塔アーカイブ

2013年1月号

澤辺元一インタビュー

●塔、高安国世との出会い

永田 今日は創刊からの会員で「塔」のこれまでを一番よく知っておられる澤辺元一さんにお話を伺うということで来ました。澤辺さんは、もう言うまでもないことですけども、創刊からの会員というだけではなくて、長い間編集サイドにおられて、編集部の部屋を提供していただいたこともあるし、自ら編集もしておられたし、それからその後で選者もやられたということで、文字どおり「塔」と、「塔」の五十年と歩みを共にしてこられた方なので、まず最初は「塔」のちょっと昔のことからお願いします。

 「塔」で一緒に高安さんとやられることになったきっかけからお話しいただけるとありがたいですが。

澤辺 正確に言いますと、私は「塔」が発足するということにはあまり関わってないんですね。発足した「塔」に高安先生から、お入りくださいという書面が来まして、その前から「関西アララギ」の選者の一人として高安さんがおられたんです。私は一番最初、「アララギ」の文明欄におったんですが、「関西アララギ」というのが関西から出されているのを知りまして、それで申し込んで、「関西アララギ」の高安選歌欄へ入ったわけですね。

 そのとき既にその「関西アララギ」の高安欄の人たちの間で新しい歌誌を作ろうではないかと、私らの先輩である河村盛明さんだとか伊藤由紀夫さんですかね、そういう方が十名かそこらおられたんですね。その人たちが発起人となって「塔」が発足して、その「塔」の中へ私は入らせていただいた。形の上では創刊号に作品が一応載ってますので、創刊以来の会員ということになってるわけですね。

永田 その当時、その「塔」ができる前までは「アララギ」に入っておられた。

花山 「アララギ」の文明欄ですね。

澤辺 文明欄に入ってたんですけれど、文明欄というのは、たしか毎月二首か三首か。それを文明さんが採って、ずうっともう一首ばっかりです。私の知ってる人で文明さんから二首採られたのが、古賀さんと田中栄さんぐらいしか私は知りませんね。そういう文明欄というのがあって、高安先生もその中へ一応入っておられたんだと思うけれども、地方誌として「関西アララギ」というのが出て、四、五人の選者がおられて、その中から高安さんが別に会誌を作って、主に若い人たちを中心に発足したのが今の「塔」ということになってますね。

花山 その文明欄に出されたのは戦後からですか。

澤辺 戦前のことは全然わからないんで、私自身は「アララギ」へ入ったのはたしか(昭和)二十七年ぐらいですね。「塔」は二十九年でしょ。その間、まあ何とか高安選歌欄でつないできて、それで「アララギ」から「塔」へ、そういう形で移ったということ。

永田 「関西アララギ」の高安選歌欄にはいたわけですね。

澤辺 ええ。「関西アララギ」という雑誌がもう私の入ったときにあったから、それの高安選歌欄に入って、続いて「塔」へ。それはその先輩たちが「塔」発足についていろいろ議論してたというのは全然私はタッチしてないんです。だから、正しく言えば、私は創刊メンバーじゃないと思ってますけどね。

永田 発足当時の「塔」の雰囲気ってどんなんですか?

澤辺 発足当時は私とこの家でよう集まってもらってた。やっぱり印刷関係の仕事があるでしょ、校正だとかそういうの。それで、私の家へ集まってきてもらってたのが多いと思いますね。

花山 もう当初から澤辺さんのお宅でやっていたわけですか、「塔」の仕事。

澤辺 そうですね。そういう「塔」の仕事は。高安夫人があんまり自分とこの家へ来るのを嫌がるでしょ、どうしても私のとこへ、高安先生も私とこへ見えて、歌会もやってましたね。名前忘れたな、鴨川の河畔の。

永田 奥村女子会館。

澤辺 そうですね。高安さん歌会好きだから、やるとなったらどこでも飛んできて。世代的には私とかその前後の方が多かったね。女の人も、坂田久枝さんあたりが中心になって一番活躍してたの違うかな。

永田 高安さんと澤辺さんて幾つ違います?年齢的に。

澤辺 私が寅の、先生は丑だ。だから十三か。

永田 でも、古賀さんとか田中栄さんともそんなに違わないし、諏訪さんともそんなに。五つ、六つ違うという感じやったかな。それ、同世代ばっかりだよね。

澤辺 古い人もおったんだろうけども、あまりおとなしい人たちばっかりで、活発な発言してるとかいうのはあまり聞かなかったな。

花山 同世代でも、やっぱり先生って雰囲気なんですか?

