短歌時評

柄のない刃物 / 濱松 哲朗

2019年3月号

 角川「短歌年鑑」二〇一九年版収録の座談会「生きづらさと短歌」(参加者は島田修三、川野里子、大松達知、川野芽生、阿波野巧也の五名)を読みながら、これはもう、どこからどう突っ込んだら良いのか分からない、というほどに複雑な苛立ちを覚えた。
 まず、角川「短歌」編集部による企画が手ぬるい。「近代短歌から現在に至る百年くらいのスパンで、様々な生きづらさを詠った歌を見ていこう」(島田修三)という意図の下で各参加者へ課された十首選は「二〇一〇年以前」と「二〇一一年以降」の区分で五首ずつ選ぶ、というものだった。編集部の意図を「東日本大震災以前・以後という時代感に即したもの」だと島田修三は見ているが、この区分は果たして本当に必要なものだったのか、あるいは有効なものなのか。座談会中でも阿波野巧也から「この区分で選をすると一番手薄になりそうなのが九〇年代、ゼロ年代」、「というか、ここに集まっている人たちって、いわゆるインテリ層なわけですよね。そういう人たちが集まって、生きづらさがどうのとか、今こういう人が貧困で苦しんでいるとか言うこと自体が、上から目線の問題設定になってい」ると苦言が呈されたが、そもそも、適切な区分として震災を利用している・・・・・・・・・・・・・・・・・時点で充分に「上から目線」だ。確かに震災は時代の一つの転機になったが、この区分では現代の生きづらさとして震災以降に顕在化した生きづらさのみを扱うことに繋がりかねない。現代の生きづらさには「これまでの社会にはなかった生きづらさ」と「これまでも存在したけれど可視化されなかった生きづらさ」があると川野芽生は分析する。可視化されなかっただけで過去にも存在していた生きづらさに対し、震災以前だから、と言って知らん顔を決め込む態度は愚か以外の何物でもない。そんな愚かさの誘発に、編集部の「上から目線」の問題設定が一役買っていることを、果たして編集部は自覚しているのだろうか。
 更に、生きづらさとはどういう心理状態であるのか、という本質的な分析や把握が殆ど表立って語られていないのも、どうも物足りない。筆者であれば、生きづらさとは、ある事態やそれに伴う感情を自分自身と切り離して考えることができず、内的外的を問わず何らかの要因によって自己を自己として保持することが阻まれている状態のことを差すと定義するが、これらの心理的側面に対する想像的アプローチがあまりにも少なすぎた。川野里子が啄木の歌を「時代の空気感」や「いろいろな青年の心」を「代弁するような装置」になっていたと述べて、生きづらさの原因の事実性・・・ばかりを問う読み方に疑問を投げかけていたのが殆ど唯一の例外だった。
 「表面化していないことを読み取るのは無理というか、無理に読みにいってもしようがない」と述べる阿波野巧也と、「この生きづらさをまず伝えるところから始めなくてはいけない」、「戦争とか貧困の生きづらさは、ある程度テクスト外にあるものでも共有できたという気もします」と述べる川野芽生の意見は、他者との事実の共有という点で一見相反するようだが、自己を侵食されずに他者をあくまで他なるものと見なす行為そのものに、そもそも「上から目線」の気配が潜んでいないだろうか。途中、犯罪者の例を挙げさせた島田修三の意図は、共感してはならないが批判的に共有・・・・・・・・・・・・・・・・されるべき他者・・・・・・・の生きづらさを取り上げることにあったのではないか。他者への想像力は時に自己の保持や確保をも脅かすが、それ程に突き詰めなければ、他者は単に消費の対象に貶められてしまう。柄の無い刃物だからこそ、人は生きづらいのではないか。都合のいい他者になど、誰がなるものか。

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