塔アーカイブ

2003年7月号

現代短歌座談会
つかみとる歌
いまを生きること、女性であること〜

江戸雪・前田康子・なみの亜子・川本千栄

記録:西之原一貴

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●日常の感覚へのこだわり

なみの 皆さんにはあらかじめ、いま短歌で気になっていることをあげていただいています。それに即した歌にも触れながら、話を進めていくことにします。まず前田さんがあげられたのは、「こだわり」ですが。

前田 私、交通事故に遭って一ヶ月入院したんだけど、最初は「私はこんなに不自由になった、あれもできない、これもできない」という歌を作ってたわけです。ところがだんだん、そういう歌はただの呟きでしかないなあと思えてきて…。病院を車椅子でうろうろしながら、自分なりにいろいろ面白いものを探そうという気になって。例えば、廊下で般若心経唱えている人とか、「錆は寂しがり屋です」という変な張り紙が貼ってあったりとか(笑)。そういう足元にあるつまらないものでも見つけて、生きていく時間をつなげていくというか…。私が入院しているうちに戦争が始まって終わってしまったんだけども、今の歌の詠み方には自分の日常の感覚を置いといて、大状況をすごく意識しているところがあるというか…。そういう歌は技術・技巧にばかり走ってしまって、観念の世界に行ってる感じがする。自分の周りにあるもの、自分の感覚をもう少し信じて、歌を小状況のなかで作っていくのもいいことなんじゃないか。それを「こだわり」と言ってみたんですけど…。

江戸 それが、「こだわり」ということなのね?

前田 例えば穂村弘さんの歌にしても、もっとすごいものが自分の日常や感情の、もう一つ向こう側にあるんじゃないかと、見えないものを探してる感じでしょ。そっちの世界ばかりにはまり込んで行くのはどうかと思うのです。

  風の縁のふれゆくらしも天花粉こぼれてゐたる椅子のあしもと
            多田零『茉莉花のために』

 この歌なんか、天花粉がこぼれているという、ごく日常のパーツみたいのものを切り取った歌なんだけども、確かにこの人がこの空間、この時間で息づいているような。そんな確かさみたいなものが、ここにはある。

川本 自然に自分に入ってくるものを、信頼してゆくということですよね。ないものを見ようとするんじゃなくて、見えるものを見えるものとして扱うということなんですよね。

前田 もう少し厳密に言うと見える、見えないというよりも、見えにくい時間、空間を、現実の隙間から浮び上がらせるというのかなあ。

川本 ただ、前田さんの考え方に反対の人からは、昔の「アララギ」みたいだとか、先祖帰りだとか言われませんか?

前田 でも昔の時間の流れ方と、今の時間の流れ方って全然違うじゃないですか。感覚も全然違ってきて、食べるものも全然違ってきて、そうしたらやっぱり個人個人の感覚も違ってくると思うんですよ。だから、もっと自分の感覚を信じて詠んだら、新しい詠み方というのも生まれてくると思うんですよ。

川本 確かに昔と同じ歌にはならないですよね。近代を経て現代に来た私たちが近代人と同じ手法をとっても、絶対歌は違うものが出てくると私も思います。

前田 そうですね。

  風草と庭埃とはそんなにも格がちがふか思ひつつ歩く
         花山多佳子『春疾風』

この花山さんの歌、すごくマニアックな歌で、声出して笑ってしまったんだけど。「風草」はいい名前をつけてもらったおかげで、詩的な感じがするじゃないですか。姿はよく似てるのに、「庭埃」は名前が貧乏くさい。「格」が違うんかなあ…と自問自答しているような歌なんだけども、こういうところにこだわるというのがすごく面白いんです。自分の感覚を信頼して歌にすることが大事なんやなあ、って思うんですよね。

江戸 前田さんが言ったことに補足するとすれば、事実だけを言ったら面白くないと思うんですよ。例えば、このお湯呑みを見て、自分が何かを表そうと思って描写するじゃないですか。でもそれはその時点での言葉の世界であって、真実じゃない。そこで自分とずれていくものがある、といつも思うんですよ。自分の考えたものとは違う世界。違うと思った時点で、私の場合は本当の方に戻そうとはしないんですよ。そうしない方がいいと思うのね。もう一つ言えば、自分の歌が自分の思ったように読まれないのも当たり前。誤解されても当たり前。短歌は、誤解の文学だと思うんですね。だから、そういうことにあまり生真面目にならずに歌を作ってけばいいと思います。戦争の話が出たから言うと、戦争が起きてまず私が思ったのは、自分の息子が戦争に行ったら困るってことだったのね。そう思ったというのが私にはすごくショックで、そんな卑近な、自分の子どもの事ばかり考えてることが情けなかったんやけど、でもそれを自分で否定したらあかんって思ったんですよ。その時点で、私の戦争への向かい方はそれが真実やねんから、テレビを見て作るよりもそこに立って詠わなしゃあないっていうところが自分にはあって…。それが自分の「こだわり」かもしれないなって思いますね。

