青蟬通信

動詞の変更 / 吉川 宏志

2019年5月号

 中西進氏の『万葉の秀歌』を久しぶりに開いてみた。「令和」の由来となった「梅花の歌三十二首」(巻第五)のところでは、大伴旅人の次の歌などが引かれている。
  わが園(その)に梅の花散るひさかたの天(あめ)より雪の流れ来るかも
 ちなみに「令月、気淑(うるは)しく風和(やは)らぐ」を含む序文については、「中国の王義之(おうぎし)の名篇「蘭亭序(らんていのじょ)」を真似たものであり」と書かれている。政府が〈初めての国書由来の元号〉と強調するのは、適切とは言えない。
 さて中西氏は、旅人の歌の「雪」は梅の花の比喩であると述べたあと、こう書いている。
「雪は「散る」「降る」「積る」がふつうだから、「流る」というのは、たいへん斬新な表現だった。古代人の考えでは、水は流れるが、雪、まして梅の落花は「流れ」ない。」
 中西氏は、「花が笑う」のような表現は、中国の漢詩が得意とするもので、そこからの影響を暗示している。そして、「そこには表現の問題を越えて、感受性の変更すらあっただろう」と付け加えている。
 つまり、単なる言葉のおもしろさだけではなく、表現を変えることによって、世界の見え方が変わってくるのだ、ということを中西氏は語っているのだと思う。
 動詞を通常とは違う使い方をすることにより、新鮮な空間がひらかれる、というのは、詩歌の本質につながる現象なのではないかと、私は以前から考えてきた。たとえば藤原定家もそのような表現方法をしばしば用いている。
  霜まよふ空にしをれしかりがねの帰るつばさに春雨ぞ降る
 霜が迷っている空、という表現もおもしろいのだが、翼が萎(しを)れる、という動詞の使い方にさらに驚かされる。「萎れる」は普通、花が萎れる、というふうに使う。翼という主語に付くことによって、翼と花が二重写しになるような美しい幻影が生まれてくるのだ。あるいはこんな一首。
  夜昼に人はこのごろ訪ねきて夏に知られぬ宿の真清水(ましみず)
 暑いので、人々は宿にある井戸水を飲みにくるのである。その水が冷たいのは、夏に知られていないからだ、と定家は発想する。つまり、夏に知られてしまったら、その水はぬるくなってしまうだろう、というのである。一種の擬人化だが、すごくおもしろい捉え方だ。
 主語と述語は、私たちの認識の根幹と言えよう。無意識に、その〈型〉に合わせて、世界を見ている。たとえば「春が去る」と言っても、実際に遠ざかる姿が見えるわけではない。けれども、なんとなく「去る」ものだと思い込んでいる。だから、それを変更するような表現に出遭ったとき、大げさに言えば、世界がぐらつくような衝撃をおぼえるのだ。
 よく「擬人法は短歌に使うな」と言われる。しかし、成功している擬人法もいくつもあるのである。おもしろくない擬人化とは、「落ち葉が踊る」のように陳腐になった言い方を指す。主語―述語の決まりきった関係を変更するような表現は、むしろ詩歌の可能性をひらいてゆく。
 動詞の変更は伝統の一つなのであり、現代短歌にも継承されている。
  月光の訛(なま)りて降るとわれいへど誰も誰も信じてくれぬ
                           伊藤一彦『青の風土記』
 それぞれの土地によって、月光の色合いや手触りも変わるように感じられる。それを〈月光が訛る〉と表現したのがとても印象的だ。「誰も誰も信じてくれぬ」と歌っているが、きっと分かってくれる人はいるだろう、という信頼感が潜んでいるはずだ。
  月光が匂ふと言へばわかる人鞄をさげてどこまで行きし
                              河野裕子『母系』
という歌も思い出される。
  墓石と竹藪照らししづかなり月を離れし月の光は
                            伊藤一彦『月の夜声』
という歌もある。これも、〈月の光が月を離れて、地球にやって来ている〉という見方が新鮮で美しい。伊藤は、「月が光る」のような一般的な言葉のあり方を、つねに疑っていると言えるだろう。規範から離れて、もっと自由な言葉遣いをしてみたい、という願いもこめられているのである。

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