塔アーカイブ

2006年9月号

井上隆雄・永田和宏対談

「ものを見る眼」

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永田 今日は井上隆雄さんをお迎えしていろいろお話を伺いたいと思います。井上さんは京都を本拠として活躍をされている写真家で、いろんな会でお会いする機会が随分あるんですけども、お話をしているととても楽しくて、専門の写真のお話を伺っていても、我々歌をやってる時に感じるのと非常に近い問題意識をいつもお持ちになっているので、今日はぜひ、専門の写真の話を中心に伺いたいと思います。短歌と少し絡めたような形で私の方も話をさせていただこうと思っています。よろしくお願いいたします。

●モチーフと言葉

永田 井上さんまずいつも写真を撮りに行かれる時っていうのは、テーマを決めて行かれるんですか。

井上 テーマっていうのは、ある時とない時とがありますね。

永田 このところは山にもぐって写真を撮られること結構多いんでしょう。

井上 そうですね。撮るというよりも遊ぶと言う方がいいかもわかりません。その時に今おっしゃったテーマを持っていく場合と、テーマを持たないで山に行く時がありますね。で、テーマ性は僕にとっては一つのきっかけっていうか、依代として「言葉」が合いますね。

永田 ああ、そうですか。なるほど。

井上 感性が動く時に、言葉というのはある種の拘束力や呪縛性があると思うんです。感性っていうのはもともとファジーなもんで、とりとめもなく広がっていく。そこで、言葉によってある種自分なりに拘束する。それが意外に、そのとき私が思ってるモチーフなのですね。僕のライフワークにおける、いわゆるモチーフは主として自然なのですが、自然というのは人間の観念とは全く別な世界に在って、人間の意識が自然界に入り、その関係の様子によって人と自然との存在や意義みたいなのが出てくるのかもしれませんね。そういった時に何か自分なりに感銘を受けている言葉が不安な私を安定させてくれる感じがありますね。

永田 目的は持っていかない、特に言葉としてある明確なテーマを持っては行かないというふうにおっしゃったけども、言葉として今日はこういうテーマでということを意識すると、それに縛られちゃって自然が見えなくなるということはないですか。

井上 いや、あるんです。でね、追加して申し上げたいんですけども、自然の混沌を前にして、私自身が途方に暮れてしまうんですね。写真を撮るとか物を見るとかいう以前に、ただ人間でありたい、自分であろうとしたいと思うんです。ところが自然界は人間を特別に区別しませんからね。そういう接点のところや作用の中で、必要以上にその言葉の意味合いとかにぐーっとはまり込まないにしようと思っています。だから、ある意味で漠然としたベクトルだけの言葉を選んで持っていく場合が多いですね。

 もう一方、全くそういう言葉は持たずに、身体ごと自然の中で遊ぶっていいますかね、そこから出てくるものといいますか、人間という存在と自然という存在の作用と境目に私の写真が生まれてしまう、ということを遊んでいます。

永田 相互作用という意味ですね。

井上 そういうことですね。そういうところでできてしまう、非常に触発的っていいますかね。

永田 井上さんの場合、言葉があって、言葉である種のモチーフのようなものを持っていく時に、自然のある風景っていうのが自分に訴えかけてくると言われましたね。我々の場合はね、ちょっと逆で、自然、街でも何でもいい、自然の方から言葉を引っ張ってくる、そこが随分と違うんだと思うんですよね。「路上観察学会」ってあるの御存じですね。世の中にあって、ほとんど気付かないものとか、役に立たないものを探し出して、その無意味性を楽しんでいるような酔狂なグループなのですが、その極意っていうのを読んだことがあって、なかなかおもしろかった。赤瀬川原平さんなんかに言わせると、何かを探そうと思って行くと、つまり物欲しげな目で探そうと思ってると何も見えてこない。だけど、何も探そうと思ってないとまた何も見えないと。歌の素材を探しているときとほとんど同じなのですね。

井上 永田さんのおっしゃるとおりだと思います。仮に言葉とか、映像的なたとえとか、そういうものを持って歩くと、そのことしか見えなくなる。それを追いかけることに専念してしまうことになりますね。要するに狩人的な視線で探していくと、自分自身の拘束をそのまま自然界にあてがってしまうということになりますね。もったいない状況と言って良いかもしれません。はじめに言葉ありきではないと思いますから。特に自然界は。ですから、私が持っていこうとする時の言葉っていうのは……

永田 例えばどんなものがありますか。

井上 私、今、自然(じねん)という言葉がすごく好きなんです。

永田 ああ、自然、なるほど。シゼンじゃなくてジネンね。

井上 そうなんです。シゼン観じゃなくてジネン感ですね。だから、その自然(じねん)というとらえ方はもっともっと自由なんですね。そこのところでちょっとだけ拘束するということですね。向こうも自然(じねん)なんだ、私も自然(じねん)なのだ。そういうシチュエーションというか、自分とモチーフとのありようのための言葉って言うのでしょうか。ありようの言葉だから、どういうふうな姿勢で、そこに自分がいるか、そういう言葉なんですね。だから、「無常」であるとかね。

◆素材を狩る

永田 例えばね、そういうある種の自然というような言葉を自分の内に抱えて山の奥に入っていって、井上さんは一年を通して何カ月も車の中で寝起きをして、ジネンとかシゼンとかと一体化して写真撮られるわけだけど、対象を写そうっていう瞬間って何ですか。もうちょっと具体的に言うと。

井上 これ写そうという瞬間は正直なところ、自分でもわかんないですね。何かにすごく触発されて撮れてしまう。僕、空手チョップと言ってる時もあるんですけども、空手チョップのように瞬間的に撮ってしまう。その集中って一体何でしょうね、これは。感性の働きというと、通り一遍の言葉になるかもわかりません。そこにはもう言葉も何もないんです。身体的と言って良いかもしれないし、生態的と言っていいかもわかりません。