澤辺 先生なんだけども、崇め奉る、というのでなくて、兄事するような感じ。それほど頭を下げてうるさく、やあやあ言われるような雰囲気ではなかった。土屋文明さんなんかが中心の「アララギ」歌会なんかたまに行くと、もう皆緊張して、文明さんの前では直立不動でしゃべるというような雰囲気やったけれども、私らの場合は、やっぱりどこか自分の前を歩いている人という素直な気持ちのほうが強かったん違うかな。

永田 何かみんなそう言うけども、僕が入ったのは昭和四十二年ですけども、「塔」ができてから十三年。多分僕が一番若くて、僕の上は黒住さんぐらいだったから、もう十幾つ上で、高安さんにむしろ近い。僕が入ったときに、みんな兄事、兄事って言うけど、やっぱりもう厳然たる先生で、高安先生ってみんな言ってるし、それで。

澤辺 先生ということをそこまでだから気使うて発言しなかった。私は月に二回、三回会うてるからいいけど、たまに地方から来た人なんかはそれはそうやろな。

永田 何かもっとピリピリした雰囲気があったな。

花山 私の入った頃は甘くなったとか言われてましたけどね。

澤辺 そう。高安さんはそれほどは気にせん人ですね。少なくとも大きな声で怒鳴るとか、そういうことは全くなかった。黒住はよう怒られとったけどな。そういう人がおると便利なんよ。

花山 澤辺さんと黒住さんとは世代が少し違うんでしょう、年が。安保世代っていうのはもう少し下になるんですか?

澤辺 あれは、大体大学生がほとんどが立命やったね。坂田も含めてね。その辺はちょっと下になりますね。

永田 「塔」ができたときに、その前に「ぎしぎし」があって、「フェニキス」があって、それから「早春」もありましたよね。あの辺の学生とか若い人たちの影っていうのは「塔」に来ていましたか?

澤辺 いや、それが私、「塔」は全然そういうの、年あんまり変わらないけども、世代が変わってるというか。名前もわからんわ。そんな会誌見たこともないし。

花山 その辺の世代差っていうのはすごくあるのかしら。

永田 年齢的には同じやけど、先に活動してた人とまた違うんやね。

花山 「塔」、初めすごく社会詠の感じでしょう、全部の感じが。

澤辺 文明欄のを引いてると思うんですね。高安先生自身が自分の生活の日常に関して、作品のほとんどをそういうもので固められてるのが多かったから、どうしてもそっちのほうへ行きましたね。

花山 澤辺さんの初めの頃の歌、読んでちょっとびっくりなんだけど。綿埃の中の生活の歌っていうのがものすごくリアルでね。

永田 「塔」の性格がちょっと変わったというのは、やっぱり黒住、清原、坂田という三人の学生、あるいは学生終わった頃のあの三人が六〇年安保を正面から歌って、清原坂田論争みたいのがあって非常に活発な時期があって、あれが第一回の「塔」の変化ですね。

澤辺 そうですね。高安さんもそれをどちらかと言えば是認するような、応援するような立場にいたから。

●坂田博義の死、綿埃の歌

永田 澤辺さんはやっぱり坂田さんが亡くなったとき相当なショックを受けられて、歌も繰り返し後々まで作っておられるし、坂田さんの自死というのはやっぱりより大きな衝撃だったんだと思うんですが、それは「塔」全体として見たときと、それから高安さんにとっての坂田さんの死というのと、澤辺さんにとっての坂田さんの死というのはどうでしたか?

澤辺 とにかくものすごうショック受けたね。そんなこと起こり得るということ、自分の身近な人が自殺すると、ましてもう首吊ってるとはっきり言われたからね、ものすごうショック受けましたね。

永田 僕が最初に「塔」の歌会に出たのは坂田博義の七回忌の追悼歌会だったんです。お寺でやって、まずお焼香して、そのまま歌会に行った。そこで僕、高安さんに怒られたのをよく覚えています。歌の中に「聾唖のごとく」という歌があって、僕こんな表現はよくつかわれて平凡だって言ったんですよね。そしたら、高安さんが「よく使われていると言うなら何か例を挙げてみなさい」って言われて。すごく怖かった。高安さんの事情知らなかったから。

花山 澤辺さんの歌に

  永田和宏を坂田博義と呼び違えたる黒住嘉輝にはなお近き過去

というのがありますね。「塔」を見ると、坂田さんの挽歌がありました、あの頃ちょっと出されてない時期があったような気がするんです、しばらく。安保当時、誌上にあんまりいないんです、澤辺さん。

澤辺 自分とこの会社がもう潰れかけてたから、はっきり言うて「塔」へそんなに力がいかんわけ。むしろ「塔」の例えば歌会なんかは逃げてるわけや。自分のつらい現実から逃げるために歌会へ行ってという生活がずうっと続きましたね。その間に、全然歌作れない時期ありましたね。

永田 それは安保の頃ですか?

