青蟬通信

若山牧水と本覚院 / 吉川 宏志

2016年2月号

 若山牧水は大正七年の五月、比叡山に登った。山上の宿院で雑誌「創作」の選歌をするつもりだった。しかし、一泊以上滞在することを断られてしまう。困っていたところ、茶店の人に、古い山寺を紹介してもらった。そこならしばらく泊まっていてもいいという。
 山寺には伊藤孝太郎という老爺が留守番役をしていた。元は西陣の職人だったが、無類の酒好きで、妻と娘が亡くなったあとは各地を放浪し、今はこの寺で使われている。耳がかなり不自由になっていた。
 牧水は、この不幸な老人といつしか親しくなり、五日間ほど、毎晩酒を飲んでいたという。このとき牧水は数え年で三十四歳であった。
 貧しい孝太郎は、牧水からふるまわれた酒を飲みつつ、
「どうせ私も既(も)う長い事は無いし、いつか一度思ふ存分飲んで見度いと思つてゐたが、矢つ張り阿彌陀様のお蔭かして今日旦那に逢つて斯んな難有(ありがた)いことは無い、(中略)この分ではもう今夜死んでも憾みは無い、などと言ひながら眼には涙を浮べて居る。」(『比叡と熊野』)
と感極まる。痛ましく、悲しい酒である。
 私は京都に住んでいるが、牧水が泊まったという山寺を訪ねたことはなかった。一度見てみたいと思い、今年の正月の三日に、比叡山に登ることにした。日頃の運動不足がたたって、ずいぶんきつかった。二時間ほどゆっくりと登り、ようやく延暦寺の西塔にたどり着く。
 牧水は、「この××院といふのは比叡の山中に残つてゐる十六七の古寺のうち、最も奥に在つて、また最も廃れた寺であつた。」と伏せ字で書いているが、当時の書簡から、本覚院という寺であることが分かる。
 本覚院は、現在「叡山学寮」という僧侶養成のための道場になっている。釈迦堂という大きな建物に向かって右に細い道があり、「叡山学寮」という木の札が下がっている。そこを五分ほど歩けば見つかるだろう。牧水の歌碑が、この寺からかなり離れたところに建っているので、かえって迷いやすくなっている。
 もう修行する人はいないのか、渡り廊下も朽ちて、荒れ放題になっている。裏手に回ると小さな中庭が見えるのだが、冬草に埋もれていて、凄惨な状態である。
「たうとう雨は本降りとなつた。あまりの音のすさまじさに縁側に出て見ると、庭さきから直ぐ立ち並んだ深い杉の木立の中へさんさんと降り注ぐ雨脚は一帯にただ見渡されて、木立から木立の梢にかけて濛々と水煙が立ち靡いてゐる。」
 牧水は寺を訪れた夕暮れのことをこう書いている。中庭に向かって縁側があり、そこから周囲の杉林を見渡すことができる。牧水はこの縁側に立っていたのかもしれない。私はカメラのシャッターを切った。
 牧水は、妻の喜志子宛てに、
「僕の居る部屋からは老杉の間を透かして居ながらに琵琶湖の一部を見ることが出来る」(五月二〇日)
と手紙を書いている。
 しかし、本覚院から琵琶湖まで、直線距離で七キロ近くもあり、襞のような山並みがずっと続いているのである。五月であれば、木々の新緑も茂っていたことだろう。ここから琵琶湖が見えたというのは奇跡的に思えてくる。残念ながら、私は湖水を見ることができなかった。
  言葉さへ咽喉(のど)につかへてよういはぬこの酒ずきを酔(ゑ)はせざらめや
                          『くろ土』「比叡山にて」
 寺の老爺を詠んだ歌である。「言葉さへ咽喉につかへてよういはぬ」が哀しい。牧水には自らを表現するための〈言葉〉がある。しかし老爺は、言いたいことも言えずに生きてきた。ほとんど話さず、静かな酒だったろうが、老人の悲しみを、牧水はしっかりと受け止めていた。他者の沈黙をじっと〈聴く〉ことができるところに、牧水という人間の大きな魅力があるのではなかろうか。
 牧水は老爺が酒を飲むのを止めたりはしない。もしかしたら死ぬかもしれないが、好きなだけ飲ませてやろうとする。生きるとは、なるようにしかならないものなのだ。牧水の人生観がここに現れている気がする。

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