●体感を研ぎ澄ます

なみの 前田さんが言わはったこと、よくわかるんですよ。本当に日常で見過ごしていることはたくさんあるんだろうなーと思うんだけれども、一方で緑なんかほとんど身近にないマンション暮らしをしてて、生活の感覚自体が希薄な日常…というのも現代のリアルな一状況だと思うんですよね。時間に追われて切迫して、なんか目に見えない重たいものに、息が詰まりそうになりながらヨレヨレの日々を過ごしてる。立ち止まって、暮らしのいろいろな起伏を感受する時間も心のゆとりもない、というか。むしろテレビやインターネットの情報の方が、より身近に感じられる。そういう状況もあるんちゃうかなあ。

前田 だから私ね、住んでいる場所は、すごく重要と思うんですよ。例えば京都は、大都市にしては緑が多い所と言われてますけど、大阪は探さないと緑がない。だけど、ものを食べたりお風呂に入ったり…。そこにはやっぱり身体感覚があるわけだし、そういうことでだって普通の感覚っていうのは表せるんだから。私は情報に影響され過ぎるのは恐いなあ、って思うんですよ。

江戸 情報の世界の方にリアル感がある…という意見はよくわかって、実際にドラマ一つ、ドキュメンタリー一つ見てもすごく影響されますよね。ただ見た瞬間は自分の生活の中にグッと入ってくるんやけど、私は言葉を使って表現する者として、まずそれを疑いたいと思うんですね。それだけじゃないね。言ってみりゃ自然現象一つにしろ、私は疑いたい。すべてを疑いたい。

前田 自然現象も疑うの?

江戸 都会の自然現象はね。全部受け止めるということは、私自身ができない。それは、全部私自身の体感だと思うんですね。でもネットやテレビの世界をリアルだと思って書いている時点で、その短歌は力を持たないんじゃないかな。そこでそれは本当なのか、その周りに何があったのかを想像をしてみる。それだけでも、変わってくるんじゃないかな。

なみの ただね、文明が進んで、と言うと話が大きくなってしまうねんけど、情報化社会になって、人間の体感や感覚が退化してきた…という感じはすごくあるんよね。麻痺しているというか、鈍い体感しか得られないというか。そんな感じって、ないですかねえ。

川本 鈍かったら、その鈍いのを歌ったらいいんじゃないかなあ。自然に全く触れ合ってなくて、毎日コンビニの弁当を食べてても、それはそれで何か表せるんじゃないかな?自然に近いことが、必ずしも歌の源泉になるわけではないでしょ。

江戸 体感が鈍るって、どういうことなんかなあ。自然に対してってこと?

川本 生きてる感覚が希薄ってことでしょ。

なみの なんか生の実感が持てない感じ。例えば、私が挙げてきた生沼義朗さんという若い歌人の歌。歌集全編を通して、生の実感の得難さを感じた歌集だったんやけど。

  一日を普通に了えたつもりだが手には粘土の匂いがしたり
       生沼義朗『水は襤褸に』

 この歌の「粘土の匂い」、或いはものを食べた時に辛うじて胃の腑の感覚を得るような表現に、感覚的に引き寄せられたんやけどね。

前田 自然の中になくても、体感は体感やない?江戸さんの「疑う」という言葉で言うと、自分の中に疑う気持があるからこそ、自分が手に触ったもの、自分が現実に見たものを歌にしようと努力する。そこに自分が息づいている空間や瞬間を、見つけたいんですよ。それで、この粘土の歌はいいですよね。

川本 かえって、この歌の体感は非常に濃いように思うけど。

江戸 そうそう。私なんか自然が少ないところに住んでいるから、すごく自分を研ぎ澄まそうと意識してる。逆にそういう場合って、体感が研ぎ澄まされるんじゃない?