澤辺 四十八年やな。

永田 その頃は澤辺さんが実業のほうですごく忙しくて、僕ら編集会議に澤辺さんの清水坂にあるお家に何度も行って、それで編集してたんだけど、澤辺さんは仕事の合間にちょこっと顔見せて、ジョニ黒があったから飲めやとかってね、ナポレオンというものを初めて飲ませてもらって、それがいそいそと編集に通い続けた動機かもしれない。

花山 実業の歌、

  年稚き君等に残業を強ふる我の論理は既にブルジョア経済学のもの

とかね、

  君達を搾取し我身をも酷使しゆく小企業の現実といふは厳しく

とか、ありますね。

永田 土屋文明みたいね。

花山 綿埃の歌はみんないいんですよね。当時とても好評です。「夕づけば機械カバーの」、これ「綿塵」っていうのはどういうふうに読むのかしら。「メンジン」かしら。綿埃の歌いっぱいあるんだけど、

  夕づけば機械カバーの綿埃が軟体動物の如く震へぬ

とかね、きれいな歌もある。

前田 何の工場ですか。

澤辺 布団。

花山 この頃の誌上歌集の「綿塵の中に」に

  ひもすがら綿埃吸う我なれば朝々の黒き啖あやしまず

とか、何か相当公害のような。

澤辺 題材をそういうとこからつかもうという、目がそっちのほうへいってしまってるわな。

花山 職業がね、特殊だから、リアルなんですよ。絶対どこかにまとめて発表したほうがいいんじゃないかと思うんですけど。

永田 澤辺さん初期の歌は全然歌集になってないものな。

花山 もともと「アララギ」の骨格が澤辺さんにはあるんですね。後の年のイメージでは澤辺さんはアララギの歌と違う印象がありました。一九五八年くらいから歌がちょっと変わってきたっていうか、五八年に十首出してみな採られているんですが、一首目が

  移り来て二度目の夏よ工場の花圃に満ち花・蜂・蟇・蛇ら
  乾きたる道にこぼれし棉の実の午後となり不思議な朱に輝く

とか、

  漆喰の剥げし倉庫に繰綿ら濡れつつ匂う日本は雨期
  船艙にひしめきて洋越えし日のメモリアル―鋼帯に傷光る綿

とか、ちょっと違うでしょ。やっぱり斬新な感じになってきて、

  ガンジスの河岸に貧しき農夫らの汗混りいん我が選る綿に

とかって、すごくいいんですね。

  段階毎に利潤附加されゆく機構知らず農夫らは棉育ていん

 この辺は社会詠なんですけど、シャープな斬新な表現になってる。この辺から澤辺調なんですよ、ちょっと何かモダンな感じになってくる。

澤辺 単なる飾りやけどね。そうか、その辺の自分の作品、歌集出すときにもう一遍考えるべきやったな。

花山 高安先生の歌集で言うと何なんだろう、一九五八年頃って。

永田 『北極飛行』の前ですね。

花山 そこからの影響なんですか? それとも、全体の歌壇、歌壇というか、前衛の。

永田 でも、「塔」に前衛の雰囲気が入ってきたのもっともっと後だよね。もう六〇年安保過ぎた後ですね。清原さんなんかが塚本邦雄について論じたりなんかしてたのは。

澤辺 自分ではものすごい影響受けたと思ってるんだけど。でも、それはあくまで高安さん通じて。高安さんはここまで明らかに前衛的な表現をとらないほうがいいのになあと思ったことありますね。

花山 それから澤辺さん、当時評論もよく書いてますよね。正岡子規とか写生論についていろいろ書いてて、写生というのは正岡子規のときは全く手段として考えていたわけで、それも一つの戦略だったのだから、茂吉がそれを持ち出すに当たっては非常にアナクロニズムのところがあって、それをどうやって主張するかというんで非常に苦労した、と思うというような。それだから、もともとありのままの写生なんていうのは方法にすぎないことは茂吉もとっくにわかっていてというふうな感じのことを書いててね。だから、やっぱり写生から出なきゃならないという思いはあったのかな、澤辺さんに。

澤辺 写生というのは大事かもしれないけれども、それだけでは歌のみずみずしさみたいなものがね、先細りするんではないか。

花山 「アララギ」は、写生一辺倒ではもちろんないと思ったわけですね。

永田 さっきちょっと途中になったけど、澤辺さんの後ろに清原、坂田、それから黒住さん、あるいは今井淳二というような若い人たちが来て、その彼らに対する澤辺さんの見方というか、思いってどんな感じでしたか?

