、もっと新しい、輝くような存在として見えてくるものがあると。自分の認識が一段階アップした時の一つの裏付けとして、いわゆる人真似じゃないんだと、自分にはこういう原初的な実態に即した体験があると。今までの平面的な事実とは違った新しい事実というものが見えてくる、それについて自分は造形していくというような気持ちがね、後付けかもしれんけど、そういうことを高安さん自らの口で話してはるから。

藤井 小学校時代から喘息が出て、中学入学という時一年休学してられるんです。その間芦屋の別荘に行かれて、それで私は先生のお言葉としてお聞きしたんですが、ボートに乗って沖まで出て、たった一人ボートにいて、カモメと一緒に揺れてた。その揺れながらとてもいい気分でうっとりしていたと。

澤辺 その時は休養をしてたのね、発作と発作の間の。

藤井 空と海と自分と一つになる境地がとても良かったとお話されて、そういう資質はずーっと先生にありますね。「見えるもの、見えないもの」という講演はその続きだと思うし、先生の作品もそういうものを求められた。そこからリルケも、「マルテの手記」も自分のものにしていかれたんじゃないかなと私は思ってお聞きしたんですけどね。

澤辺 安らぎの時間、だけど明らかに喘息体質というのはマイナス要因になる。高安さんはそのマイナス要因に対してコンプレックス持ってたと思うね。ところが、「アララギ」に入会することによって、「アララギ」の積極的な、健康的な認識の仕方ってあるじゃない、写生というのはね。自分の資質とは明らかに違った、そういう強さを与えてくれる「アララギ」の認識について自己革新するものであるという形での素材取り組みというものは基礎的にあったんではないか。ところが、さっき言ったようなね、発作は苦しいんだけども、治っていく時の何とも言えない輝かしい、新しい現実があるということを自分は経験してるっていうことを言いながら、今作りつつある作品のものが他から、外からやってきたものでなしに、自分の内部にはっきり呼応するものがあって、それで自分は自分で新しい作品へと踏み出したという自意識、誇りが先生にあったという気はしますけれど。

黒住 高安さんのお母さんは、高安やす子って。歌集も二冊ぐらい出してる。斎藤茂吉の高弟だからね。一度だけお会いしたけど。

藤井 茂吉の日記にやす子夫人が出てくるの。「やす子夫人ぷんぷんして帰る」ってあって、びっくりしましたわ、何があったのか知りませんけど。

黒住 その頃の婦人雑誌のグラビアなんかに写るような……

澤辺 ものすごう美人やね。

黒住 真っ白い、細い。

澤辺 高安さん自身も若いときにものすごい美青年や。普通の美青年と違う。ちょっと違う美青年。

藤井 中折れ被った横顔の写真があります。

黒住 「俺は太ってるやつは軽蔑する」言うて、高安さんもしまいに太った。僕が会った時四十になってたかな、痩身鶴のごとき詩人やったんですよ。

澤辺 あなたは影響受けた作品という形で出されてるけど、ひょっとしたら我々は前衛短歌に影響を受けたというよりは、前衛短歌に出会った高安さんが変貌した、その高安短歌にこちらも変貌されたんかなという。ワンクッション経ておるんと違うか。

藤井 そうです。だって、歌会であれだけ論じ合ったらそんなになります。

澤辺 自分の作品って、それぞの時期に一遍調べて出してみるといいんやけどね。

藤井 見るのは辛いです、私は、その当時のは。

澤辺 ああ、その当時は。だから、その後また変わってるという。

藤井 ええ、変わってますね、私は。

澤辺 そのことによるプラスはなかった?

藤井 プラスだったと思います。歌を創作する意志、表現を研ぐ工夫は後も変わりません。昭和四十年に

  形なき思惟に陥ちゆく夜の闇の身近に鼠のふえる気配す

という私の作品は上句がいけないと批評されましたが、面白いと言って選歌欄に載せてくださったのは、熱いものを評価されたのでしょう。歌の形は変っても歌を作る姿勢は変わることはないでしょう。

