塔アーカイブ

2003年2月号

現代短歌座談会
つながりと信頼
番外編:誌面掲載割愛した話題など

小林信也・松村正直・真中朋久・吉川宏志

記録:小川和恵
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●ニューウェーブと文体

松村 ニューウェーブの後継者としては、例えば千葉聡さんがそうで、記号や文字の使い方などに関して吸収しているものがすごくあると思います。でも、千葉さんの作品は、生身な感じがもっと強いような気がしますけれど。

吉川 そうかなあ、生身の感じがあるかな。起承転結のはっきりしたストーリーとか、登場人物の設定はかなりきっちりつくっているけど、どこかつるっとした感じがしますね。作者の感情などはわかりやすくつくられているんだけど、もう少しわかりにくいものが本当の生身にはあると思うんですね。内面の襞のようなものがない。

松村 でも、ある程度実際のストーリーに脚色しているっていう感じなんじゃないでしょうか。全くの創作ではないように思います。僕は、わりと千葉さんの作品には同世代的な親近感があるんですよ。あと、僕が疑問に思っているのは、ニューウェーブの影響受けた人たちがネットの方にいるように、一般的にはとらえられていると思うんですけど、それはどうなのかってことですね。ニューウェーブの、例えば荻原さんや加藤さんのような明確な方法意識を持って歌を作っているとはとても思えないし、そういう意味ではニューウェーブの作った歌の流れっていうのは、もう残っていないんじゃないかと。

小林 ニューウェーブというと、やっぱり加藤さん、荻原さん、穂村さんの三人?

松村 今ではその三人という枠組みがすごく強くなっていますね。三人が持っている資質は全然違うと思うんですけど。岩波現代短歌辞典では、ニューウェーブっていうのは「ライトバースの影響を色濃く受けつつ、口語・固有名詞・オノマトペ・記号などの修辞をさらに尖鋭化した一群の作品に対する総称。一九九〇年代初めに加藤治郎・荻原裕幸・西田政史などの作品傾向に対して荻原が命名した。(後略)」というふうに書いてある。加藤さんは、ニューウェーブは前衛短歌の八〇年代版ということを言うじゃないですか。そういうふうに括っていいのかはわからないですけど、そう位置づける気持ちはよくわかる気がします。

小林 松村さんは意識的にニューウェーブを取り入れようとしていた。

松村 技法の問題ももちろんですが、それよりも「私性」の問題についてですね。僕は最初自分がフリーターだってこととか、そういうことは詠ってなかったんです。「フリーター的」という一連が歌集巻頭にありますけど、時期的には真ん中くらいのもので、それまではずっと詠ってなかったです。それでその頃、河野先生によく言われたのは、もっと実人生や作者の姿が見えてくる歌を作らなきゃダメだってことで、でもその頃はそれは非常に嫌だったわけですよ。短歌ってそういうものじゃないだろうって思ってました。

小林 私なんか群馬の写実の結社でやってましたけど、そういうところでは、前衛とか、ニューウェーブとかいうのは、そういうのをやってる人もいる、という程度で、取り入れようというのは無かったですね。ただ自覚せずに影響を受けてるというのはあるかもしれないけど。

真中 自分がどういうところに、自分自身の戦略みたいなところで、今トレンドはこっちだっていうことで詠んでいくみたいな部分が結構あって、私なんかの場合だと、最初何年かがんばって読んで、がんばって作ってっていう日々があって、そのうち仕事が忙しくなって、ぱたっと自分の歌作るだけの世界になって、かなり間口を狭くしてた時期が何年か。その時期にニューウェーブ的な部分ていうのは全部抜けちゃった。まあ、それは自覚の問題であって、自覚してない部分での影響っていうのは当然あるかと思いますけど。

それから荻原裕幸のもうちょっと左くらいの流れで塚本邦雄からの流れの、今でいえば黒瀬珂瀾とか、謎彦なんかもそれにつながるのかつながんないのかわからないけど、そういうところの流れがあって。広い意味では、いろんなのを読んで、意識する・しないに関わらず影響は受けているだろうと思うんですけどね。

