アンソロジーの時代に思うこと / 花山 周子
2016年9月号
先月は山田航の『桜前線開架宣言』を紹介したが、短歌にあってはこれからアンソロジー自体がひとつの創作形態として確立されていくのではないか。記録媒体が充実した近代以降、既に大量の歌がつくられている。それは正に宝の宝庫で、音楽でいえば、DJのような人が出てきて、必要に応じてそこから歌を選り出し編集し、発表する。歌はもとの文脈から切り離され、新たな生彩を放つ。そういう試みは既に行われているし、ツイッターの短歌botは偶然性を孕みつつもその一端であると思う。
人工知能が作歌の現場を侵食するのではないかという話題を最近よく見かける。吉川宏志は「塔」六月号の「青蟬通信」で、この可能性に触れつつ、「コンピューターが句や歌を作っても、その中から『おもしろいな』と感じるものを見つけるには、人間の感性が必要なのだ」「短歌の連作の場合、何十首かを統一するような、〈人格〉のようなものが必要になってくる」と人工知能には容易に侵食できない〈人間の感性〉という領域を指摘する。すると、アンソロジーはこの〈人間の感性〉に特化した創作形態ということもできる。そしてまた、古典和歌が勅撰和歌集というかたちで残されたことにも思い及ぶ。アンソロジーは現代的な新しい創作形態であると同時に短歌が本来的な和歌の在り方へと逆戻りする成り行きとしても見えて来る。短歌が普遍化を果たすこと、それは皮肉なことに、岡井隆が言ったところの〈ただ一人だけの人の顔〉を剥奪されるときでもあるのではないか。
四月号でも紹介した染野太朗と吉岡太朗の歌誌「太朗」が今回、「駅をテーマにした短歌」を公募し、集まった二百三十首を編集し、「洞田明子」という架空の人の歌集に仕立て歌集『洞田』(「太朗」第三号)として刊行した(まさに歌集の中枢であるところの作者が洞なのだ)。多分に遊び心を含むこの企画はしかし、アンソロジーの非常にラディカルな一形式だと言える。この歌集について濱松哲朗が「現代短歌」七月号時評「『声』の持ち主」で「声」という観点から興味深い考察を行っている。濱松は『洞田』を読むうちに「存在しないはずの洞田明子の『声』が聞こえたように感じられた」という自らの体験に着目し、「ここでは、作品の『私』の方が先に作られていて、読者おのおのがそこに『声』を適宜吹き込むのである。」と分析する。そして、「もしかすると、作者―『私』―読者の関係性や、韻律について多くを語るその手前で、作品の『声』について考察する必要があるのではないか―。」と言う。歌集『洞田』に出現した大きな「穴」に発生する「声」はなんなのか。私も考えたいと思う。
先ほどの「青蟬通信」では吉川はさらにコンピューターが「人間の感性」であるところの〈選〉をもできるようになった場合を想定し、次のように言っている。
そんな未来がやってきたら、短歌の表現はどうなるのか。一つには、逆説的だ
が、作者の人生体験がかえって重視されるようになるのかもしれない。
私にはこのようにして逆説的に見出される「人生体験」が便宜的なものに見えてしまう。歌集『洞田』に気づかされるのは短歌における所謂「私性」は、所与のものではないということだ。「私性」は短歌を近代文学として成立させるための担保としてあるときから便宜的に据え置かれているものとも言える。岡井隆はこの点に最も自覚的であったとも思う。今、時代が大きく移りつつある。短歌とは何か、その成立の仕方を、実体的に考察し追究することが今の時代の様々に抵抗する可能性を開くような予感がなんとなくしている。