塔アーカイブ

2007年9月号

●五味保義

永田 五味さんが編集をやられるようになったのはどういう、文明さんが君やれということになったわけですか。

清水 あれは五味先生は赤彦の死後、文明先生についてたけども。あれは昭和七年ですか、土屋先生が中心になったのは。斎藤家の問題でね。だから二十五周年記念号なんてのはね、先頭指揮は土屋先生がとったらしいです。昭和八年一月号だから、斎藤先生はまだほら。

永田 なるほど。だんだんともう五味さんが文明さんを手伝ったんでやがて中心になって。

清水 そうなったと思います。やっぱり土屋先生ね、戦後のことがあるんで人柄見たんじゃないかな、この男なら真面目にやるだろうっていう。

永田 五味さんてどういう方でした。

清水 僕らの学生時代のあだ名はね、五味朝臣て言った。お公家様みたいだった。まあ品のいい人ですよ。これは僕は不思議な縁で、大学の二年のときかな、五味智英さんと一緒に下宿してたんですよ、五味先生の一番下の弟さん。男兄弟はね、保義の下が礼夫、礼儀の礼に夫。群馬大学の教授やってた。高等師範の生物出身。一番下の智英さんが東大でしょう。何か僕はね、山崎に言われたんだ。同じ下宿にいつまでもいるとだめだぞ、気分変えろ、下宿移れって言われてね、それで山崎と五味先生と僕と大塚の駅の近くの喫茶店でコーヒー飲んで、じゃ移るかなって言ったら、「じゃ、弟のとこへ下宿しろ」と。「えっ」と言ったら、「落合君が結婚するんで後あくから行きたまえ」って、世田谷なんです。大塚の学校なのに、世田谷へ下宿したんですからね、巣鴨から引っ越して。仲間に「おまえ馬鹿だ」って言われたんですけど、しかし、この半年が勉強になった、智英さんと暮らして。

永田 ああ、そうですか。それ何の勉強ですか。

清水 学問ですよ。智英さんは万葉専門でしょう。漢文の影響を調べてるでしょう。「渡辺君、『書経』は何篇だ?」「はい、調べます」って調べるんだから、不勉強なこっちは。

永田 幾つぐらい違ったんですか、清水さんと。

清水 智英さんはね、あれ幾つになってたろうね。病気してあれ一高で足踏みしたのかな。僕は保義先生とは十五違うんだから。間に妹さん弟さんいるから、十は違わない、五つかそこらじゃないかな。この間中西さんのエッセイ集『父の手』というの読んだら、智英さんに教わってるんだね、あの人、万葉だから。智英さんてのはおもしろい人でしたよ。ざっくばらんでね。「兄貴か、兄貴はな、あいつは神田へ行って値切れねえんだよ、あいつはな、」って調子で言うでしょう。五味先生は、「この頃弟どうしてる、」と僕に言うんですよ。「兄弟だけど、君の方が知ってるからっ」て言って。

永田 五味さんは「アララギ」の編集その後長かったですね、一番長かったですね。何年ぐらいやったの。

清水 何年やったろね、あれ病気になるまでだから。ちょっと年譜を見たりしないとね。後、吉田正俊さんでしょう。保義先生病気したからですよ。病気しなきゃ死ぬまでやったんじゃないかな、あの調子でね。

永田 五味さんは「アララギ」の若い人たちからは総攻撃の的になったでしょう。

清水 「頑固五味っ」てことになっていましたよ。あの頃の「アララギ」を「五味アララギ」と言う悪口もあった。独占してるってんでね。しかし要件はみな、茂吉・文明・岡麓にうかがい立てて決めていましたね。「番頭編集は大変なんだよ」と言いながら。

永田 それで、清水さんの歌にもね、「五味さんもなあと言(いひ)止(さ)ししまま帰り急ぐ君を見つめて吾は立ちたり」というのがありますよね。
  ・歌(如63・「停雲」より)

花山 これは誰のことですか、君をって、落合京太郎さん?。

永田 落合、ああ。その「なあ」というところはなかなか。つまり我々はね、「アララギ」で言うと孫の世代に当たるわけで、何となく先輩から断片的に知識を得ているわけなんです。そのときに五味さんの話なんかも断片的に聞くんだけど、よくはわかってないね。

清水 そうでしょう。大体、生きてる頃に信州の諏訪で五味保義を知らない「アララギ」会員がかなりいたそうですよ。だからね、田舎へ行くとそういうことになっちゃうのかなと思ったんですけどね。

花山 赤彦の弟子なんですよね。

清水 短期間。入門してすぐ亡くなったから。五味先生のおばさんがアララギの会員だってのは重要なんですよ。それで入ったから。妹さん、宮地君の亡くなった奥さんのお母さんの三枝さんがやっぱり「アララギ」会員で、これは一度僕はお会いしてるんです、諏訪行ったときにね。「アララギ」での成績は妹さんの三枝さんの方の方がよかったって言ってたね。

永田 五味さんは「アララギ」の編集長ですわね、いわば。「アララギ」しょって立つと。そのときに、戦後特に、岡井さんなんかの世代もそうだけど、若い世代が入ってきて、野場鉱太郎とか、関西では若い人たちがいて、それで「アララギ」批判というのがどんどん起こってくるわけですね。五味さんはそれをしょって立ったわけですか。彼らは土屋文明の批判を全然しないですね、若い人たちは。

花山 何か五味っていうと悪者の代表みたいな。

清水 目の前にいるからやっぱり目ざわりなんじゃないかな。そして、五味先生は優しく物を言わないからね、肝心なことだけすぱっすぱって言って。「なあなあ」っていうとこないんです、五味先生は。

永田 でも、貴族みたいだったんでしょう。

清水 それはそうです。だからね、京都帝国大学でね、あれはね、何とかいう詩人がいましたね、有名な。ちょっとど忘れした。伊東静雄か。あれ同級でしょう。

永田 ああ、そうですか。

清水 伊東静雄が歌やって、赤彦の歌なんかも勉強してるんですね。ところがね、五味がいるんでだめだっていうんで、歌やめて詩へ行ったという伝説があるんですよ。もう一つはね、五味が気どってるんで嫌だっていう。高等学校から行くと、ほら、蛮カラでしょう。一方高等師範でも特別、保義先生はね。これは僕が北園高校の校長のときに霧ヶ峰に寮があって、それで赤彦のお宅へひょっと寄ったら、不二子未亡人おりましてね。「私は五味門下です」って言ったら、「あのお宅はしつけがいいから」と言っていた。これは重要だと思ったですよ。なるほどそこから来ているのかなと思ってね。とにかく、居住まいのきちっとした人でしたよ。だらしないこと見たことないですね。飲むと怖いです。