吉川 僕は逆に、全部に対して受け入れるっていうかね、近代も前衛もあらゆるものから影響を受けるってタイプで、一つに絞らない、文体を一つに決めない、その方向で来ましたね。穂村さんは一人一文体なんだっていうんだけど、必ずしもそうは思わなくていいんじゃないかな。

真中 十二月号でも、「黒い車に映りて過ぎつ」の次に「ぎんいろの道がすべっていった」ってある(笑)。自分で自分の文体これだって決めないで、いろんなの取り入れてっても、束にすると「これがおまえの文体だ」みたいな感じのが。

吉川 一つの文体に固執したくないし、色んな方向でやった方が面白いし。

松村 文体については、藤原龍一郎さんは「短歌表現における新しさとは、つまるところ、文体の革新につきるのではないか」「評価されるべきなのは、短歌形式の生理に則した、新しい文体の成就である」と『短歌往来』の十月号に書いてましたね。

吉川 どうなんでしょうね。文体の定義にもよるよね。どういうのが文体かっていう。

松村 その作品を読めばその人の作なんだってわかるようなオリジナルな文体という感じで書いてましたけど。

吉川 ああ。でも、例えば王朝和歌とか、今読むとみんなが同じ傾向のような気がするじゃないですか。でも当時は、もっとはっきりした差異があったはずなんですよ。同じ時代に生きていると差異があるように見えても、時間が経つとそれが見えなくなってしまう。ニューウェーブ以降、多彩な文体が出てきているように見えるけれども、ある程度時間が過ぎたら、同じように見えてしまうかもしれない。オリジナルな文体かどうかは、やはりある程度時間が経たないと断定できないものなんじゃないですか。村木道彦さんや俵万智のように、デビュー作でいきなり新しい文体を作り上げてしまった、というのはほとんどない例外なんでね。何年も試行錯誤してつくっていくうちにようやく自分の個性らしいものが見えてくるというのが普通なんですよ。

小林 小説なんかだと自分の文体をつかめるかどうかっていうのは大きいですよね。

吉川 まあ、文体だけを問題にしたって仕方ないんだし。主題や発想などを含めた総合力が問われるわけでしょう。

松村 僕について言えば、自分がこれからどういう歌を作っていけばいいのか迷うんですよね。ニューウェーブ的なものには一区切りつけるべき時期だろうと思っているんですけど、ではどういう方向で歌を作っていけばいいのかというのは、自分の中でまだ考えているところですね。

吉川 そういうふうに方向を考えて作るの、歌って。(笑)そりゃ一首単位では、新しい表現を試みようとするけど。

松村 いやあ、やっぱり考えますよ。

真中 文体みたいなスタイルの戦略で考えるっていうのと、主題的なところで考えるっていうのが最近よく話題になる。どっちの方が…。

松村 やはり、両方が絡んでるんですよね。主題的なところでは、戦争とか社会的なものをもう少し歌っていきたいと思ってますね。それと同時に文体に関しては、口語だけで歌を作ることの限界っていうものを感じています。そのあたりですね、迷っているっていうのは。

真中 小林さんなんか迷いがない?

小林 迷いと言うより向き・不向きがあるような。前に、ちょっと毛色の変わったのを作って歌会に持っていったら「小林さん、なんかちょっと変わったことやろうと思っているでしょ。でもダメよ。そっちの方はもうずっとやっててうまい人がいっぱいいるんだから」って言われて・・・。でもめげずに歌集の草稿の中にそれを入れて永田先生にお渡ししたら、そこの一連全部×がついた(笑)。

吉川 やっぱり、消してる部分ていうのも大切なんですよね。歌集作る時って、選歌があって、成功していない歌から消していくじゃないですか。でも、歌としては消えるんだけど、行間から不思議ににじみ出してくるものなんですよ。沈黙することによる存在感というのがあるわけで。

小林 やっぱり、自分で枠はめないことが大事ですよね。

●学校教育と短歌

真中 「路上」をやっている佐藤通雅さんが最近書いていることで、全国規模で子どもの短歌集めたら、苦し紛れで作ってくるぐらいならいいけど、盗作が堂々とまかり通っている(笑)。どうですか、教材作る側として。

