青蟬通信

中心となる語句を消す / 吉川 宏志

2018年10月号

 一首の中で中心となるはずの語句が消されている歌がしばしばあって、記憶に残っている作が少なくない。講演などでよく引用するのだが、
  飾らるることも知らずに笑いたる母そののちは五年とわずか
                            小高賢『眼中のひと』
は、何を詠んでいるのだろうか。少し考えれば、母の遺影を歌っていることが分かる。「五年とわずか」で、母が亡くなったことが伝わるし、「飾らるる」とあるので、仏壇に置かれているのだろうと想像できる。
 「写真」などの語句を使わずに、それが分かるように歌っているところが印象深いのである。逆に、「写真」「遺影」とストレートに言うと、歌の味わいは消えてしまう。書かれていないものが目に浮かぶ、というところに、〈不在の在〉というべき彩いろどりが生まれてくる。
  ひとひらのレモンをきみは とおい昼の花火のようにまわしていたが
                         永田和宏『メビウスの地平』
 この歌もよく紹介するのだが、私が短歌を始めたころに読み、何を言っているのかさっぱり分からなかった。一年後くらいに喫茶店に入って、アイスレモンティーを飲む人を見たとき、歌の意味がパッとひらめいて、衝撃を受けたことを思い出すのである。短歌は、その場では意味が分からなくても、何年か経って理解できることもあるのだと、そのとき認識したのだった。
 最近詠んだ歌集から挙げてみたい。
  二本足三本となりその一本玄関の傘置きにたてかけておく
                              岩田正『柿生坂』
 これは分かりやすい歌だろう。スフィンクスが「初めは四本足で、二本足になり、三本足になるものは何か」という謎々を出して、解けない旅人を食い殺していたという伝説を踏まえる。つまり杖を詠んでいる歌で、「傘置きにたてかけておく」という老いの現場の具体性が効いている。
  ひとつとしておなじかたちはないという結晶たちにおそわれる夜
                          穂村弘『水中翼船炎上中』
 ちょっと謎めいているが、おそらく雪を歌っている。雪の結晶は、みな違う形をしている、という話を私も聞いたことがある。吹雪の夜なのだろうが、「結晶たちにおそわれる」と表現すると、ホラー映画みたいで、異次元の世界のように感じられるところがおもしろい。
  ゾシマ腐り牧水腐らざりしかどそこにいかなる教訓もなし
                             石川美南『架空線』
 読み解くには知識が必要な歌だが、はっとさせられた。ゾシマ長老はドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の登場人物。皆から尊敬され、亡くなったときは聖人のように扱われるのだが、遺体は強い腐臭を放ち、人々が幻滅するというエピソードが書かれている(第三部)。
 若山牧水は、酒の飲み過ぎでアルコールが溜まり、遺体が腐らなかったという話がある。それを並列することで、死に対して意味を持たせようとする行為の虚しさを描き出している。遺体には精神性など何もない。この歌に書かれていないのは「遺体」という一語である。
  やはらかき土凍らせて汚れたる水を漏らさぬやうにするとふ
                            本田一弘『あらがね』
 福島第一原発の事故後、地下水が流入して、汚染水が大量に生じることがわかった。そのため、周囲の土を冷却して「凍土壁」をつくることで、水を防ごうとしている。ただ、非常にコストがかかり、効果にも疑問があると言われる。
 本田はニュースでよく使われる「凍土壁」や「汚染水」といった語句を使わず、やわらかな調子で歌うことによって、静かな批判を示している。結句の「とふ」に、どうすることもできない無力感が漂う。
 特に社会詠の場合、最も言いたい語句は、新聞の見出しなどに用いられているケースが多い(たとえば「公文書改竄」とか)。しかし、その言葉を使わないで歌えないか、と考えることも大切である。誰もが知っている語句、通じやすい語句に安易に頼ると、そこで自分の思考は止まってしまうのである。

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