永田 何でみんな五味さんが目ざわりだったんですか。

清水 煙たいんですよ、とにかく、真面目な人間だから。「なあなあ」ってのがないのは煙たいじゃないですかね。

花山 歌の内容ではないんですか。

清水 ないでしょうな。とにかく真面目すぎるんだね、人間が。そういう意味ではとっつきにくかったでしょうね。

永田 近藤芳美さん、高安国世さんなんかは若手からどんどん推された方でしょう。それと五味さんなんかはどうだったんですか。

清水 やっぱり考え方の違いあったんじゃないですかね。僕はね、「アララギ」のこれぞっていう知ってる連中の年表を作ったことあるんですよ。第一世代の最後が土屋文明ですね、第一期。第二期がね、これが五味、吉田、あの連中。その次が短期間で佐藤佐太郎、小暮、近藤、その次が僕らの世代、次が岡井君の世代、次が大河原の世代と。僕は四期になるのかな。五期がそっくりいなくなったでしょう。あれじゃ「アララギ」終わるの当然だと思ったですよ。

永田 岡井さんの世代って「アララギ」ではやっぱり一時ありました?岡井さんは「アララギ」ではあんまり活躍してないね。

清水 だから、あの頃はね、発行所の手伝いはやっぱり細川謙三君とか、吉田漱君とか、後藤直二君とかね、ああいう連中が、僕らも一緒にやってましたけどね。やっぱりいわゆる戦後派って感じはしましたよ、考え方が。

永田 細川さんだったらやっぱり「アララギ」という感じだけど、岡井さんはもう「アララギ」じゃなくて「未来」という感じですね。

清水 あれはね、「アララギ」に出しててね、「未来」が出ても「アララギ」に出してましたよね。その頃僕は岡井君の歌を褒めないで五味先生に叱られたことあるんですよ。君はこの歌の新しさがわからないのかと言われて。後で考えて、五味先生決して旧弊じゃねえなあと思ったんですよ。だから、恐らく嘱望してたんじゃないか、中でも。

花山 そういうの全然外へは出さないで敵になってるわけですか、五味さんて。

清水 言わないですね。

永田 清水さんが五味さんと多分一番長くつき合われたんだと思うんですけど、五味さんから受け取られた一番大きなものって何ですか。

清水 あれはね、家庭的なお世話にもなってるんですよ。女房が死ぬときに、まあ恥ずかしいけどね、友達もね、親戚も、兄弟も誰も援助してくれないのに、五味先生から多額の金円をいただいてるんですよ。その金は恐らくね、あれは僕はある人に聞いたけどね、先生きらいな色紙を書いて、そしてお金にしてくださったらしいです。それとね、五味夫人と僕の死んだ女房は不思議な近づきありましてね、というのは、あの頃の「アララギ」はね、例えばくしゃみ出ても出(いで)月(づき)病院なんですよ。

永田 くしゃみが。

清水 小松三郎さんの。ちょっとしたあれでもかかる。小松先生にかかれば治るんだってわけなのね。私は、娘を盲腸炎手術してもらってます。女房はヘルニアと乳がん手術なんですよ。で、出月病院入院していて、五味夫人がお見舞いに来てね、女房と意気投合したんだそうですよ。それで「何話したか」と言っても絶対に女房言わなかったですよ。五味先生は「勤め終わっても真っすぐ家へ帰ったことがない」って言ったそうですよ、五味夫人が。発行所へ行っちゃうと。そういう点でね、僕も似てた。結局休みっていうと奥沢へ来てた、我孫子から来ちゃうんだからね。五味夫人と女房とは意気投合したと思うんですよ。僕が再婚したときの五味夫人の機嫌の悪いこと、口きかなくなっちゃった。変な話でね。再婚するとき五味先生に来てもらったが、五味先生の祝辞っていうのがね、僕の娘に呼びかける形で死んだ女房のことばかり言うんですよ。その再婚は二か月でぶっ壊れちゃったけどね。それで、行って報告したんですよ、「離婚しました」って言ったら、五味夫人の言うことは、「ああ、よかったわ」って。

永田 やっぱり昔の結社ってのは本当に家族同士のつき合いですね。

清水 そうですよ。僕は特別だったんでしょうけどね。弟子関係と先輩後輩っていうのはすこし違うね、やっぱり。先輩後輩は師匠と弟子よりも濃いです。

永田 五味さんは清水さんにとっては先生ですよね。先輩ですか。

清水 先生は大先輩、大正十三年卒業。僕は高等師範もし卒業すれば昭和十三年だな。十五違うわけでしょ。

花山 先生って呼んでらしたの。

清水 呼んでました。嫌がったけどね、嫌がったけど、しまいにはもう何も言わなくなっちゃったね。

永田 清水さんにとっては自分の先生ってのは文明さんですか、五味さんですか。

清水 斎藤先生も先生ですね。あとは「さん」ですね、皆。

永田 でも、自分にとってはどなたが先生だと。

清水 なにしろ最初の師匠ですからね、五味保義先生は。

永田 やっぱり五味さんですか。

●田中四郎その他

花山 ちらっと聞きますけど、田中四郎さんていうのは?

