短歌時評

記録と歴史のはざまで / 濱松 哲朗

2019年2月号

 十一月号で何の気なしに「例示から演繹・・する」と書いたが、個別の事例から導き出すのならばそれは帰納・・ではないかと、数ヶ月してからはたと気づいた。辞書で「演繹」を見ると「一つの事柄から他の事柄へ推しひろめて述べること」(デジタル大辞泉)とあり、間違いではないようだが、ちょうど大西民子の「帰納して得む答へなど信ぜねど貝殻は光る夜の渚に」(『不文の掟』)という歌を目にしたところだったので、ひやっとした。
 大西民子と、昨年亡くなった北沢郁子について、瀬戸夏子が「現代短歌」十二月号の連載で書いている。前衛短歌を担った男性歌人やその周囲に関しては「ゴシップまで含めて短歌史に登録済」であるのに、同時代の合同歌集『彩』(一九六五年)の五人(大西、北沢の他は山中智恵子、馬場あき子、尾崎左永子)の「関係の彩・・・・」に関しては、資料や証言を辿ることが難しい。「「あなたがたくさん調べて女性の歴史を書けばいい」と、皮肉で、あるいはむしろ善意で、わたしに助言をする男性(たち)があらわれて、その発言じたいは、ほんの少し正しいけれど、その発言じたいの思いあがりに、怒りで頭に血がのぼるというよりも、むしろ、絶望でからだが凍りつく」という瀬戸の言葉には、調べてやっと分かる状態へ追いやった・・・・・のは同時代を生きたあな・・たたち・・・でしょう、という思いが滲んでいる。
 一方、砂子屋書房HPの連載(十二月六日更新分)で阿木津英は、「短歌往来」十二月号の睦月都の評論を引きつつ、「歌壇通念としてなんとなく是認されている共通理解」や「雰囲気」を「正史」と名指し批判しようとする若い世代の姿勢に対して、「男性側が要求をのんで数人を「正史」に入れてくれることがあれば、女性たちはおさまるのだろうか。もし、そうだとすれば、中心を形成して誰かを排除しようとする中心志向の構造をたんに追認是認、強化するだけのことではないか」と警告する。「「正史」の罠にはまるな。歴史は上書きせよ」、「女性歌人たちを歴史に残したいなら、きちんと対象として捕捉せよ」という阿木津の言葉は重い。だが、瀬戸や睦月といった若い世代からの声とは、重なりつつもどこかですれ違っているように見える。
 その原因は恐らく、記録(archives)と歴史(histoire)に対する認識の違いにある。フランス語ではhistoire という語は「歴史」と「物語」の両方の意味を含む。「見る角度が違えば、異なる史観がありうる」のが歴史であり、だからこそ阿木津は「正史」化を「政治的権力」による「捏造」であると批判する。他方、瀬戸の批判には、歴史を書く手前での記録へのアクセシビリティそのものが、歴史上・・・ある力の下・・・・・操作され続けてきたのではないかという視点が含まれている。例えば、総合誌での活躍具合やアンソロジーへの収録、文庫版あるいは全歌集の有無といった商業的・経済的要因(図書館の配本の有無も経済的な事柄である)によって認識可能な範囲が狭まってしまう現象は、若い世代に限らず起こり得る。筆者はだから、篠弘や小高賢、或いは穂村弘や枡野浩一の影響力や、「現代歌人文庫」(国文社)や「現代短歌文庫」(砂子屋書房)や「セレクション歌人」(邑書林)といった廉価版の功罪を思わずにはいられないし、『短歌タイムカプセル』や「ねむらない樹」が今後、多様化ではなく画一化の方へ誤った舵を切らないことを願わずにはいられない。
 歴史に仮構(fiction)や作話(fabulation)といった側面を見出すことができるのは、記録に対する何らかの価値判断がそこに含まれているからだ。それにしても、記録そのものを如何に守り抜くかという絶望的な状況はどこの世界も同じようで、呆れるしかない。

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