澤辺 昭和四十年は高安さんには、『街上』だね。『街上』にまだ行ってへんか。『街上』と『虚像の鳩』の間、ちょうど中間点、高安さん自身も揺れ動きつつある時期や。

西之原 『街上』が昭和三十七年。

澤辺 『街上』からいわゆる第二期に入るわけ。

黒住

 街上の変身ひとつ窓無数に瞠きて被覆去りし建物

高安さんもこういう大胆な言葉遣いをするんだけど、選歌後記で他の人のこういう言葉は俗だって言ってね、例をいくつも並べて。

澤辺 ありましたね、「クロニクル」で引いたのは四首ぐらい引いた時がありまして。

黒住 いや、「あの頃塔は」というところで誰かが。

藤井 おとなしい歌が好きだって私は言われました。もっとおとなしく歌えって。

澤辺 妥当なんだろうね。

黒住 「荘厳する」などという言い方はもうダメやったね。

藤井 榎本さんの「異邦人と呼ばれん我か」っていうの、「異邦人」なんて言葉強いからだめって言われて。清原さんの「つつましき幸せに似つつ朝朝を職場の窓に見る冬の山」の「職場」はいけない。生の言葉、新聞用語的だ、そういう批評をされました。今から思うと言葉に厳しかったです。澤辺さんの歌ですが「今の我をむち打てし部屋いつぱいに響かせてスラブ少女の春恋うる歌」、「スラブ少女の春恋うる歌」はいい。「今の我をむち打って」はいけない、というふうに表現を研ぐようにということでしょうか。

●「塔」の歌人たち

澤村 今まで高安国世を中心にお話をうかがってきましたが、少し視点を変えまして、歌会に集っていた歌人であれ、誌面で会う歌人であれ、心に残っている「塔」の歌人ということでどなたかいらっしゃいますか。

黒住 亡くなっているというとこから言うと、坂田、清原を挙げざるを得ない。

澤辺 衝撃としては坂田博義の死はものすごい大きい衝撃、あなた知らんでしょう。

藤井 知らないです。

黒住 僕ね、「短歌」に時評か何か書かされたんだけど、「短歌」を取ってないもんだから、澤辺さんに借りに行って、そして借りて帰ってね、それを広げてちょっと写しかけてたら、澤辺さんがそこへやってきて、「黒住、坂田が死によった」、そこへべたべたーっとへたり込まはったんや。

澤辺 足の力だってなくなるわけよ。へたへたってその場で座り、人の死であんなショック受けたの後にも先にもない。

藤井 予感はなかったんですか。

澤辺 なかった。

黒住 結婚して妻子を養わんならんからいうので自動車のセールスみたいなね、彼に向いてそうじゃないわな。彼は教員なんかなったらいい先生になったと思うけどね。

澤辺 私なんか、坂田は結構強い人間だと信じ切ってたわけで、あそこまで脆いんかなあと思って。それと、高安先生がすばらしい追悼と作品書いてられるけれど、あれはもうほとんど哀悼の歌じゃないわけ、怒りの歌や。誰がどうしてこういう事態を招いたんだっていう高安国世の怒りだったね。そういう意味で高安さん大事にしてはったんやな。

黒住 「塔」の最初のころ、二度目のピークにかかるような時期だったよね。

澤辺 坂田と清原との論争もすごく実りのあるもので、もう少し二人が並び立ちながら生きていてくれたら「塔」もちょっと違ったものになってたかもしれない。惜しいことをしたね。それはしょうがあれへん。いわゆる安保闘争の退潮期で、そういう政治的な退潮期と坂田の死が重なっているとは思いたくないけれど。

黒住 岸上やらが自殺して。

澤辺 坂田の死については私も黒住君も何か責任がありそうな気がする。というのは、はっきり言うて結婚に反対した。周囲のその反対を押し切って坂田結婚したわけだから、今さら私らの方へ向けて心を開けなかったというのは少しぐらいあるんかなと思ってる。それがいつまでたっても自責の念として残るね。こっちが若過ぎたな。

澤村 黒住さん、坂田博義さんは年齢は同じくらいですか。

黒住 いや、坂田は昭和十何年生まれや、僕は九年だから、僕より四つ五つ下かな。清原と一つ違いぐらいかな。清原は十三年だろう。でも、坂田も年のさば読んでた。浪人してるっていうことを知られたくなかった。プライド高いから。本当に老成したようなね、僕らが知らんようなこといっぱい知って博識だったな。若い時はもう夜わいわいやってて、遅くなったら、「おい、泊まっていけや」というのが普通やん。僕んち泊まったり、清原の下宿なんかね。でも、坂田の下宿は「黒住さん、電車がなくなりますよ」って言われたらそれ以上おられへんわな。そういうとこはあったね、きちんとして。そういう人でした。

澤辺 政治の季節がもう終わろうとしてる時だったんですね、時期的にね。その時に最も政治と一線画してた坂田の死というのがもしなかったら、短歌の上にもかなり違ったものを残してくれる人だったと思うとね、「塔」だけの損失と違うからね。大げさなこと言うと、短歌史の上から言うても坂田の死というのはかなり大きい。坂田の作品の評価、「塔」としても大事にしていかないかんですね。