なみの 感覚を突出させる。集中することで掴み取る…ということなんやろね。

前田 例えば「塔」にね、藤田千鶴さんや森尻理恵さんが、家電製品とか地質年代について書いているじゃないですか。ああいうの十年位前に、小池光さんが『短歌・物体のある風景』でやっていたことに近いですよね。

川本 『現代歌まくら』もそうです。一つのものを突き詰めていったら、自分の見たいものが見えてくるのかもしれないですね。

前田 だから私が思うのは、観念のほうに流れていく人もいれば、藤田さんみたいに冷蔵庫なら冷蔵庫にこだわってみて、冷蔵庫一つをとってもいろんな人がこういうふうに詠んでるよというのを書いてくれているわけでしょう。ああ、こういうところに戻って歌を作ってみようという気になるんですよ。そういうところから自分は作りやすいというか、自分の本当の感覚を出せるっていうかね。

●イメージと美化

川本 私が気になるといえば、いまの若い人の短歌。私って特別…という感じで書いている人が多くて、ちょっと自意識が強いんじゃないかなあ、と思いますね。

江戸 例えば、今日私が写してきた歌に、

  置き書きも伝言も残さないけどこの世の果てを見に行ってくる 天道なお

という歌があるんですよ。「この世の果てを見に行ってくる」って…。こういうのが、「私って特別」ってこと?

川本 そういう大袈裟な歌も含めて、恋愛の歌、不倫の歌でも、自己陶酔を感じる歌が大量に作られていますよね。自分が恋愛したらそれは特別なこと、すごい恋愛なんだ、私はヒロインよ…という感じで。そういう歌にはちょっと食傷気味です。

前田 じゃあ、与謝野晶子とかも嫌なわけ?

川本 いや逆に、与謝野晶子や中城ふみ子が散々やったから、お呼びじゃないよと思えてしまうんです。あなたの恋愛や人生はあなたにとっては特殊かも知れないけど、他人にとったらどうでもいい、つまらないものなのよと。私個人の人生もそんなつまらない、取るに足らないものなんだ…という自覚から、始めたいなあ。

江戸 私、人生つまんないって思ってない。

川本 江戸さんの人生を含めて誰の人生も、他人から見たらつまらないものなんですよ。

江戸 自分が特別と思う必要はないけど、他人や自分の人生はたったひとつしかないものだと思わないと、自分の歌なんかでひんし、他人の歌も読めないよ。当たり前の話するけど。

川本 つまらないと言うか、ありふれたものなんですよ。でも自分では特別な人生と思って、それを前面に出されると、うんざりしてしまう。

前田 それはでも、表現上の問題なんじゃないんですか?

江戸 私もそう思う。

川本 捉え方が根本的に違うだろう、勘違いしていると思いますね。

前田 それは一つにはこの定型の特徴でもある気がします。それから川本さんの今の発言は、川本さんの歌を読んでいるとすごくわかる。川本さんの子育ての歌を読んでいると、母と子とか特別に美化されたところは全くないなって思うんですね。却ってあまりにも殺伐としてると言うか……。私なんかどこか無意識のうちに、体感が変わったとか、生まれて獣のようなかわいい子とか、やっぱり作ってしまったところがあるんだけれども。

川本 例えば、小守有里さんの第二歌集は子育ての歌が多いんですけど、ああこんなに美しい母と子…という世界を作り上げていてちょっと入って行きづらい。

前田 そんなに拒否反応ある?

川本 拒否反応なのかなあ。横山未来子さんの『水をひらく手』でも、自分を綺麗に保っている気がする。すごく自分は綺麗で、汚いものは排除しているみたいな…。そういう歌の作り方を、私はいいとは思わないんです。

江戸 私はいいと思いました。川本さんは排除してるって言ったけど、私は排除しているとは捉えなかった。歌って全部詠っちゃったら面白くないと思うんですね。あったこと全部詠ったら、それは歌じゃないと思うんですね。「排除」というより、横山さんの場合は「選択」だと思うんですね。それによって自分自身の知らない世界が見えるんじゃないか、そういうところで汲み取ってはると思ったんです。

川本 抽象度が高すぎると言った方がいいのかな。例えば前田さんの歌集だったら、「木」という表現はほとんどなくて「楡」等の具体的な名前を使ってる。でも、横山さんはあくまで「木」でしょ。頭の中で作ってるように思えたんです。イメージの歌なんですね。そこが私にはあまりいいと思えなくて。いまの短歌の一つの流れになっているものに、イメージの歌があると思うんです。前田さんが言ったのとは正反対で、手で触って実際に経験してどうじゃなくって、頭で考えて作っている歌が多いと思うんです。

前田 その固有名詞の問題って、江戸さんの歌も当てはまるんじゃないの?