吉川 教科書あたりもね、ずいぶん詩歌の扱いが少なくなりましたね。

真中 まじめに授業で取り上げないくせに、なんかあったら作ってこいみたいな。説明をしないで作ってこい、みたいな。

吉川 今の国語は、人の作品はあまりじっくり読まなくていいから、自分を表現することが大事だっていう方向なんですよ。だから、自分が必要な部分を読む、あらすじを読むとか、要約とかが重視されるようになってます。あまり細部にこだわってはいけない、という風に指導要領にも書かれているんですね。ただ、短歌や俳句は、細部にこだわって読まないとほんとうはだめだと思うんですけどね。

小林 鑑賞はしてない?

吉川 鑑賞もかなり減りましたね。その代わり、自分が思ったことをどんどん表現していくことがいいんだって方向。

真中 指導要領がそういう方向になっている?

吉川 自分が感じとおりに主張することが正しい、っていう傾向はありますね。たしかに文学の受容に「正解」はないんだから、自由に読めばいい、というのも間違いとはいえないんですが……。ただ、歌会でも、どんな読み方をしても正解、ということは実際にはありえないわけでしょう。歌の読み方にも優劣があるはずなんですね。

先日たまたま著作権の講演に行ったんです。あれもね、最近ずいぶん変わってきまして、以前は、何人かの有名な作家だけに著作権があるような、そういうイメージだったじゃないですか、本当は違うんだけど。少数の作家に著作権があって、あとははっきり言ってあってないようなものだったわけですよ。ところが今は、一億総表現者ということになってしまって、全員に著作権があるという考えかたが(もちろん誰にでも著作権はあるんだけど)、広がりつつある。作品の優劣を問わず、表現すること自体に価値がある、という思想がその根底にはあるような気がするんですよ。

松村 それが最近強いですよね。自分が表現するってことにすごく価値をおきますよね。最近というか、もう10年も前からだと思いますけど。

真中 学習指導要領に通じるところがある。

吉川 そうだね。戦後まもなく、第二芸術論で、「一人の作家と百の読者」って言ったわけですよ。表現できるのは本当に特権的な一人だという考え方。でも今、誰もが同じように表現できるし、表現されたものの価値は変わらない、という考え方が強くなってきている気がします。あえて価値をつけるんだったら、売り上げとか、視聴率とかになってしまう。

 誰もが表現者なんだ、というのは確かに正論で、非を唱えるのは非常に難しいんだけれど、自分の思いを表現すること自体に価値がある、という思想だけが蔓延してしまうのも危うい感じがしますね。やはり書かれた作品が大切で、その表現には優劣があるんだ、というシビアさも同時に必要なんだと思う。

●言いたいことを言う

吉川 ある歌人と話していたら、今の若い人の歌は、プロレタリア短歌と共通するものがあるんじゃないか、と言われて、新鮮な驚きを感じました。口語で、生きるのがつらいという思いを訴えようとするところは、確かにプロレタリア短歌に近いものがあるかもしれませんね。もちろんプロレタリア短歌は、定型を守るのはインテリゲンチャ的だ、という主張ですから、定型は壊しますけどね。今の短歌は、定型はだいたい守るから、そこは大きな違いなんだけど。

小林 プロレタリア短歌って今読むとひどいと思うのが多いけど、でもあのときは新鮮だったわけでしょう?

真中 『プロレタリア文学はものすごい』って新書版であるじゃないですか(荒俣宏著、平凡社新書)。ホラー・エログロ……。

吉川 そんなに読んでないけど、プロレタリア短歌って。

真中 プロレタリア短歌にもいろんなのがあって、坪野哲久の「九月一日」なんかの場合には、ものすごくユーモアっていうか温かさみたいのがあって、つるはし振っているおっちゃんがどうのこうのていうその呼びかけみたいなところには心温まるものがある。なるほど、プロレタリア短歌ですか。

小林 当時のプロレタリア短歌作っていた人たちっていうのは、超結社の運動のようなところからでてきたわけですか。

真中 元々の源流っていうか、ベースになるのは、自然主義とかの系統とか?

吉川 あと、ナップ?

