短歌時評

プラットフォームはどこですか / 濱松 哲朗

2018年7月号

 創刊四十周年を迎えた「かりん」五月号(四十周年記念号)を手にして、その分厚さに驚いたが、何よりその内容の充実ぶりに感嘆のため息が出た。普段の選歌欄をひと月ストップさせて纏められたというから、気合いの入り方が違う。評論特集「かりん歌人論」は十六篇を数え、更にはベテラン勢と若手に分かれて行われた座談会も大変読みごたえがある。これらは「かりん」という結社や所属歌人を語る上で、巻末の年表と共に今後欠くことの出来ない資料となるだろう。
 注目すべきは、一結社の中でお互いの作品を読み合い、論じ合おうとするエネルギーの大きさである。勿論、例えば若手世代の座談会「歌の現在――「かりん」若手歌人を読む――」には外部ゲスト(小島なお、染野太朗の二名)がいた上に、記念号だから実現した企画であるのかもしれないが、自分の作品が読まれている現場に今まさに自分がいるのだ、という感覚は恐らく、座談会に出席した若手世代に共有されていたに違いない。
 無論、結社をはじめとする集団のエネルギーは、そこに参加する各個人の積極性があって初めて機能するものだ。「かりん」の記念号は、学びの場であり、歌を作り合い読み合う場であるという結社の仕組みがうまく機能している例を示してくれたように思う。
 一方で、結社とは少し異なる場面では、私家版歌集の充実に近年目を瞠るものがある。「うたつかい」第三十号(二〇一八年五月)で牛隆佑は、穂崎円、ナイス害、宇野なずきといった歌人による私家版歌集の例を挙げつつ、出版社から刊行された歌集の「代替的な形態」としてではなく、「より主体的に積極的に私家版歌集の形態を選択していると見受けられるものが多々あります」と指摘する。
 確かに、DTPの技術と編集ソフトがあれば、出版社を通す従来の出版方法より格段に費用を抑えられる。同人誌販売イベント(文学フリマ等)や小規模書店、通販代行サイト(BOOTH 等)を通じて私家版歌集を販売することで「一万人の読者を得るのは困難でも、一千人の読みたい人に届けるのであれば、十分に、むしろ効果的に展開できる」(牛前掲文)という利点もある。
 「一千人の読みたい人に届ける」仕事をこれまで担ってきたのは謹呈文化であった。それはつまり、結社や歌壇がプラットフォームとして機能してきたことの証である。一方、近年の私家版歌集のプラットフォームは結社や歌壇を超えた場所に、個人単位で設けられていることが多い。たとえ仲間内であっても名刺代わりに謹呈をしないのは、「歌人」という枠組みを「クリエイター」的なものへと拡張しようとする意識の現れと言えなくもない。
 ここで、それぞれのプラットフォームに安易に優劣をつけることは無意味である。牛が指摘するように、「様々な選択肢が等価値に浮かび上がってくる」ことが大事なのだ。だから例えば『死ぬほど好きだから死なねーよ』(短歌研究社)の「あとがき」で石井僚一が、出版費用を工面してくれた恩師・田中綾に感謝を述べつつも「なんというか、ひどく閉鎖的だな、と思う」と漏らしてしまうのは、従来のプラットフォームと今日的なプラットフォームとの間で身も心も揺らいでいるからではないか。そういえば、「かりん」の若手座談会の参加者も、実に半数が何らかの冊子で文学フリマの参加経験を持っていた。
 今後、プラットフォームは各々の歌人によってカスタマイズされ、アップデートされていくだろう。集団と個人の安易な対立ではもはやない。「かりん」の記念号も、文学フリマでの戦利品も、私家版歌集も、勿論『死ぬ好き』も、全て同じ書棚の中での話なのだ。

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