藤井 遺歌集が昭和四十九年に出ましたね。

黒住 『坂田博義歌集』ってあるよね。「塔」に追悼号、私が全部、作品をまとめた。

澤村 「クロニクル」の秀歌選を読んでますと、一九五九年に先ほどのアセチレンの歌が出てきてるんですね。で、一九六〇年に、これは私とても好きな歌だったんですが、

  梢の雪吹き散る峡を二人して遡りし日が我を強くせし

っていう歌が挙げられています。坂田博義さんのこれらの歌がぱっと出てきた時に、私には、「塔」の印象がとても変わって見えたんですね。「アセチレン」という単語一つですけれども、ちょっとそれまでの「塔」の歌にはなかった語彙であったなという印象を持ったりして、坂田さんが「塔」の誌面に出てきた時に、皆さんがどんな印象を持たれたのかというところ、興味があるんですが、いかがでしょうか。

澤辺 ほとんどストレートで高い評価を与えてた。

黒住 歌うまかったな。

澤辺 うまい、私らでは詠めない。スケールも大きいし。

黒住 「物語めき村ほろびゆく」、「オキシフル泡立つごとき」ってあったね、感覚的な鋭さみたいのを持ってた。

澤村 六十二年に追悼号が組まれてる。

澤辺 それから永田和宏が入ってくるのが六七年か。その間の時期はどうなってた?何かもう一つぼやっとした時期なんだよね。

藤井 「京大短歌会」が六七年に発足しました。

黒住 それで永田はそこへ首突っ込んで、でもうやめようとしておったのを藤重がもう一回だけ出てきなさい言うて、永田が言うてたや、それがなかったら自分は歌をやってないだろうって。

澤辺 辻井君もそこへ、それから花山多佳子。

藤井 あの辺から先生変わらはったね。もう歌会の態度和やかになったし。

黒住 僕が編集やってた時はもう永田と辻井が御神酒徳利、何か永田自身が書いてるよ、「塔」に入ったらすぐ黒住さんにリクルートされて言うて、僕が教育文化センターを書記局にしていて京大とすぐ近いから、割付とか校正とかいうと、本当二人は御神酒徳利で。辻井は辻井で書いてるや、何か今日中にせんならんのに、黒住さんに呼び出されてつかまったことがあるとか。それから後かな、澤辺さんの家で校正してた時期。

澤辺 初め私の家でやってたのができなくなったでしょう。それで、永田君書いてるけど、ジプシー編集部。

藤井 校正をしに喫茶店へ行くんですよ。テーブルにゲラを広げてやって、そのうち追い出されるんです。でまた探して喫茶店入る。喫茶店が休みの時があるじゃありませんか。そういう時はね、後から来る人のために張り紙して、次はどこへ行きますからそこへ来るようにって、校正が終って、帰りしにそれを剥ぎ忘れたとかありました。

澤村 何ていう喫茶店ですか、「夜の窓」ですか。

藤井 そんな立派な所と違います。もうないです。

澤辺 仕事する時はあんまり名の知れたようなとこは行けんわけよ。だから、なるべく潰れかけたとこへよく行ったものだ。

澤村 「夜の窓」っていうの、ちょっと高級な所だったんですか。

藤井  編集には行ってないと思う。歌会の時に行きましたね。

澤村 「六曜社」というのも何か歌われてましたね、高安さんの。

黒住 「あな籠るごとき心安らぎ」は、高安さんどこなんだろう、あれ。喫茶店短歌ってのもあってね。

藤井 歌会の後必ず連れ立ってぞろぞろ歩きましたね。奥村会館って鴨川のほとりにあって、それから橋渡ってね。

澤辺 歌会する場所は何度も変わったね。

黒住 奥村女子会館で思い出したのは、堀田清一っていう先輩がいて、「塔」の先輩だが、「やかんが汗をかく」っていう歌を出したから、僕はそれは俗な表現だって言ったら怒ってね、「黒住、表へ出ろ」って言われてびっくりした。面白い大阪弁の歌作る人やったね。

澤辺 奥村女子会館というのは思い出深いね、一番古い。

藤井 畳がね、古うなって赤くなっていて、その畳の上に座って。

澤辺 あれは「塔」が発足した当時か、近藤さん見えたね。

黒住 近藤さんに初めて会ったのは奥村女子会館、それで……

藤井 「未来」との合同歌会。

澤辺 それはいろいろ、何回かありましたけどね。

黒住 合同歌会ではなかった時な、近藤さんが来てはった。クモの巣に露が光ってるっていうような僕のしょうもない歌を近藤さん褒めてくれたんや。もうどんな歌やったか忘れたけど、褒めてもらったことは覚えておるね。