江戸 そうかなあ。

前田 時々は、具体的な名前が出てくるんだけどね。でも、わざと抽象的に作っているのかなって思って…。

川本 私も、江戸さんの歌はすごく心にヒットして来る歌と、ただ頭で考えただけかなって思う歌と、あるけど。

江戸 基本的なことだけ言うと、自分の体験してないことは私は詠えないです。私は、「経験」ではなくて「体験」を詠いたいと思うんです。たとえば、風に吹かれて寒かったという体験があって、それを「寒かった」と言うんじゃなくて、冷たい風がほかのものを揺らしていたとか、猫が寒そうだったとか表現したい。イメージだけで作るというのは、私の才能上できないし(笑)、やろうとしても失敗するだろうと思うんですね。

●ことばの斡旋

江戸 この歌についてはどう思いますか。

  いちまいのものすごく蒼い舌のように海が太陽をねぶっている午後
       井辻朱美『水晶散歩』

すごく極端な歌を挙げてきたんだけど。さっぱりわからへんでしょ(笑)。

前田 いや、わかりすぎるような気が…。

川本 漫画っぽい感じ。

江戸 じゃ、これは実景じゃない?

川本 実景なんだろうけど、実景を見たときの取り入れ方が漫画っぽいかなあ。頭の中に入ってくるときに、劇画のように認識しちゃう。例えば頭を叩いた時に、「パシッ」という文字が見えるような認識のしかた。

前田 北原白秋に、

  大きなる手があらはれて昼深し上から卵をつかみけるかも

という歌があるじゃないですか。こっちの方は、すごく現実的な手触りを感じるでしょう。

江戸 語彙が平たい語彙やもんね。井辻さんの歌は、「ものすごく蒼い舌」とか、「蒼」という字も凝ってたりしているんだけど。

前田 白秋は「昼深し」ってワンクッション入れているでしょう。そこですごく時間を感じるんですね。井辻さんの歌も「午後」が入ってはいるけど、なんか言いっぱなし。見ているだけなのか、自分がそこにいるということも見せているのか。そういう違いがあるのかなあ。

江戸 私はこの歌がいい歌かどうかわからなくって、でも気になった歌で。内容より、表現自体が記憶に残ったんですね。例えば、

  男なら軽々持てる磁力計に担当者われは他力を頼みぬ
        森尻理恵『グリーンフラッシュ』

というような歌は、まず内容で読むじゃないですか。井辻さんの歌は内容じゃ読めないけど、でも時間がたったときにふっと思い出すのは、こういう歌だったりしません?

川本 「太陽」とか「海」は、とてもありふれた普通名詞でしょう?それに「ものすごく」とか「ねぶっている」は、口語よりもさらにくだけた言葉ですよね。海が「蒼い舌」それが太陽を舐める、など発想には惹かれるけど語彙に不満があります。私は、美空ひばりの「真っ赤な太陽」を思い出したけど(笑)、流行歌の語彙に近いと思いますね。さっき抽象度の高い歌は惹かれないと言ったのは、もっと語彙を深めて欲しいという点もあるんです。

前田 ただ、これまでの名歌を見ていると、抽象度の高い言葉の力を存分に使って作られている歌も多いですよね。江戸さんが時間が経ったとき、井辻さんの歌を思い出すのは、そういう力の作用からかもしれない。

川本 三十一音しか無いんだから、もっと細かい言葉を使えばいいのに、大きい言葉が多いじゃないですか。「風」ばかり「葉」ばかり出てくるとか。抽象度が高くて手垢のついた語彙で詠われている歌が、とても多いように思う。

江戸 じゃあ川本さんは、どういう歌がいい歌だと思われるんですか?

川本 例えば島田幸典さんの歌ですね。相聞歌で久しぶりに感動しました。歌集の冒頭に、「光の変容」っていう相聞の一連があるんですけど、修辞のレベルも、言葉の斡旋のレベルも高いと思います。恋愛における自分の持っていき方、保ち方に品のよさも感じます。

  散る花の軌跡が絡み合うほどの近さにありき遠ざかりけり
      『no news』

この一首の喩は本当に秀逸ですし結句も効果的です。

江戸 確かに私も、「悲しい」「苦しい」「こんな恋をしている」って言われると嫌ですね。読めない。自意識のたれ流しはよくないですね。定型のフィルターをとおしてほしい。

川本 横山さんのも具体性が無くて、大づかみな言葉ばかりの歌を透明感のある歌だと勘違いしている風潮があるのでは、と思うんです。これは、東直子さん、小林久美子さん、小守有里さんといった二十代後半から三十代前半の歌人に対して思うことなんですけど。

●相聞歌と修辞

前田 江戸さんがあげているこの歌は、どうですか。知らぬ間に岸を離れし夜の船に揺らるるごとし君とあゆめば栗木京子「短歌研究」三月号 これも相聞の歌ですが、「船」とか「岸」とか「夜」とか、どちらかというと川本批判に入る歌じゃないですか?