永田 大分比喩的なんだけれども、もっと具体的に言うと、例えばある名所旧跡撮りに行こうという時はその対象がはっきりしてるから、それはそれをどんな角度で撮ろうかということですよね。ただ井上さんの撮っていらっしゃるのを僕も一部見せていただいたりなんかしていても、この瞬間これを撮りたいと思った作者は何なんだろうと思うことが結構あって、明確なイメージと言うよりは、もう少し茫漠とした風景なんかの場合ですね、ばばばばーっと撮っていってその中の一枚を選ぶのか、ある瞬間っていうものを待っていて、その一瞬カチンと押すのか、そこはどんな感じですか。

井上 撮る目的にもよりますが、基本的には待たないんです、僕の場合は。待つタイプと待たないタイプの人がいます。待つということは、自分の概念とか目標とか、そういうものに合致する状況なりを待つということになりますね。で、それを僕はあえて否定する方のタイプです。待たずにその場で触発や作用の関係が生まれた時にシャッター押していくやり方なんです。以前に永田さんに招かれてテレビのNHK歌壇で、無責任という話題も出ましたけども……

永田 ええ、ええ、自分の作品には責任を持とうとしないで、落とし前をつけようとしないで、もっと無責任に放り出すように読者に手渡した方が成功しやすい、なんて話していて、あの辺がおもしろかったですね。

井上 そこのところ全く同感でした。責任をを持つということは、何かもともとそういう設計図があって、自分の思いとか意図とかそういうものに合う瞬間を待つ。そういった作為的な面が出る。むしろ無作為っていいますかね、そっちの方に僕は重点を置いてるんです。だから、ぞくぞくと得体の知れんものが撮れてしまうんです。

永田 構図はどうなんですか。

井上 自然の場合は構図も適当、無責任ですね。だけど、依頼された撮影など、ファインダーの隅々まで確かめる写真もあります。山へ行った時はあまり確かめません。言い方変えますと、ファインダーのなかの気配、感覚的なフレーミングだけでシャッターを押してしまう。

永田 なるほど、気配。一方でね、もう少し、例えば井上さんの写真集に『京 逍遥』というのがあって、これは「ホテルグランビア京都」の各客室に全部違う作品が掲げられているんだそうですけども、ああいうのになるともう少し街の風景っていう明確な輪郭があって、その中で京都の街をどんなふうに撮ると京都らしさが出てくるかというところが、井上さんの腕の見せどころ……

井上 いや、腕か何かわかりませんけど、京都の持ってる時間の長さ、そこに何かが込められてるに違いない。それをいかに私なりの眼で抽出できるかという問いでもありました。

永田 あれを見せていただいた時に感じたのは、どれを見ても京都なんだけれども、「いわゆる京都らしく」はない。つまりここがすごく大事なところで、これは歌なんかでもそうですけども、大体〈らしく〉作ってしまいやすい。

井上 そう、したくなりますよね。

永田 で、いかにも〈らしい〉ものっていうのは非常に嘘臭いっていうところがあって、嘘臭くない〈らしさ〉っていうのをどこに持ってくるかというの、非常に歌でも難しいと思いますね。

井上 何ていうんですかね、嘘というお話を続けていきますと、何かそこで自分が意図、作為を持つと、どんどんと嘘の世界の構築みたいな反面も持ってるんじゃないかなと思うんです。だから、そこから自らを解放してやりたいと思うのですね。一方では、解放することによってとりとめもなくなってきますので、一たん解放しながら、自分の感覚が働くところでシャッターを切ってきました。だから、写真を撮ろうという意識よりも何かを見ていること、そのことの結果に過ぎないかもしれませんね。だから、何を見るにしても、『京 逍遥』というあの一連の写真にしても、決して説明的には撮ってないんです。これは一体何処のお寺なんや、というような写真ばっかりですけども、自分がフレーミングするということに言いたいことがあるのでしょうね。

永田 あの写真集っていうのは、非常に挑戦的だという気がしますね。つまり『京 逍遥』っていうタイトルのもとで、俺が京都だと思ってるのはこういうとこなんだと。で、これはあなたにとって京都と感じられるかという、挑戦ね。どこをとらえたら井上さんにとってそれが京都であって、それがどういうふうに一般の人に共感してもらえるかというね。自分の感性をどのレベルで読者と共有できるかということは大事ですよね。。我々の場合はポピュラリティっていうのはどっちみちないので、売れ行きっていうのは関係ないんだけど、井上さんの場合はやっぱり一般の人たちに買ってもらわないとプロとしてやっていけないということもあるわけだから。

井上 それは種類によりますね。だけど、やっぱり僕は売れゆきの悪い写真家だと自認していますね。他認もきっと。『京 逍遥』の場合はある前提がありました。要するに、ホテルに展示される、それが大きな課題でした。

永田 それと、あの場合は客室に掛けられるということが一つ大きな前提で、宿泊客に不快感を与えてはいけない、とかね。その限定のなかで、いかに京都を感じてもらうかということで。

◆単純化と時間性

永田 今、説明をしないということもおっしゃって、これは井上さんとお話してる時もいつも話題になることなんだけど、短歌ではやっぱり単純化ということをよく言いますね。どっちみち五句三十一音しか言葉が入れられない。その中での一瞬の勝負ですから、いかに説明を省くかというのは、これがしかし初心者には一番わからない。これがわかるまでに結構かかるんですけども、写真で説明的っていうのはどういうことなのですか。我々だと言葉を削っていくわけです。ところが、写真というのは削れないわけでしょう。あるものは削れないわけだから。

井上 本当、同じことをおっしゃってるなと思って聞かせていただいたんですけども、短歌のその五七五七七という言葉の要するに数ですよね、それは多少外れてもいい場合があると思いますけれども、そういう限り、限るということ。それは写真の世界で言えば、ファインダーの限定にあたるようですね。だけど、限るということによっていかに人間を積極的にならせるかというエネルギーをむしろ僕は感じます。そして、限りがないとむしろ人間というのはものすごい不埒になっちゃって、とりとめがなくなってしまう。いかに限るかと、いかに削るかということは、殆どイコールだと思いますね。限ったり削ったりは、ただの矮小化ではなくイメージや思想などの濃縮や拡張なのでしょうね。