澤辺 苦労話すると、印刷屋も随分変わってるやろう。あの年譜見ただけでも。その時分に本当に財政的な問題があったんだろうか。編集の都合もあって印刷変わっていったんか、もう一つ今でも……

藤井 断られるんです、印刷所の方から印刷代を安く叩いたのですか。

澤辺 いや、それはない。それよりは原稿持ち込みの日がルーズだっていうこともあったろうし。

黒住 こういう短歌雑誌なんていうのは特殊なもんやからね。

藤井 東山だったかしら、京都駅の近所の線路わきにあって、私なんかよう怒られましたよ。夕方来いなんですよ、ゲラが上がったから来いって、誰にも連絡できてないから私一人で出かけていったら、「こんな時間に女の人が来て、あんた何してんですか」言うてえらい怒られましたわ。「こんな本作って何になるんですか」って。「やめなさい」とか言われました。

澤辺 総数二十ページ、二十四ページもない。

藤井 八の倍数っていう先生のご要望で、三十二ページが限界で、三×八=二十四、大抵二十四ページにしていました。

●「塔」の危機
澤村 「クロニクル」を読んでると、「塔」編集のご苦労というのは随分あったように見えました。高安さんが外国に行かれている時に編集をなさった方が大変であったとか。

黒住 勝藤さん。のちに大阪外大の教授になった人。

澤村 それが、第一次「塔」解散の危機ですね。

澤辺 第一回目というのは、高安さんが外遊して帰ってきた時に、高安さん行ってはる間はすごく頑張ってた男が根を上げた。勝藤猛。「もう私はこれ以上はできません」言うて高安さんの顔見た途端に「編集をやめさせてください」って申し入れをしたわけ。それで、高安さんがっくり来たんだと思いますね。それでもう「塔」をやめますと。

黒住 河村盛明が毎日新聞の記者でね、神戸支局におるわけや。それで、訪ねて行ってやな、高安さん「塔」やめる言うておる、あんたらが作った、ほっといていいのかって言って、あちこち怒って回った。

澤辺 ちょっと我々の先輩たち、「塔」をほんまに作った人たちを黒住君が廻ってこうこうこうだ、と実情を訴えて、意見を取りまとめたわけね。誰かが来てくれたというわけじゃないのか。その人たちの意思はどうやって伝えるの。

黒住 電話ぐらいしたのもおるん違うかな、高安さんの方にしてくれたわけですよね。

澤辺 その時、黒住君が行ったおかげで高安さんは気持ちがおさまって、じゃもう一回やろうという意気にあふれるわけね。後の編集後記見たら、これから元気出してもう一遍やっていこうと書いてますから、自分が一回「塔」をやめようかなと思った意思を暗に認めてるわけや。でも、本当は嬉しかったんだと思いますね。和子夫人の言い方によれば、みんなが自分を見捨てたかと思ってたところへ「先生やってください、みんなの総意です」って言うて黒住君中心にしてみんなが訴えたということで高安さん素直に受け取ってくれたかなと思いますね。高安さん素直なというか、非常にストレートなとこがあるね。

黒住 いわゆる創刊の時にタッチした連中のとこへ片っ端から押しかけたり、電話したり、手紙書いたり。高安さんも、まあそれは外遊してて帰ってきてやれやれという時に、やめますと言われたら嫌になるわな。僕らもちゃんと手伝ってたつもりなんやけどね、選だってみんな分担してやってたしね。だけど、やっぱりそれは責任、一人でやるというのはそれはしんどいわな。

藤井 一九五六年ごろの話、それは。

黒住 高安さんが外遊から帰ってきはった。

澤辺 送り出すときはたくさんの人が京都駅で見送って、高安先生は ?アウフ・ヴィーダーゼーン? って言い残して京都駅を発った。 大体「塔」の雰囲気っていうのは若手少数という感じ。何しろ二十ページ、二十四ページで、出詠者百人切ってた。丁寧に年譜で全部書いてくれてますがね。それ見てたらずーっとようわかりますね。こんだけ   にやり続けるというか、よう。

