塔アーカイブ

2007年11月号

河野裕子講演「作歌四十余年」
———————————————————————————–

 今日は四十五分しか時間がなくて、私はしゃべり出すと限りなくしゃべりますので、ちょっと時間が足りないなあという気がしております。河野裕子さんの講演を聞いても賢くはならないけれども元気になると言う人が居ました。今日は、まあ、元気になって帰って頂ければと思います。

 この間、永田和宏が家に帰ってきて、手紙の封を切りまして、私もちょっとその日は体調悪かったのでお手紙の封も切らないで寝ていたのですが、読み始めて笑い出しました。えっ、何ですかって言ったら、「孫歌をいかに詠むか」という原稿の依頼が来ているって。ついこの間まで若手のホープと言われていたのに、何で私に孫歌が回ってくるのかなあとびっくりしましたが、考えてみると、やっぱりそういう年齢なのですね。しょうがありません、孫歌。返信の葉書に、これからは孫歌のオーソリティになるって書きました。今はもう、孫歌の時代ではなくて ひ孫の時代なんですけどね。

 しゃべりたいことは幾らでもあります。どうしようかな。「作歌四十余年」というタイトルをつけたんですが、私も孫歌を作らなければならないくらい歌を作り続けてきたということなんですね。もう満六十一歳になってしまいました。何という恐ろしい。

 初めに私の記憶の中で一番古い自分の歌。多分中学三年生のときに『高校コース』か何か雑誌に投稿したんですね。

  用も無きに勉強部屋をのぞきては声かけてゆく近ごろの母

こういう歌を投稿しまして、選者の方がどういうことを書いておられたかといいますと、受験生だからお母さんが心配なさったんでしょうというような批評が書いてあって、えっ、私はそんなつもりもなかったのにと思ったのを大変よく覚えております。つまり詠むことと読むことというのはとても難しいことで、自分が作った思いの通りに必ずしも読んでもらえるものではないんだなあということをそのとき、まあ幼稚な頭でふと思ったことを覚えておりますが。で、いかに私が歌が読めなかったかといいますとですね、その辺で寝ていらっしゃる方がありますが、寝んといてくださいね。まだ始まったばかりですから。

  馬鈴薯のうす紫の花に降る
  雨を思へり
  都の雨に

中学校の受験雑誌の付録に『石川啄木歌集』がついていた時代です。そういうのが付録についていた。だから、まあ中学生でも高校生でも、短歌を非常に身近に読んでいた時代だと思うんですが、有名な『一握の砂』にあるこの馬鈴薯の歌なのですが、私にはわからなかったのです。「馬鈴薯のうす紫の花に降る雨を思へり」までは大体わかるんですね。結句の「都の雨に」がわからない。今なら一目瞭然なんですが、そのときはわからなかった。何で「都の雨」が出てくるのやろ。これはもう倒置法で、東京に降っている雨を見ていると、あのふるさとの渋民村のじゃがいも畑に咲いていたうす紫の花を、そしてその雨を思い出すんだよという意味なのですが、短歌というのは省略と飛躍の文芸ですから、この「都の雨に」というふうに飛ばれてしまうと読めなかったんですね。それぐらい歌が読めなかった。

 それが大学に入って「幻想派」という、京都大学、立命館大学、京都女子大学の学生が集まって同人誌を作ることになって、それに参加しました。そして、そこで初めて塚本邦雄の歌を読んだ。塚本邦雄をみんなわあわあ言ってた時代です。何にもわからなかった。ほんとに何にもわからなかった。だって、あなた、石川啄木や与謝野晶子の「金色のちひさき鳥のかたちして銀杏ちるなり夕日の岡に」ぐらいしか読めなかった私に、急に塚本邦雄の『緑色研究』や『水葬物語』が読めるはずがない。

  しかもなほ雨、人ら皆十字架を打つ静かなる釘音聞けり

なんて全然わからない。「しかもなほ雨、」と読点がついている。キリストがゴルゴタの丘にかけられるときのことを詠んだ歌なのですが、わからなかったんです。しかも、「しかもなほ雨」っていう言葉から歌が始まるなんて考えられなかったんですね、私には。