永田 我々の場合はそれが定型ですね。定型があることで何でも言えるんだということをよく言います。僕は現代詩のような終りのない詩を書き始める人の絶望感ということを思うことがあります。終りの見えない地点から、第一句を書き始める恐ろしさ。しかし、短歌では結局五句三十一音のこのフォルムが、言いたいことの外延というか、いちばん外側まで言っても、その向うで守っていてくれているという安心感があって、物が言えるということがあるんです。ただ、逆にこのあたりまでしか言えないとあらかじめ思ってしまうと非常に内容が小さくなってしまう。

 写真というのは一コマですよね。それに対応するものとしては、ビデオのようにある風景をずっと撮り続けるということもあるし、額縁を空間的に移動させてずーっとこう風景を三百六十度撮ることもできる。その中で一つのフレームに収めるということにどういう意義っていうか、喜びっていうものを感じられますか。

井上 なかなか難しい御質問なんですけども、限定するということは捨てることでもあると思うんですけれども、限定する中で、人間っていうのは初めて何かそこに物を見出すんではないかなという気がするんです。だから、散文とか現代詩が限りなく続けられるように、短歌も写真もやっぱり「いのち」の時間に係る連作なんだと思うのです。現代詩もその一行一行の言葉の中である種の限りを持ってないと、その人の時間が逆に現れてこないんではないかなとも思うんです。限ることによって、また次の限りを作り、密度が高まるということなのでしょうか。いわば、相撲の土俵みたいなもんで、あれがないとやってられないようなものがあるんではないかなと思いますね。例えば、画家のキャンバスも彫刻家の空間意識も同じようにして。

永田 ビデオの場合だと一つの風景撮っても時間的にそれは連続してるわけですね。だけど、写真の場合は一コマ一コマが連続性と完結性と両方持っていて、一枚写真撮るということはそれでもう完結するわけですよね。一方で連写というのがあって、たたたたっと撮ってどれかを選ぶという撮り方もある。さっきの待って撮るか、無責任に撮るかという問題ともつながってくるけど。

井上 ビデオなどは、今と今、瞬間と瞬間の連作とも思えますね。だから、それぞれのシーンに何かが無いと実に退屈なことになってしまう。創作は無機質的な時間ではなく、有機質的な時の流れなのではないでしょうか。写真には精神的時間軸や五感の感覚も内包しているんではないかと思っています。映画は多次元、写真や絵画は二次元という一般概念は、あくまで物理的な技法や方法のことで、内容とは別の分別だと考えていますけれど。短い時間や少しの言葉が、すなわち内容の稀薄さではないように。ミクロがマクロを語り得ること、そこに創作の醍醐味があるのかもしれませんね。

永田 そうですね。同感ですね。つまり短歌とか俳句というのは非常に短い詩形ですから、本来時間の連続というのを表すのには非常に不利な詩型なんだけども、ただその一瞬をとらえたはずの中に非常に時間が凝縮されているという場合もある。例えば「子を打ちし長き一瞬天の蝉」という秋元不死男の句があります。打った親も打たれた子も一瞬凍りついたのでしょうね。これは本当の一瞬の出来事なんだけど、この一瞬が親にとっても子にとっても永遠に続くかと思われるぐらいの時間を表してるというような、そういう気もします。歌のような短い詩型の中で、時間をどう表せるかというのは永遠のテーマでもあるんだと思いますね。

井上 それは写真の上においても重いテーマですね。

永田 僕もそれは思うんですよ。ビデオで見ているよりも、一枚の写真で見ている方が時間を感じることがある。逆に環境ビデオのように、一本の桜の木を二十四時間撮り続けるとか、新井満とかがよくやってましたよね。ああいうものは、あの中には時間は流れてるんだけど逆に時間を感じない。そこがいいんですけども。

井上 写真というのは一瞬やから時間があんまり感じられないというようなことをおっしゃる方もあるかもわかりませんけども、僕らから見ると、時間は止めることによってその前後の時間を想像させるのがすごく大事だと。説明せずに想像させる。それが写真の持ち味かなと思いますね。

 表現ということに関してアピールという言葉を伴ってよく言われます。私が表現したことを人にわかってもらおうという思いなのですけども、あまりそれを意識しない方がいいんじゃないかと私は思っています。作品から、感動なり同感なり反発でもいいのではないかと思っています。先ほどの無責任とつながってくるんですけども、要するに感動するか、頷くか、反発するかということは見る側の問題であって、こちらが押し付けることでないんではないかと。表現メディアそのものだけが意味をを持って完結するんではなく、それを媒介として何がそこに発生するか、作る側と鑑賞する側との空間、そこに私は興味を持っています。媒介っていうのは気配のような側面が必要で、自己アピールのみではないと思えるのです。だから、言い切る、説明し切るということは、読んだ人、見た人にそれ以外のことは許せないという傲慢さすら感じさせられますね。誰にでも何処にでもある我執とは、とかくやっかいなものですね。

永田 そうですね。歌でも初心者ってのは、自分の思いをいかに相手にわかってもらおうかということで、初心者が陥る問題は、思ってることが十分に表現できない。でもね、短歌という詩型は思ってることを十分に表現できるだけではおもしろくないですね。読者に自分が思ってもみなかったことまで感じてほしい。アピールという問題も含めて、さっきの説明という問題も、我々は自分でさえ思っていなかった言語表現ができる、あるいは井上さんの場合だったら、自分も思ってないような、後で写真に焼いてみたら思ってなかったようなものが出てくるという、それが歌を作る喜びであり、写真を撮る喜びであるかもわからない。

 もう一つ共通してるのは、どちらも自分の感情を説明できないということがあって、我々も歌の中の物を介して読者に感じてもらう。例えば、「流れゆく大根の葉の早さかな」、これ何も言ってない。大根の葉っぱだけしか言ってないんだけど、そこに述べられている事実とは天地の差のある景の深みを読者が体験する。写真は我々以上に物ですよね。

井上 その通りだと思います。写真にしろ、言葉にしろ、絵画にしろ、自分の抱いてることなり何なりをそういう方便の乗り物に乗せて、行き先はここだ、そこへ行ってもらわないと困る、そう思ってもらわな困るというのが説明。それが押し付けになって、世界を、かえって縮めてしまう。だから、一つの提示で終わるんだという気持の方が、かえって見る側は想像力をたくましくして広げてくれるという可能性を思っていることの方が両者とも楽しく遊べますね。

