短歌時評

「普通」の暴力 / 濱松 哲朗

2018年2月号

 「まひる野」十二月号で、染野太朗が「歌人は家族を語れるか」という題のもと、「正直なところ短歌の世界は、家族を語るのに、世の中の流れや一般的になりつつある考え方から、相当に遅れてしまっていると思う」と、重要な指摘をしている。
 染野は、小佐野彈の短歌研究新人賞受賞作「無垢な日本で」について、「作品そのもののセクシャリティの扱い方やそれに対する選考委員の評が、どうにも旧世代的で、遅れているという印象を受けてしまった」、「同時代の文学としてのテーマ、修辞、といったことで読むと、どこか物足りなさも残る」と述べた上で、次のような疑問を投げかける。
  社会のあり方や個人の認識によっていかようにも形態やその意味付けが変化し、
 そして今まさに急速に変化しつづけ、従来の価値観ではとても捉えきれないほどの
 バリエーションをもった「家族」のありようとその社会的位置づけ――それは現在
 を生きる人間同士の〈関係〉の根幹を無意識的に支えも壊しもしてしまうほどの力
 をもつはずだ――をどれだけ目配りを利かせながら批評することができるのか、し
 かもそれを小佐野作品でさえやっと注目されるような現在の短歌の状況をとおして
 語ることは、果たして可能なのか。

 また、「未来」十二月号には服部真里子「家族と暴力」が掲載されている。「未来」全国大会におけるパネルディスカッションのまとめであるが、ここで服部は、家族という組織が暴力を誘発する原因を、内包された権力関係、選択不可能性、自己の延長として「家族」を捉える価値観の存在の三つに見出した上で、「最近、暴力を含めた家族の問題を詠んだ歌が増えてきた」理由を次のように推測する。
  (…)家族を他者として自分から切り分ける意識が浸透してきたからではない
 か。これまで家族は「自分の一部」だったため、暴力が暴力として認識されなかっ
 た。それが、家族もまた他者なのだと気づく人が増えた結果、家族に対する暴力も
 きちんとカウントされ、言語化されはじめたのではないか。

 この両者が共通して批判しているのは、ある既存の構造が「普通」のものとして認識された際に、ヒエラルキーを伴った暴力が、多くの言説や作品において無意識のうちに発動していることについてである。
 実際、自分たちの「普通」が他者に対する暴力になり得る可能性について、あるいは自己の価値基準が相対化されて「普通」ではなくなる社会構造の可能性について、未だに歌壇の言説はあまりに無防備で純粋だ。「短歌研究」十二月号の年間回顧座談会では、小佐野彈と鳥居が「マイノリティの歌」という話題の下で・・・取り上げられているが、そうした視線そのものの暴力性に無頓着でいられる神経を、筆者は疑う。彼らの歌を「社会と地続き」(佐佐木幸綱)とか、「非常に歌がいい」「歌がシンプル」(小島ゆかり)等と評する先行(≒選考・・・)世代は、その受容(≒需要・・・)のあり方が、結局は「分かりやすさ」という別種の「普通」の暴力によるものだと、何故感知していないのか。小佐野作品については既に「Quaijiu Vol.2」(怪獣歌会・発行)の座談会で川野芽生が「この社会に入れて『もらう』ことがよいことである、という価値観を否定するものではない」と指摘し、作品の根底にある「カップル主義と家族主義」を批判している。
 無論、批評精神の無い言説を斥けることも別種の暴力ではある。だが、極論を云えばそもそも人間の存在そのものが暴力なのだ。「人間」の「普通」さに安住し、無批判に期待し過ぎているのが、歌壇の実情ではないか。

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