 しばらく歌会に行っても人の言うことがさっぱりわからなくて、どうしたもんかなあと思っていたんですが、まあ歌会に行っているうちに何とかわかるような気がしてきて、ある日、ふと、塚本邦雄の歌がわかり出して灼けつくような思いで読み始めたんですが。

  たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか

このね、二十二歳の時に作った歌。「たとへば君」っていう初句の入り方はですね、作りながら自分で、ああ、おもしろいなあと思いました。それで、この「たとへば君」は、さっきあげました「しかもなほ雨、」っていう塚本邦雄のあの歌の影響をかなり受けていると思うんです。歌っていうものは、ざくっとこんな言葉で作っていいんだということを何となく教えられたんですね。そんな訳で「たとへば君」が来た。

  たつぷりと真水を抱きてしづもれる昏き器を近江と言へり

これがいい歌なのか悪い歌なのか、私にはわかりません。なぜか知りませんけど、勝手に有名になってしまって、高校の教科書なんかに載っています。私、歌を作ったらね、永田和宏さんに見せて、○とか△とかは付けてもらう癖が昔からあって、結婚した頃からね。これを作ったのは二十九歳。コクヨの原稿用紙一ページに一首書いて一行あけて、一首書いて一行あけていくと七首書けるんですね、七首。その原稿用紙を永田和宏さんに見せたときに、この歌には何がついていたかいうたら、ペケではなかったんですが、△が付いていたのです。歌っていうものは不思議なもので、読む人のその時の気分やら時代やらいろんなものがあって、絶対いい歌というのはあんまり私にはわかりませんね。いや、わからん。

 ただ、この歌を作りながら、私は「真水」という言葉を使うということが自分なりにとても新鮮な気がいたしました。ああ、琵琶湖は水は水でも、あれは海水ではなくて真水だったんだよって。その「真水」という言葉を入れたことが自分なりにうれしかったことを覚えております。まだ二十九歳で、淳さんが一歳になったかならないぐらいの昔の話なんですが。

 若い人たちによく言うんですが、私があなたの年齢で、あなたぐらいの才能があって、そんなに頭がよくて、歌が好きやったら、新人賞でも何でも出して賞を取りなさいって煽ぐんです、団扇でばちばち、ばちばち、ばちばちって。そうして取ってきた人がいっぱいいるんですよ。だから、おだてに乗るのも才能と私やかましく言っているんですけど。でもね、白けてる人はダメですね。いい才能を持っているのに、やめてしまった人が何人もいます。

  君を打ち子を打ち灼けるごとき掌よざんざんばらんと髪とき眠る

この歌ですが、このとき私はね、三枝昂之と永田和宏のおだてに乗ったのです。三十歳を少し越えていた頃でした。強い大きな歌を作れって二人が言いました。ああ、そうかと思って私は作ったんです。そうすると、なぜかこの歌がその当時大変あっちこっちで引用されましたね。時代がそういうものを求めていた時代ではないかと今思いますけれども。ともかく「ざんざんばらん」と作って、やったーという気がいたしました。作りながら「ざんざんばらん」て、うん、もうよろしい。

 それから、いろいろ私の歌は変わってきたというふうな気がしているんです、自分で、随分変わってきました。もう古くから読んでくださる方は気がついていてくださるかもしれませんが、随分変わったんじゃないかな。

