短歌時評

沖縄の歌から / 梶原 さい子

2013年9月号

 「歌壇」六月号に、松村由利子の「耳ふたひら」という連作がある。
 
  時に応じて断ち落とされるパンの耳沖縄という耳の焦げ色
  鳥のうた風のうたのみ聞かせんと切り落とされし耳のいくつか
 
「焦げ色」というところから連想されるいくつかのもの、そして、「鳥のうた」や「風のうた」。これらは、「沖縄」の持つ各面の象徴であり、歌のイメージを体に沁み入らせるキーワードでもある。また、「断ち落とされ」「切り落とされ」という受身の表現が痛切だ。
 
 松村は、三年ほど前に沖縄の石垣島に移り住み、その立ち位置から見えてくる沖縄を歌にしている。他にも、俵万智、光森裕樹などの移住もあり、沖縄は、歌の世界で注目されている場所のひとつである。
 
 『短歌往来』八月号には「歌の力 沖縄の声」という特集が、七十七ページに渡って組んである。『短歌往来』は、風土色を大切にしているが、中でも沖縄に着目している印象がある。
 
 その特集の中で印象深かったのは、小高賢の、「作り手の常識(沖縄の常識でもある)が、こちらに通じないことは、沖縄の作品を読むときよく経験することだ。(中略)地名や言語、民俗、風習、行事……。他の地域に比べ、独自の文化を、矜恃とともに大事にしている。その愛情の強さが、沖縄以外の人々の理解・共感・鑑賞にどこかブレーキをかけるのだろう。」という考察だった。これは、沖縄の歌から特に感じ取れるところだろうが、他の場所にも当てはまることであり、その土地のことを入れ込む歌は、塩梅が難しい。このくらいはわかってくれるだろうと思ったり、逆に、無自覚のうちに標準的な「誰か」を読み手として想定し、自己規制してしまったりする。が、その土地と向き合っていることが、風俗・方言などを詠み込むことにつながっていることを思うとき、むしろ、その地方の、これしかない、取り換え不可能だという表現が、もっと出てきても良いと思う。東日本大震災後、東北の風俗・方言を入れ込んだ歌が多く見られている。沖縄を詠んだ作品に小高の指摘のようなところがあるのは、今、「沖縄」に向き合う人々が作る歌だからだ。日々、向き合わざるをえない状況が存在することを深く思う。
 
 では、「通じない」というところをどうすればいいか。小高は、沖縄以外の人々との落差を埋めるため、「個により執し、沖縄という旗印から意識的に距離をとる試み」の歌を提案している。それは、ひとつ、有効な手段だ。が、もう一方で、固有の風土に基づいての歌を、衝迫を、そのままに味わう読みのあり方があればどうだろう。常にどの歌も自分なりの一元的な基準で読むのではなく、歌に応じて比重を変えるような読みの方法があってもいいのではないか。たとえば、風物が(調べても)十分に分からないならば、その土地の風土色を映している韻律をより深く捉えたり、表記の形象に着目して受け止めるやり方など。そして、いつも全てが全ての人に伝わらなくても良しとすることで、詠う側が、自主的に調えてしまうものがもっと大胆に現れてこないだろうかと考える。歌というヤマトの器におのおのの風土の律動が入ることで起きる、豊かな化学変化の可能性を待ちたい。それは、読む側にも大きな任がある部分だと感じる。
 
 永吉京子によると、今、沖縄には島言葉(しまくとぅば)を継承しようという気運が大いに高まる「異変」が起きているらしい。その影響もこれから出てくるだろうか。詠いたいということ、受け取るということ。沖縄の歌は、そのような、詠み手と読み手の関係性についても考えさせてくれる。

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