清水 特別な人でね、田中さんという人は。

花山 亡くなったんですよね、朝鮮で。

清水 これがね、田中さんの話は、あっちこっち書いたし、埼玉で講演やったのが「短歌研究」に載ったのかな、「埋もれた文学者」と題してね。私しかいないと思ったんですけど、伝える者が今ね。そしたら、神戸で俳句の人が『田中四郎ノオト』って本出してね。僕は、城山三郎の作品で一番好きなのは『鼠』ですよ。金子直吉っていう、鈴木商店の大番頭。『鼠』はおもしろいですよ。僕は城山作品で一番好きだ、文庫に入っていますけどね。土佐の出身でね、小学校しか出てないんですよ。それが鈴木商店てのの大番頭でね、彼が時代に合わなかったのかな、鈴木商店つぶれるんですよ。ひところ大学の経済部卒業生が就職は三井にしようか、鈴木商店にしようかというぐらいだったと、大変な総合社なんですよ。その金子直吉の奥さんが金子せん女という俳人なんですよ。「水明」って雑誌があるでしょう、長谷川かな女の。そのかな女と双璧だったらしいんですよ。僕の調べたあれではね。田中さんは和歌山の出身なんです。僕はいろいろ書いたけども、伝説があってね、和歌山のお殿様のご落胤だという説があったんですね。和歌山の盛り場の、今ならタクシー会社か。昔だから車屋の親方の養子なんですよ。親のわかんない養子たくさんいるらしいですよ。養ってたらしい。で、伝説があるんですよね。田中さんは品のいい美丈夫でした。男がほれぼれするような美丈夫、長谷川一夫式の美男じゃないんですよ。颯爽としてるんですよ。比叡山での「アララギ」安居会なんかの写真ではね、人より頭一つ上出てるね。まあ立派な人ですよ。

永田 田中四郎が。

清水 田中四郎さん。それでね、戦争中、出版文化協会の重役ですよ。部下に南條範夫とかね、柴田錬三郎、杉浦明平、樋口賢治、狩野登美次なんて皆部下なんですよ。何か会社は僕は聞いたところ、神田の東京堂、あの二階だったとか聞いたことあるんですけどね、調べてないんだけど。田中さんについてはね、私が、あれは土浦の航空隊から西宮の三重航空分遣隊へ転勤になったんです。関西学院の中の一部。そのときにあいさつに行ったんです、五味先生のところへ。中等出版株式会社(中等教科書会社?)って岩本町にあったんです、国策教科書会社。そこの編集長で重役なんですよ先生は。部下に山崎寛夫がいるし、小市巳世司がいるし、土屋草子さんがいたんですよ。初めて草子さんにお目にかかったけどね。先生は「そうか、じゃ、田中君のとこ行け」って、「一ノ谷だ、すぐわかるだろう」って。で、西宮から神戸へ休みの日に行ったんですよ。義経が逆落としをかけたってところだから、ずうーっと松原があって、崖の一番隅っこでしたね。こう石段があってね、上がったら田中さん畑耕しててね、美丈夫なんです。「私はっ」て言ったら、「あっ、来たよ、手紙が」って、五味先生から手紙行ってるんですよ。「僕は五味君のような先生じゃないからね」なんて言って、まあ親切な人でね。だが、べたべたしてない。そして、僕は三月ぐらいしか世話になってないんだな。毎週行きました。会社のあるときは三宮へ来てくれって言われて。「太陽産業」って会社。「どういう会社ですか」って言ったら、「いろんな会社動かしてる会社でね」って言ってね、総合商社なんですよ。で、海軍と結びついてるんですよ田中さんの。召集は或る方面のさしがねがあったろうっていうんですよ、陸軍のあれがあったんだろうっていう噂ありましたよ。だって、四十過ぎて陸軍少尉で応召してるんですからね。それでね、僕は歌を見せに三宮へ行ったら、頭丸坊主にしてて、「あれ」って言ったら、「そろそろお召しがありそうなので行李の整理してますよ、」と。行李に物を詰めて行きますからね、将校は。私は実は高野山の航空隊へ転勤になった。「あ、じゃ稲岡君のとこを紹介しておこう」って言って、で稲岡卯一郎っていうのに紹介してもらったんですよ。奥の院の近くの高野豆腐作り。おうちは橋本にあって、工場が奥の院の隣にあったんです。高野山は零下十五度ぐらいになるでしょう。だから、日本一の高野豆腐を作る。この人茂吉門下の歌人。童馬山房選歌の一人ですよ。高野山の安居会、稲岡さんが奮闘したわけです。僕が最初に会ったとき、「君は田中君の紹介だから会ったけど、じゃなきゃ会わないよ」って言ってね、えばってたもんですよ。「大体『アララギ』会員だって、来るやつは碌なやつはいない、」とか言って。高野山の森林組合の組合長で偉かったんです。

永田 清水さんは何年高野山におられたんですか。

清水 半年ぐらいじゃないかな。

永田 何か前お会いしたとき、清水さんの作詞をした歌碑があるんだっていう。

清水 うん、あるんです。歌碑じゃなくてね、隊の記念碑の下の方に刻みつけてあるんですが隊歌ですよ。これはね、稲岡さんが随分手を入れてるんですよ。とにかく手入れなくちゃ気の済まない人でね。稲岡さんは茂吉門下だけど、岡麓先生を尊敬してね。僕はね、稲岡さんと田中さんと和歌山商業で一緒だったんじゃないかって推測してるんですよ。

永田 稲岡さんと田中さんが。ああ、そうですか。

清水 そうじゃないか、きっと。じゃないかと思うんですよ。聞かなかったけどね。また柴谷武之祐さんが稲岡さんと仲よかった。よく来ちゃ泊まっていったそうですよ。で、柴谷さんは、寒いからこたつに入って寝るんですよね。朝起きると、「稲岡君できたよっ」て一、二首見せに行く。「君はざくざくたくさん作ってくるからだめだ」って怒られた。大村呉楼さんとはそこで会ったんです。

永田 それは清水さんが。

清水 うん、稲岡さんのところで。大村さんは野菜もらいに来るんですよ、高野山へ。変な話でね、リュックサックしょって。

永田 まだ戦前ですよね。戦争中?

清水 でもね、食い物のないとこですからね、高野山てのはね。あれ岩盤でしょう、一つの山が。これは和歌山の大地震で僕はそれ経験してますよ。街歩いてたら眩暈がするんですよ。あれっ、俺貧血か、おかしいと思ったら、両側の家からわあーっと人が出てきてね、揺れないんです、びびびびびびびーって。一山が一岩なんだって。だからね、一メートルぐらい掘ると岩が出ちゃうから野菜できないって言ってましたよ。食い物は麓からケーブルで持ってくるんだって。そこへ野菜もらいに来たんですよ、大村さんは、これは不思議でね。

永田 そのときは清水さんは教官ですね。

清水 教官です。これね、教官は最初嘱託の教官なんです。で、嘱託期間が過ぎると教授。

永田 まだ教授にはなっておられなかった。

清水 土浦で教授になりました。土浦時代に。あれ僕はこれどっか講演でしゃべったかな、東大を昭和十二年に出た樋口寛って人が先輩格にいましたよ。その樋口寛教官の坊ちゃんが樋口覚。