澤辺 ちょっと一歩下がってましたね。明らかにあの三人で固まってるとこがあるんだけれども、私はそこから一歩ちょっと離れてその人たちの動きを見ていたという感じで。

 やっぱり清原のあの、六〇年安保だね、六〇年安保の歌には、読んでてもその気持ちがすっと、わりかた素直に自分の内部へ入ってくると。だから、こいつはやっぱりみんなそういう才能を持った人たちなんだなあと。特に坂田の歌はみずみずしさがあって歌が生きているという。まあ極端な言い方すると、その三人の人たちを尊敬に近い気持ちで見てたんだ。でも、私と一緒ではないなあと、次の世代の人たちだなあと、そういうふうに思ってて、それはもう限りなく続いていくもんだと思ってたところへガツーンと来たということで、あのショックというのはほんまに。

永田 あの当時、もう坂田さんはいなかったけれど、黒住さんも清原さんもみんな労働者の側からの歌、それが圧倒的に強くて、澤辺さんは彼らから糾弾される側だったのと違うかな。自分でも言っておられるけれど、ブルジョアジーの歌で、僕らはやっぱり澤辺さんはブルジョアの人だと思ってたし、彼らとの間でそういう齟齬というのはなかったですか?

澤辺 ブルジョアジーという言葉、よっぽど気つけて使わないと、社会学から言うブルジョアジーというのは中産階級かな、だからそんなん、どっかでひっかかったりはしてたんやけども。

 これは個人的なことなんだけれども、坂田は、うちにその赤ん坊の布団作ってくれと言って、その赤ん坊の布団ができて、坂田に渡して、それもただというわけじゃない、ちゃんとお金もらった。歌会があって別れしなに坂田、私のその請求書どおり、これお布団のお金です言うて渡してくれた。それがたしか五条大橋の上だった。それで別れた。それから次の日。

永田 ああ、そうなんですか。そのお通夜のときには澤辺さんも当然行って、黒住さん、高安さんも来られたそうですね。高安さんは次の日行ったのかな。

 その一群があって、その次がたぶん僕とか、花山さんとか、辻井昌彦が加わった頃がもう一回「塔」の変わり目だったと思いますね。あの時代は、やっぱり六〇年のある種暗い影からようやく抜け出したとこで、特に「塔」は坂田さんのトラウマみたいのがあって、全体にまだその影を引きずっていた。河野裕子とつき合ってることを知った高安さんから、やんわりとそれに反対する手紙をもらったことがあります。坂田さんが学生で結婚して、自死したことから、僕も同じようになるんじゃないかと心配されたみたいです。

澤辺 私らもそういう目で見てた。

花山 何か変な雰囲気だったわね。永田さん自体も結構坂田さんを意識してた感じがあったような気がする。伝説として、この集団はなぜか坂田という人の影を持っているみたいな。すごく坂田さんの心理をああだ、こうだって思ってる感じがあったんですよ。

澤辺 そのとおりなんやけど、そういう雰囲気や、坂田の亡くなる前は。それが予感がまた当たりすぎる、当たってしまったからよけい。

花山 その前にずっと清原さんと坂田さん論争してて、最後のときでしょ、亡くなったの。

永田 最後に坂田さんが反論しないままで亡くなっちゃったんで、それが清原さんのトラウマにもなったんだよね。

●四十代、高安国世の死

永田 次に我々の世代はどんな感じでしたか。まあ彼らと大分違うよね。僕らのほうはもっといいかげんやったし、明るかったし。

澤辺 それだけ密接して感じないもの、こっちは、あなたら見ててもね。坂田らに対して感じた密着感がないから、まあどうぞご自由にという感じ、極端に、冷たい。

花山 四十代でしょ、澤辺さんその頃。

澤辺 とにかくガーガー、ギャーギャーやってたな。短歌は短歌として、短歌抜いても人間関係としてね、もっとやっぱり、今みたいなよりはもっと密接しているというか。

花山 学生が編集したりしてたのは、あれはもう早くからですか? 清原さんたちの頃から。

澤辺 やっぱり高安さんが自分のあんまり生活の周辺へ踏み込んで編集、「塔」の仕事が出てくるというのはちょっと嫌だというようなとこがあって、君らでやれたらやってくれと、何か言いたいことあったら言うわというような感じ。ちょっと冷たい態度やったかな。それが何となしにこっちへ伝わってくるから、じゃもう高安さんのとこでは編集はしないと、我々でずっとやろうと。

永田 僕らが入って、それから後はもうずうっと学生で回してたみたいだね。

 それでね、次のわりと大きな「塔」の転換というと、僕とか辻井さんとか、花山さんもそうだけど、東京に去ってしまって、「塔」の編集が新しくなった時かな。川添英一が編集長になった。あの当時は澤辺さんは「塔」にはあんまりタッチしてない頃ですよね。

