短歌時評

カスタマイズされる「作者」 / 濱松 哲朗

2019年1月号

 無記名状態の新人賞の選考会では、作品から読み取れる作者像について選考委員があれこれ発言することがよくある。このたびの第六十四回角川短歌賞選考座談会(「短歌」十一月号)でも、受賞作である山川築「オン・ザ・ロード」に対して「要するに、作者の正体が不明」(小池光)「でもどういう作者だろう。若くはないな」(伊藤一彦)「たぶん、五十代」(東直子)といった発言が並ぶ。嘱目詠のみで五十首を構成し、一首ごとのディテールを読ませる山川の堅実な作風がそう思わせたのだろう。次席のうちの一篇である平井俊「蝶の標本」についても東直子が「今の若い人は比喩表現が巧いので、この単語でこういう歌は他にもあったなと、既視感を覚えるところもあった」、「ライト・ヴァースっぽい。私が始めた頃に出合った感じ」と評しており、これについては筆者も以前、平井の別の作品(「現代短歌」十月号掲載の「花のかがやき」)に触れた際に同様のことを感じていたため、思わず納得してしまった。
 ただ、納得してしまって良いわけでは必ずしもないと、我ながら反省しつつ思う。無論、作品から作者像を読み解くことそれ自体が悪いとは筆者も言わない。だが、作者の年齢と作風の関係は必ずしもイコールにはならないし、ある特定の作品傾向が時代の文脈で語られる際に帯びる進化論的歴史認識については、やはり疑問を投げかけておきたい。――しかし、今ここで確認したいのはそこではない・・・・。これまで何となく・・・・共有されてしまっていた作者の年齢と作風または時代性とを紐づける感覚や、その感覚を裏づけてきた時代認識的蓄積が、これまでのようにはうまく機能しなくなっているのは、新人賞における「新しさ」の質が変わってきているからなのではないか。作者と作風、作者と時代性の関係が、従来認識されていた枠組みでは捉え切れなくなっている、この多様化の正体は何なのか。
 少し前の記事だが、「短歌研究」六月号における坂井修一と斉藤斎藤の対談は、こうした多様化についてかなり突っ込んだ言及をしていて興味深い。「二〇一〇年代以降といってよいかな、若い人の短歌を読んでいると、ある部分は塚本的だったり、ある部分は一人称的だったりみたいな、コラージュ的と感じることがある」、「主体的なものではなく、場の影響を受けすぎて、結果的にコラージュっぽくなっているように見える」といった斉藤斎藤の発言には、IT化の加速によって作者の側が「一人の人間の全体像を考えること」をクラウドやプラットフォームに委ねてしまい、「言葉を楽しむだけ」になっているのではないかという問いが含まれていた。
 情報そのものの価値よりも、情報の中から何を選び、何を読み取るかというリテラシーに比重が置かれる現在、近代短歌もライト・ヴァースもニューウェーブも、等しく過去の蓄積として消費され、作品傾向や文体それ自体が書き手それぞれの中でカスタマイズされるようになってきているのではないか。もう一篇の次席作品で、永田和宏が「ストーリーテリング」と評した山階基「コーポみさき」についても、ブロッキ・・・・ ング・・アンインストール・・・・・・・・によって何らかの型がカスタマイズされていると筆者は感じた。作者像の当てが外れやすくなっているのは、新人たちが型に嵌まっていないからではなく、最初から自分の嵌まる型をカスタマイズした上で創作に取り組んでいるからではないだろうか(ちなみに、山川も平井も山階も、二十代後半の作者である)。
 だが筆者には、型の消費やカスタマイズといった行為が、型そのものを作り出す能力を下請け化し、軽んじることに繋がるのではないかという疑念もある。注視していきたい。

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