永田 そうですか。

清水 そうなんですよ。僕は佐伯裕子さんの歌集送って来たのを見たらね、覚さんが土浦のこと書いてるんですよ。あれっと思ってね、待てよ、樋口覚。事によったらと手紙やったら、「寛は父です」って。そして、いろいろこう、手紙で話したかな。樋口寛さんのお父さんが樋口長衛といって、信州の女学校の校長で名士ですよ、樋口長衛。これは茂吉のヨーロッパ旅行の時の記念写真に載ってますよ、あだ名がブルドッグって言ったんだそうだけどね。長衛さんは開成で茂吉と同級なんですよ。東大では岩波茂雄さんと一緒なんですよ。これ僕が書いた、何かに。樋口寛さんて人はなかなか頭のいい人でね。樋口寛さんのお母さんが樋口志保子さん、赤彦門下の。だからね、樋口さんは短歌べったりなんですよ。

永田 覚、あれは僕のいい友達なんです。

清水 それで、後で樋口覚さんから父のものっていって幾つか書いたものもらったの。見ると赤彦の研究やってる。お母さんのことがあってやったんでしょうね。それから、五味先生の『島木赤彦伝』が「信濃毎日」から出てる。担当記者は樋口寛氏なんですよ。で、樋口さんは戦争終わって信州へ帰ったでしょう。近づきになったのが斎藤史さんなんです。覚さんはかわいがられたらしい、史さんにね。日本は狭いと思ったね、本当に僕はね。

永田 何か清水さんとしゃべってるとどこまでもつながっていくなあ。

花山 また戻りますけど、その田中四郎さんていうのは、戦争中の歌を大分つくられたんですか?

清水 戦地でも歌を出してますね。だけど、早くやっぱり戦争の将来見てたらしいね。それはそうですよ。僕らだって気づいたですもの。それでね、田中さんは一時浦和に住んでたことあるんですよ。なぜかというとね、つまり鈴木商店つぶれた後ね、京大国文選科で学び、教職を経て出版協会の重役になったって。勤めが東京でしょう。で、金子せん女が長谷川かな女と連絡したんでしょう。かな女の世話で多分浦和に住んだと思うんですよ。田中さんはその頃、土屋・五味を呼んで鰻をご馳走するんですよ。その鰻屋は今の僕の家の近くなんだけどね、名うての鰻屋なんだ。二軒ありましてね、近くに。それで五味先生の話はね、そのとき鰻屋のそばに、小さい沼あったんですよ。この鰻はこの沼のものかって言ったら、「うちは地物なんか使いませんよ」と、「浜松ですよ。」と。五味先生言いましたよ。「そのとき新しいテーブルの漆でかぶれて僕はひどい目に遭ったんだ」って。先生の随筆にありますね、五味先生の。浜松の鰻はどうかというと、利根川から持っていったんですよ。知らないでしょう。子供がアルバイトに土手からこうやって、ね、取る。鰻の子供、メソ、あれを仲買人が集めて浜松へ持っていって養う、そういうこと僕は詳しいね。変な話では僕は詳しいんですよ。

花山 利根川べりって鰻の店が多いんですよね。

清水 僕は手賀沼で随分釣った。

永田 今長谷川かな女の話が出てきて、松本清張の「菊枕」のね。小倉の杉田久女の旦那と。

●杉田宇内

清水 僕はこれは第一号なんだから。杉田宇内さんに光を当てた第一号ですよ。これはね、いつか金子兜太さんと話したら、へえーって感心してくれた。一緒に勤めたんです、小倉で、杉田宇内さん。僕はね、松本清張のも吉屋信子のもみんな大嫌いなんです。田辺聖子がややいいですね。田辺さんは終わりの方に個性の同居のこと書いてる。僕は個性同居のこと「短歌研究」に書いたことあるんですよ。つまり個性のある同士が一緒にいると。永田家なんかどうかと思うんだけどね、これは微妙なんですよね。

永田 大変ですよ、それは。

清水 ね、微妙なんですよ。僕なんかもね、うちのかみさん歌やんないんで随分助かったと思うことあるね。

永田 旦那はどうでした。

清水 宇内さん、これがね、まずあだ名から言うとね、バネってあだ名です、スプリング。歩くとき、こう歩くんですよ。なぜかってのは僕は戦後知ったですね。というのはね、ちょっと遠回りするけどね。なぜ杉田先生が絵を描かなくなったかというのは理由考えたんです。五つばかり考えましたね。杉田先生は小倉中学の創立のとき美校新卒で呼ばれてるんです。創立に呼ぶっていうのはよくよくの玉でしょう。小倉で僕に杉田先生のこと教えてくれた、大東文化出た藤井真次さんていう漢文の先生で、僕は同じ科なんでかわいがられたですけどね、美校では石井柏亭か杉田宇内かと言われたんだよって教えてくれた。だから、相当の玉なんですよ。それが一つ。

 次はね、これは久女のものはいろんなもの僕は見ました。俳句は切れ味がいいし、文章、字、絵、みんなすごいですよね。それだけの才女がぼんくら亭主を選ぶだろうかっていう事が一つある。これは重要ですよ、久女は目のきく人ですから。

 それともう一つはね、僕は生徒に宿題出して憲兵に調べられたことあるんですよ。夏休みにその辺へ行って碑文の漢文写してこいと、生の漢文教えてやるって言ったら、赤坂延命寺の丘へ行って宮本武蔵の碑を写したやつがお巡りさんに捕まってね、話が憲兵へいって、昭和十五年だから、憲兵が学校へ調べに来たんですよ。調べられた、僕は。こういうわけだって言ったら、その憲兵は君は東京の大学出た人だね、「先生、わかりました、わかりました。でも、先生ね、要塞地帯だからねっ」て。あっと思ったんですよ。杉田先生の絵も生徒の絵も風景画は一つもないです、小倉中学は。要塞だから。これは三つ目なんですよ。風景画を描かない画家はどうなりますかね。

 もう一つはね、小倉でこれぞって競争相手か話し相手いなかったんじゃないか、画家に。これ重要ですよね。それと、これは僕の持論だから、永田さんね。夫婦の場合に個性同居の場合にどうなるかと。絵描き亭主に文学女房、岡本一平夫婦、そっくりですよ。一平さんは道楽しちゃったですね。杉田先生は教育に頭突っ込んじゃったと。僕の論ではね、相手をより愛する方が身を引くだろうと。これが僕の論点です。これを金子兜太さんね、あの人は喜んで聞いてくれたね。「そうかそうか」って言って。