澤辺 うん、やっぱり仕事のゴタゴタで。

永田 その後に澤辺さんが復帰して、やっぱり「塔」の最大の危機は高安さん亡くなったときでしたかね。高安さんが癌だということがわかり、もう手遅れだということは僕には最初から長男の文哉さんから知らされていたのだけれど、僕自身はアメリカ留学はキャンセルできなかった。とりあえず暫定的に田中栄さんに選歌を頼み、アメリカへ発つ前に澤辺さんと諏訪さんにお願いをして選者になってもらった。

澤辺 川添英一なんかのときだけはものすごい異分子という感じしたな。何か「塔」の編集に専念するというような時期にはちょっとなかったんじゃないかな。ばらばらになりかけてたな、そのときね。

 大体高安先生、私が聞いているだけでも、高安さん「塔」やめたい、「塔」やめると二回言うたよ。それに対して、二回とも必死になって抵抗したのは黒住や。で、私はちょっと無責任かもしれへんけど、でもこれは高安さんの雑誌なんやから、高安さんがやめたい言うてんならやめたらええやんか。ちょっとむかついたからね。例えば、ドイツへ行って帰ってきた後でもそうだ。『北極飛行』の後、「塔」をやめたいと高安さん言うてんのや。

永田 もうドイツ文学に専念したいと思うからやめたいと。そのとき澤辺さんがむかっと来たという話は聞いています。

澤辺 やっぱり黒住は、そういう意味で「塔」の功労者やで。

花山 「五十番地」と分れる前も黒住さんが待てって言って永田さんを捕まえたと聞いています。

永田 あれはもう、澤辺さんと僕らで雑誌を作ろうという話になったのにな。澤辺さんが一緒にやりましょうということになったんだね。

花山 そうすると、澤辺さんは傍観でもないけれど、わりあいクールにずっと見ていた。

澤辺 要するに、我々と高安さんとが手を握って力を合わせて「塔」というのをやっていくべきだと思うてるのに、その肝心の高安さんがやめるなんていうこと、そう易々男が口に出すいうもんと違うねん。それを田中さんが古賀さん集めて言うから、それはちょっと順序が違うやないかと。

 だから、高安さんかてそんなに本気で言うてるわけやないのね。状況が悪いから言うてるわけ。そやけど、それは何とか我々の力で頑張ってやりますから、もう一回気持ちを新たにしてくださいと我々がまた頼みに行って、高安さんがそれならばと言うて。

花山 高安先生というのは、全部そうやって人に何とかしてくれやって感じなんですか、やめるとか言って様子を見てはみんなが何とかしてくれると思ってる。

澤辺 いや、そうでもないんだけど、短歌とドイツ文学の二元論が出てくるんやないかな。

花山 これがだめならこっちがあるっていう感じで。

澤辺 そういう感じに見えるときがあった。短歌をやっている人間としてしゃべっているんじゃなしに、ちょっと別の世界の人としゃべってるというような雰囲気を漂わせてくれるところありましたね。

永田 奥さんは短歌をやってるばっかりに高安国世が日の目を見なかったという思いがすごくあったかな、ドイツ文学者として。

 それから、澤辺さんに選者にその後なっていただいて、それでそれが随分長かったですけど、どうでした? 高安さんが選者をやってた時期から田中さん一人で選者、それから三人で共選、それからまたちょっと変わっていって河野裕子が選者になった。その共選になったときに何か「塔」で変わったなあと思うようなことありました?

澤辺 もっとそれを感じてもよかったのにね。私は抵抗も何もなしにすうっとそこへ入っていったんですけどね。とにかくなるべく仕事の量が増えないようにと、何か自分のことばっかり考えてたような気する。

花山 それぞれ選者欄の人を抱えたということですよね、その感触ってありましたか。

澤辺 「塔」の中ではあるけれども、この人、この人、この人にそれぞれの個性があって、そこの欄にね。

永田 謎彦とか、行き場のない不思議な人が澤辺さんのとこに集まったよね。選者やってよかったことって何ですか。

澤辺 やっぱり選者として作品を渡されたとき、それを自分が選をするという作業というのは、今までなかったような新鮮さを与えてくれましたね。それ、何で新鮮なんかな。見る角度が、ちがっていて。選者という作業は自分にとってはものすごうありがたかったですね。

●新古今を読む会、塚本邦雄

花山 新古今の会をずっとやってましたでしょ。あれは最初いつでしたか? 古今と新古今。長かったですよね。

澤辺 何年やったろ、わからんようなってきた。ちょっとやっぱり時流に乗ったいう匂いはあるんだけどね。それ以前は何か万葉一本じゃなかったかね。

永田 塚本邦雄なんかは新古今を評価していて、新古今を再評価という時期ではあったんですね。澤辺さんが「堀川院百首歌合」とか、百首歌にすごく興味持っておられて。

花山 澤辺さんの歌の美意識というかね、新古今っぽいのかなあというふうに、その頃はちょっと思ってたんですけどね。好きなのかって。

澤辺 現代短歌と新古今の関わり合いは、何か自分の内部の深いところで絡まり合ってて、そんなに表面には、表現だとかには出さないつもりでいたんですけどね、だけど第三者から見られたらそれはどうなんだと。新古今の表現が現代短歌にそんなストレートに関わりを持つとはとても思えませんけどね。