  借りものの言葉で詠へぬ齢となりいよいよ平明な言葉を選ぶ

これは大岡信さんが「折々のうた」でうまく書いてくださいました。とてもありがたく思っているんですが、歌としてはそんなにいい歌でもないような気がしておりますけれど、これを作ったのは、アメリカに二年ばかりおりまして帰ってきました。帰ってきて四十歳になったんですね、私。それで、帰ってきたときちょうど俵万智さんが出てこられた時期で、軽い歌がはやっていた、ライトヴァース。その時はっと気がついたのです。私が今まで自分のオリジナリティーと思って作ってきた歌、人からああだこうだと言われてきた歌、いい気になっていた歌、いろんな歌がありますけれども、あれは私のオリジナリティーで作ってきた歌だというふうに自分で思い込んでいたんですが、違うんだよということを四十歳になるかならないかの時にはっと気がついたんですね。ああ、私が今まで作ってきていたのは、私のオリジナリティーでも私の才能でもなくて、私の若い、生臭い体がつかんできた言葉であったということが本当に自分の実感としてわかりました。決して才能なんてもんじゃない、あれは若い体がつかんできた言葉の力であったということをありありと実感したんですが、そういう時に、そしたらどうしようかと思った。ちょうどアメリカから帰ってきたばかりというタイミングが良かった。アメリカに行く前すごく心配だった。心配で心配でしょうがなくて、英語はできないし、子供は小さいし、どうしたもんかと思って、岡井隆さんにお手紙を書きました。どうしたものかと。今ならわかりますけれども、岡井さんお返事下さらなかった。冷たい人やねと思いましたが、いや、今ならよくわかります、お返事を下さらない気持ちが。行ったんですが、アメリカに行って私はもうこれは結構なことやと思いました。まず息をするのが楽ちん。大きい人、小さい人、赤い人、黒い人、白い人、黄色い人、太い人、細い人。居て当たり前。隣が違って当たり前で、そういうようなところでしばらく暮らして帰ってくると、もうどうでもええやんかという気になって、肩の力がスカッと抜けていましたね。

 それで、もう今まで作ってきたような結句の責任とか、なんとかかんとか偉そうな、分かっていないくせに分かったように言っていたような作り方をやめてみましょうと思いました。自分の実感に正直な普段の言葉で、作り物でない自分の実感というものを大事にしながら歌を作っていこうかなと思いました。
 ということで、自分の歌についての説明はもうやめておきます。

 それでですね、ちょっと今、岡本眸さんの俳句について書く仕事を引き受けて、昨日までぐらいで三十枚ほど文章書いていたんですが、岡本さんの句にこういう句がありました。

  作るほか句のすべ知らず薬喰

「作るほか句のすべ知らず薬喰」、「薬喰(くすりぐい)」というのは、薬、ヤクですね、「薬」と、「グイ」は口偏に食べるなんです。「薬喰」という言葉を知らなかったので調べましたが、これは寒いときに体力、栄養をつけるために食べ物、栄養をとること、体をしっかりさせるため栄養をとること、そういう言葉だそうです。「作るほか句のすべ知らず薬喰」。共感しました。私は論の立つ頭でもありませんし、聞いていらっしゃる皆さんもわかりますように、話が上手でもありません。大したこともよう書きません。ただただできたのは、「作るほか句のすべ知らず」です。「すべ」は方法ね、ただただ歌を作るしか歌を作る方法を知らないでやってきた。そして、そのことがとてもおもしろかったのです。私には、歌を作ることが。本当におもしろいのですね、これが。しんどいけどおもしろい。何でおもしろいんやろね。お金がもうかる訳でもないし、誰が褒めてくれるもんでもないんですけれども。作る喜びというの。それは、何にも替えがたい。

 これから本論に入ろうと思いますけれども、何からしゃべろうかな、歌会のことからしゃべろうかな、吉川さんがそこにいるし。私は歌会というのにほとんど出たことがなかったのです。人中に出るのが恥ずかしいし、道歩くのも恥ずかしくてかなわんから、本当に出たことなかったんですよ。コスモスにいたとき一回か二回出たことがありますけれども、でも塔の選者になってから否が応でも歌会に出なければならなくなってしまいまして出るようになりましたが。思い出すのも辛いんですが、『短歌パラダイス』という岩波新書が出ていますが、あれいつでした、十年ほど前でしたっけね。岡井隆さんを中心に何人か歌人が呼ばれて、熱海の汚ーい宿屋でですね、缶詰になって歌合戦のようなものをさせられたことがあります。その時に題がついて、「夕闇」だったかな。吉川宏志さんがこういう歌を作られたのですね。