 宇内さんの絵はね、戦後、英彦山の「アララギ」安居会のとき小倉中学へ寄ったんですが、覚えてる。凄い自画像があった。八月七日、僕の誕生日だ。学校へ行ったら生徒いますよ。八月七日ですよ。小倉中学、僕の行ったときは日曜祭日なし、授業三百六十五日。朝は一時間前に劣等生指導、放課後が受験指導。

永田 何年ですか、それは。

清水 昭和十五年。それで、戦後に行ったら休みの日にいるでしょう。やってるなと思ったんですよ。しかも生徒はね、私がいた頃はね、下関、門司、八幡、小倉、戸畑、若松、その小学校のトップクラスが来るんです。で、上級学校へは全国で合格率第二位。私自身は中学時代に受験指導受けたことないの。僕は辛かったね。生徒のほうが知ってやがるんですよ。私の持ったのは三十三期。三十四期に添田博彬がいますよ、「リゲル」の添田博彬が。リゲルの大将で、福岡にいる。僕は教えてないけどね、有名だった。「入試後に、添田という、今度できるのが来るよっ」て言ってね。英彦山の安居会には、添田がいたんですよ。彼は言うことがいいの。「エノモト先生っ」て私を呼びやがるの。私、あだ名がエノケンだったから。「何だ、君はあだ名で俺呼ぶのか」って。

永田 杉田先生って何でああいうふうに清張は変えたんですかね。杉田久女の。松本清張でしたよね。あれだともうぼんくら亭主になって。

清水 ぼんくら亭主、絵もだめなんですよ。吉屋信子もそうですよ。これやっぱりね、大仏次郎の鞍馬天狗と同じでね、近藤勇を配置することで天狗党を光らせる。片っ方がよくて片方だめだと、これ書きやすいんですよ。だけど、個性の同居を書いたら難しいなと僕は思うんです。それを僕はある俳人に言ったんだ、書いてみろって言ったがだめだったな。東京にいるんだな、個性同居は難しくってねって言ってね。片っ方落とすと書きやすいって。それで、八月七日行ったらね、校長室、すっかり建てかわった校長室に、上半身裸体のもじゃもじゃ髭はやした絵があるんですよ。すごいですなって言ったら、「渡辺さん、杉田先生だよ、これ」って、教えてくれた先生があった。自画像。上半身描いたんですよ。すごい絵なんですよ。これ後で玉城徹氏に話したの。そしたらね、あの人は専門だからね、「歴史に残るような作品じゃないけど悪くないよ」って言ってた。僕は中学時代学校の絵の代表選手だったから若干わかるんですよ。

花山 絵をやられたんですか。

永田 剣道もやってたけど、絵もやってた。

清水 絵もやった。何でもやったんです。僕は町の青年のハモニカバンドでメロディ引き受けてね。それから、この間「青南」の会で僕の一番の持ち歌を歌ったので皆びっくりしてたけど、僕は高等師範時代クラスの演歌第一号ですから。

 とにかく田中四郎へ戻らなくちゃなんないけど。杉田さんはそんなふうにしてね、私は大した人だと思うんです。いろんな事情で教育熱心になったと。僕は感心するのでね。あの頃映画を見ると停学処分です。杉田先生は小倉の盛り場を放課後と休みの日には必ず歩いてたそうです、生徒指導で。あの頃教護連盟っていって各学校のスクラム組んだ生徒指導やってね、興業関係にはただのパスくれるんですね。だから、先生はパスを持って映画館入る。生徒追い出しに。追い出し方がね、ぱっと幕合いになると、ふっと出ていって正面に顔出すと、みんな生徒がぱあーっと逃げるんですよ。で、処分者が一人もいないんですよ。処分者の出ない生徒指導っての、僕は後年生徒部長やったけど本当大変ですよ。これはやっぱり見事な人だったんじゃないかと思ってね。一度私のクラスの生徒が何かやってね、私が説教食って、組主任が何で説教食うんだってむくれたことあるけどね、宇内先生やっぱり偉い人だと思いましたね。

 だから、それを最初に書いたのは玉城さんの雑誌「うた」になんだ、宇内さんに光当てて。その雑誌を名古屋の三宅千代さんが見たんだ。三宅さんから手紙来た。「私の父は宇内のいとこです」って。それで、そこから連絡が杉田夫妻の長女の石昌子さんへ行った。調布か何処かにいるでしょう。この間亡くなったっていったな。おふくろさんの復権で死にもの狂いでしたよ、女流俳人石昌子さん。それがおもしろいのはね、六十五年ぶりで、「西日本新聞」へ書いたな、僕はそれ。

永田 ええ、そうそう、僕それで読んだ。

清水 これを東京にいる藤井章生君という、小倉の卒業生、僕は知らなかったけどね、僕教えたんだそうですよ、受験指導か何かやった。歌も作らせたと言ってたな。それから手紙が来てね、杉田先生がペン画を指導したと。僕中学時代ペン画指導されたことないですね。ペン画なんて指導するってのはやっぱりいい先生ですね。絵はがき持ってきて模写させた。その藤井章生君というのは船が好きなんで汽船のあれ描いた。杉田先生がちょっとって立たせてね、いつまでも補筆してるっていうんですよ。クラスメイトがね、「バネは何でおまえのとこあんなにいたんだろう」って。」「わからねえ」と言ったてんですよ。後でいろいろ考えたら、それが箱根丸だっていうんですよ。杉田久女が句集に虚子の序文欲しくて、会いに行ったけど会えなかったっていう話題の箱根丸なんですよ。有名な事件です、久女の伝記では。

 それで、その藤井君は、どうも旦那の宇内先生が気になって、調べ調べていったらね、宇内先生に光あてた第一号の清水房雄にたどり着いたと。これ先生じゃないかって手紙来た、六十五年ぶりで。彼は編集者として活躍し、いま引退してるんですよ、病気してね。そしたら、彼から一期下の者へ連絡行ったっていうんですよ。これが中山君だ、中山幹、木の幹の幹で、モトキっていう。これが富田常雄の門下ですよ、姿三四郎の。僕は教えてないの。校内剣道大会で僕が審判したっていうんで覚えてるんですよ。体のでかいやつにひっくり変えされて面取れたらね、笑いながら面つけろって言ったって、僕が。それだけ覚えてるって。そしたらね、その中山君の手紙にね、驚いたね、吉田和人ってのが一緒だっていうんですよ。島田修二の雑誌「草木」の後やってるでしょう。電話したらそれがね、僕は教えてないけどね、「私小倉ですっ」て言うの。日本狭いと思ったね。ずうーっとつながっちゃうんですよ。おもしろいもんだと思ってね。

