短歌時評

解放の出発点 / 濱松 哲朗 

2018年3月号

 昨今書かれた時評的文章の中で、瀬戸夏子「死ね、オフィーリア、死ね」全三回(「短歌」二〇一七年二月号~四月号)ほど話題になったものはないだろう。「歌壇」十二月号の年間時評「分断を越えて」において松村正直は、「瀬戸の文章には引用の仕方や論の展開に荒い部分があってすべてに同意するわけではないのだが」と留保しつつ、「歌壇における女性差別の問題を指摘した意味は大きい」と書く。一方、「オフィーリアの声を聴くために」(角川「短歌年鑑」平成三十年版)で寺井龍哉は、瀬戸の文章を仔細に分析した上で、瀬戸が述べようとする「男性歌人・・・・」批判が「実際の発言を歪曲して並べ、架空の『息苦しい場面』を構成」しつつ「適切な文脈を設定せずに特定の個人を非難している」と批判する。
 松村の留保も、寺井の批判も、瀬戸のあの特徴的な文体に起因している。寺井の批判の主旨は、引用された部分と瀬戸が援用した用語には「直接の関係」が無い上に、瀬戸が蔵しているだろう論理構造の内実が表立って語られていないために、あたかも自身の主張を通す目的で瀬戸が引用等を「不当にまとめている」ように読める・・・・・・、というものだ。精緻な読みに支えられた寺井の主張は、一見すると・・・・・論文の採点者のような説得力を兼ね備えているが、それは裏を返せば、その教師的態度を寺井自身が無自覚・・・なままに・・・・開陳してしまっていないか、という疑問にも通じる。寺井の言う通り、「言葉によって何かは伝わってしまう」し、だからこそ論理や文体は、同じ地平に立って語り合うための方法的手段として有効だ。だがそれは、一歩間違えれば、話を分かっ・・・・・て欲しければこちら側の論理を習得せよ・・・・・・・・・・・・・・・・・・と、他者を被教育者・・・・と見なして愚鈍化・・・ する行為に繋がりかねない。ふと周りを見渡せば、論理的・理論的思考に関する根拠不明の性差別的言説(「女は共感的」云々)が未だに罷り通っている現実がある。論理や文体を用いようとする手前で既に、マイノリティ化され、差別的な構造に投げ込まれる事例が確実にある。瀬戸の時評は、多数派・・・引き上げられる・・・・・・・ことで初めて立場を与え・・られる・・・という、空気化した悪しき構造・・に仕組まれた愚鈍化・・・に飲み込まれないための、論理や文体のレベルをも視野に入れた抵抗だったのではないか。
 構造そのものへの問題意識と云えば、寺井も参加している企画誌「tanqua franca」(二〇一七年十一月発行)の、阿木津英と山城周の対談が示唆的だ。「もちろん私の中にもある、規範を解体していこうって話をしているんですよ」(山城)、「自分のテーマにはならないとしても、そこに思いを至らせる、想像することはできるよね」(阿木津)といった発言には、構造に対する解体ないし脱構築の思想が端的に現れている。構造はそれ自体が自然なものとされる・・・・・ことで社会に蔓延し、マイノリティへの差別を普遍化・・・する一方、マジョリティの側には差別構造そのものへの無自覚と無関心と無知を与える・・・。平等とは達成目標ではなく構造からの解放の前提であり  (平等化・・・ 、という言葉はそれ自体が欺瞞に満ちている)、互いの知性が平等であるという相互的前提こそが、あらゆる解放の出発点ではなかったか。異なる立場の他者同士が同じ地平に立つことそれ自体が痛み・・のように語られている内は、差別的構造が未だに無自覚なままに権威化されているも同然である。そんな中、「現代短歌」二月号の歌壇時評で堂園昌彦は、「自らの、あるいは他者の持つマイノリティ性に対してどうアプローチしていくかが、今後短歌の主要なテーマになっていくのは、まず間違いないと思われる」と述べた。瀬戸の時評では批判的に引用されていた堂園だが、彼は既に、解放の出発点を見据えている。

ページトップへ