百葉箱2016年10月号 / 吉川 宏志
2016年10月号
輸血する血は米、アジア、日本人のいづれにしますか 一時まよふ
東郷悦子
「米、アジア」は、アメリカ人、アジア人の血液ということで、表現としてはやや粗いのだが、鋭く刺さってくるものがある一首である。差別、ということではないのだが、「まよふ」思いがどこから生まれてくるのか、考えさせられる。
屋上にシーツが揺れるその裏に母は立ちおり 影がうつむく
中本久美子
なんとなく施設や病院の屋上のような気がする。シーツの向こう側にいて、表情は見えないのだが、母の悲しみが伝わってきた。その一瞬の痛みが、白いシーツの光とともに、一首の中に刻み込まれている。
いつときは戦争未亡人でありし母何語るなく吾の母なりき
吉田京子
「いつときは」とあるので、再婚したのだろう。戦争について何も語らなかったが、内側に抱えていたものを、作者はずっと感じていたに違いない。「吾の母なりき」という結句はとても簡潔だが、母につながる確かなものが、ここに込められている。
東京ゆき夜行バスにていま君がともす小さな灯りを思う
逢坂みずき
東京へ向かう「君」への思いが、バスの中にぽつんと灯るライトに託されて歌われ、静かな哀感がある。さらっとした表現に純粋性があり、それはとても大切なことだと思う。
亡き友の土産の栞をはさみ閉づ今日はここまでまた明日ねと
白梅
亡くなった友と、書物の中を旅しているような不思議な感覚がある。「土産」という語が、独特の味わいを生み出している。下の句の口語も優しく沁みてくる。
頭より中へ中へと落されて大煙突は失せてしまへり
前田 豊
煙突解体をいきいきと捉え、存在が消える不思議さまで感じさせる。