青蟬通信

「死んだ比喩」の蘇り / 吉川 宏志

2015年5月号

 篠弘の最新歌集『日日炎炎』に次の一首があり、興味深かった。
 
  「墓石」とふ直喩を使ふビルの歌蔑(な)みきたりしが墓標と思ふ
 
 東日本大震災のときの歌で、停電となったビル街を詠んでいる。作者はこれまで「墓石のようなビル」という比喩を良くないと思ってきた。しかし、灯が消えて真っ暗になったビルを見ると、まさに墓としか思えなかったのである。そうした心の揺らぎを、敏感にとらえている。
 「死んだ比喩」という言葉がある。たとえば「赤ちゃんの手のような紅葉」や「綿のような雪」といった比喩を指すが、そういった表現が、ふと”死”から蘇ってしまうことがある。注意していると、その蘇りの瞬間を詠んだ歌をときどき見つけることができる。
  
  蟬の寝言などと歌えば擬人法かされど夜更けを一声に啼く
                           永田淳『湖をさがす』
 
 「蟬の寝言」という表現は、甘いといえば甘い。しかし、一回打ち消してから使うことによって、確かなリアリティを獲得しているように思える。夜中にギーッと鳴く蟬の声が、読者にも響いてくる感じがする。
 
  卒業式の答辞にかならず逢ふことば「走馬灯のやうに」定型ぞよき 
                              小池光『滴滴集』
 
 少し趣は違うが、発想としては近いのではないか。「走馬灯のように」も、死んだ比喩の典型と言える。私たちは普段、そんな決まり文句を聞き流している。けれども改めて注目してみれば、「走馬灯」という言葉もなかなか美しいなと感じたのだろう(回り灯籠の一種で、馬の影絵が貼ってあるものという)。
 死んだ比喩というのは、つまり、言葉が実体との結びつきを失ってしまった状態であると言えよう。実体の重みがないために、言葉がふわふわとして頼りないものになっているわけである。
 しかし、そんな表現でも、始源においては、現実と密接に結びついていたはずなのである。だが、幾度も模倣されて使われることによって、存在感が薄れてしまう。それをもう一度、初めの状態に戻してやる。すると、言葉は再び新鮮な手触りを持ちはじめることがあるのである。
 誰だったか忘れてしまったが、ある詩人が、ナチスの収容所跡を旅した経験を書いたエッセイを読んだことがある。囚人たちは、自分の入る墓穴を掘らされてから、処刑されたという。それを聞いたとき、「墓穴を掘る」という、いつも何げなく使っている言葉が、異様になまなましく感じられてきたそうである。
 短歌の比喩というと、私たちはいかに新奇な組み合わせを作り出すか、ということに、つい関心が向かいがちである。従来にない比喩を生み出そうとすると、とても難解なものになってしまったりする。
 もちろん、それはそれで面白いのであるが、おそらくそれ以上に大切なものがあるのだろう。言い方がとても難しいのだが、言葉と実体が初めて結びついたときの、いきいきとした喜びのようなものが、歌から伝わってくること。私は他者の歌を読むとき、その躍動感に出会うことを期待しているように思う。
 
  あな憂しといふは文法的に誤りか ま、いい冬の黄蝶あな憂し 
                             河野裕子『母系』
 
 不思議な歌で、「あな憂し」は文法的に誤りでもないような気がするのだが、とにかく「あな憂し」という言葉が、冬の黄蝶を見ていたらふいに浮かんできたのである。「あな憂し」は、やや感傷的な言い方であるかもしれない。しかし作者は、寒風に吹かれている蝶をとらえる言葉としては、もうこれしかない、と思ったのだ。一つの言葉を発見したときの弾むような心の動きが伝わってきて、私は好きな歌なのである。「ま、いい」の挟み方が絶妙である。
 言葉の感覚は不思議なもので、いつもは俗に思っているような表現が、妙に胸に響いてくることがある。そんな心理を、私たちはすぐに切り捨ててしまうが、歌い方によっては、そんな心の揺らぎさえも表現することができるのである。

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