八角堂便り

忖度から定型、〈あいだ〉へ / 永田 和宏

2017年7月号

 毎年年末に、その年の流行語大賞が発表される。流行語大賞なるものに何の思い入れもないが、今年はまちがいなく「忖度」という言葉が択ばれるのだろう。この一語、とんだ濡れ衣を着せられたものだ。
 しかし、短詩型文学にとって「忖度」が命綱であることはまちがいない。忖度などと言うと胡散臭くも聞こえるが、「読みのリテラシー」とでも言い替えれば、いかにも高級な文学論めいた話になる。
 
  医師は安楽死を語れども逆光の自転車屋の宙吊りの自転車    『緑色研究』
  ほほゑみに肖てはるかなれ霜月の火事のなかなるピアノ一台    『感幻楽』
 
 いずれも塚本邦雄の代表作であるが、これらが発表された当時は、それがうまく読めなくて、議論百出した作でもある。
 『私の前衛短歌』でも書いたことだが、私にしたところが、「ほほゑみに」の一首について、塚本邦雄の前で、「わからない」と発言し、おまけに「いい作品だとは思えない」とまで言ってしまったことがある。何ともお粗末というほかはないが、当時は私だけでなく、これらをうまくとらえきれない読者のほうが断然多かった筈だ。
 しかし、いま私たちがこれらの作品に違和感を持つことなく読んでいるということを改めて考えると、「読み」という作業の不思議さに、再び呆然とすることもまた確かである。歌を知らない人が読めば、どう読んでもこれらは「分裂している」というほかはないだろう。安楽死と宙吊りの自転車。ほほゑみと火事のなかのピアノ。そんな〈相(あい)反する〉二つのコトを何の脈絡もなく並べて平然としている。そして平気でそれらを読んでいる。歌でそんなことが許されるのはなぜか。
 ここは論を為す場ではないので、思いつきというくらいにとっておいていただければ結構だが、これを可能にしているのはまさに〈定型〉の力であり、それだけが唯一の根拠でもあると私は考えている。
 〈定型〉は、本来ばらばらに飛んで行ってしまう筈の言葉を、回収するための仕掛けなのである。
 従来の定型論では、この定型の力を〈作者と定型〉という枠組みでだけ考えてきたのであるが、これでは、なぜそのような回収の力が働くかを十分に説明することはできなかった。私は〈定型〉とは、作者と読者が出会う場なのだと定義したいと考えている。従来から、作品は作者によって作られるのではなく、作者と読者の〈あいだ〉に成立するものなのだと、木村敏さんの説を借りて説明したりもしてきたが、この〈あいだ〉は、作者と読者の双方が〈定型〉という場の力をもろに浴びることによってのみ可能になるのだと考えたい。
 これではまだ論の体をなしていないが、いずれもう少し詰めて考えてみたいと思っている。

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