短歌時評

水仙と盗聴(一) 読みの問題 / 大森 静佳

2015年 8月号

 五月号の時評でも引用した、服部真里子の連作「塩と契約」(「短歌」四月号)と小池光による同時批評をめぐる議論が、盛り上がりを見せている。まず服部自身が「歌壇」六月号で、言葉とは共有不可能なものであるという立場から「「読む」ことは、読者が作者の言葉を自らの言葉に置き換え、作品を再構築する作業に他ならない」と小池らへの反論を試みた。これを、大辻隆弘が「短歌」七月号の歌壇時評「読みのアナーキズム」で痛烈に批判したことで、議論は服部の短歌観、言語観の可否にまで及びつつある。
  水仙と盗聴、わたしが傾くとわたしを巡るわずかなる水      服部真里子
 小池が「まったく手が出ない」「イメージが回収されていない」と困惑したこの歌について、私は「それほど難解とは思えない。水仙を見ようと身を屈め、盗み聞くためにドアに耳を寄せる。そんなふうに自分が傾くとき、体内で揺らぐ水の存在。(略)イメージの並立がやや強引だが、下句の身体感覚がそれを支える」(「塔」五月号)と解釈した。これに対し吉川宏志(「うた新聞」六月号)から、そのような読みやイメージを想起させる言葉は一首のどこにもなく、大森の読みはかなり「自分勝手な」読み方だという批判を受けた。
 しかし、このように読んでいるのは私だけではない。石井僚一が、五月に出た「北大短歌」第三号の一首評でほとんど同じように読んでいることに気づいた。
  「わたしが傾くと」そのさまが「水仙」であるようで、また「盗聴」しているよ
  うでもある。(略)この歌で大事なのは「わたし」を間におくことで、「水仙」
  と「盗聴」が関係づけられる(かもしれない)というところ。
 「水仙と盗聴、」だけではもちろん何のことかわからないが、歌は一首全体の連環から読むものだという感覚からこのような解釈が生まれてくる。三句「傾く」がキーワードであることは確かだろう。その体感によって「水仙」「盗聴」「わずかなる水」という錯乱する不穏なイメージがうっすらと繋がってゆくドライブ感を味わえないだろうか。
 先日、名著『短歌パラダイス』を読み返していると次のような歌と読みに出会った。
  昔からそこにあるのが夕闇か キリンは四肢を折り畳みつつ     吉川宏志 
 二十年前の歌合せに出されたこの歌に対し、「キリンが肢(あし)を畳んでうずくまっている場所が、夕闇の原型であるということを言ってるんだよ」という美しい読みが提示された。発言者は、小池光である。当代きっての名解釈だと思うが、そのように読める確実な根拠は一首のなかには見当たらない。実は、これはかなりアクロバティックな読みなのだ。
 では、これは「自分勝手」な読みにはならないのだろうか。飛躍はあるが有無を言わせぬ圧倒的な魅力のある読みと「自分勝手」な読みの境界線を定めるのはとても難しい。だとすれば、ある読みを「自分勝手」だとして退ける批評ははたして生産的だろうか。
 誰もが「自分勝手」ではない、最大公約数的な解釈しかしなかったら、読みの本当の面白さや価値はどこに行ってしまうのだろう。
 テキストに則した精緻な読みを否定するわけではない。どう読んでも構わない、と思っているわけでもない。よりよい読みによってその歌が持つ可能性を開きたいという情熱と、そう読むのが妥当かという反省とは、つねにせめぎ合う。
 ただ、一つの読みが起こす波紋の激しさ、美しさを目撃したいとも思う。九十年代の小池のようなスリリングな読みが今日ではほとんど見られないような気がする。 (つづく)

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