青蟬通信

〈存在〉の本質 / 吉川 宏志

2018年7月号

 志垣澄幸氏の歌集『黄金の蕨』が最近刊行された。志垣氏は、私が高校生のころの国語の先生である。大学に入って短歌を始めたころ、歌集をいただいて、よく読んだ。志垣氏の歌は、物を丁寧に見て、独自の〈発見〉をしていく作風である。私の短歌も、その影響を非常に強く受けたように思う。
  水の芯左岸に寄りてゐる川を見おろし見おろし橋わたり終ふ
 川の水は必ずしも中央を流れているのではなく、どちらかの岸に偏っていることがしばしばある。上の句はそれを、じつに簡明に表現していて、「なるほど」と思わせられる。風景を見ていたつもりでも、今までは漠然と見ていたことに気づかされるのである。
 推理小説もそうなのだが、知らず知らずに思い込んでいたことが最後に覆されると、私たちはなぜか快感を覚える。世界はさまざまな見方で捉えられること、多様な視線がありうることに、私たちは深い喜びをいだくのだ。世界の奥行きや豊かさを実感できるからかもしれない。
  漁船つなぐ太きロープに数枚の乾ける魚の鱗つきをり
 これも、はっとさせられる歌である。漁船をつなぐロープは、海に行けば簡単に見ることができるものだ。けれども、魚の鱗が付着していることには普通気づかない。だが、カメラでクローズアップするように歌うことで、海とともに暮らす人々の存在感も、おのずから浮かび上がってくる。細部を捉えることで、風土の歴史性が見えてくるのである。
  先刻まで魚影のみえてゐし水面昏れて波止の灯ともりはじめつ
 夕暮れの海である。明るい間は、海水が透けていて、魚の姿も時折見えていたのだが、暗くなってくると消えてしまい、やがて港の灯が映るようになる。じつに微妙な光の変化である。それが、読者を海辺に連れていくような臨場感を生み出している。その場にいるような印象を与えられると、読者はさらに深く、さまざまなことを想いはじめるようになる。リアルに歌うということは、作者と読者のあいだに共通な感覚をひらくことにつながっている。
  海上の機雷を避けむとせしといふ大きく揺れてみな転がれり
 志垣氏は子どものころ、台湾から敗戦後の日本に引き揚げてきた。下の句の「みな転がれり」によって、暗い船底に押し込められていた人々が、床をのたうち回る様子が目に浮かぶ。七十年以上前の情景なのに、そのときの不安と恐怖は、志垣氏の心に刻み込まれたのだ。
  冷凍の鮪叩けば遠き日に娘(こ)の奏でゐし木琴の音
 記憶の歌でも、この一首にはユニークな味わいがある。現在の風景を見ながら、過去の時間を思い出すのは、人間の認識ではよくあることだ。今見ているものに、別のものを重ねる。写真でいえば、二重写しの技法だが、それを短歌で行うことで、新鮮な効果が生み出されている。
  空の深みをとぶ鳥群れも死の側にあらずゆふべの陽を曳きてゆく
  開きたるエレベーターに人をらずややあつて神がしづかに閉ざす
 その延長線上に、こうした不思議な歌がある。いつも目にしているものの背後に、死の世界や、神を感じ取っている。言ってみれば〈不在〉を描いている歌である。明らかに目に見えるものを歌うことで、かえって目に見えないものの気配が歌から滲み出すこともある。私はそのような歌が好きである。
 若いころ、志垣氏に言われた言葉の中で、忘れられないものがある。
「新しい歌を作りたいなら、古い歌を読みなさい。何が本当に新しいかを知るためには、古い歌を知らないといけない。」
 これは確かにその通りだと思う。短歌は長い歴史をもつ詩型なので、自分が新しいと思っていたことが、大昔にすでに行われていた、ということはよくあるのである。
 ただ、〈存在〉の本質を捉えている歌は古びない、ということは言えるように思う。志垣氏の歌は、それを一貫して目指してきたのだった。

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