短歌時評

エンディングノート / 梶原 さい子

2013年10月号

 生前から死ぬ時のこと、死んだ後のことを考え準備する、いわゆる「終活」が話題になって久しい。この八月にも、数千人参加の第一回終活フェスタや、入棺体験などを含んだ遺言バスツアーなども開催されている。が、同時に、終活には、自分の来し方をまとめて振り返るという側面もある。その際用いられるノートは和製英語で「エンディングノート」と名付けられており、今、様々な種類が出版されたり、配布されたりしている。書くための講座も開かれており盛況のようだ。
 そのノートの中に、辞世の短歌、川柳などを書くコーナーを持つものもある。また、それらの、新聞、葬儀社、福祉施設などでの募集も行われている。
  諍いを続けし義母と三十年看取りの夜の
  優しき笑顔        大澤淑子
 たとえば、これは入賞作の一例だが、人生を振り返ったときに見えてくる忘れがたい景色というものがそれぞれにあって、それが定型に収まるとき、また輝く光というものもあるように思う。辞世の歌などというと、戦地に赴くときの歌、自害するときの歌を連想してどうにも苦しい気持ちにもなるが、この時代、また新たな捉え方が要るのかもしれない。そして、何より、それまで短歌を作ったことのない人が、実作することで面白く感じ、もっと作るようになって(長生きもして)くれたら、それはなかなかのことだと思うのである。エンディングノートは、最初から最後まで空欄無く、きっちり埋められる傾向にあるという。つまり、宿題のような辞世の歌。これも入り口の一つだと捉えたい。
 少し前に出された、米口實の『惜命』は結果的に遺歌集となったものだが、亡くなったとき九十一歳だったということと、病を得ていたこともあり、今までの人生と死について詠まれた歌が多くあった。
  妻よお前は美しかった、くさむらに坐つ
  て花火を見てゐた頃の
  肋骨が痺れるやうなさびしさで夜の河原
  に鳴いてゐた鴫(しぎ)
 口語体の率直さで詠われる、人生の忘れえない場面が胸に沁みてくる。また、「さびし」という語が入っている歌は二十首以上にのぼる。特に、妻に先立たれたあとの歌に多い。
  花みづき空にひろがる晴れた日に目を開
  けたまま俺は死ぬのか
  もう誰が覚えてゐるか棘(いら)草(くさ)を嚙みながら
  死んでいつたわたしを
 「目を開けたまま俺は死ぬのか」は「花みづき」の萼と花の形態からの連想だ。「晴れた日」の明るさがせつない。「棘(いら)草(くさ)を嚙みながら死んでいつたわたし」は、歌壇的に不遇だったということの比喩でもあり、死後から過去である死の場面を振り返る、不思議な表現ともなっている。
 まだ来ぬ(当然だが)自分の葬の場面を詠った歌として思い出されるのは、
  雪の上に春の木の花散り匂ふすがしさに
  あらむわが死顔は
         前田夕暮「夕暮遺歌集」
  わが柩(ひつぎ)まもる人なく行く野辺のさびしさ見えつ霞たなびく
      山川登美子『山川登美子歌集』
の二首だ。夕暮の歌は、「春の木の花」「すがしさ」という言葉にほっとする。「あらむ」の「む」は願望でも意志でもある。登美子の歌は、まさに予言だ。「見えつ」の「つ」の完了が、このさびしい光景が確かなこととなる哀切な予感に満ちている。
 こうしてみれば、短歌はある意味、「終活」をよく行ってきた分野だと言える。言葉にしながら、繰り返し、人生、死、死後を見つめる中で、ひそやかに準備されゆくものがある。

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