八角堂便り

観覧車の歌 / 江戸 雪

2019年3月号

 観覧車は乗ればすぐさま非日常の空間へ行けるし、大きさや形や空をずれていく動きそのものが独特の存在感を持つ。
  観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日(ひ)我には一生(ひとよ)
                               栗木京子
 
 この歌のなかに回り続ける観覧車の眩しさはいつ読んでも胸が高鳴る。ただ、その象徴するものは街や価値観の移りかわりによってやはり変化してきた。
  ゆるみたる目のなかの川見ゆるとき観覧車から剝がれゆく錆
                               内山晶太
  どんなにか疲れただろうたましいを支えつづけてその観覧車
                               井上法子
  この街で最も赤いものとして夜空に回りゐる観覧車
                           田口綾子
 
 昭和の時代には遊園地にあった観覧車もショッピングモールに置かれたりして街なかでも目にするようになった。この三首は栗木の歌のようにはなやかな場面ではなく、どちらかというと日常の暗部の投影としての観覧車が詠われている。
 内山晶太の歌は一緒にいる誰かの目を見ているのだろうか。そこには共に見ている観覧車が映っている。眸、そこに映る観覧車の美しさを見ながらも錆を感じとってしまう心をおもう。井上法子の歌は心の暗がりを直截につぶやく四句目までは疲れた気持ちを観覧車へ託しているようにも読めるが、結句で「その観覧車」とくると「その」が気になり、立ち止まる。これは自分が見ているのではなく、誰かが見ている観覧車だったのだ。田口綾子の観覧車はひたすら眩しく赤く夜に埋め込まれるような存在だ。夜になるとその存在感も格別になる。この観覧車をどう受けとめるかは、読む者の心が影響するだろう。そういう意味では怖い歌だ。
  窓の外には観覧車まわってもまわってもまた来るのがおれだ
                              虫武一俊
  僕たちに次回予告はあるのかな観覧車ただ傾いてゆく
                           西村 曜 
  観覧車の向こうの夕焼けみつめいる君の髪を吹く七月の風
                             小島なお
 
 これらの歌は風景としての観覧車。その存在を契機として自己あるいは恋人の存在を確認している。
  心底と言うとき急に深くなるこころに沈めたし観覧車
                           大森静佳
 
 この観覧車は先の内山の歌にすこし通じるところがある。心の大きさや深さの相対的な存在として観覧車を提示。それと同時に、観覧車を沈めるという怒りにも似た想念にひたすら圧倒される。
  心臓に孤独を灯す人と乗るエミール・ガレの大観覧車
                           五十子尚夏 
  セブンイレブンのお箸ばっかり増えていく合間合間で乗る観覧車
                                水沼朔太郎
 
 ガラス細工の大観覧車。コンビニ弁当を食べる毎日に時々乗ったりする観覧車。ともに二十代半ばの作者の歌。これらの観覧車は心や存在を投影するという存在からは遠く、どこか、自らの枯渇に喘いでいる視線だけを感じる。

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