川本 よくとりあげられている歌ですよね。

前田 これは、既婚の人が詠んでいるから注目するのかな。もし、作者が独身の女性だったら、綺麗なイメージだけが強まったかもしれない。

江戸 私はこの歌を読んだときに、結婚した人の歌としては読まなかった。相聞としていいと思ったから、ここにあげたんですね。署名つきでいいと思う歌というのは、私は認めないんです。

前田 この歌、喩が重なり合っていて複雑な感じに読めますね。「船」が「君」であってどこかに連れて行ってくれたということなのか。それとも、一人で乗っているのか、二人で乗っているのかっていろいろ考えてしまう。

江戸 「私」が乗っているんでしょう。君と私が乗っているんかも知れへんけど、私自身の内面の問題で詠っているんじゃないですか。

川本 知らない間に自分を繋ぎとめるしっかりしたものから離れていったってことだから、「君」は夫じゃないというイメージを掻き立てるんですよね。

前田 その揺られていることがこの人にとってすごく不安なのか、それとも嬉しいことなのか。そこを考えさせるというところが、この歌のいいところなのかも。川本さん的にいうと、見たことのある恋愛を読まされるともう次は見えてしまうから面白くないわけで、これだと複雑な気持ちだからどっちなんだろうと考えさせられる。

江戸 垂れ流しというか、気持ちばっかりを詠っているような歌が多いなかで、栗木さんの歌とか、ここにあげた川野里子さんの、

  電気鉛筆削りじいんと震えぬ夫のみに語りしかなしみ夫死ねば消ゆ
      『太陽の壺』

というような歌は、自律が働いているような気がするんですね。

川本 知性が効いていますね。

江戸 知性もあるし、抑制っていうか、泣き言ばっかり書いてない。強い部分を感じさせる歌の方が、読みやすい感じがするんです。

川本 それは皆そうだと思うけどねえ。悲しいの苦しいのという歌がいいという人、そんなにいるのかしら。

前田 私が最初に言った、呟きの歌でしかないよね。河野裕子さんの歌で、

  何といふ顔してわれを見るものか私はここよ吊り橋じやない
     『日付のある歌』

彼が見たことの無い表情をした…それを自分の目で発見して、歌に詠んでいる。病気に呑まれてないっていうかね。恋愛の歌でもそうで、恋愛に呑まれると川本さんが言うような「風」とか「海」一辺倒の歌になるわけで、呑まれずにもうワンランク上がって違うところを見ようというのは、わかる気がする。

なみの 皆さんと視点が違うんですが、私があげてきたのは、岡井隆さんの歌。

  細く狭い K から水の音がして寝にくるだらうそれも出逢ひだ
    『E/T』

もっと熟年の夫婦の相聞歌を読みたいなあと思ってまして。熟年夫婦の歌には、わかりやすい夫婦愛とかしみじみした情愛の歌が多いんやけど、恋愛におけるエゴや危うさ、関係性の揺れみたいなものが保たれてる…という点で『E/T』は好きな歌集でした。ドキドキしました。年若い妻を前面に出して詠むあたりは、特殊といえば特殊なんでしょうが。ドキドキする夫婦の歌、もっと読みたいです。

江戸 結婚後の恋愛は、私も一つのテーマだと思っています。恋人だったら傷つけて終わりみたいなところがあるんだけど、夫婦となるともっと違う力学が働いてくるでしょ。そこで夫が読んだらどう思うか…とか怯んだらあかんと思うねん(笑)。河野裕子さんでも、家族が読んだらどう思うなんて考えずに作っていらっしゃると思うんですね。岡井さんでも二人きりの場で行き詰まってくることもあると思うんですが、それを短歌にするとまた違う世界ができるかもしれないじゃないですか。相手が傷つくとか子どもがどう思うとか、そういうのを考えずに詠んでいる分、『E/T』は私もいいなって思った。

なみの ある種、内面的な物狂いを自分に課しているというか。それが表現のテンションにも現れていて。

川本 この歌、相聞歌でもちょっとずらしがあるんですね。自分の奥さんがベッドに来ることを、「出逢ひだ」と言ったり。そういうのはすごくいいと思うねんけども、最近の相聞歌はそこをずらすんじゃなく、すごく淋しい苦しいって、畳みかけてくる。

前田 自分の恋愛を遠くから見るという行為を表現する前にあまりしてないのかな。

川本 そうですね。すごくせつないと言いたい時に変な比喩を持ってくる。評する方もこの比喩の飛翔度がすごく高いんだ…などと誉めたりするけれど、それは違うと言いたい。。よく話題になる小池光さんの「あきらかに地球の裏の海戦をわれはたのしむ初鰹食ひ」の一首は、ちょっとしたずらしがあって、それがすごくアナーキー。逆に「殺す」などの強い言葉を並べた歌を読んでも全然アナーキーに感じないこともあります。極端な偽悪的な言葉を並べるんじゃなくて、ごく当たり前の言葉で心に突っ込んでくるようなずらしがすごいと思う。岡井さんの歌でもありふれた恋愛にちょっと違う角度を持ち込んでいる。手垢のついた言葉なんだけど、「それも出会ひだ」と角度を持たせて使っているんですよね。

●女性の仕事の歌

なみの もう一つ川本さんが気になるのは、「女性の仕事の歌」だそうですが?