◆プロとアマ

永田 要するに自分の固定観念をしっかり持ちすぎると物が見えなくなるということですよね。ところで、作品評価という問題にもかかわってくるんだけども、例えば写真家にとって、井上さんのような本当のプロの写真家と、それから我々がポケットカメラで撮る写真と、これは何がこの二つを分けるものなんだと思いますか。

井上 僕あんまり分けないんです。だから、写真家だから内容的にとか質的にとかね、写真家っていうのは確定申告出してるかどうかの違いだけで、シャッターをその人らしく押す人は皆んな写真家というふうに思っているんです。

永田 その中でも、でもやっぱりプロはプロですよね。

井上 そうそう、だからプロっていうのは生業のためにも、美意識や考え方、技や術を多少は磨いているということでしょうね。いずれにせよ、写真家は写真機ではないということですね。言葉の世界の人が、お前さんらはビジュアルな人間、言葉を使ってもらっては困るということでもないと思いますので、やっぱり誰しも同じような地平から出発し、適した方法を選んでいるのでしょうね。だから、何といっても土台や姿勢が大切なのでしょう。そこでどういうものが生まれてくるかの違い、初心者の方とベテランの方との違いが出てくるということはあると思いますね。

永田 我々短歌っていうのもプロとアマの違いっていうのは実は本当はないというか、難しい。ないと言った方がいいのかもわからなくて、僕はいつも挙げる歌なんですけどね、「逝きし夫のバッグのなかに残りいし二つ穴あくテレフォンカード」。井上 何かで僕読んだことあります。

永田 はい。結句の「二つ穴あくテレフォンカード」、これは本当の素人の歌です。九州の方の新聞投稿にあって僕が選をして、年間賞に選んだ歌。

井上 テレフォンカードに穴があいてる話っていうのは、心に残っています。

永田 この二つの穴っていうのがとても悲しいんですよね。テレフォンカードってあれ七つぐらい穴あくんですよね。で、二つの穴という具体、二つの穴っていうところに悲しみが凝縮しています。二つの穴で喋ったいろんなことが思い出されてくるわけですね、そのテレフォンカードで。それだけじゃなくて、あと五つぐらいあくはずだった穴で、喋るはずだったことまで作者にはわかる。そういう感情はすべてこの二つの穴にある。この二つの穴を見つけた作者はあんまり意識的じゃないんですよ、多分ね。テレフォンカード見たらちゃんと二つ穴あいてたから二つの穴を歌ったんだと、多分作者は言うんだと思うんです。ただ、この二つの穴の見つけどころというのは、これが目だと思うんですよね。これは歌を作ってる玄人でも素人でも区別はなくて、たまたま見つかったのかもしれない。しかし、何か違うものがある。つまりプロの写真家とアマの写真家とのあいだ。

井上 その眼ですよね。だけど、その着眼があんまり説明性に接近していくと、通り一遍のモチーフへと。

永田 ええ、そうです。だから、普通ね、挽歌っていうのは、いかに悲しいかということを相手に伝えようと思ってやるので大体失敗しちゃうんですね。僕これはいつも物がいかに大事かというところで話をするんですけど、今の井上さんとこの話の文脈から言うと、作者が見つけようと思って見つけた穴ではない、恐らく。ただ二つあいてたから二つ言ったんだけど、結果的にそれが非常に強い悲しみとかあれを導き出してる。これが無意識に写すということともつながってくるんですね。

井上 その通りだと私も思います。二つの穴はただの穴ではなく、既に作者の感覚のなかで哀しさの穴として眼に映り完結していたのでしょうね。それ以上に語れない、語りたくなかったのだと思います。つまり勉強して意識を高めれば立派な作品ができるかと言ったら、訳が違うということ。それはそれで別の役割で磨かなダメなことが当然ありますが。感性っていうのはもっと自由で、そうでないと二つの穴は見えなかったでしょうね。で、そこで無意識の問題ですね。先ほど身体とか申してましたけども、無意識っていうのがいかに大事かと。意識的なものは他者が意識を動かせばすぐ読めてしまうんですね。無意識のものに対しては、他者の意識が働いても読み切れないものが。もうちょっとわかりやすく申し上げますと、自然界というのは意識の世界では全部読み切れないと思うんです。ところが造園であるとか植物園であるとか、自然物を意識的に配置された空間というのは大抵は読めますね、意図だから。ところが、無意識っていうのは、その外側に展開する感受性の世界。仏教的には阿頼耶識という言葉が使われますけども。理解や納得は予想以上に忘れやすいものです。無意識の世界に働いたことは、演算能力のソフトウェアではなく、存在のハードウェアに組み込まれるということかもしれません。心に残る、忘れ難い、ということはそういうことだと思っています。三つ児のたましいのように。そしたら無意識の世界にはどうして出会えるのか。発見ではないと思います。出会えるのかということは、言葉で言えば、自由自在になるということだと思うんです。どのように説明をしようか、これをこういうふうに持っていきたいなとか、観念や意図みたいなものをいかに外すかということではないかなと思うんです。

◆選ぶ側の創造性

永田 ちょっと話題を変えますとね、歌は言葉をつなぎ合わせて一首にする、それは意識しようとしまいと、自然に出てきた言葉であろうと、言葉をつなぎ合わせて一首という枠の中に持ってくるのが歌だと思うんです。写真の場合は、シャッター押すことで自然をどんどん切り取ってしまう。以前、井上さんのお話を聞いて印象に残っているのは、「とにかくフィルム代が高うついてかないまへんわ」という話があって、それで写真家はそれで貧乏なんですって言っておられた。そんな撮り方のなかで、作者は写真を撮るときにいるのか、何百枚撮った中から一枚を選ぶときにいるのかという、この問題も我々とはちょっと違う位相としてあると思うんです。どちらですか。

井上 両方ともありますね。まず撮る時も選ぶ時にも。僕は、想像ですけど、短歌の場合もスケッチをされ、メモをされる。それで、改めて推敲されるのと同じだと思いますね。

永田 そうですね、推敲の問題ですよね。

井上 はい、推敲の問題です。写真の場合はその推敲、選ぶという段階で自分なりの表現意識というのもある程度活用していくと思いますね。推敲と似てると思いますけども。撮る時にはそのままの事実そのものと如何に自分が接しているか、そのことを思い起こしながら。