真中 いきなりナップじゃないでしょ。ナップに流れこむ短歌をやっていた人たちっていうのがいるじゃない。その辺のアナロジーでいくと、言いたいことを言うっていうのがそもそも文体の問題というか、何の問題なんでしょうね。行き詰まるというのと、単に時間がたって飽きられるということは、同じなのか、違うのか。

吉川 プロレタリア短歌が行き詰まったのは、いろいろな問題があるんでしょうけど、弾圧されたから消滅した、というわけではないよね。言いたいことを言うという方向には、やはり限界があるのかもしれない。

最近、早坂類さんの『ヘヴンリー・ブルー』読んだけど、私はあれでもない、これでもない、っていう形の歌がやたら多いんですね。

松村 江戸さんが十二月号の短歌時評で取り上げてますね。

真中 「まっさらな素顔できみに会いにゆくこのゆうぐれのこの不道徳」とか、「やがてみな消えてゆくもの 幾千の殺し合う星 なすすべもない」

吉川 二首目とか、そうですね。江戸さんは肯定的だったようだけど、そんなにおもしろいとは思わなかったですね。

松村 でも、そういう歌を作っている人も多いし、支持している人も多い訳じゃないですか。総合誌などにはあまり出てこないですけど。そういう層が増えてきていることは間違いないわけで、その辺はどうなんでしょうかね。

●さびし、かなし

小林 私が最近面白いと思っているのは主観を前面に出して言ってしまう歌。例えば

  昼暗(ひるくら)のかぜ凪ぐ部屋に父とゐて父が匂うてくることさびし 大辻隆弘

さびしとかっていうのをぽーんと言っちゃっている。「寂しい」とか「悲しい」とか言っちゃうのって、基本的に危ないんですけど、そこを何とかうまくちゃんと伝わるような形で言えるといいなと思ってます。もう一つ、

  恋らんるらんるとなりて鳩どもの飛びたつ羽根のかぜに煽らる 大辻隆弘

これも、言葉としては「さびし」とかは無いですが、気持ちがあからさまに出ていて、それに鳩の飛びたつ様を置くことで、自分の気持ちがかなり濃い味で伝わってくる。そういうのが最近好きですね。

松村 「寂しい」とか「悲しい」とかって、歌会では絶対に攻撃されるじゃないですか。僕も使いたいけど我慢するんですよ。でも啄木や牧水を読んでいると、「寂しい」も「悲しい」もたくさんあるし、小池光さんも結構使いますよね。

小林 考えずに使ったら危ないっていうのはあると思うんですけどね。

松村 そうですね。

小林 比喩がダメっていうのもあって、あれは要は下手に使うと陳腐な歌になっちゃうからダメって言われてたのが、いつの間にか「ダメ」が絶対化して、比喩なしで全部やれっていうふうにされてきたわけですよね。本当に偏狭な先生だと比喩表現があるだけではねちゃったり。そうじゃなくて、やっぱりそれは危ないから気を付けなさいっていうくらいの意味だと思うんですよ。そういう意味で「寂し」「悲し」でも結果としていいのが出てくれば別にいいんだろなと。そういう意味で、最近こういうのははっきり言っちゃってる歌って、割と好きなんですよ。

吉川 長塚節とかには、変わった比喩の歌も多いしね。アララギの初期はかなり自由だったのだけど、だんだん禁欲的になっていったんですね。

真中 二つのものの衝撃力でとかの、文体でこう切れてとかいう、そういうのからある種自由になったというか、それを??せるようなこと、割とこういうものを使ってもいいなみたいなものとか、使ってる作品の平明な面白さっていうのと、つながっているところがあるんですね。

吉川 「寂しい」とか「悲しい」と、「寂し」「悲し」は違うんですよ。

小林 ああ。

吉川 「悲し」っていうのは、ほとんど虚辞っていうか…。

松村 意味ないですよね。

吉川 ないでしょう。

松村 小池光さんに「十和田湖に墜落したる零戦が引き上げられしこともかなしも」(『静物』)という歌があるんですけど、結局これは事実の面白さ、・・・面白さっていうと語弊がありますけど、事実の深みの歌だと思うんですよ。「かなしも」って別にあってもなくてもよくて、ずっと不思議な気がしてるんですけど。

