青蟬通信

双石山 / 吉川 宏志

2018年12月号

 この欄で個人的なことを書いていいのかどうか迷うのだが、今はこれしか書けない。
 母が秋に死んだ。
 ほぼ一年前に、膵臓癌であることが分かった。もう手遅れで、延命治療しかできないと医師に言われた。去年の早春に、私が若山牧水賞を取って、母が大喜びしていたころ、癌の小さな芽ができていたのだった。それを思うととてもつらくなる。しばらく入院していたが、自宅で最後を迎えたいと母は望んだ。
 宮崎は遠くて、京都からはなかなか帰れない。ただ、盆に帰省したときは結構元気そうで、まだまだ大丈夫かなと思ったりした。
 どうも容態が悪いという知らせが入ったのは九月である。連休も含めて、会社を十日ほど休むことにした。三十年くらい母と離れて過ごしてきた。ちょっと無理をしたが、最後くらいは一緒にいたかった。
 一日に何度も、看護師さんやヘルパーさんなどが訪問してくれるので、昼間はまあ安心である。怖いのは夜だ。家族が眠っている間に亡くなっていた、という話を何度か聞いたことがある。なるべくベッドのそばで起きているようにした。
 医療用麻薬を使っているので、あまりつらい痛みはないようだった。ただ、尿が出ないのが嫌だと何度も訴えた。一人の看護師さんが、そんなに尿は溜まっていませんよ、と言うので、錯覚だろうと思っていた。しかし、あまり苦しむので、別の看護師さんに処置してもらったら、牛乳パック一本くらいの尿が出た。苦しいはずである。
 人の話をよく聞くこと。そしてよく観察すること。それが最も大切なのだとあらためて学んだ気がした。
 意識が朦朧としているせいか、不思議な言葉を母が言うようになった。その言葉を、なるべく書き留めるようにした。印象に残っているのが、「アビカンス、アビカンス」と譫言のように言い出したこと。初めは呪文のように聞いていたのだが、試しにスマホで検索してみると、「石蓮花」とも呼ばれる観葉植物なのだった。バラのような形の、石のように固い葉。そういえば、玄関前に灰色に生えていた。夢の世界で、母は何を見ていたのだろう。
 私が帰省してから五日目の夜、下顎呼吸と呼ばれる息になった。この息が始まると死が近い、と知っていた。だが、多忙な生活を送っている妹がまだ帰ってこない。明日の昼には何とか帰れると連絡が入った。
 母に「恭子が帰ってくるまで、がんばろうよ」と言うと、苦しい息をしながら、「花が死ぬようにはいかないんです」と言った。確かに言った。なぜ、そんな言葉が出てきたのか、今でも分からない。ただ、母が残した最も美しい詩であるように思う。
 そこからの母のがんばりは凄くて、ゼッゼッという息を、妹が帰ってきてからも一日あまり続けたのである。マラソンの息のようだった。母は若いころ足が速かったという。母は少女に戻って、ずっと走り続けていたのではないか。臨終が近いと夜中に呼ばれた親戚の人たちがくたびれて倒れてしまっても、母は走り続けた。そして夜が明けるころ、息をすることを忘れたように、ふっと母は死んだ。だらんと開いた口の中に、急に黄色い痰が湧き出てきた。目の前で人が死ぬのは、私には初めての体験だった。
 母は晩年になって、短歌を作りはじめた。介護施設の中に、短歌を作るグループがあり、短い間だがかなり熱心に勉強したようである。死の少し前に、そこで作った冊子が届けられた。こんな一首がある。
  夏空に双石山(ぼろいしやま)と病むわたし同じ高さに横たわりおり
 双石山は、石がもろくてぼろぼろと崩れるから、この名があるという。海に浮かんだ鯨のような、ちょっとおもしろい形の山である。母が入院していた癌センターの八階の窓からよく見えていた。
 通夜のとき伊藤一彦さんが来られて、この歌を褒めてくださった。
 「人の魂は死んだ後に、山に行くと昔から言われているね。大津皇子の歌もそう。お母さんの魂は双石山に行ったんじゃないかな。僕はそう思っている。」
 人の言葉の温かさに涙がこぼれた。

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