青蟬通信

澤辺元一と「民」 / 吉川 宏志

2018年9月号

 私が塔の編集作業に初めて参加したのは、一九八七年の秋だった。月一回の日曜、大阪の古賀泰子さんの家に集まり、私たち若者は小部屋で原稿整理をして、選者は応接室で企画会議を行うという体制だった。
 作業が終わると夕食会になる。古賀さんは料理がとても得意で、フランス料理のテリーヌも食べた記憶がある。ヴィシソワーズも出た。私は田舎者なので、初めて食べて美味しさに驚いた。「じゃが芋を何個もすりおろすんですよ」と古賀さんがすました声で解説する。
 そんなときに茶々を入れるのが澤辺さんで、前田康子の証言によると、おでんが出たとき、「はんぺんが多いなあ、またはんぺんや」と言って、古賀さんに叱られていたそうだ。
 澤辺さんの毒舌は有名だった。私もずいぶんからかわれたのだが、具体的な言葉はあまり覚えていない。一つだけ記憶しているのは、先輩に大山令彦(はるひこ)さんというロシア文学が専門の美青年の会員がいたのだが、「大山君は貴族で、吉川君は平民やな」と言われた。澤辺さんの毒舌は後に残らないものが多いのだが、このときは内心傷ついたようである。
 翌年の秋、昭和天皇の病状が悪化し、自粛ムードが広がっていく。天皇と戦争の関係が大きな話題になっていた時期であった。塔の食事会でも、黒住嘉輝さんが最も激しく天皇制を批判し、澤辺さんがややシニカルにいなしていた姿を思い出す。
 一九八八年の塔十二月号に「私の十二月八日」という特集が組まれていて、澤辺さんも小文を載せている。太平洋戦争が始まった日の午後、地理の若い先生が、授業でこう述べたそうである。
「日本とアメリカの間には太平洋があるけれど、この二つの国はお互いに手を組んで進まなくてはいけない国なのです。今日、日米は開戦したが、これはお互いにとりかえしのつかない不幸です。」
 同志社中学に在学中の体験だろうが、軍国主義の時代に、こんな冷静な発言ができた教師が存在したことに驚かされる。敗戦後、この先生の言葉は、若い澤辺さんの中で輝きを増していったはずである。
 皆が一つの方向に突き進もうとしているとき、ちょっと皮肉を言って、ずらそうとする。それが澤辺さんの生き方のスタイルだった。
  モノクロのフイルムに血は黒かりき献血車「昭和」とどまる木陰
                           塔一九八八年十一月号 
 当時の京都歌会で、論議になった一首。下の句は難解だが、「昭和」という時代とは、若者に血を捧げさせる献血車のようなものだったのではないか、という思いがあるのだろう。昭和が終わる感動を詠んだ歌が沢山作られた中で、この一首には不気味な独特の手ざわりがあった。
  その声に促され戦場に発ちし民 還り来し民還らざりし民
という歌もある。「その声」とはむろん、昭和天皇の開戦の詔勅であろう。澤辺さん自身の戦争経験というよりも、社会のシステムの恐ろしさを短歌で捉えようとしている感がある。
 澤辺さんは、塔一九八九年六月号で、昭和恐慌のころの短歌について論じている。企業経営が専門だった澤辺さんらしく、昭和五年の「金(きん)解禁」の政策ミスを詳しく解説し、厳しく批判する。また、「経済」という言葉はもともと「経国済民」に由来することを指摘し、
「この国ではどうやら「済民」(民をすくう)の思想の方が脱落してしまったようだ。」
と述べている。これは現在にも通じる重い言葉だろう。そして、
「短歌はこの地すべりにも似た社会の構造の変化をマクロ的に捕えるのには不向きな表現手段かもしれない。」
とも書く。しかし、この言葉の背後には、それでも社会の構造を大きな視点から歌うことも大切なのではないか、という澤辺さんの思想が隠されていたに違いない。
 「平民」などと口走りつつも、「民」が安らかに生きられる社会システムを希求するところが澤辺さんにはあった。それが、人嫌いな面を覗かせつつも、人間が好きだった澤辺さんの性格を思い出させるのである。

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