鳥居歌集『キリンの子』を読んで / 花山 周子
2016年6月号
話題の鳥居歌集『キリンの子』について。その生い立ちの壮絶さを先に情報として得ていた私は、少し身構えていたのだが、歌集を開いたら、そういう気持ちはすぐにほどけた。
・入水後に助けてくれた人たちは「寒い」と話す 夜の浜辺で
「寒い」と話す人たちから彼女は遠い。孤独である。と同時に、「助けてくれた」と、とても素直に言っている。なんでこんなに素直なんだと、その素直さが印象に残る。
・駅前で眠る老人すぐ横にマクドナルドの温かいごみ
マクドナルドのごみの温度を感じ取る。たぶん、隣にいる老人の体温も感じている。彼女にとってはこの二つのものは(あるいは自身も)等価であり、彼女の眼差しはこれらのものにひとつひとつ存在価値を与えていく。
・灰色の空見上げればゆらゆらと死んだ眼に似た十二月の雪
空から落ちてくる無数の雪の一片一片が死んだ眼に似ている。恐ろしい光景をすんなりとした文体で詠っていて驚く。
・大きく手を振れば大きく振り返す母が見えなくなる曲がり角
まるで今のことのように、過去の動作と心が一致している。また、こんな歌もある。
・味噌汁の湯気やわらかくどの朝も母はわれより先に起きていて
・壊されてから知る 私を抱く母をしずかに家が抱いていたこと
なんだろう、私はもっと、違うものを想像していた。この歌集の中の彼女は決してただ不幸なのでも孤独なのでもない。いろんなものに心を寄せ彼らに存在価値を与え、そして彼女の大切な死んだ者たちが確かに生きていたことを証明している。彼女の詠う記憶は瑞々しいのだ。また、こんな歌もある。
・日曜日パパが絵本を読んでいる子供のとなり我も聴き入る
この歌集のわれは意外なほど淡い。そんな中、この歌のただ聴き入るわれの存在感、無言のたたずまいが忘れがたい。
・響くのはひとつの鼓動 乖離する私がわたしのなかに眠らぬ
危うい精神状態における「響くのはひとつの鼓動」という身体の把握には凄味があり、そんじょそこらではない芯を感じさせる。
「現代短歌」五月号歌壇時評で濱松哲朗が次のように指摘していて考えさせられた。
鳥居の歌は、(略)その際立って特徴的な物語にもかかわらず、
すんなりと読めてしまうのである。作品が広く受け入れられたの
は、彼女の文体が物語の邪魔をしていないことも大きかったので
はないか。
歌がすんなり読めるという印象は確かにあった。でも、どうなんだろうなあ。私はこの歌集から外枠的な物語を感じなかった。この歌集の中では過去も現在も同じ時空に配置され、事柄に添うというより切り離されることで、創作的空間を感じさせる。それから、さっきの雪の歌のように、すんなりした文体と内容にむしろ凄味を感じる瞬間があった。氏の指摘はこれから丁寧に考えてみたい問題だと思った。それから、歌集と生い立ちをパッケージ化した売り方があざとい