連作の新たな領域について思う(Ⅱ) / 花山 周子
2017年4月号
短歌の新人賞が受験のような様相を呈しはじめたのはいつからだろう。少なくとも私が応募した頃(二〇〇五年頃に三回応募した)は、全体にもう少し大らかだった気がする。その数年後、大学短歌会の合宿などで応募用の連作歌会が開催されるようになった。学生短歌の人たちが全ての賞にこぞって応募するようになった。そこから続々受賞者が出て、その年の受賞作の勉強会が催された。受賞することが短歌の世界に入る唯一の切符のようになり、落ちた連作の受け皿として同人誌が次々発行されるようになり、短歌新人賞浪人生のような人たちが生まれた。合理化したせちがらい世の中では生きづらい人がここで集まって短歌をやっているようなものなのに、ここでも切符を取るための熾烈な戦いが起こり、受かるために自分の連作を修錬する。本末転倒ではないか、といつか私は殺伐とした風景の広がりとして眺めていた。二〇一五年の歌壇賞の選考座談会で東直子がこんな発言をしていて印象に残っている。「新人賞の応募作が非常に成熟してきている。完成度の高い作品が多くて、既成の短歌観と合致し過ぎると、新人としてはどうかという観点も必要になってくる。選考する側も、うますぎるから落とす、ではおかしい話です。『自分はこれだけは言いたい』ということが、技巧の下に沈んでいく傾向にあるので、それを浮上させた作品がもっとあればと思いました」、このような東の率直な意見も、以上のような構図においては受賞するための新たな指針として機能するだけのように思われた。一四年に石井僚一が実際には祖父であった死を父に置き換えた連作で受賞した。このとき、選者であった加藤治郎は、「虚構の動機がわからないのである。父の死とした方がドラマチックであるという効果は否定できない」つまり石井の虚構は受賞するための虚構だと感じている。私はこの虚構が受かるための虚構だったとは思っていないが、結果的に、選考側が用心深くなる一つの要因になった。一方で応募者側は、たとえばこの加藤の反応に違和感も覚えたのではないだろうか。選考側と応募者側の関係が複雑化していったように思うのである。
新人賞に何度も応募し、読み合い、それらの作品の発表の場として同人誌を持つことで、いつか応募者側には彼ら独自の価値観が形成され、それは必ずしも受かるための価値観ではなかった。彼らはいつの間にかとても複雑な場所で応募作品をつくるようになっていたのではないか。受かるために作品を作りながらしかも、受かるような作品を拒否する感覚。受かるような作品とはたとえば、性別、年齢、職業、青春性そういう概括的な輪郭を連作で立ち上げつつ、文体を多様にし、感覚と実感を入れこむ。それを敢えて為すことも為さないことも素朴ではあり得ない。このようなメタ的な板挟みが彼らの連作に異様な圧力を加えたのではないか。
と、私がこんなことを思ったのは、近年、受かるための作品から少しずつずれていくような、そして今までにない新たな連作だと思える作品が散見され、連作そのものの可能性が押し広げられているような、そして受賞作以上にそれらの連作が取り沙汰されている現象が非常に興味深く思えたからだ。私が、十月号で紹介した山階基の短歌研究新人賞次席作品、「長い合宿」もそのひとつで、「この一連はセンスよくまとまった従来型の連作にも見える。でも、私は短歌の創作空間として〈私性〉から案外に脱している新鮮な印象を受けた。結果的に虚構性の問題なども自ずと回避しているところが興味深い」と書いたのも同じ関心からである。もう一つ非常に興味深く思う連作があるので次号で紹介する。