 極端な言い方すると、万葉調に飽きてというとこもあるんですよね。万葉集開けてぱっと見てさっと出てくる歌を読むと、それがいわゆる万葉調でずっとそこに詰まっている。それがもう嫌になったという。もっと違った作品というものを日本人は古代から作り上げてきてたんだなあということを自分で確認したかった。万葉だけが和歌ではないし、それ以外にもいろいろあるはずだと。

 ただ、それが新古今以前にもそういう路線、新古今以後どんどん、どんどんいわゆる形式的な古典和歌の流れになって、作品としての評価も全然できなくなっている。「八大集」という枠はあるけれども、その中ではやっぱり新古今という歌がどこか生き生きしている。あれ、その時代のしからしめるところか、後鳥羽上皇というすばらしい元首がおったゆえか。ちょっと難しいんで解釈、参考本をいろいろ読まなければいけなかったけれども、それによって随分何か和歌というものに対する魅力を感じましたね。あれはよかったと思いますね。

花山 やっぱり、ちょっとその無常観みたいなのは、澤辺さんの歌にあると思うんです。それが何か新古今と通じ合ってるみたいな。

澤辺 どっかね、通じ合ってるところあるんでしょうね。

花山 戦争の歌ってかなりあるでしょう、澤辺さん戦争体験、それかなり影響していませんか。ちょっと無常観みたいな。二十年に「昭和二十年春」っていう連作があって。

前田 歌集『燎火』のなかにも兵隊の歌がありますね。

花山 「塔」では

  警報の鳴る暁をかまはず眠る命守らむもすでにものうく
  B二九に迫りし一機たはやすく火を噴くを見つ我が頭上にて

ずうっと防空壕の歌があって、何かすごいんですよね。

  女生徒の生理にも心配りつつ学徒隊出勤簿の集計終へぬ

こんなのもあるんです。

澤辺 忘れてたな。

花山  加熱炉の適温三千度の炎色も識別し得べくなりて久しも
  火落としし加熱炉に首入れ掻き出だす石炭殻は煙立てゐつ

とか。

  洗つても落ちぬ油の浸みし手に頁繰りゆく『ジャン・クリストフ』

 これはびっくりなんです。あとはこういう何か、

  「将校などになりたくない」と言ひいひし友も出で行く輜重兵にて
  アンティミリタリズム唱へし友が行くときに我手を強く握りし憶ふ

とか。

永田 ただね、澤辺さんは基本的には戦争体験はないのね。

澤辺 うん、そうね。

永田 だから、あんまり戦争の影ってないように思うんだけど。

澤辺 戦時詠というのはあるんやけどな、戦争というのはあんまり意識がないな。

花山 ただ、戦争中でもあんまり積極的じゃない人々がいた感じっていうのはすごく伝わるんですね。消極的で、動かなかったというか。それで、近藤芳美のことなんかも消極的に対応していたということで評価していて、結局動かない人間というのをわりとずっと評価していくっていう感じというのか。わかっていながら、でも何も声高には言わないけど持ってるみたいなところがすごくあるような感じがするんですけどね。

永田 今、花山さんが言ったのはわりと僕も近くて、澤辺さんはやっぱりどこか醒めた目でずうっと「塔」にいながら「塔」を見てたみたいなところがありますね。澤辺さんの視線はインテリゲンチャの視線だと僕は思う。みんなが高安さん一辺倒にわっと流れていくときもそれとはちょっと違う視線で見ている。澤辺さんをずっと信頼してこれまでいろんなことを澤辺さんに相談をしながら、「塔」の運営してきたつもりなんだけど、やっぱり澤辺さんそういう、ちょっと違うとこから見てる視線というのが信頼できたと思う。これは僕にとってはすごく大きかった。

澤辺 永田君は塚本邦雄のことはどう思うてる? たとえば、順序から行くと高安、塚本、どっちが先。

永田 ほとんど同時。

澤辺 いろいろ考えるんだけど、どうも同時やなあと。

永田 僕は「塔」に入ったのと同時に「幻想派」にも入って、両方から、「塔」は高安さんだし、「幻想派」は塚本さんだしという形で。

澤辺 やっぱり塚本に比べたら高安さんの前衛歌的なものは何か違う。どっか違うんのやな。何でかな。知能的な処理にしてしまってるからかな。

永田 高安さんの前衛時代の歌って好きなんですけどね、懐かしい感じがしてすごく。

澤辺 私は塚本との出会いのどっか、やっぱり雑誌か何かで読んであれっと思って惹かれたな。高安さんと比較して申し訳ないけども、何か艶が違うのね。これが本物なんだなあと感じさせる作品が数々あって、「アララギ」以前には考えることもできなかったのが、この『水葬物語』の