  昔からそこにあるのが夕闇か キリンは四肢を折り畳みつつ

そのとき小池光さんがおられて、批評をなさいました。で、小池光さんの批評は『短歌パラダイス』に小林恭二さんが採録されていまして、こういう言葉が載っています。「キリンが肢を畳んでうずくまっている場所が夕闇の原形であるということを言っているんだよ」って。そんなことも小池さんは言いましたけれども、もっと違うことも言わはったんですよ、小池光さんは。夕闇っていうのは朝も昼も夕方もずうっとあって、夕闇は夕暮れだけではなくて、朝も昼もずうっとあって、夕暮れになることによって夕闇が顕在、現れるんだよということをおっしゃいました。その時に吉川宏志さんの隣に座っていたんですが、吉川さんがびくっとしはったんを覚えているんです。つまりね、歌を読める人がそばにいてくれると、自分の歌の先を言ってくれるんですね。その小池さんの批評がいいか悪いかは別にして、自分の思っていなかった方向から矢が飛んできて、あ、こういう読みもできるんだということでびっくりする。

 そういうような歌会というのは大変おもしろいもんで、歌会に行くとですね、萎んで帰る人が多い。泣いて帰る人やら、恨んで帰る人やら、もう決して来るまいと思って帰る人やら。自分の歌ばっかり見てるからそうなのであって、膨らんで帰るようにしてください、ふわあっと、楽しんで。私は歌会に行くと自分の歌のことを忘れて、歌会に来られた方を見物しているんですね。ははあ、あの人がああ言うと、あの人はあんな顔した、おもしろいねえとか思って。みんな自分のことばっかり考えて、自分の歌がどう言われるかばっかり考えていらっしゃるけど、それは違うんで、人の歌を人がどういうふうに読むか、おもしろいねえって見物に行く気持ちで行ってね、違うかったら違うって、はい、はい、はいって、小川和恵さんみたいに手を挙げて言ったらいいんですよ。いろいろ支部がありますけど、支部の歌会の部屋はぎゅうぎゅう詰めにした方がいいんですね。押し込んで。広い部屋にばらーっとしていたらしゃべりにくくてかないません。隣りと隣がくっ付くと、つい本音を言いますから。私も今日はこんな高いとこから、みんなと離れてしゃべるの嫌でかなわんですけれども。

 だからね、歌会というのは、インターネットではやっていますが、私はあれはやっぱりどうも賛成しないんです。歌会というのは、言葉以前のちょっとした気配とか、言いかけてちょっと淀んだり、それからあっ、何か言いたいなあと思ってらっしゃるけど、言葉にならないなあという気配がわかるんですよ。あれが、あっ、なんにもあの人は言ってくれなかったけどわかってもらったんだよとか、そういうものが活字になる以前のものとしてある、生の歌会。だから、座の文芸。座になって、背中を後ろに向けて、丸くなって、十人か十五人ぐらいが集まってがやがや、がやがや言えばおもしろいんです。

 ともかく、私はあんな時にああ言われたと、きいーっとなってしまったり、私の歌を盗まれたとか思ってきいーっとなったらあきませんよ。自分の歌を真似されたというのは名誉だと思っているくらいの余裕が欲しいですねそれほどまでに自分の歌が良かったのかって。そういうことってありますよね、時々。人の歌をそっくり真似ているのに気づかずに、つい作ってしまっていることが私にもありますけれども。