黒住 高安さん、僕は編集時代の時でも中身のことは何も言いはらへんけど、ページ数だけは何ページ以下にして下さいという。

藤井 お金のことは私よくわかりません。何の催しをしてもお金が足らず、どうしようってよく悩みました。

澤辺 そういう財政的なピンチが確かにあったと思うんだけれど、私らは聞かされたことないからね。

黒住 僕らも編集してるときに何か五千円からお金をぱっとくれたりしたことあるの。

澤辺 そういうとこは財政的に明晰やったんやろね。発行期日を遅らしたりしたら財政的な破綻が来るということ、先生のことだからはっきりできたん違うかな。そういう点眼鏡曇らん。結果、先生亡くなった後に「塔」の発行を続けて行くしかるべき金残っていた。「塔」の帳簿を見てた人って誰だ。

黒住 伊藤雋祐の奥さんが長いことやってくれはったね。

澤辺 でもね、帳尻見ていたのは高安さんだけだから、その点がいわゆる詩人、歌人と違って、普通は俗を離れていてお金の勘定に疎いんだけども、先生そうやないですね。やっぱり大阪の人だったいう気がする。「塔」の収支だとか、人数ずっと見ていったらこれで「塔」やっていけるかなと。

黒住 寄附を募ったり、値上げをしたり、何とか……

澤村 年表を見ていますと、一九五七年までは出詠者は百名を超えているんですね。一九五八年になって突然五十五名と、約半分になっています。高安さんがミュンヘン大学へ留学されたという時に。でも十二月に帰国されていますね。

澤辺 そのわずかな時期がピンチやったの。

澤村 ここがピンチだったんですか。

黒住 それで高安さんもやめるって。そして、僕がやめられたら大変やから、先輩たち口説いて歩いたわけや。どう責任とるんやと。

澤辺 発行人高安国世で、会費取ってるから、預かり金もしてるから、そのマイナスが残ったら、発行人である先生の所へ全部行くんだとよく言うてはったやろ、先生きちっと見てはったんやと思いますけどね。そういうことは、先生何も言われないから、まあええんやろぐらいのつもりで、当然お金の心配したことはなかったですね。その後、確かに低空飛行ではあったけれども、それ以上ガタッっと来るようなこともなくて、継続していったというのは、今となってみたら奇跡に近いことだったと思うんですけども、運がよかったんかな。この間ずっと全国大会も続けてきたし、各県支部の活動もずっと続けてますわね。支部支部に必ず中心的な人物がおって、大体、その人たちが取り仕切ってくれてたから、京都としては安心して任せておけばいいわけで。

澤村 随分早い時期から支部歌会というのは行われていたんですね。

澤辺 そういう人たちの力は大きかったと思いますね。京都だけでは支えきれない。浮き沈み激しいからだけど、地方組織というのは根強いところがあって。

黒住 マスコミ、ジャーナリズムなんかから言えば、京都に、関西にいるということのマイナスはあるからな。高安さんもコンプレックスは持ってはったん違うかな。

澤村 でも、京都から短歌の結社誌を発信していくというところには当時から意味があったのでしょう。

黒住 「アララギ」が戦時中統制みたいのをされて刊行できなくなって、戦後アララギなんていうのは昭和二十一年ぐらいもう文明さんなんかがあれして、その時に土屋文明が「アララギ」の地方誌を作ろうというね、だからさっき話題になった「関西アララギ」とか「高槻」とか「毛の国」だとかね。もう全国に、それこそ「大分アララギ」だとか、「滋賀アララギ」だとかね。

澤辺 一つは、紙の配給制とかの問題があったはずや。

澤村 数に上限があったということですか。

澤辺 統制の時代だからね。戦中に整理しよったわけ。合併した時に、「アララギ」もどこかと合併してる。「アララギ」はまだ名前が残っただけええんや。吸収された名もない雑誌が五冊も六冊もあったと思う。戦後に統制が外されて、その時に地方に散ったのが今黒住君言ったように戦後のアララギ地方誌の基礎になってるんだな。それを土屋文明が上から見て何か指揮とってたんかもしれませんね。茂吉よりも文明さんの力がどっちか言ったら強い時代で、大阪には大阪があった、大阪にはなかったか、関西は一つか。

黒住 「関西アララギ」、でも「滋賀アララギ」とかいうのもあったね。奈良なんかは。

藤井 奈良もあったんじゃないですか。奈良へしょっちゅう文明さんを呼んでいた人がありました。

黒住 上村孫作。あの人の門構えの大きな屋敷、澤辺さんと行ったな。

澤辺 大体地方歌壇というのはそういう人が方々にいる。スポンサーみたいな感じでね。

●高安国世の歌

黒住 前衛短歌との関係で、二〇〇二年の三月号で僕がハイライトで書いてるんですけどね、前衛短歌論への反応という文章を。〈私が太宰瑠維さんの紹介で岡井隆氏に初めて会ったのは、「明日大阪へ行って、塚本邦雄に会い、メキシコ展を見るのだ。」という前の日であった……〉。

