青蟬通信

ますほのすすき / 吉川 宏志

2018年2月号

 十三世紀に書かれた『無名抄』という歌論書が好きで、ときどき読み返す。作者は『方丈記』で知られている鴨長明である。現在では角川ソフィア文庫にも収録されている。
 歌論書と書いたが、和歌にまつわるエピソードを記録した文章も多い。
 雨の降る日、和歌に詠まれている「ますほのすすき」とはどんなすすきか、ということが一座の話題になった。ある老人が、「渡辺というところにそれを知っている聖(ひじり)がいるらしい」とふっと洩らした。
 そこにいた登蓮法師は、急に蓑と笠を貸してくれと言い出す。どうしたのか、と聞くと、これから渡辺に行って、その聖に尋ねてくる、と言う。雨が止んでからにしなさいよ、と皆が言うのだが、いや、この機会は失われるかもしれない、今すぐに行きます、と雨の中を飛び出してゆく。
 登蓮法師は「ますほのすすき」とは何かを知ることができたらしく、ずっと秘密にしていたらしい。長明は、「いみじかりける数寄者」と登蓮法師を讃えている。和歌にのめりこむ姿を好ましく感じたのであろう。
 さて、この渡辺とは、現在の大阪市の渡辺橋あたりであるらしい。京阪電車に「渡辺橋」という駅があり、私は毎月そこに通っている。現在は堂島川がゆったりと流れ、川の光が明るいところである。登蓮法師は、京都からどうやってここまで来たのだろう。舟を使ったのか。もしそうなら、雨が止むまで待ちなさいと制止した人々の気持ちもわかる。
 最近、内田樹と安田登の対談『変調[日本の古典]講義』を読んだ。とてもおもしろい本で、初めて知ることが多かった。古い時代、京都から大阪へと、いろいろなものが川に乗って流れてきた。ごみも多かっただろうが、貴重品も含まれていたようだ。乾かせばまた使えるものもあっただろう。「流域には漂着物に対して所有権を持つ部族がいました。それが「渡辺(わたなべ)族」と呼ばれた人々です。」(内田)ということである。
 つまり、登蓮法師が聞きにいったのは、京都から流出したものを蓄積している地だった。そこにはまだ古い言い伝えが残っていたのだろう。
 さて、鴨長明は「ますほのすすき」の秘密を、登蓮法師の弟子から聞き出すことができたらしい。簡単にまとめると、
①「増す穂」…穂が長いススキ
②「真麻(まそお)」…麻の繊維のような糸状のススキ
③「真蘇芳(すおう)」…スオウの花のような紫色のススキ
 ススキには三つの種類があるということだったようだ。そんなに大した秘密とは思えず、ちょっと拍子抜けするけれども。
 「ススキ」という一語で呼んでいるけれど、よく見ると幾つかの種類がある。現在の我々は「イトススキ」「ハチジョウススキ」のような種名で区別することが多い。つまり、言葉で新しい分類を作っていく。だが当時は、植物の分類学のような考え方がそもそも存在しなかった(分類学は近代になって生まれた考え方である)。
 それで、言葉を増やすのではなく、一つの言葉に多様な意味を含ませる、という方法が用いられる。「ますほのすすき」という一語に、重層的な意味を持たせていく。現代と中世の言葉の使い方の違いが、このエピソードに表れているように思う。
 もう一つ重要なのは、言葉の意味が分からない、ということは大きな魅力になるということだ。推理小説には、死者が残した言葉の意味を探っていくというパターンが多い(シャーロック・ホームズの『まだらの紐』など)。言葉の意味が理解できないとき、私たちはどうしても知らずにいられなくなる性向がある。
 特に、知っている人と知らない人の間に、格差のようなものが存在するとき、知っている側に移りたいという願望は苛烈なものになる。それがどんなに小さな謎であっても。
 登蓮法師を衝き動かしていたのは、他の人の知らない言葉を知ることで、上位の歌人になりたいという欲望だったといえる。だから自分が知ったことを、弟子以外には語ろうとしなかった。

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