  革命家作詞家に寄りかかられて少しずつ液化していくピアノ

イメージばーっと迫ってくるものがあって、こういう力を持った作品というのは本当にできないもんだな。

永田 澤辺さんがそんなに塚本邦雄に惹かれてたのは初めて聞いた。新古今なんかやってたから、そういうのはあったとは思ったけど。

澤辺 そうそう、だから新古今から来て、塚本さんの書いてる本は随分、それは読みました。作品よりもそっち、文章のほうは読んだな。

花山 近藤芳美とか岡井隆とかには何か思いがあったのですか。さんざん高安先生のことをやっつけてたでしょう。

澤辺 ありましたね。でも、変な言い方、どこか兄弟意識があって、それほど質の違いというのを感じさせないのね。同質の間同士で議論したりしているという感じになってしまって。

花山 じゃ、ああいうとき「塔」の人なんかは、別にやられてても、岡井さんがすごい批判しててもどういう感じなんですか、気にしないのかな。

澤辺 私は個人的に気になったけどね。岡井さんは何であの時代にああいうふうな発言したのかな。

永田 澤辺さんは「塔」にずっとおられて、選者のことをお聞きしたんだけど、あと一番意識してきた歌人というのは誰になりますか?

澤辺 例えば、黒住嘉輝の作品だけれども、どっかで評価しながらも、傷を舐め合ってるという感じがちらっとするのよね。わりかたあの人もこの人もという流れになって、この人一人という思いに固まらないな、「塔」の場合は。

●塔に思うこと

永田 澤辺さんにとって「塔」というのはどういう存在ですか?

澤辺 何だろ。頼ってしまってるね、どっかね。生きるということ、自分が生きていく上の何か頼り甲斐のあるものとしてそこへ自分の身を寄せていると。自分でもって何かをやってるという感じじゃない。「塔」のために何かをやっているという感じじゃなしに、自分が「塔」に寄りかかってしまっている。そこである限界を感じながらも、枠からは抜け切れない。

花山 澤辺さんは仕切ったりする気が全然ないでしょう。大先輩なのにこうしようとか、「塔」にヒエラルキーを感じなかったのは澤辺さんみたいなちょっと上の人が仕切らないみたいな伝統があってね。私なんかも入ってきて、上からあんまりうるさく言われたことないっていうか、教えようとか、それからこうすべきだっていうふうな雰囲気が「塔」には全然なかったのね。その筆頭みたいな感じなの。

澤辺 ただ言えるのは、もし「塔」を自分が飛び出してよその結社へ入ろうと思って入ったりしたら、絶対違和感感じて、たちまちいられないなあと、勝手にそう思うんやけども、これだけ「塔」に身を置いた人間がよそに行っては生き延びられない。

 それで第一歌集を出版したときに塚本さん、新聞のこれくらいの小さな欄だったけれど、その歌集の評を載せてくれたんですね。それで、いわゆる作品の上ではもうちゃんと評価していてくれて、ありがたかった。ただ、ただ一言。私のことを塚本さんは何と言ったと思う。「高安門下の高足」。この「高足」なんていうのは、まるで槍の名手か何かになってしまいそうな表現だと思わないか。違和感が残ってしまい残念だった。

永田 要するに、高安門下というのはあんまりぱっとせんけど、その中で一人目立ったよという感じ。

澤辺 それでも他の道場の弟子を褒めるような褒め方を何で短歌の歌集に対して表現すべきことと全然違うのやね。それは高安先生の一番弟子という意味でその「高足」がそんな現代で使える言葉じゃなし、昔の道場の一番上のやつを指すような言葉で言うてるわけや。それね、何とも言えん。別に全体について作品云々と言われたわけではないんだけれども、「高安門下の高足」とかいうような言葉が短歌なんかで使われてる、自分の作品について使われてるというのはやっぱりちょっとこたえたな。

花山 個人的な感じじゃないのね、つまり。その集団の中の何かと言われたような感じ。集団の位置づけみたいな。

澤辺 何も短歌の作品で槍術の表現を持ってこんかていいやないか。せっかく褒めてもろたのにちょっともいい気分しなかったな。

永田 あとね、京都歌会をずーっとやってきておられるね。これは澤辺さんあっての京都歌会だと思う。もう教文センターで京都歌会やるようになって三十年はたつと思うんですよね。澤辺さんにとって歌会ってどんなもんですか?