澤辺 それは何年のわけ。

黒住 五十八年六月号から十月号まで「未来の諸兄へ」というのに書いたんだけど、「囚れのメヒコ」っていう短歌に三十首かな、それこそ岡井の一番最初の前衛的な短歌が発表されるんですけどね。

澤辺 だから、あんたの立論は高安さんにも沿っておるの。

黒住 いや、僕なんかは岡井にエピゴーネンみたいに言われた。何か前衛短歌にこうくっついて。

澤辺 それは誰に言われた。

黒住 岡井に言われて。これの誌上歌集の批評を岡井が書いてくれたんだけど、それには。

澤辺 何か好意的な発言はなかったのか。

黒住 別にぼろかす言われたわけでもないけど、前衛短歌。

澤辺 岡井さんは自分の歌を前衛短歌と言うてるね、明らかにね。

黒住 うん、言ってる。前衛歌人だ。

澤辺 高安さんは自分のことを前衛歌人とは言うてへん。

黒住 言わなかった。好意的だけど、一定のあれは持ってたっていう。

澤辺 そこらに高安さんの姿勢を認めるべきか。

黒住 高安先生は歌うまいよな。

澤辺 どこの座談会だったか、この百年、いわゆる名歌と呼ぶのはあんまりないやないかと。名歌っていうのは韻律が大事やな。そう思うと高安さんのあの「かきくらし」でも名歌ですね。高安さんはもともとそういう、基本的にきれいなリズム感を持ってるというか、第一期の完成の時に既に自分のスタイル作り上げていると思いますからね。

黒住 絶えずそのくせ自分はまだ未完成だ、未完成だ言うて新しいものを求めてた。佐藤佐太郎なんかだったらもうね、一定の水準を得たら、それのバリエーションで行けるやん。高安さんでもそれは行けんことはなかったと思うんだけど。

藤井 それは知らなかったです。

黒住 何か不安定な作家、自分らしいものをかっと持たんと。

澤辺 完成がない作家だっていう見方をしてしまってるわけだけども。

藤井 短歌の世界はそういうところがあるのですね。小説だったら変貌、変化がいいんだけど、短歌は違いますね。

澤辺 変わらないのがいいという評価はどうなんだろう。もう「アララギ」の定義だけだからね。その歌人その歌人に沿ったと思われるものがその歌人の本質であって、そこから逸れたものは特に他の歌人の影響を受けて変化したようなものはだめだという、そういうオーソドックスな評価をしてた。

藤井 「アララギ」ね。

澤辺 高安さんの場合でも、その変化の中でやっぱり第二期というのが本命だったはず。私なんか第二期を経て三期に移ったときにちょっとがっくり来た。元へ戻っただけとは言わんけれど、自分を踏み越えていくっていうその姿に何かこう憧れてたから、それが転調してしもうたんかなと思った。

藤井 あれはやっぱり飯綱で住まはって自然の中で変わらはったと思う。

黒住 大都会に住んでいた人でしょう。芦屋なんかは多少自然があるかも知らんけども。

澤辺 もともと自然との合体っていうのを希求してるようなとこもあるんよ、生理的にも、さっきのボートの話じゃないけど。

澤辺 やっぱり自然が温かかったんですよ、高安先生としてはね。

黒住 高安さんの若い頃の喘息なんてひどかったからな。僕が高安さんのご名代で和歌山市の市民大会の講演に行くんですよ。ある日はがきが来て、「黒住君、来てくれ」って言うから行ったんよ。そしたら二階で酸素ボンベして寝てはるの。「はあはあ、黒住君、済まんけど、代わりに和歌山行ってくれ。」前の日に俳人の有名な、山口誓子かな、その次の日が高安国世さんで、歌の選評をしたりしてはるわけ。僕がやるわけじゃないんだけど、それを持って行って言わなんだらあかん。僕はまだ学生ですから、「先生、先生」言われたらかなわんし、わざわざ滅多に被らぬ角帽を被って行ったんやな。行ったら、一流の宿屋に泊めてもらってね。「お飲み物はどうしますか」って言うから、「いや、いいです」、今やったらもう大分飲んだんやけど。次の日は何か観光案内してくれはってね。