永田 別の言い方をして、撮る時は感性で、選ぶときは理性という言い方はできますか。理性でもないですか。

井上 ある意味でできると思います。撮る時も理性が全く働いていないということもだめかなと思いますね。それで、最初の話に戻るんですけども、ある種の広い意味の言葉を持っていく場合がありますということになりますね。僕の場合は。その比重、パーセントの問題ではないかなと思うんです。論理性っていうのは説明に流れやすいので非常に抵抗ありますね。

永田 我々の方の文芸の問題意識から言うと読みの問題ということになってくると思うんですが、自分の歌あるいは人の歌をどんなふうに読むかという。当然井上さんなんかだと審査員として人の写真を見る機会は非常に多いわけですけども、自分とは全然モチーフも違うし、感性も違う人が撮った写真で、それぞれのコンクールで選ぶという時に何が一番大きいですか。

井上 僕自身が迷っている所をずばりとおっしゃったんですけども、人の作品をどう見るか、見えるかということですね。審査をしている自分自身への問いでもあるんです。ということは、自分がいかに幅広さを持っているかということとイコールだと思うんです。何をもってということはなかなか言葉では言い表し得ないのですけども、やっぱり感覚の問題であるとか、情感であるとか、空間を感じるとか、いろんな要素があると思います。強弱があると思いますけども。抽象的ですけども、型よりも形、正調よりも乱調、固体よりもゾルかゲル状、かといってベタベタよりもさっぱりと、完成よりも未完成、止まっていても動いているもの、綺麗すぎず汚すぎず、古くも新しくもなく、断定や否定もほどほどに、等々、数えあげればまだまだありますが、何かそういう曖昧さも孕みながらある種の明快さを求める部分ってあると思いますね。

永田 実はね、人の歌を選歌していて、もちろんある水準にあるのを採っていくというような結社の中での選歌というのと、それからいろんなコンクールでこの一首を特選にしましょうという選びとまた違うと思うんですけども、とにかくいいのをどれか選びましょうというような時にも、おお、こんな感じ方もあるのかというね、自分になかったものをそこに見出す時っていうのが一番選者としては触手が動きますね。つまりいかにうまく言葉が使ってあっても、既視感のあるようなものはやっぱり選びたくないという。感性なら感性でもそうだし、事実もそうなんだけど、おお、こんな物の感じ方あるいは人の悼み方、悲しみの表現があるのかというようなとこでこちらにどきっとさせてくれる、それを選べた時は自分でもやったなという気がしますね。

井上 ええ、それは同じですね。全く同感です。やっぱりそこに自分も私も知らないその創造性。それが選ぶということではないかなと思いますね。だから、選ぶということは選ぶ側の創造性も問われているのと同じだと思います。経験上それは解るなあというもんではないことは確かですね。未知であるということに対しての驚きで選ぶということもありますね。

永田 作者が訴えたいと思ってることが伝わってくるということは大事ですか。

井上 そうですね、それが一つと、作者が本当にこちらの感じていることを作者もそう言いたいと思っているかどうかということも思いますね。

永田 例えば、大石芳野さんのように、アフガンの難民を撮ったり、いろいろ社会的な事象、戦争とか貧困とかをぜひ伝えたいという、ある種の使命感があって撮っておられる方があります。一方で荒木経惟のように、何かもうすごい破天荒で、めちゃくちゃで、何言いたいのかようわからんというような作者もある。また一方で井上さんのように非常に芸術性というかな、そういう言い方は失礼なのかもしれませんが、そういうものを感じる写真家もいると。これは当然同じレベルでは話はできないですね。例えば井上さんが審査をするときに、そういう例えば社会性を持ったようなものがあるときに、自分の感性とは違うけれどもこれはいいという認め方もしますか。自分の感性とは別のものとして。

井上 例えば、ピューリッツァー賞なんかの写真見ますと、たった一枚の写真が世界の人々に戦争はNO!であることを語りかけてくるなど、ものすごいものがあります。そういう社会的な意味合いを持った写真も当然写真にかかわる人間として審査の眼の中ではあります。幅広い眼力を問われてるんで、逆に。

◆限界の持つ強さ

永田 素人ついでにプロの写真家に失礼だけど、例えばね、言葉で単純化っていうのは比較的わかりやすいんですよね。ところが、我々がスケッチするときに、この電柱一本引き抜けるかどうか、つまり無視して無かったことにして描けるかというのがなかなかできない。写真だったらもっとできない。写真とか絵画で単純化というのは一体何なのだということをもうちょっとお聞きしたいんです。我々は結局邪魔な電柱があると、これを入れて見てるわけだから入れたのが本当なんだけども、この電柱がなかったらもっと焦点が引き立つだろうなんて思うときはあるわけですよね。これはどうなんですか、引き抜くことはいかにプロといえどもできない、それはどうされるんですか。

井上 その時は、今はパソコンが発達してますから消すことはできるんですけども、それはちょっと(笑)。その時は撮ることを諦めます、僕の場合。

永田 そこにあるものは受容する。

井上 ええ、諦めるか、受容するかのどちらかですね。受容してそれを自分の表現の中に取り込めるかどうかですね。

永田 ああ、なるほどね。写真でこの部分が絶対に訴えかけてくるというものがあって、それが広い画面の中でほんの一部であっても、それがフォーカスというものだと思うんですけども、我々言語を扱ってる人間というのは、このフォーカスというのは割と絞りやすい。つまりさっきのテレフォンカードの二つの穴のような形でそれを引き立たせることはできるんですけども、写真という二次元の世界の中である作者が撮ろうとするときのフォーカスというのは実際にはどんなふうに意識されるのですか。

井上 ビジュアルな上で、技術的な意味でのフォーカスと、精神的な意味のフォーカスなど、幾つかあると思うんですけども、やっぱりフォーカスという意味はすごく大事ですね。焦点を絞り上げる作者、絞り上げられた焦点そのものが作者になると思いますから。

