短歌時評

丹念に丁寧に適切に / 濱松 哲朗

2018年11月号

 九月号の時評について、いくつかの反応を頂いたので少々補足したい。筆者としては、穂村弘による「基本的歌権」という小技の利いた・・・・・・認識も、斉藤斎藤による「作者主義/読者主義」という明解な・・・二分法も、実際の諸々を精査した上で述べられたわけではない、ある種の印象批評であると認識している。そもそも「若い作者」や「若い人」というカテゴライズ自体、具体的な実体の見えてこない極めて雑な認識だ。佐々木朔や服部真里子の名前は挙がっていたが、それだけで「若い人」を代表できるのか。例示から演繹するばかりが論証ではないが、これらの仮説・・は、汎用性が高そうに・・・・・・・・見えるからこそ・・・・・・・、丹念に丁寧に適切に批評される必要があるように思う。
 それにしても、丹念に丁寧に適切に、と三拍子揃った形の批評というものがなかなか見られないのもまた事実だ。一論者として、筆者もまた己の不足を恥じる次第だが、それはそれとして、読みながら何度も頭を抱えざるを得ない本が出た。田中教子『覚醒の暗指』(ながらみ書房、二〇一八年六月)である。
 「近年、若い作者が増えたことは好ましいが、彼らの作品に対しての過剰な称賛に不信を抱くことがある」と「あとがき」に記しているように、田中は漠然と抱いていた現代短歌への不信を、「短歌往来」で連載した評論月評をもとに構成した第I章で、丹念に記している。月評担当時に読んだ作品を採り上げては、「これらを芸術として理解し称賛し持ち上げようというのは、逆にどうかしているように思える」、「あまりにも独りよがりな世界に陥った短歌は鑑賞に値しない」、「今日の若手の多くに「詩」がない。作風はみな似通い、現実を離れ刹那的にその時々で異なる「私」を演じている」と、歯に衣着せぬ物言いが続く。その他、同じ〈私性〉の語を用いていても論者によって意味が異なっていることを指摘する等、丁寧に読んでいるからこそ気づく差異への指摘は鮮やかだ。
 だが、丹念で丁寧であるからこそ、年間通して総合誌の作品を読んでいながら、評者である田中本人の理論的支柱が全く揺らがない点に、違和感を通り越して恐怖すら覚える。要は既に評価の確定した古典や近代を盾にして自分を現在の場に晒そうとしない、同一の主張の安易な繰り返しに見えるのだ。万葉集や茂吉を根拠として現代の「若い作者」に疑問を投げかけること自体は問題ではない(批判とは歴史へのアクセスとなり得るものだから)。問題は、後半の評論部分で活かされる時代ごとの変化に対する丁寧な視座が、現代を批評する際には殆ど働いていない点である。著者は果たして、現代の作家の作品と同じ地平で向き合ったのだろうか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 。「あいにく筆者は、どのような歌でも良きように読むのを、よき批評の姿勢であるとは思わない。短歌の表現には古より今に通じる不変的な要素があると考えている」と田中は言う。だが、不変的な批評(「普遍・・」ではない辺りも怖い)のカードほど危険なものは無い。
 「読みが更新されない、あるいは「新しい」歌に対応するはずの読みが共有されない、ということを(…)現在の短歌をめぐる状況において大きな問題だと感じている」と染野太朗は書く(「短歌往来」十月号)。染野の言葉を援用しつつ、筆者は田中において、平成三十年間の短歌における変化・・蓄積・・とは何だったのかと問いたい。そして「古より今に通じる不変的な要素」が現代において見出せなくなった(と田中が感じる)変化の理由・・・・・現状の背景にまで視野を広げた考察・・・・・・・・・・・・・・・・を求めたい。それをせずに「不変」を振り回しているようでは、単なる個人的な拒絶でしかない。批評として、不適切にも程がある。

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