澤辺 結局、ドイツ行く前にものすごい発作起こってね、高安さん。それが帰ってきてからは治まった。あれは良かった。

藤井 お薬も新しいのができて、そのお薬で喘息は治ったって和子夫人は言わはったけれど、そのお薬で胃を悪くしはったのではないかしら。

黒住 薬でも大抵食後に飲みなさい言われるでしょう。胃を悪くするに決まっとるから。まんだらげっていうね、朝鮮アサガオ。その頃、電車に乗ってて沿線で見つけたら、取って高安さんのとこ持ってった。どこにあるって覚えておって行くのや。それを乾燥させてね。「まんだらげの煙こもらふひとときを我が王国と今にかなしむ」か何か、呼吸困難が緩和されるんだってね。

西之原 第二期から第三期の話でしたね。『街上』の有名な歌ですけど、

  わが前の空間に黒きものきたり鳩となりつつ風に浮べり

という歌について、黒住さんが『高安国世秀歌鑑賞』の中で「精神の抽象作用、言葉の表現主義的傾向は避けることができない」と書かれています。黒住さんの指摘は、ドイツ留学の体験が与えた影響を念頭に置かれてのものなんですけれども、高安国世の表現主義的傾向はそれ以前の短歌の影響よりもドイツ留学時の文学的な体験のほうがむしろ要因としては大きかったということなんですか。

黒住 そういうほどの僕も確信もないけど、何か高安さん、向こうで自分の歌を独訳して歌集を出したりとかね、そういうのは日本語をただドイツ語に置き換えたらいいっていうだけじゃないと思うから、独訳に適した歌と適さない歌とあるでしょう、自分のたくさんの歌の中から。高安さんはあんまり出てはらへんかったんだけど、弟子たちがね、京都大の野村修とかね、高原宏平とかね、そういう人たちは表現主義的なものを一生懸命やろうとしてはったね。

澤辺 歌会じゃないな、それは。

黒住 詩の雑誌を持ち寄っての合評会。小寺昭次郎とか、高安さんの弟子やけど、「塔」の会員でもあったね、一時。

西之原 ドイツの詩の影響というのがなかなか表には見えてこないんですけれども、歌ができてくるまでの過程の中では……

黒住 リルケの詩なんかの影響もあるんじゃないかと思いますけどね。

澤辺 でも、高安さんとしてはそれはね。

黒住 表にあてつけに見えるようなものは避けて。

澤辺 自分の一番奥深い内部の問題だとしてね。

西之原 あまり方法的にこういうことをやるんだっていうのではないですね。むしろ逆で、そういう所を見せないようにする。

澤辺 見せないんだ、やっぱりどっちか言えばね。

西之原 それがジャーナリズム的にはちょっと損をしてしまったところもあるんですかね。

澤辺 他からはそういう形で期待されてるわけですよね、ドイツ文学の専門家だから、作る短歌も恐らくドイツ文学と深い関わりを持ってるはずだし、そういう関わりの中で短歌の別の境地を開いてくれればいいのになという、何か妙な期待感というのがあるじゃないですか。あんまり口に出して言うもんじゃないけれども。

藤井 それで、先生の主張・主義として、表現として言葉が生のままなのをとても嫌われました。よく熟して、自分の内部で育てて、目立たない、易しい言葉でということでした。そういう先生の資質もあると思う。真実なるものを美しくっていうのが先生の志のようでした。

黒住 まあ、鑿の跡を見せないように……。苦労しましたみたいな歌はだめなのね。さりげなく完成したものを見せたいというのはありますね。秀歌鑑賞の中にも書いたけど、

  帰るさえなお限りなく行くに似て野付岬を吹く海の霧

清原と僕と高安さんで野付岬行ってね、見る間に霧が立ちこめてきてね。清原と後でやられたなと、歌人が同じ体験してるわけですよ。

藤井 先生が歌を作る時は、そばにいてわかったと田中さんはよく言っていました。先生と田中さんが大阪のカルチャーでしょっちゅう一緒に行動されて、歩道橋を渡りながら歌を作っておられるのを雰囲気で感じとれたと話していました。後でその時の歌が発表されたと。