●白木裕

永田 もう一回ちょっと、じゃ五味さんに戻りまして、土屋文明さんもお聞きしたいんですけど、それぞれあっという、すごいおもしろかったというエピソードはお持ちですか。斎藤茂吉はどうですか。

清水 斎藤先生には僕は一回怒鳴りつけられたんだね。少数の歌会でしたね、あれは。あの頃の歌会は雑誌に載ったやつを批評するやつでしたよ。今「青南」では歌評会って言ってるんですけどね、歌会とは別にして。そういうときに僕は宮本利男の歌の批評が当たったの覚えてるんだ。彼は宇都宮連隊か何かに入った、戦争中ね。実際軍隊におっても戦地で弾を浴びてる者の歌と内地にいる者の歌では違うって言ったら、斎藤先生がじろっと見て、「じゃ僕の歌はどうなんだ!」って怒鳴られたね。「えっ」と思ったけどね、しばらくして、あっ、そうか、先生はニュース映画で作ったんだ。それ覚えてますよ。怒鳴りつけられた、あのとき。それからもう一つはね。

永田 そのときどう答えられたんですか。

清水 いや、僕は黙ってましたよ、どうしようもないもんね。それからもう一つはね、先生のはがき一枚僕は持ってました。茂吉記念館へ送っちゃいましたけどね。先生が「実相観入」とかいろいろ調べた。写生のこととか調べたことあるでしょう。あのとき「老子」か何かの例をね、第二次的な資料ですけどあげたらね、珍しいものじゃないけども、っていう感謝のはがき一枚もらいましてね。先生目配りしてましたよ。僕考えたんだけどね、僕がもう少し年とってたらね、茂吉の漢文関係調査で相当こき使われる危険があったなと思うんですよ。

 茂吉門下では白木さんぐらいでしょう、漢文専門家は。白木裕。この間僕は「短歌研究」へ書いたけどね。四国の出身でね、大東文化学院出て本式の漢学者で歌人だったでしょ。斎藤先生の書簡に出てきますね、これはいい書を書く人でね、「君の書は歌よりいい」って変な褒め言葉のはがきでね。白木さんの坊ちゃん素彦さんは、僕の内職の参考書書きの担当記者だったんだから、今八王子にいるけど、今もつき合ってるけど。で、白木裕さんの本名は豊臣の「豊」だけどね。別号は「素風」。最初白木素彦って名刺見て、「あれ」って言ったら、親父でしょうって。僕のこと、知っててね。後に素彦さんに大東文化大学へ連れていかれたら、その白木裕さんの蔵書が全部大東文化学院に入ってるんです。目録見たらとても僕の及ばない本式の漢学者でした。偉い人でしたよ。字のいい人でね。僕は白木さんの手紙と佐藤佐太郎さんの手紙、佐藤さんの字もいいですからね、これは自分が死んだあと値段がついて古書展に出ると自分の恥になるなと思ってね、御遺族に送っちゃった。藤沢周平さんの手紙も僕は五十数通持ってたんですよ。お嬢さんに送っちゃった。

花山 白木さんは原爆に関係あるんですか。原爆の歌が有名ですね。

清水 白木さんは岡山藩の閑谷黌のその名残の中学校に勤めてたんですよ。非常に立派な業績で、広島の西教授に認められたんですよ。それで、広島へ呼ばれて教授になるんです、広島高等師範の。で、原爆で、ご当人は自宅にいたんでしょう、だからけがした程度だけど、奥さんと二人のお嬢さんは街に勤労動員に行って被爆なんですよ。僕を担当した記者の素彦氏は少年で疎開してたから助かっているんですけどね。その白木さんの原爆の歌がすごいんですよ。僕は長崎の竹山さんの歌もいいと思うけどね、白木さんのはもうリアルタイムですよ。

花山 「やうやくに起きあがり見れば燃ゆる人顔の皮ぶら下げし人手の皮ぶら下げし人」。

清水 この下の句の傾向はそれまでの白木さんの歌にはないんですよ。どっちかというとかたい歌なんですよ、真面目な漢学者で。それがここでは破れてるんですよ、形が。近藤芳美さんが新聞に引いて書いてましたけどね。やっぱりこれはすごい歌だと思ってね。白木さんはその歌を起点に脱皮したなと思いますよ、原爆で。

花山 その後ずっと作られてた人なんですか。

清水 ずうっと作ってた人です。かたい歌でしたよ、どっちかというとね。「アララギ」の典型的な一面をこう受け継いで、生真面目な人だったらしいですよ。一度お話ししたことある、漢文の話はしなかったけど。坊っちゃんの素彦氏も真面目だな、あれはやっぱり。白木さんの歌はやあやあってとこないんですよ、ぶっ壊れたところね。

●アララギ王国

花山 そういう目立った「アララギ」の歌人が、のちには歌壇に出てきませんね。落合京太郎とか、そういう人たちはずっと作ってたわけですよね。

清水 落合さんなんて「アララギ」以外問題にしないんだから。総合雑誌の注文全部断っちゃう。総合雑誌から注文いくでしょう、断っちゃう、全部。あれも珍しい人だね。

永田 昔、「塔」でも、そうでしたよ、ある種。総合雑誌みたいなところでやるもんじゃないという、そんな風潮はありましたね。

清水 これは僕らの頃はね、名もないし、最初の『一去集』なんか出る時ね、五味先生に「君は無名だから」って言われたの覚えてますけどね。五味先生はやっぱり歌壇の集まりには行くんじゃないって言ってた。「出版記念会をやるな」って。僕一回もやったことないですよ。

花山 そういうんで歌壇にあんまり登場しなくなってるわけかしら。

清水 出ること嫌がってたんですね。もう一つは、地方の、「アララギ」は支部制じゃないけど、地方の親分がいますよね。これがやっぱりいろんな人がいたんじゃないかと思うんですよ、中央と違ってね。「アララギ」絶対主義ってのかな。僕の乱暴な理論によるとね、「アララギ」を頂点へ持っていったのは赤彦であり、「アララギ」の滅びる遠因を作ったのも赤彦だろうと思うんですよ。一種の閉鎖性。北信州。五味保義、北信州。