川本 小川さんの歌をあげてきました。

  人はかく大人にならむ はにかみて「Bonjour」と言ふ時期のみじかさ 
     小川真理子『母音梯形』

若い先生が自分よりさらに若い生徒の人生の一時期を見る視線の初々しさを感じます。去年、集中して若い歌人の歌集を読んだんですが、びっくりしたことに、仕事の歌が男も女も皆無。恋愛の歌ばかりなんですね。特に女性はそうでした。皆、何して食べてるのって聞きたくなる(笑)。

なみの あえて詠ってないのかもしれない。

川本 でも、私が若い頃は、一日の八割から九割、仕事のことで頭を使っていて、その合間に食べて寝てるだけみたいな感じでした。それから考えると仕事のことに意識が働いてないわけはないと思うんだけど。ただ恋の歌が大量にあって仕事の歌はどうなっているんだろうとを思うんです。

なみの 男の人の仕事の歌は、具体的な場面が詠まれることが多いですよね。一方の女性の歌と言えば、私は昭和二十年代の歌人、三国玲子さんの歌をあげてきたんですけど。

  僅かなるしくじりにすら怯ゆるか少女等の誰よりも年嵩なれば
    『空を指す枝』

三国さんたちの頃には、仕事=女性の自立といった時代的な捉え方があったと思うんやけど、でもこの歌をよく読むと、現代でも職場で「お局さん」とか「オールド・ミス」とか呼ばれちゃう女性の心情とそんなに違わない。女性が仕事の現場で負うハンディって、表面に見えにくくなっただけで実際にはずっと変わってない部分もあるんやないか、と思うんですよ。森尻理恵さんの『グリーンフラッシュ』は、仕事の場面が具体的に詠われている歌に魅力を感じるけど、女性ならではのハンディや環境の未整備に対する嘆きや怒りを込めた歌も多いでしょう。自分を振り返っても、やっぱりそんな歌が多いねんなあ。女性が仕事の歌を詠む負のモチベーションて、あんまり変わってないんやないか、と思うねんね。

川本 森尻さんの歌に関しては、仕事に対する愛を感じます。それがあるから、環境の不備に対して許せない部分が出て来るんでしょう。

前田 出産・育児がすごくネックになっているよね。少しづつはよくなってきているけど、まだまだ改善されていないっていうのを、みんな言いたいのでしょうか。

川本 森尻さんの歌集はそういう意味では鋭く現代的というか、現在的な感じがしますよね。これは少子化にもなるなって思ってしまう。

なみの まずそう読まれてしまうところが、もったいない思う。あくまで森尻さん固有の場面、固有の抒情にいい歌がたくさんあるんであって、いかにも現代の典型という風に読まれてしまうと、損する歌集じゃないんかな。

川本 でも仕事にかける歌って、ほんとに少ないんですよね。教師の歌はたくさんあるんだけど。

江戸 小池さんの「佐野朋子のばか殺したろと思ひつつ教室へ行きしが佐野朋子をらず」にしろ、川本さんの生徒とこじれている歌にしろ、ああいう歌はいいよね。教師という立場を量りにかけているでしょ。自分のなかで葛藤しているというか。仕事の歌って、そういう葛藤がないと羅列になっちゃうじゃないですか。そうなってしまうと面白くないって私は思う。

前田 小池さんの歌は、先生自身がそういうことを歌にしたから面白いのであって、例えば大引幾子さんの歌で、生徒が事故に遭われて亡くなったことを詠まれていたのですが、迫力はあったけれど、真っ当な先生という感じがしてしまった所があります。

江戸 いわゆる先生のイメージがあるじゃないですか。そういう一般論のようなものにとらわれずにやっている歌っていうのが、面白いですよね。

前田 仕事を詩的レベルまで持っていくのって、すごくエネルギーが要りますね。歌の場面とかも、説明的になってしまうし。

江戸 こんな世界があるかもしれない、もっと面白い世界があるはずだという感じには、仕事の場合思いにくいんじゃないのかな。

川本 「塔」ではこの人は主婦だとか、夫と農業してるとか、仕事がよく見える歌が多いでしょう。でも「塔」から目を転じると抽象度の高い歌や自分の感情をクローズアップした歌がある年代から下の人に多いと思います。それをまた評価する人もいますし。

なみの でもいまの社会状況のなかで、仕事が軽んじられてきてる面もあるんやない?