永田 それは単純化ですね。

井上 いわば単純化です、はい。

永田 それは言葉の上では言うのは簡単だけど、実際にはどうなんですか。

井上 やっぱり絞るとか、焦点とかは、作者はどのように然りと決するかということと同じではないでしょうか。画面構成や色彩などもさることながら、単純化は決して単なる断片化であってはならんということでしょうね。それと、諦めは放棄ではなく単純化への自己コントロールの一つだと思います。単純化はそうそうなかなか単純なものではないようですね。単純化して光り輝く。その困難が楽しいことでもありますね。画家の場合は必要とするものだけを描けばいいんですけども、写真家は諦めることをすごく強要されてるんですね。それが辛いところです。だけど、その諦めるということの潔さが逆に行きすぎたこだわりを捨て開き直ったエネルギーになる時がありますね。集中力にも。だから、常に諦めて諦めて。諦めの美なのですかね。

永田 それは非常によくわかるなあ。ある種の限界というものをお互い持っているんだと思うんですね。どんなに頑張ったって、社会の複雑な年金問題の全貌を一首の中に盛り込むことはまずできない。写真も一枚のフレームではどうしても表せないものもあるし、一枚のフレームからどうしても取り除けないものがあってギブアップということもある。その全部が言えないからこそおもしろいんだという形で我々はどっちかというと開き直ってる。

井上 そうですね。だから、言葉の限られた世界とか、写真のフレームなども物理的に限られてるからこそ、この葉っぱ一枚の緑がきれいなんやということを言い切ることの力強さに繋がってゆく。あれこれ、中華丼か五目飯みたいにやるんじゃなくて言い切ってしまうことの潔さ、そこに何か賭けるのでしょうか。

永田 我々は作品の批評を言葉でもってしますが、これはあんまり抵抗ないんですよね。イメージとして定着した自分の写真なり人様の写真なりを、言葉で批評したり説明したりすることは本来的な自己矛盾じゃないかと思いますけども、そういうのはどうなんですか。

井上 言葉には変えられませんよね、基本的に。だからこそビジュアルの世界、言葉の世界っていうのが。だから、仮の糸口を講評なんかで飾るということですけれども、それはある意味、鑑賞する人へのサービスに過ぎませんね。どういう入口から見てくださいよということなのかもしれませんけども、講評してる時に反省もしますね。こういう言い方していいのかどうか、すごく限定してしまっていないかと。むしろ黙って写真そのものを見てもらった方が、よりこの作品の本質を見ていただけるんじゃないかなということは常々感じています。だけど、社会現象として、講評は日常的にありますね。

永田 歌ってのは誰もが作れる詩型なんですけども、短いがゆえにそれになじんでない人にはなかなかわかりにくいっていう、これも致命的な欠陥があるんですね。僕も最初に現代短歌なんて読み始めたときは何言ってるか全くわからなかった。省略があり、飛躍がありで、慣れないと読めないというのは紛れもない事実です。写真にもやっぱりそういう見る訓練というのは必要なんですか。

井上 必要だと思いますね。言葉の省略や飛躍よりは、別の意味で解りやすい面が写真にはありますが、見ることを養うために、ジャンルの違うものも勉強せなだめだと思います。

永田 写真家の間ではそういう訓練の場っていうのはあるんですか。見る訓練の場。何が目を養うんですか。

井上 本人の意識の問題だと思いますけども、何より見えている現実をしっかりと見るというのが訓練といえるかもしれませんね。

永田 それは、要するに自己努力。

井上 と思いますね。貪欲に外の世界何やろということを思うしかないですからね。見ることは食べることだと思いますね。

永田 基本的に短詩型文学で、一人で読んでてもやっぱり読みはうまくならないという気がする。歌会などで読みを鍛えられるわけですが、それは今井上さんおっしゃった自己の努力というのとはちょっと違う。写真ではみんなで写真を批評し合う場がないということは、あとはすべて自己努力で見られるようになれと言うことでしょうか。

井上 歌会に似たものは、アマチュア的な集団ではありますね。プロ同士っていうのはあまりそういうことをやらない。何かすごく過激になる可能性もありますね。個性と個性のぶつかり合いが起こって。美術の世界とも同じように、直感や感覚そのまま近いものは取り扱い注意という空気が作家同志の間には漂っていますね。

永田 井上さんなんかは自分の作品をあんまりプロには見て欲しくないと思ってるわけですか(笑)。

井上 いや、そういう意味ではなくて、作家間で質問などしますけれど、あまり深入りしないでね。それをもって講評し合うとか、そういうことはあまりしないですね。短歌の世界ではかなりレベルの高いとこまでいってもそういうことが行われるということですよね。

永田 ええ、そうですね。

井上 言葉は言葉独自の味があるように、写真の場合、言葉に譬え難い語り難い内容も含んでいるからかもしれませんね。技術面は客観的に語り合えるのですが。

永田 僕自身はね、自分の作品をレベルの高い人たちだけ場の中で読んで欲しくはないという気がして、まったく素人に近い人も含めた歌会というような場を持ってるということが、自分の作歌にとっては非常に大事だという気はしてますね。

井上 全く同感ですね。だけど、歌会にしろ、写真の講評会にしろ、その「場」のあり方や運び方が難しいですね。講評はあくまで感想の域を超えないものですから。

永田 短くて、玄人の文芸なので、放っておくとどこまでも深く狭くなってしまうことがあって、俵万智なんかはある意味で言うと、そこの革命だったんですよね。素人の目が大事なんだという。我々でも歌会なんかに行くと、ええ、そんな読み方ができるのかとかね、そんなふうにしか読めないのかとかね、素人の読みを含めてもういろいろ感じますが、それが結構肥しになってるなという気はします。

井上 写真の場合は展覧会とか写真集でとかに発表したときいろんなことが外で起こってると思いますね。よく知ってる者同士が作品についてどう思うかということを個別にやるということもありますね。いずれにしても、一人の個性を寄ってたかって傷つけたり、創造性を普通性にしてはならないと思います。個性が普遍性に発展する場であるよう講評会では特に気を配っています。創造的な技術も思想も、その出発は孤独なものと思いますから。