吉川 「あわれ」とかもそうですよね。

真中 それがなかなか区別をつける??。

吉川 だから、大辻さんの歌でも、むしろひるくら昼暗という造語に重みがあってさ、「さびし」は割とあっさりしているんですよね。

松村 逆に、ネット系の人たちが「寂しい」「悲しい」とかのストレートな感情語を使う時には、すごくそこに重きを置いていますよね。一つの特徴だと思います。

小林 一首を通じて何を言っているのかっていうと、それだけしか言ってない?

松村 うん、そうなんです。

●「ネット短歌」について

小林 短歌を作ってもどこかに投稿しようとか発表しようとかいう意識のない層って確かにあると思うんです。短歌って何かはもちろん知っているから五七五七七で何か作りなさいっていうと、自分の普段しゃべっている言葉で指折り数えてそこに収めて作ります、でも別に発表はしませんっていう層。この間、女優の本上まなみが結婚して、その相手との共通の趣味が短歌だっていう話があるでしょ。

松村 『短歌はプロに聞け!』の沢田康彦さんですよね。「猫又」をやっている人。

小林 それで、二人が交換した歌っていうのがテレビのワイドショーで流れたんですけど、聞いたらまさしく俵万智風で、もうおかしくて(笑)。

松村 週刊誌でもその二人の歌のやりとりを三枝昂之さんが批評してました(笑)。この歌はダメだ、この歌は割といいって(爆笑)。でも、『短歌WAVE』のアンケートでも、多くの人が二極化とか多極化とか書いてましたよね。

小林 二極っていうより、三極化してないですか?全国規模の結社で、まあ私らそうですけど、そういうところの比較的新しいことやろうと思いながらやっている層があって、それともう一つ別に、地域でまとまっていて、そこで本当に地道に写実で自分の日々の生活を描いていて…。

真中 歌会に行ったときにあの先生がいるから、そこに行って…。

小林 そうそう。それともう一つ、今言った、短歌を作れと言われれば作るんだけど発表しようとは思ってない、そういう層があって、そこではまさに俵万智風な日常語を並べてやっている。思うんですけど、今はインターネットという手段があって、別にどこかに投稿したりとか、同人誌出したりしなくても、発表できるわけです。手軽にメールで送れる。たぶんそのために顕在化してきているんだと思う。そういう人たちが新たに生まれてきたわけではなくて、元々あったところが表に出やすくなっている。

吉川 そうなのかなあ?

小林 と思うんですけどね。例えば、宇宙飛行士の向井千秋さんが宇宙に行って「宙がえり何度もできる無重力」って作って、下の句をどうぞ、って言う。そういう文芸とか表現とかいうものをあまり意識しない世界がある。で、たぶん、俵万智さんはその文体をつかんで、それを文芸の座に引きずり込んできたので、みんなびっくりしたんだと思う。俵万智さんはそれを一つの作品として完成されたものにしているんだけど、その大もとになっている五七五七七で自分の思っていることを並べるっていうのは、日本語の根っこみたいなところから来てるんじゃないですか。

吉川 うーん、俵万智以降でしょ、それは。俵万智以前で、口語でっていうのがあったのかなあ。

小林 いや例えば、NHKのBS短歌大会とか見てると、子どもが「カブトムシが飛んだよ」とか、そういう、本当に普段しゃべっている言葉でできてるのを送って来るわけですよ。投稿は親がさせてるんだとは思いますが、音が足りなくなったら「ね」って入れて作っちゃうとかいうのは、もう日本語そのものに根ざしているんじゃないか。

真中 あったのか、あるいは学校教育で「短歌は簡単だ」って言って、一人一首作ってこいみたいなことをさせてそうなったのか。

吉川 それは割とあるでしょうね。

松村 僕らはみんな結社に所属して短歌をやっているわけだから、どうしてもネットの方の評価は低くなりがちじゃないですか。でも、それならそれで彼らとは違う何を持っているのかっていうことを、自分たちでもう少し自覚して深めていかないと、結局ダメなんじゃないかと思うんですよ。