川本 仕事を軽んじたらバチあたるよ。どうやって御飯食べていくつもり(笑)。

なみの バブル後の若者は、企業合併や倒産、終身雇用の崩壊のような、これまで仕事上の幻想を担ってきた枠組みがもろに壊れていくプロセスを見てるから、仕事に夢も希望も託されへんのと違うかな。自分の人生のなかで、仕事を高位には位置づけてない。

前田 でも、現代は以前よりも職業が細分化、専門化されているからいろいろな職業の歌を
読みたいと思いますね。

江戸 でも、そうしたら職業紹介になってしまうんじゃない?

川本 それはそれで短歌としては底が浅いかもしれません。でも、一冊の歌集のなかに仕事のことは出て来ない、親のことは出て来ないとなると、希薄な感じがするよね。

江戸 「生業」っていう言葉があるけど、結局自分の生きている重みが、今、歌に向いていかないってことなんやろうね。

●「女性」という批評軸

江戸 いま批評の方にも、いろいろ問題があるように思うんだけど。例えば署名が先にあって歌を読む、若いということを頭に入れて歌を読まれる場合が多いですよね。

川本 若い女性の恋愛の歌というだけで、歌の評価が高くなる。或いは、本人にとってはすごく切実だからと迎えた批評をする。そんなことが、多くありませんか?

前田 私が第一歌集を出した七年ほど前も、青春=恋愛みたいなところがあって、それが出ていればいる程いいみたいな。私自身はそういう恋愛をするタイプじゃなかったから自分でなんか空回りしているなって思いつつも、歌集のなかでは「私燃えています」みたいなのを作って収めてあるんですね。いま読むと、これはほんとうに私なのかなって感じ(笑)。第二歌集の小さくなっている私の方が、本当の私なんだって気がしたりして。

川本 批評する側が、女性といえば恋ということを期待している部分があるよね。だから逆に女だって働いています、って言いたい訳ですよ。女たちよ、もっと仕事の歌を詠まんかい、と(笑)。批評に乗せられて、愛よ恋よって言うことはもういいから。

江戸 わかるわかる。またそういう歌を、ピックアップしすぎな面はあるよね。

川本 それがいいと勘違いしているような風潮があるんですよね。女だって恋と出産しかしてないわけちゃうっちゅうねん(笑)。

前田 その傾向はだいぶ冷めてきているとは、思うよ。女の人が働くのも当たり前になって、働きながら子育てすることも当たり前になって。

川本 でも総合誌の批評を読んでも、女性ならまず、愛の歌を詠まなければならない…というようなこと書いてあったりしますよね。

前田 逆に言えば、女はそれを逆手にとって出やすいわけじゃないですか。女の人は、そこで得をしている部分があるんだと思う。

川本 そういう逆手っていうのは、私は嫌なんですよ。それに乗っていく若い女の人を見ても、目を覚まさんかいって感じ(笑)。

なみの 逆手にとったつもりで、消費されてることに気がつかないのでは?うまく乗ったとしても、最初から自己イメージを規定をされているわけだから、ずっとそれでいかざるを得ないし。

前田 それを打ち破っていくのは、その人自身の力じゃないですか。俵万智さんだって模索して演劇のほうへ行ったり、打ち破ろうとしてますよね。

川本 でも、立っている位置を変えてない感じがしますね。素材を変えているだけじゃないか、と。最初は恋愛、今はホストクラブ。でも、突き破ることはしていないんじゃないかなあ。

前田 昔、岡井さんの歌で、そういうところで女は得だっていう歌がありましたよね。若い女性というだけで迎えられるところがあって、得だなあっていう歌があった。

川本 迎えているのは男の方じゃないかいな(笑)。

江戸 女性だからこそ、仕事の歌を詠うべきだというのはよくわかりますね。ただそれはそれとして、私は表現の面で女性であることにもっと抑制をかけて欲しいと思うんです。さっき川野里子さんの電気鉛筆削りの歌を挙げたけど、こういうことを夫だけに語る悲しみ、その一方である強さのようなものも、この歌からは感じられるんですね。女の人もこういうところで勝負しなければならないところがあって、出産の歌を歌ったらいいかと言えば、そういうことではなくて…。

川本 恋愛もするし出産もするけど、そういうことって特殊なことでもなんでもないし。なぜそういうことだけが取り出されて、突出して見られてしまうんだろう。男の人だったら、恋愛の部分だけ取り出して、とかいうようなことはないでしょう。

江戸 それは、批評家かつ女性である川本が頑張らないと、あかんのとちゃう?