永田 一概には言えないのですが、歌人の多くは、また「塔」の場合でも日常というものにかなり近いとこで歌っていて、その歌の中にその人の時間という問題が出てくるわけですよね。歌集をまとめるときにも、その一冊の歌集の中にやっぱり多かれ少なかれその人の現実の生きた時間というのは反映されている。僕自身は最後に何をもって自分の作品活動に責任を持つかというと、自分の持ってる時間に嘘をつかないということだとこのごろ思うようになってきたんですけれども、写真家の方がアルバムをまとめられる、アルバムというのかな、写真集をまとめられる、そのときには、例えばそういう作者の現実というものとはかけ離れた世界ですよね。我々が歌集をまとめる時は、その三年なり五年なり作りためてきたものを一冊にそのまま時系列に沿って並べることが多いのです。一方で井上さんのまとめられた写真集を拝見しても、ほかの写真家の方の写真集を拝見しても、どちらかというとある種のテーマでまとめられているという気がしますよね。そのときに作者の時間というのはどんなふうにそこに反映されるもんなんでしょうね。

井上 テーマと時間ですか。

永田 つまり、もうちょっと大きな問いかけをすると、井上さんが写真家として歩んでこられたこれまでの歩みというものは何でもって見たらいいんでしょう。それはこれまで出してこられた写真集を一冊一冊見ていくと、井上隆雄という一人の人間が写真家として歩んできた歩みというの見えてくるものなんでしょうか。

井上 人はそうおっしゃいますけどね、僕らしいということ、本人はわかんないですね。

永田 つまりその井上さんの時間というのは何を撮りたいと思ったかということの変遷の中に現れてくるんですか。

井上 と思いますね。何に興味を持ったか、何を撮りたいか。その「……か」の思いの中に、背後に、僕の歩いた過去の時間が潜んでいて、シャッターの瞬間や作品に影のように入っているのでしょうかね。

永田 一年の三分の一か、それぐらいを山に籠もってると……。

井上 山に籠もるということをしたいんでしょうね。

永田 今の質問に近いんだけど、井上さんは写真家になって良かったと思っておられますよね、当然。

井上 たまたまカメラを持ってるということだけなのかもしれません。突然に短歌をやるかも。カメラの上に安住しているだけではダメかも。

永田 僕なんか素人から見ると、写真家ってのは結構きつい商売だなと思うんですよ。

井上 きついですね。

永田 で、それは我々とおんなじで、さっきもちょっと問題になったけど、素人と玄人の違いはほとんどないと。もう確定申告するだけかどうかという話になってくるわけで、その中でプロの写真家として生きてこられた。そこには、今韜晦しておられるけど(笑)、非常に強い自信もあるだろうし、そこに喜びも恐らくあると思うんですけども、写真家になって良かったなと思われるとこは何ですか。

井上 あんまり良かったなと思ってませんし、自信もありませんね(笑)。やっぱり何か物づくりをしたかったんでしょうね。それがたまたま写真機というものとの出会いによって何か合うものがあったんでしょうね。そこからずーっと進展してきて、この始末です。最初の話にちょっと戻りますけれど、見るということが写真にとっては最も大事な基本だと思います。見るということから自分を発見できるんではないんかなと、そういう試みと意識はすごく出てきました。

永田 ちょっと口挟ませてください。見るということと、そこから切り取るということには差がありますか。

井上 見ることと切り取ることの差は大いにあると思います。

永田 ええ、見るということはどこまでも見ることはできるわけで、見続けて、どういう深さまで見るか。そしてそこから何かを切り取ってくるということとは何がどう違うのか……

井上 それは眺めるということと、見詰め受け止めることとの違いだと思いますね。それは先ほどから話題になっている限るとか単純化も、要するに受動と能動に近い関係だと思いますね。

永田 写真はね、でき上がった写真というのは、見るのですか、見詰めるのですか、眺めるのですか。ビデオは眺めてるんです、あれは多分。

井上 そうですね。写真はやっぱり見詰め見詰めなおすことだと思いますね。

永田 見詰めるというからにはフォーカスは絞られてる。

井上 そうですね。

永田 そうすると、最初に無責任とおっしゃったのとはどうつながりますか。

井上 造る人のフォーカスと観る人のそれとは別の立場からのもの。撮った感動をそのまま同じように感動してくれと、観る人に強要することはもともと成り立たないこと。ですから責任が無いという関係なのですね。それから、責任、無責任という分別の理性は衒いの気持を起こさせ、純粋な感動が「人に伝える」という大義名分に乗って、ややもすると作品の商品化にも繋がるあやしげな心にもなると思います。作品づくりにおいては無責任こそ正直な真実であり出発点だと僕は思っています。写真の場合、目的によって異なりますけれど。

永田 要するに写真に意味付けをしない、説明をしない、意義を持たせない。写真も一枚の紙であるという、そういうことですか。

井上 おおよそそういうことですね。で、そこから何が飛んでいくか、発信されていくかということは、まあ、わしゃ知らんということかもしれません。だけど、その時に自分自身は真実でありたいなと思うわけですね。撮るときにもいい加減じゃなくて……

永田 真実でありたいをもうちょっと具体的に言うとどうなりますか。

井上 そうですね、被写体を前にして自分のありさまそのものに素直であるということでしょうね。

永田 撮ったものというのは、例えば今自然あるいはジネンということをおっしゃったけども、自然ではあっても似て非なるものですね。写真に撮る前に見ていた自然とは違うものですね。やっぱり井上さんが見た、あるいは切り取った自然ですよね。

井上 目の前にある自然という真実を見て、造るという真実があり写真という真実に定着されるということでしょうか。だけど、もとの自然と写真の中の自然は全く違う真実。写真はいわば嘘という真実そのものですね。

永田 それは自然から切り取ってきたというよりは自分で作り出したものであるという気は
しますか。

井上 ええ、そうですね。それは作り出したもの、できてしまった、作れてしまったものなのだと思いますね。

永田 そうすると、プロセスが非常に大事。

井上 プロセスが最も大事だと思います。

永田 プロセスは、でも読者には感じられない?。

井上 はい、見えないですね。作品はあくまでプロセスの結果で、作者が造ったすがたを通して、見る人は想像したり感動したりするということではないでしょうか。プロセスは人にそんなに見せるもんでもないと思いますし、恥ずかしいですね。