永田 やっぱりもう「アララギ」さえ読んでればいいというような、こういうのが非常に強かった。

清水 そうなんですよ。ですから、僕らもそばで聞いたことありますよね、先輩が中央歌壇について話すのを。総合雑誌は読まない方がいいっていう話などですが。

永田 いつ頃から変わってきましたかね、それは。

清水 今だってそういう人いるんだからね、老人の中に。総合雑誌は金かかるから読むなってのが。

花山 土屋文明はどういう考え方なんですか。

清水 斎藤先生も土屋先生も歌壇に顔出してましたよ。けんかもするけど出てた。つき合いはよかったんじゃないですか、そういう意味ではね。

永田 その前「アララギ」を作る前は左千夫なんかがね、どんどんとそういう鉄幹なんとか一緒にやったりした時期もあって、赤彦になって清水さん言われた時代の一つの王国ができてね。

清水 やっぱりそういう点では生まれ育った土地っての関係するんかなと思ったことありますね。風土ってものは絶対じゃないっていう説もあるけどね、ある程度。

花山 でも、赤彦が亡くなった後、ちょっと開放的にはなってたんじゃないですか、茂吉が中心になった頃っていうのは。

清水 やっぱり赤彦の作った牙城ってのは簡単に崩れなかったんじゃないですかね。ことに頂点に立っちゃうとね。今僕のとこいろいろ雑誌来るけど、小さな雑誌ほど勉強してるじゃないですか、すべてじゃないけどね。大きいところはやっぱり所帯持たせるだけで大変なんじゃないかと思いますね、考えようだけど。僕は左千夫と茂吉・赤彦のけんかしてた時代明治末年がやっぱり一番よかった、上り坂の急斜面をフルスピードでっていう感じしますね。

永田 上ってる時期ってのは一番元気がいいですね。

花山 「アララギ」は君たちのときで終わりだっていう歌がありますね。

  「アララギは君等で終る」と小暮言嘆くともなく責むるともなく
       『碌々散吟集』27

清水 僕は「アララギ」一千号記念号に書いたんですが。この前ちょっとまた用あって見たんだけど、あの一千号記念におめでとうという言葉どこにもないですからね。みんなある予感を持ってたんですよ。僕は、あそこに書いたかな、最初に予感したの土屋先生の発言じゃないかっていう考えをですよ。これは開成学園で歌会やったときに、「一つの文学運動が七十年も続くってどういうもんかね」っておっしゃったことあるんですよ。これ八十年と聞いた人もいるんですが、「あれっ」と思ったけどね、冷やっとしたことがあるんですよ。何だ、終わりじゃねえかっていうね。その後編集会議で落合さんがはっきり言ったんです、「アララギ」つぶせ、地方誌なくせって。土屋先生のその予感めいた言葉については、それを証明するような歌が柴生田さんにあるのだけど、不正確だといけないので、あとで調べてお知らせしましょう。

永田 そうですね。地方誌というのは、一時は「ぎしぎし」「フェニキス」を初めとしてあっちこっちにできて、「アララギ」を押し上げるみたいな形で働いてたんだけども、「アララギ」が戦後安定してから地方誌も小さくまとまっちゃって、力がなくなっちゃった。

清水 難しいんですよ。地方誌というのは支部と違うから本誌の方の命令権ないんですよ、地方地方の親分による独立国だから。地方誌の会員には「アララギ」会員以外がいっぱいいるんですよ。確かに別なんです。ただ、親分が「アララギ」会員だっていうだけでね。だから、「アララギ」の終刊のときなんか小市君それで一番困ったんじゃないですか、指示命令できないですもの、独立国に。

永田 随分それぞれ反対した人がいたんですよね。

清水 そうです。支部じゃないんだっていう。

花山 支部じゃないんですね。

●アララギの歌会・選歌

永田 戦後の「アララギ」の動きというのもお聞きしたいんです。ちょっとその前に、茂吉が怒ったという話ですけども、茂吉はやっぱり怒るときは怒鳴るわけですか。

清水 いや、さっき言ったそれだけ僕は覚えてる程度でね。ただ茂太さんや北杜夫氏の書くように、がんがん立腹するのまでは見たことありませんけどね、しかし相当なお化けだということは事実だと思いましたね。五味先生はね、小暮説によると「アララギ」の語り部っていうあだ名で五味先生を言ったけどね、「アララギ」についての話は実におもしろく話すんです、五味先生は。

永田 五味さんが茂吉のことを。

清水 いろんな先輩のことを。五味保義の歌いいけど、文章はもっといいって僕の説なんですよ。高等師範の一級上に石森延男がいる。その上に池田亀鑑がいる。三人でスクラム組んで文学修行したって五味先生僕に言ったですもの。雑誌部っていう名前でね、今で言う文芸部だろう。一生懸命やったもんだよっていってね。それで、五味保義追悼号出すときに僕は、池田さんは亡くなってましたからね、石森さんのとこへ行ったんですよ。石森さん目が悪くてお茶ひっくり返しちゃったりしてね。私が「五味保義門下です」って言ったら。石森さん曰く、「五味君は清潔な人だったんね」と。すごい評するなあと思ってね。「清潔な人」って言葉すごいですよ、やっぱり。池田さんが歌やったの僕は知らなかったけど、例の中城ふみ子の『乳房喪失』か、あれ池田さんに東京で歌を教わったんでしょう。だから、昔の高等師範というのは短歌会員以外でも歌作れたんだなと思ったね。

永田 文明さんは先生としては怖かったですか。

清水 ほかの派の人にはとにかく猫なで声で優しいんですよ。仲間に対してはひどいの。それを吉田正俊さんに僕がいつか言ったら、「君らはまだいいよ、俺たちは踏んだり蹴ったりだった」って、そんなこと言ってた。若い頃は本当にすごかったらしい。僕らも怖かったけどね、吉田・五味あたりにはすごかったんじゃないかな。歌会で五味先生の歌なんか当たると、土屋先生褒めたこと一回もありませんよ。作者わかるんですよ。ぼろくそ。