吉川 いやあ、結社とネットとでそんなに変わらないと思うけどね。インターネット歌会って、塔でもやっているからさ(笑)。変わらないんじゃないかな。

小林 塔でやっているのはあくまで結社内の歌会で、手段がインターネットだっていうだけですよ。ニフティの短歌フォーラムのホームページにウェブ歌壇っていう投稿欄があって、そこにメール投稿が月に四、五〇首来るんですけど、そのかなりの部分がいわゆる自分で思っていることだけ言っちゃって、読者のことなんか考えていないような作品です。ただ比率は低いですが、長いこと見ているといい歌作る人はいるので、そういう人を見つけると嬉しいですね。

吉川 ネット系って言っても、僕だってインターネットやっているんだからな。インターネット歌人と結社歌人の線引きなんてできるんですか。

松村 でも、いわゆる結社に所属して短歌をやってる人たち以外の層っていうのが、明らかに出てきていますよね。それで歌集も出ているわけじゃないですか、オンデマンド出版とかで。

吉川 やっぱりあくまで一つの道具としか思ってないからなあ。

小林 この間思ったんですけど、今、ビジネスモデルの特許ってとれるじゃないですか。商売のやり方を特許取るっていうあれ。いわゆる近代短歌にそういう面があって、歌会をやって、あと雑誌ですよね。さっき投稿が載るのはとても楽しいって話あったけど、まさに自分の送った歌が活字になって印刷されて戻ってくるってとても大きなことなんで、そういう仕組みを作って、なおかつそうすれば規模的にも集まれる範囲がずっと広がるじゃないですか。その、歌会と、雑誌と、あと全国大会っていうのが、一つのビジネスモデルになっていたんじゃないか。それがあったために、近代短歌は全国を征服したんだと思うんです。奥村晃作さんが「歌壇」に書いているけど、江戸時代から既に近代短歌の前駆をなすような歌人はいたわけですね。だけどそれが結局少数派にとどまったのは、旧派和歌を覆すパワーが仕組として発揮できなかったということではないか。

吉川 江戸時代にもおもしろい歌人は多いですね。大隈言道とか、かなり近代短歌に近い。

小林 それが明治になって、「結社」っていうのができて、それがうまく作用して、全国津々浦々に広まって、ついに、旧派和歌の息の根を止めた、ということじゃないかな。だからって「心の花」に特許取られると困るけど(笑)。

 それでインターネット短歌ですけど、もしかしたらですが、加藤治郎さんたちは新しいビジネスモデルを作ろうとしてるんじゃないかと思うわけですよ。いわゆる印刷媒体で配ります、全国大会やりますっていう代わりに、あくまでネット上の仮想空間の中で、当然会費とかも別に要らなくて、印刷代もかからなくて、とやっていくと、今まで葉書とかで投稿したりっていうのをやらなかった人、本当に普段日常の言葉で作っちゃう層を集めてこれる、ということを考えているんじゃないでしょうか。

真中 今の結社のビジネスモデルが旧派を凌駕したっていうのは、とりあえず旧派和歌と今の写実短歌っていうものとの比較で、中身的にはそういうものが凌駕するためのビジネスモデルとしてあったと。そうすると、次インターネット使ってやるときに何をもってやっていくのかっていうが、本当に面白いのか。組織は変えられる、っていうかビジネスモデル的には凌駕できるかもしれない。

小林 インターネットで新たに掘り起こしてきた層が、本当に新しくていいもの持っていれば、それはすごい勢力になる。

 だからそこで、ニューウェーブの荻原さんとか加藤さんとかがプロデューサー的な役割を担って、積極的にその辺を掘り起こしに行ってるんじゃないかって。ちょっと深読みかも知れませんが。

●「残る」ということ

吉川 過去の短歌を読み返すと、なんでこの当時にこんな歌がつくられたんだろうと思う歌に出遭うときがあるんですよ。今読むとすごく新しい歌がぽつんとあったりする。ひとつの流れが、一直線にずっと続いているって感じではないような気がするんですよね。短歌史とは一種の幻想であって、実際には、混沌とした動き方をしているのを、何となくこういうストーリーでつながっているのかなっていうふうに、我々が歴史をつくっているような感じがする。