◆後の祭り・創作の楽しみ

永田 時々電話でお話をしたりしても、非常に楽しそうに山へ行ってくる、山に籠もるとおっしゃるので、羨ましいかぎりなのですが、それでは我々が歌人である喜びって一体何にあるのかと考えると本当にわかんなくなるんですけども、一つ言えるのは、できた作品そのものではないだろうと。それはもちろん嬉しいし、その作品が残ってくれるのは嬉しいし、いろんな人の口の端に上るのは、こんな嬉しいことはないんですけど、何が歌人であることの楽しさかというと、もうちょっと違う、今言われたプロセスかなという気もするんですよね。

井上 プロセスを楽しんでいる身体かもしれませんね。作品というのは後の祭りですよね。後の祭りって、あれ良くない意味じゃなくて、祭りなんですね、まつりごと。後の祭りについて評論とか、いろんなことが起こってくると思いますけども、それはもうプロセスそのものとは別の世界で動いていることであって、そのことによってプロセスそのものにフィードバックしていってプロセスそのものに影響を及ぼしていいのかどうか、疑問に思ってます。そうなると、評論とか、相対性によってプロセスそのものを方向づけてしまうという最も危険なことが起こってくる可能性もあると思います。だから、後の祭りというふうにそこに結界をつくってないと創造性において非常に危険な気もします。

永田 そうすると、井上さん自身に写真家としての時間というのはそのプロセスにあって、作品そのものではないということですかね。

井上 作品そのものではないですね。だから、作品は印画紙とか印刷物であるということに過ぎないんです。だから、そこから醸し出される何かを感じてもらった人は私自身のプロセスにどこかで通じる面も感じて下さっていることではないかと思いますね。そこら辺が、作者がいて、作品があって、見る人がいて、結ばれるもの、それが作品の生命かなと。

永田 井上さんが俺は写真家で良かったと思われた瞬間ってどこかでありますか、何かの時に。

井上 それはあります。やっぱりね、すごく感動した時。自分は今ここでこの感動をとどめることが即できるんだということ、そこでシャッターの瞬間、醍醐味っていいますかね。そのシャッターの瞬間に、震えるようなことがありますね。作品ができたというよりも、そこで感動してるんだ、歓喜してるんだということなのでしょうね。その瞬間は万感なのですね。

◆間の大切さ

永田 最後に、歌についてお聞きします。短歌というものをどう思われるかという言い方は余りにも概括的ですが、お好きですか。

井上 短歌は、勉強になりますね。小説とは明らかに違いますね。限られた言葉の中で何かを言う、表現する。この極意みたいなものは写真とも近いものがあり、勉強になりますね。写真の場合は現実に見えているものにレンズを向けて、そこでその刹那を切り取るわけですけども、短歌は選ばれ限られた言葉を通して空間がどんどん広がっていきますよね。その広がり具合を、カメラを通して見えているものに、どのように含めていくかという、そういう訓練になると思っています。

永田 ああ、そうですか。歌でも……

井上 俳句でもそうですね。

永田 俳句なんかも特にそうなんですが、切れ字でもって二つのイメージが衝突する。歌でも上の句、下の句の衝突の間に見えてくるものが何かあると。写真なんかでも組写真というのもありますよね。

井上 ありますね、〈間〉ですね。

永田 〈間〉ですよね、あれは。組写真というのは一枚一枚の写真の和じゃなくて、組まれていることに対する〈間〉を感じてほしいという。

井上 その辺が短歌も俳句も日本の独自の文化ですから、日本の文化は〈間〉の文化と言われるゆえんだと思うんですけども。写真の世界でもやっぱり日本的写真というのはあると思いますね。日本人的写真ていいますかね。今おっしゃった組写真の間、これもまさに〈間〉だと思う。その間というのは、写真一枚一枚に値打ちがあるだけではなくて。言葉の間、激突の間、などなど、そこに結ばれるものが、作者と読んだ人、見た人との強烈な結びつきにつながっていく。だから、媒介そのものだけで結び合ってる段階ではまだまだその結びつきは僕は弱く、本物とは思えないですね。

永田 井上さんは、でもあんまり組写真は……

井上 殆んどしないですね。

永田 お嫌いなんですか。

井上 いや、嫌いじゃないです。連作はあります。単写真の密度を高めるだけで精一杯ですから。

永田 僕も見せていただいたことあるんだけど、銀閣寺近くの画廊で個展をやられて、非常に少ない数の写真で、十枚ほどでしたっけ。どれもが同じようなイメージなんだけど、もちろん違っていて、それでいてある種の雰囲気というか、気配があった。

井上 その節にはありがとうございました。あれも連作です。組むというのは僕にはちょっと難しいかなと思ってるんですけども。

永田 でも、連作でも一つの写真の前から次の写真のに移る一歩の、この間にやっぱり〈間〉というのはありますね。

井上 あります、あります。その間を無視しては連作も弱くなりますから。

永田 それはどれとどれを順番に展示しようかという時に作者の……

井上 会場構成をするということはまの構築ですね。組写真と連作では間のニュアンスは微妙に異なりますが、その空間の中における構成ということになりますね。だから、その会場に入られた時の最初の瞬間的な気配が、僕は大事だなあと思いますね。もう一つ大切なことは、間の気配や意味が一枚一枚の写真を決定的にまで支配してしまう可能性があるということですね。

永田 今日は最初から、打ち合わせなしで行き当たりばったり行きましょうということでお願いをしていて、僕の司会の所為でうまくまとまったかどうかよくわからないんですけども、最後に何かもしおっしゃりたかったことがありましたら。

井上 いや、いろいろと勉強させていただきありがとうございました。

永田 ただ、すごく共通するところが大きいと思うんですよね。

井上 それだけに、これだけいじめられるとは思いませんでした(笑)。共通する部分が多いからこそ、いじめられてる感覚が出てくるんですね。下手なこと言ったらと、冷汗たらたらでした。

永田 どうもありがとうございました。

        (二〇〇六年五月二日)

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