 あるときから高安さんに代わって采配というか、最後まとめるような形になっているんだと思うんだけど、澤辺さんが。ご自分にとっての歌会っていうと、歌会はもうちょっとこういうふうにありたいというものと。

澤辺 歌会っていうのは、いわゆる浮き世の外にあって、その中でこそ自分の中の内部の何をさらけ出しても恐らく許されるであろう、その貴重な空間だと思う。自分自身が解放されている、その時間、それが歌会じゃないかなと思いますね。ほかの場所ではそれはできない。歌会の場だけでできて、ほかには見つけられないでしょうね、恐らく。

永田 京都歌会が、昔の京都の「塔」の歌会の面影を一番残してるかもわからんな。

花山 今の批評とかいうことについては何か、歌の批評で昔とやっぱり変わったなとか、そういう全体の歌の読み方というか、ありますか?

澤辺 女性に多かったんだけども、わりかたもぐもぐしてしゃべってる人が多かったのね。自分の作品の批評をするときに、きちっとまとめてその作品についての発表をするということが特に女性の場合は少なくて。今は案外そういうものなしに、すらすらと言うてくる人がわりかた多くなって、歌会の流れはいいですね。ある一人のとこで止まってしまうと何かまずい雰囲気というの出てくるから、そういうのも、特に女性はずばずばと言いますね。

花山 澤辺さんがいかにイライラしてたか何となく甦る気がする。そうやってもごもごと何にも言えなくなって押し黙った女性に対して、これ何かもどかしいみたいな、何とか言え、みたいな感じがあったんでしょ。

永田 高安さんはそうやったもんな。

花山 中身の読み方とかは昔の感じと違いますか。

澤辺 昔の発言者のほうがこの作品はかく読むべしという、そういうので自分を縛らずにわりかた最初から自由に、日常的感覚に近い形で、でも自分がわりかた納得できるまで煮詰めて発言する人が増えてきた、だんだん。このごろ男のほうがもごもごしとる。女の人がこの人はきちっと読んでくれてるんだなあという人が多いよ。

永田 昔はね、やっぱり正解っていうのがあるという意識が強くて、高安さんの読みは正解だと、正解に近い批評をしなければだめだみたいなところが、これは僕はすごく違うと思って、いろんな意見あって、批評に正解も不正解もないんだと言い続けてる。やっぱりその辺随分違いますね。高安さんの言われたことと違う評をしてたら恥ずかしいみたいなとこはすごくあって。

 「塔」で一番思い出に残っていることって何ですか?

澤辺 残念やけれども、やっぱり坂田の顔が浮かんできよる、どうしても断ち切れん。寂しいなあ。

花山 時期としてはどの時期が一番ですか?

澤辺 安保闘争があったし、坂田たちがいた。その真ん中には自分が混じっているという時代がうれしかったね。その人たちが自分の気持ちを起こさせて短歌について議論し、短歌を作っているというのは自分の目の前にあるということはものすごうありがたい、うれしい。何ていうかな、違った時間、それは思えて。

永田 やっぱり自分の青春時代に近いところですね。

澤辺 そうね、第二の青春や。もうあんな時代は来ないでしょうけどね。

永田 百数十人の時代からこれだけ大きくなってしまったけど、それはどうですか?

澤辺 それは、自分としては何にも力を「塔」のために出すことはできなくて、それが不満でずうっとやってきたという思いが、物足りん思いがまだ、自分のあり方に対する物足りなさっていうのがついて回るような。これから「塔」の歌会どういうふうにしていったらええのかな。

花山 「塔」っていうのはすごく問題がなく来たって私には思えるの。結社の。

澤辺 権力争いというのはあんまりないね。

永田 あんまり深くそれぞれの生活に踏み入らないというのが「塔」の原則だからね。

花山 私はやっぱり京都が都会で、みんなが洗練されてるような気がしてたの、澤辺さんを初めとして。シティボーイっていう表現が出て、私はそのシティボーイっていう言い方はあんまり知らないんだけど、ああ、澤辺さんてシティボーイなのかって。だから、練れている、ダサイことはしないんだっていう印象があったんですよね。みんなそうさらっとしちゃってるかなと思ってたんです。

永田 高安さんもそうだったけど、澤辺さんもそういう感じだったのが大きいね。

花山 私なんかはそういうのを「塔」だと思ってた気がする。だからやめなかったみたいな、だらだらいてもいいんだなみたいに私は思ってたし、何も強制されないっていうふうに。

澤辺 そんなに洗練されてる集団とも思えんけどな。

永田 澤辺さん、それはほかを知らないからよ。

前田 でも、何となく高安さんの風貌にも澤辺さん似てきてる、感じが、お顔が。

永田 顔が高安さんに似てるって。

澤辺 やだよ。(笑)

前田 ではこの辺で、ありがとうございました。

         (二〇一二・九・三〇)

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