澤辺 今のその田中さんの話おもしろいな。

藤井 たしかかすかな地震があって、先生があっと言い、田中さんもああと言い、歩道橋の上で先生はしばらく立ち止まり歌を考えている様子でしたって。

澤辺 田中さんやったら横にいたって作らはるねん。私らがいるとやかましい、作れへん。

藤井 田中さんだから出来たのですね。

西之原 普段から思い浮かんだら歌を書き留めておけるような習慣があったんですか。

藤井 書き留めはしないけれど、頭の中にあるのです。

澤村 でも、苦労してる跡が歌に出てないっていうさっきの話で。

藤井 だから、体の中に入っているのです。

澤村 調べが自然なんですよね、この「わが前の空間に黒きものきたり」って、二句目の八音がとても長く感じられる。今でいうと、永田さんのいう滞空時間の長さ。

藤井 体の中にリズムがあるのやないですか、短歌のリズムがね。

澤村 四苦八苦して机に向かってこう作るという感じではなく。

藤井 ないですね。

黒住 高安さん手帳持って歩いてたかな。持ってない。

藤井 先生は手帳に書かれませんでした。井絵に帰ってからは書かれたでしょうけれど。

●クロニクルの編集

澤村 「塔クロニクル」には、年譜もついていましたし、多くの初期からの歌人に記事を書いてもらうということでさまざまなご苦労があったと思います。「クロニクル」の編集に関わっての裏話などぜひ伺いたいです。

藤井 何よりも、その時代に活躍した人が今も「塔」にいるかいないか、それが問題でした。古い「塔」を見て、ああ、こういう人が活躍していたってチェックして、そして今の名簿で探して、いるかどうかチェックする。そこから連絡して書いてもらえるかどうか。だから時間がかかって、大変でした。

黒住 もう今やめてる人にも書いてもらってるのあるな、一瀬静香とかね。

藤井 あの当時はあの人ぐらいしか書いてもらえなかったのです。

澤村 写真もなかなか手に入りにくかったのではないでしょうか。

黒住 写真はほとんど僕が提供した。田中・澤辺・古賀さんが降りて交代したのが、藤井・池本・藤重。僕だけはやめさせてもらえなかった。たった二ページのもんやのに、都合でやめましたというわけにいかんから、頼んで断られたら次の人を頼んで、また断られたらまた次頼んでって、誰でもいいってわけじゃないから、その時の人で、割に引っ込み思案みたいな人多いからな。おれがおれがっていうのいっぱいおったらいいんやけど、さっきの話じゃないけど、やめてる人が多い、亡くなってる人も。

澤辺 今ここで何か聞いておきたいという人の声が大分入って、残されたからいいなと思う。あんまり発言してない、特に今発言してない人たちで、しかも割り方「塔」   には大事だったなというような人の声が残ったね。それと、最初に編集部から示された形に従ってやっていったということで、また一長一短が必然的に起こるね。

黒住 フォルムが指定されているからね、これとこれとこれでやって下さいという。

澤辺 編集する側には編集しやすかったはず。

黒住 それこそ伸縮の余裕がないでしょう。だから、今見てたら、スペースが空いてたり、ぎゅーっと詰まってもう読みづらいのがあったり、だけどそれはフォルムを決めてもらったからできたとも言えるし、あれは吉川が決めたんかな。

澤辺 それは一緒に考えて決めたんだと思うけどね。ただ、「社会・歌壇のおもなできごと」の所は、この年譜と重なってしまったよね。やむを得ませんし、またそこでまとめるのとこの場で見るのとは違うかもしれないけれども、必然的に重なったことは重なったなと思います。それと、あえて言わせていただくと、塔秀歌選。この塔秀歌選の歌、選者はどこに書いてあった。

黒住 これ最近は藤重が全部やってるから藤重って書いてあるかな。

澤辺 悪口を言うならば、選をしてる人の目が、今日的な視点で選んでる。もうちょっと下手でもいいから、発表の時点に問題を孕んでたような可能性のある歌を並べてほしかったな。不思議なことにあんまり今の自分とは矛盾を感じない。それは恐らく選んだ人も矛盾を感じないから採ったんじゃないかなということ。

澤辺 いや、あれ大変だと思うよ。

黒住 その時代のことをよく知ってないとね、一応その雑誌をめくってその中から選んでるんだから。

西之原 選歌に加えて、その時々で議論になっていた歌のことはもっと知りたいですね。

黒住 清原日出夫にあの頃のこと書けって言って頼んだら、伸江夫人からお断りが、その時は癌だとは言わなかったけど、肺癌で入院してるから到底お応えできないと思うので、あまり遅れたらご迷惑になると思いますから私がお断りしますと言ってきた。

藤井 六月に「清原日出夫をしのぶ会」があるんですよ。お墓参りがあるので、私出席するつもりです。

澤村 では、今日はこの辺で。ありがとうございました。

    (四月二十八日 ウィングス京都)

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