青蟬通信

〈他者〉的な表現 / 吉川 宏志

2015年12月号

 大辻隆弘の評論集『近代短歌の範型』が出た。さまざまな論点が含まれている一冊だが、冒頭に置かれた斎藤茂吉の助詞の使い方について論じた文章が、まず興味深かった。
  氷きるをとこの口のたばこの火赤かりければ見て走りたり
                             茂吉『赤光』
 伊藤左千夫の死を知らせる電報を受けて、島木赤彦の家まで夜道を走ったことを詠んだ歌である。
 「赤かりければ」は「赤かったので」という意味である。「赤かったので見て走った」ということになるが、これは「到底理解し難い茂吉特有の強固な思い込み」であると大辻は言う。普通なら、夜道を走っていたから赤い火が見えた、という因果関係になるはずである。
 「が、よくよく考えてみれば、この『赤かりければ見て走りたり』という表現は、全く理解不能という訳ではない。」と大辻は述べる。「偶然に見た赤い火は彼の焦燥感の象徴のように見えたのかもしれない」。
 つまり、火が赤かったので、さらに急いで走ろうという思いが掻き立てられることもあるかもしれない。そのように読者に、茂吉の心境を遡及的に想像させる効果が、「赤かりければ」にはあるのだ、と大辻は考えてゆくのである。
 大辻は、このような強引な表現を『赤光』の中からいくつも見いだし、「切実な青年茂吉の心的エネルギー」が、そこから生じていることを論じている。具体的で、鮮やかな考察であった。
 初めは理解しにくかった表現が、じっくりと読んでいるうちに、納得されてくることがある。ここで起きているのは、〈他者〉の言葉が、自分の中に同化されていく現象だと言っていい。〈他者〉の言葉は、しばしば非常に分かりにくいものだが、たとえば茂吉が夜道を走っている様子をリアルに想像することによって、「赤かりければ見て走りたり」と詠んだ感覚が、自分の中にもなまなまと蘇ってくる。その感触を味わうことが、短歌を読む最も大きな喜びなのではなかろうか。
 そして、「赤かりければ」という表現に読者が惹きつけられるのは、師の死を聞いたときの衝撃という、作者の思いの強さが存在しているからに他ならない(逆に言えば、いくら細部に工夫がある歌でも、歌に深い思いが込められていなければ、その細部の良さが響いてこない)。
  あすの朝ふたり食ふべきパンを買ふさいふの中より硬貨ひろひて
                         小池光『思川の岸辺』
 病気の妻との生活という背景が、この歌にも哀しい陰影を落としているが、「さいふの中より硬貨ひろひて」という表現に、はっとさせられる。これも、普通とはかなり異なる言葉の使い方であろう。道で百円玉を拾うことはあっても、財布からは拾わない。
 しかし、このように表現されることによって、財布をまさぐり硬貨を取り出す指の動きが、まざまざと再現される感じがする。こうした買い物に慣れていない男の侘しさが、目に浮かんでくるようでもある。
 このように〈他者〉的な表現に注目すると、歌の奥行きはさらに広がって感じられるのではないか。
 小池光の『石川啄木の百首』も、最近刊行された。一首ごとに短いコメントを加えた一冊だが、歌の選びや、ポイントの指摘が、とてもおもしろい。
  飴売(あめうり)のチヤルメラ聴けば
  うしなひし
  をさなき心ひろへるごとし
                啄木『一握の砂』
 「『ひろへるごとし』というところが郷愁の実感があっていい。」と小池は書いている。もしかしたら、この啄木の歌が、小池の歌につながっていったのかもしれない。
 心を拾う、というのは、一見さりげないようだが、普通の歌人にはとても思いつかない表現である。「をさなき心よみがへるごとし」くらいになってしまいそうである。読者は、自分の中に存在しない言葉遣いに触れたとき、自分とは異なる別の生命を感じ取るのではないだろうか。その驚きがいきいきとした「実感」を生み出すのだと私は思う。

ページトップへ