青蟬通信

信じるということ / 吉川 宏志

2016年11月号

 出張の夜、時間が空くことがあって、そんなときは映画館にいくようにしている。『怒り』という映画を、東京の錦糸町で観た。
 夫婦の惨殺事件が起こり、犯人は逃走する。指名手配されるが、整形手術をしたらしい。千葉の漁港、東京、沖縄に、三人の正体不明の若い男があらわれる。その中の誰が真犯人なのか、という謎をはらんで、三つのエピソードが同時進行する。
 三人の男はそれぞれに周囲の人々と親しくなっていくのだが、やがて疑いを招くようになる。自分の恋人は殺人犯かもしれない。自分の知っているかぎりでは、優しく誠実な人なのである。そんなとき、相手を心から信じることができるのか。
 そしてそこに、同性愛者への差別の問題、沖縄のアメリカ基地問題が深く関わってくる。
 三人のうちの誰かが犯人なので、映画の観客も、疑いながら男たちを見てしまう。疑う、ということを、擬似的に体験させられる。それがこの映画に強い磁力を生み出している。
 『怒り』のメッセージの一つは、〈信じるということが根底になければ、言葉は伝わらない〉ということである。疑っている相手の言葉は、心に入ってこない。言葉の通じない痛みが、俳優の優れた演技によって、ひしひしと迫ってくる。また、人を信じることができなかった後悔も、ラストで哀切に描かれる。
 同性愛者の青年は、「聞こうとしない人には、何を言っても伝わりませんからね」とつぶやき、理解されないことに絶望する。そしてその台詞は、沖縄のシーンにつながり、基地問題を語る言葉が他者に通じない怒りとも響き合うのである。
 今年の「塔」二月号に、
  聴かないと決めたる耳には届かない音と散りゆくオキナワの声
                                 大城和子 
という歌があるが、信頼関係がないとき、言葉はとても空虚なものになってしまう。
 ただ、この映画では、人を信じることの危うさも同時に表現している。三人の男の中の一人はやはり殺人犯であり、信じていた人は、むごく傷つけられるのである。矛盾しているわけだが、信じることをただ賛美するわけではない姿勢に、誠実な重みが感じられた。観た人とさまざまなことを語り合いたくなる、とても印象深い映画だった。
 今年の夏、沖縄の歌人である名嘉真恵美子さんとお話ししたことがあった。名嘉真さんは一九五〇年生まれだが、戦争や基地について、積極的に歌に詠んでいる。
 短歌では、〈省略〉が重視される。短い詩型なので、全部言わず、読者の想像に任せたほうが広がりが生まれるからだ。あまり直接的に歌ってしまうと、〈言い過ぎ〉だ、と批判される。しかし、名嘉真さんは、基地問題について歌うとき、言いたいことを明確に歌わなければ、沖縄県外の人には伝わらないのではないか、と思ってしまう、と述べていた。
 それを聞きながら、はっとさせられた。省略して、言わなくても伝わる、ということは、作者と読者の間に信頼関係があるためだ。しかしそれが揺らぐとき、短歌のあり方はとても難しいものになる。私自身も、沖縄について理解できているかといえば、自信がない。省略されているもの、歌われていないものが読み取れるのか、という問いを、沖縄の短歌は私たちに突きつけてくる。
  やむを得ず怒声するなれど弾運ぶ人は島人なれど怒声す
                          名嘉真恵美子『琉歌異装』
 米軍基地に弾薬を運び込む人々に抗議の声を挙げているのだろう。しかし、「弾運ぶ人」も沖縄の人なのだった。声高に非難することの苦しみが滲んでいる歌なのだと思う。
 表現としては「怒声す」や「なれど」の繰り返しが、やや煩わしいように感じられる。しかし、そうした言葉の屈折によってしか表現できないものもあるのかもしれない。
 答えの出ない問題である。ただ、一つ一つの言葉に向き合うことでしか、作者と読者のあいだの信頼関係は作れないことも確かだろう。歌を読むことは、人を信じる、という問題につながっている。

ページトップへ