川本 でそんな……。(笑)でも、やっぱり批評軸が作品を決めてくるところってあるでしょう。全然批評されない歌を作り続ける強さを持った歌人はそんなにいないし、ある傾向の歌がいいということになったら、そこに乗っていく、流されていく面はあるじゃないですか。

前田 私は全然流されていないよ(笑)。

江戸 さっき前田さんは、ご自分のことを第二歌集で小さくなったって言われたけど、逆に大きくなったように私は感じたんですよ。ある意味吹っ切れた感じで、前田さん自身が一つの世界を持って作った歌集なんだなっておもって。そういう強さって言うのは絶対必要だと思うんですよね。

●表現と事実

前田 私があげてきた早川詩織さんの歌は、生殖医療の善悪もいう新聞はいつでも新聞の匂いしていて「短歌人」二〇〇三年五月号ご自身が不妊治療をしたことを連作にしていて、その治療の歌の間にこの一首がぽんと来るんですね。新聞を批判しつつも自分はどっちっていうことをいわずに、最後に「新聞の匂い」という自分の体感にひきつけているところは冷静な感じがするんです。一方で痛い思いとか大変な思いをしながら治療をしていて、その自分を超えている目というのも感じられていい歌だなと思ったんですね。不妊治療の歌って、実際に治療をしている人が多いわりには、まだそんなに作られてへんのとちがうかなあ。

なみの 女性の歌の流れのなかで、不妊や産む・産まないといった素材は避けられてきた感じあるよね。出産の歌はとても多いのに。

川本 産まない女性に対して、目線が低いんじゃないの。産むのは女性のいいことというか、当たり前みたいな感じがありますよね。さあ結婚したら、次は出産の歌だみたいな感じで(笑)。不妊治療の歌は、興味というか素材としてだけのネガティブなイメージで見られてしまうんじゃないでしょうか。

前田 辰巳泰子さんの歌で、母子寮に入るのに梅毒検査をされるっていうような歌があって、それはショックでした。情報としてそういうことがあるっていうのを知らなかったし、こういうこと、もっと詠ったほうがいいかもしれない。

川本 でもそういう歌って、素材の面白さというか、こういう題材を詠んで勇気がある…という評価だけに終わる危険性があるでしょ。

なみの 中城ふみ子さんもそうだったよね。

川本 大口さんの闘病の歌は、素材負けしていない。詠っている状況は悲劇なんだけど、歌として昇華してしまっているよね。

江戸 そうかと言って、強がっているわけでもない。ありのままって感じがするよね。でも、それが表現の巧さやと思いますね。大口さんの歌集は、編む時にだいぶ歌を削られたんじゃないかって思ったんですね。たぶん、削ったなかにもっと具体的ないろいろがあったと思うんだけど。

川本 歌には浄化作用があるから、言うだけ言って自分の気持ちがすっきりする歌を大量に作ったら、その後に歌としていい歌ができることってありますよね。

なみの 昔から「療養短歌」はありましたよね。それって、短歌のどういう力なんだろうと思うんですが。死刑囚でも最後は辞世の歌を詠む人が多いよね。そういう歌はみごとに類型的なんやけど、でも短歌の詩型が誘うようなところ、あるんやろね。

川本 小高賢さんが評論集で、坂口弘の歌がやはり遅れてしまっているということを言っていました。心のあり方が、近代のものの捉え方で留まってしまっている、と。でも今の時代の歌がこんなに複雑になっている一方で、死を覚悟して死刑囚が心の底から詠っている歌がある種の感動を与えるのを、どう考えたらいいのか…と書いておられました。

前田 坂口弘の場合、世間とは離れた特殊な環境に居る所にもそうならざるを得ない要因はあると思いますが、川本さんは、近代で留まっているけどそれが感動を与えるということに対しては、どう思いますか?

川本 それが難しいところで、素材に寄りかかった歌は読んだら物足りない、もっと歌として昇華してほしいと思う反面、技術は巧くても内容として何にもない歌を詠んだ時につまらないと思うのと、実は表裏一体なんじゃないかなあ。事実と詠嘆に終始した歌でも、そこにある事実の重さに惹かれるということは、やはりあることだと思います。

なみの ひととおり、最初にあげてきたテーマに触れることもできました。この辺で終わりましょうか。皆さん、お疲れさまでした。

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