永田 その頃の「アララギ」の歌会何人ぐらいだったんですか。

清水 盛んなときはね、土屋先生、二百人ぐらいこなしたと思ってますよ。

花山 一遍にするんですか。

清水 うん、そう、一人で先生やっちゃう。さっき言ったように、「前の歌、次っ」ていうこういう調子でやるんだから。やりますよ。

永田 「アララギ」の歌会って、ほら部外者は出られないでしょう。

清水 あれがね、僕は誘ったことあるな、出ちゃいけないって規則ないんですけどね、つまり入会希望だから一度見たいって者はやっぱり会費出せば。

花山 他結社の人が来るってことはないですか。

清水 それはなかったですね。

永田 僕、土屋文明さんに会いたくて、一度、田中栄さんという文明さんのお弟子さんがいて、彼が特別に頼んでくれて、奈良の歌会に文明さんが来られるときに行く予定だった。そのときにちょうど名古屋で「女・たんか・女」っていうシンポジウムやって、僕それを司会をせんといかんことになってたんで行けなかった。あれが唯一土屋文明さんに会う機会だったんです。そのときもやっぱり百五十人ぐらい来て、文明さんが一人でやったって言ってました。もう九十過ぎてたと思いますね。

清水 あれはやっぱり先生歌会を非常に大事にはしたけど、うまかったね。とにかくね。脱線しても時間はちゃんと合わせるんですからね。

永田 文明さんが選をおりられたのはいつごろですか。

清水 やめたのですか。やっぱり心臓を患ったときでしょう。あのころにたしか落選歌を「沙の中の沙だ」、「沙中沙集」。あれやったんですよね。

永田 そうそう、沙中沙、あれ大分後でしょう、でもね、しばらくやめられて。

清水 あれは落合さんが落選歌たくさん出した後ですよ。二百名ぐらい出すんですから、全没を。つまりね、あるレベル考えるんですよ、「アララギ」の。雑誌の恥になるから。ただね、手を入れるんですよ、落合さんは。「添削は選者の特権だよ」と言いながら。真っ赤に直してやっぱりだめかっていう落選。いきなりするんじゃないんです。骨折って捨ててるの。あれには恨みがましい送稿歌あったけどね、作者は知らないけど、骨折って落としてるんですよ。考えたら、永田さん、落とす方が辛いね。よけい読むもの、時間かけて。

花山 手を入れたあげく落とすってすごいわね。

清水 それで結局ね、あの後、沙の中の沙、先生病気してね、後どうするかっていうんでね、じゃ選者で交代にやろうやっていって、「清水君一番バッターやれ」って言われて、「はい」って言ってやったら、二番バッター誰もやらないんですよ。だから、選者の名前のない「沙中沙集」は僕なんですよ、あれは。荒井さんだろうという説あったけどね、僕は仕事速かったから、わりあいにね。

永田 それは落としたやつだけを読むわけですね。

清水 全没を読んで手を入れて。

永田 今でもまだ「青南」は全没があるんでしょう。

清水 あります。

永田 うーん、すごいね。

清水 どうしようもないのあるんですよ。

永田 十首出して全没、十首ですか、出すの。

清水 二通りあります。選者一般の選ぶ方と、小市君と僕とやる方と。小市君と僕のは三首。

永田 ああ、そうですか。三首で全没か。それはまああり得るな。

清水 だけど、戦後の川戸での先生の方式がね、五首になったりいろいろあるけどね、五首出しても全没というのありました。あの頃一首採られたら大変なもんですよ。僕はしばしば全没受けてるね。

永田 ああ、そうですか、清水さんでも。僕らも先輩から聞いてたのは、もう三首載ったら赤飯炊いたっていってね。

清水 「ホトトギス」ではあれでしょ、一句採られると人力乗って旗立てて歩いた伝説があったそうでね。川戸選歌でとにかく一首採られると大変なもんでしたよ。

花山 それほど権威があったということですよね。

清水 ですから、今の「青南」の形式はね、あれは僕が小市君に言ってあの形式にしたんです。川戸選歌のやり方。そのほかの選者のと二通りあるでしょう。あの形いいんじゃないかなって言ってね。

永田 その頃の「アララギ」って全没でも何年も続けてた人はいたわけですか。

清水 いますね。いろんな人いましたよ。僕が手を入れて載せたら抗議の手紙が来てね、「人の著作権侵す」っていうんで。僕は長々と詫び状書いて、「今後は手を入れません、落とします」と書いたらやめちゃった人いるんですよ、「朝日新聞」埼玉版、あの選者をやったけど、僕はあるときやめたんですよ。それはね、手を入れてけしからんて抗議の手紙が新聞社へ来たんですよ。僕は申し訳ないからやめちゃった。それがおもしろいんですよ。記者がね、そう、「先生やっぱり手入れましたね」って言うから、「ああ、だめだ、俺向いてないよってやめた」。後でデスクに怒られたんだって。もう一回やってもらえって、電話くれたが、「男がやめると言ったらやめるよ」って、埼玉版の「朝日」やめちゃったんですよ。後を川口美根子さんがやってるかな。いますよ、著作権を非常に頑固に守る人。僕は立派だと思うね、それは。

永田 でも、手を入れられるのは選者の権利だっていうのは一応認められてるんですよね。

清水 そうなの、何となくね。喜ぶ馬鹿もいるんだから始末悪いよね。だけど、勉強にはなりますよ、手入れられるとね。小市君はだね、こう言っとったな。若い頃土屋先生に直されて載ったんだって。「歌はよくなったけど、俺の歌じゃなくなったよ」と言ってましたよ。それはそうですよ。本当は落とすべきなんだろうな。

永田 なるべく手を入れないでと僕は思ってますけどね、あんまりよくなることはないですね。

清水 だから、結局雑誌のあの面というのは檜舞台という意味と教室という意味と二通りありますよね。どっちかに傾斜して。僕はこの間編集会議でも言ったんだけど、育てようって気が僕は全然ないんですよ。勝手に伸びるんだっていう。これは土屋先生の言葉にあるんです。「幾ら骨折って面倒見てもだめなやつはだめだけど、伸びるやつはほっといても伸びるもんだね」っておっしゃるんですよ。ああ、そうだろうなと思ってね。
(つづく)

(追補)「アララギ」終末の予感めいた土屋先生の言葉については、どうもそれを証するような歌が柴生田さんにあります。つまり、昭和四十五年の「短歌研究」七月号に発表した「推移」百首の中の「僕が最後を見るのかね いやだねと言ひたまひしより三十何年」が、どうも暗示的なのですが、どうでしょうか。この「言ひたまひし」は土屋先生のことのような気がするのですが。

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