短歌時評

「批評ニューウェーブ」への疑問 / 大森 静佳

2015年7月号

 最近、歌そのものの修辞や評論についての評価にとどまらず、短歌をめぐる環境、メディア、ビジネスへの広い眼差しを持った批評が増えている。特に三十代の男性歌人たちの批評にその傾向が強いようだ。
 例えば、光森裕樹は自身の運営するウェブサイト「tankaful」や「短歌研究」の時評(二~四月号)で、結社数や新人賞応募者の推移をグラフ化したものや統計データを活用してさまざまな問題提起をしている。田中濯は「短歌」の歌壇時評で、発行歌集数の推移を示すグラフを用いて歌集出版費用の問題に踏みこむ(二月号)。また、語彙計量ソフトを用いて歌集の分析をし(四月号)、歌集賞の在り方に疑問を投げかける(六月号)。「未来」の時評を担当する中島裕介も、結社論、電子書籍版歌集、著作権問題などをめぐって視野の広い批評を展開している。
 いずれも短歌の未来を見据えた鋭い危機意識から書き起こされたものである。資料を集めて数字を拾い、グラフ化する作業には大変な手間と時間がかけられているだろう。
 こうした傾向について、山田航は「東京新聞」(二〇一五年四月十一日付)の短歌時評「批評ニューウェーブ」で大きな期待を寄せる。山田は、これら統計を活用した批評は従来の批評の在り方を転換させうると評価し、具体的な利点として①印象批評を抑制し、ある程度客観的な議論をするためのインフラになる、②歌集出版や結社運営をビジネス化させるために必要なものが何なのか分析できる、という二点を挙げる。
 確かに、短歌の今後を照らすものとして統計データやグラフは貴重である。従来の印象や思い込みを覆す、スリリングな新鮮さもある。風通しもいい。その点、利点②に異論はない。ただ、①についてはどうだろうか。
 私たちが目指すべきなのは、本当に客観的な批評なのだろうか。客観的であることはそんなに無条件で肯定されるべきことなのだろうか。歌をほとんど引用することなく、数字やデータから読み取れることを抽出・分析するという批評の後ろには誰がいるのだろうか。そういった言わば透明な批評ばかりでは、案外つまらなくないだろうか。 
 「うた新聞」四月号では吉川宏志が、昨年の「現代短歌」で石川美南が担当した時評が従来の時評とは違って「短歌のイベントを紹介するジャーナル的文章が多い」ことを指摘している。やはり今は、一首の読みや言葉の問題よりも短歌を取り巻く状況のほうに話題が集まりやすいのかもしれない。
 もちろん、一首に基づく批評には山田が指摘するような危険もある。個人の言語感覚、生まれ育った時代環境や思い込みによってたやすく左右されてしまうし、数字データほど鮮やかには共有されない。それでも、と思う。統計データなどに基づく客観的な批評よりも、誰かの主観と誰かの主観が激しくぶつかる議論から生まれてくる何かが見たい。時評はその歌や評論を〈時間〉という俎板に載せる作業である。〈時間〉に接続する作業である。これだけは歴史に残したいと強く思う一首や文章を挙げて、今ここで書かれた意味、今ここで読む意味を考える。主観的であることを、私の読みをすることを怖れずにいたい。
 作家の古井由吉が、この春に出た大江健三郎との対談集『文学の淵を渡る』(新潮社)でこんなことを言っている。
  説明するというのは、普通結び目をほどくことと解釈されるけれども、結び目を
  つくることでもあるわけですね。
 含蓄に富む発言である。短歌の批評においても、それぞれが自分にしかつくれない結び目をつくっていくべきではないだろうか。

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