松村 後付けですかね。

吉川 もちろん短歌史を考えることは大切なことなんだけど、歴史がこのように進んでいるから、このような歌が新しいと思ったり、短歌史に合わせて歌をつくったりすることはないんじゃないかなあ。たしかカンブリア紀って、今の生物とは切れてるんだけど、むちゃくちゃにおもしろい生き物がいたそうですね(笑)。

小林 進化にも実は後に続かなかった膨大な枝葉があるという、あれですね。

吉川 あと、短歌史って、ほとんどの歌人は埋もれてしまうわけでしょう。まあ残るのはほんまに何十万人に一人じゃないですか。だから別に埋もれても負けでもないし、恥ずかしくもないんじゃないかなって気が最近してて。もちろん埋もれるのは嫌だけど。

松村 吉川さんにそんなふうに言われたら、僕らはどうすればいいんですか(笑)。

吉川 もちろん埋もれるのは悔しいし、努力はしますけど、でも埋もれたから歌が悪いんだっていうのは無いと思う。斎藤茂吉の周辺の歌人達は、茂吉だけが残ってあとは全部肥やしになっちゃったっていうけど、考えてみたら、本当に残るのは百万人に一人くらいなわけで。だから、埋もれても恥ずかしいということはないんじゃないかな。

松村 写真説明で「一人飛ばして誰々」とか(笑)。

吉川 そうそう。

松村 手紙の相手で、この人誰だ?とか(笑)。

吉川 そうそうそう。

松村 手紙の相手とか、写真とか、論争相手とか、そういうのだけで残っている人っていますよね。

吉川 でも当時としてはそれでも同等の力を…。

松村 その時はきっと対等に論争していたんだろうけど、今ではその人の全集の一部分に収まってしまってる。

吉川 だから、別に、自分の文体を持たなきゃっていうけど、そんなこともないような気もするけどね。

小林 なんのために詠うのか、みたいな。

吉川 埋もれてもいいんじゃないですか。何か、つなぐため、自分がつなぎでもいいと。

松村 誰かの肥やしになると。

吉川 それでもいいような…。もちろん嫌だけど(笑)、半分は嫌だけど、だけどね。

真中 いつまでもぐじゅぐじゅいうとか…(笑)。絶対そういうの我慢できない人っていますね。

松村 短歌の流れを受け継いでいく大玉送りのひとつの手だっていうのは、うーん・・・。

吉川 それでも別に、恥ずかしくはないんじゃないかな。

真中 大玉送りのその枝分かれの方のやつ(笑)。触れもしない。

吉川 いや、もちろん嫌だけどね。もちろん枝葉にすぎないのは嫌なんだけど、でも…。

小林 残ることが目的っていうわけではない。

吉川 気がしますけどね。

小林 できれば、できることなら残って欲しいなあ、というくらいで。

吉川 まあ論争相手としてでてもいいじゃないか(笑)、しょうがないかなって気はしますね。

松村 まあ、それは結局分からないですからね。

吉川 もちろん生き残ろうとするんだけど、でもそれだけであくせくするっていうのは何か違うなって気がしてさ。

松村 なんだかあんまり意気の上がらない座談会になってしまったような(笑)。

小林 だから残らなくていいと思ってるわけでは本当はないけれども、それが目標になっちゃってその方向でいくっていうのもなんか悲しい。

吉川 さっき、自分を表現すること自体に価値があるという風潮があるって言ったでしょう。それは裏返すと、自分独自のものが残せなかったら負けということにもなる。でも、ほんとうは負けじゃない。恥ずかしいことでもない。

小林 もしかしたら、何世代か後が発掘してくれる(笑)。

吉川 そうだね。その代わり、僕たちも前の世代の歌を掘り出さないといけないんだけど。もちろん、実際は大変な作業ですけどね。

松村 こんな下に埋もれていたけど、実は結構いい歌作ってるじゃん!って(笑)。

真中 いい歌作っていきましょう。

          (二〇〇二年一二月二一日、於 エル・おおさか)

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