 まあ、そういうわけで、なるべく歌というものは批評に惑わされないで、その場の流れに乗ってしまわないで、やっぱり自分で読んだときの実感で批評することが大事で、時々歌を離れて自分の頭の良さや教養を言いたいがために言わずもがなをおっしゃる方がおられますが、歌は言葉に即して読むのが大事。わからなかったらわからないと、シンプルに言えばいいと思うんです。わからないことを無理して言うことは何にもない。
歌を作ろうと思って歌を作らない方がいい。私は短歌という高尚な定型詩を作っていると思って作らない。ともかく構えて作らない。人によっては短歌というのは定型詩ですから、なるべく定型に入るように言葉を考えて作ってくださいっておっしゃる先生方もいらっしゃいますが、私はそんなことは言いません。字余りとか、字足らずとかあんまり考えない、構えて作らない。いい歌を作ろうとか、あの時あんな批評をされたから、この言葉は使うまいとか、いろんなことで雑音が入ってくると思うんですが、雑音ナッシングね。作りたいように作ったらいいんです。これは私そう思います。

 それから、意味で作らないというのが大事。私はこのメッセージを伝えたいから作るんだって、力を入れて作り始める方がいますが、メッセージで作ろうとすると、歌の詩型がしんどがる。短歌という詩型が。そんなたくさんのこと言ってもらっても私は困りますと言う。詩型が。だから、詩型がしんどいと言わないように作るにはどうしたらいいかということなんですが、それはたくさんのことを言わない。いろんなこと言うからややこしくなって、自分でも何が言いたいのかわかんなくなってしまいます。

 それから、自分の感情を強く言うと、詩型に負担がかかるんですね、自分の感情を強く強く言ってしまうと。言葉って不思議なもので、強い言葉を使ったから強くなるというわけではなくて、むしろ言葉を薄めて普通の言葉で組み立てていくことによって人の心に訴えかけてくる力を持つというところがあるんじゃないかな。薄めながら、薄めながらどこかで歌と言葉と言葉はお互いに駆け引きをしてるんでしょうね。歌を作りながら、初句ができたら、初句は二句のことを考えている、そして二句は三句のことを無意識のうちに考えながら結句まで持ってくるんですけれども、初めからこれで作ろうと思って構えて作り始めますと、もう結句が初めから決まってしまっていますと、歌自体が非常に窮屈なものになってしまいます。私の言葉で言えば、言葉が、初句の言葉が二句目の言葉を呼んでくるように作る。私ピアノのこと全然わからないんですが、一音を弾いたら次の音を多分引っ張ってくるんでしょう、多分。何かそういうことじゃないでしょうか。引っ張ってくるという言葉は変ですが。言葉というものは、言葉は一首の三十一音の詩型の中でどういうふうに言葉を動かしていけば、どの言葉をどの位置に置けば一番自分の実感に近づくように作れるかという、そのあんばいというのかな。
佐藤佐太郎に

  あぢさゐの藍のつゆけき花ありぬぬばたまの夜あかねさす昼

という大変シンプルな歌があります。これを字で書いて言ってくださればわかりますが、ア音が、あいうえおのア母音が十ぐらい使われていると思います。「あぢさゐの藍のつゆけき花ありぬ」というふうにずうっと。つまり、「アアアア」っていう、その自分の作るときに自分の何か潜流ね、潜っていく流れのように、「アアアア」っていうア母音が響いていたんでしょうね。ア母音というのは大変明るくて、一番きれいに聞こえる音らしいんです。
 そして、枕詞が二回使ってあります。「ぬばたまの夜あかねさす昼」という。普通ならば「あかねさす昼ぬばたまの夜」って使ってしまうんじゃないかなあと私などは思うんですが、「ぬばたまの夜あかねさす昼」で終わっている。それは、「あぢさゐの藍のつゆけき花ありぬ」の「ぬ」が「ぬばたま」の「ぬ」を引っ張ってきたんでしょう、多分。言葉はね、やっぱり「あかねさす昼」よりも「ぬばたまの夜」が先に来た方が多分言葉の調べとしては自然なんじゃないかと思いますが、そういうふうに言葉というものはなかなか自然に、無意識に作るっていうところがありますね。しーんと集中しながら、一生懸命風車回しているようなところがあって、それを同時にやっているんですね。非常に高度なことやっていると思うんですが、まず意味で作らないということがとても大事だと思います。歌を読んで、意味はわからないけどすごくいいっていう経験なさった方多いと思うんですが、意味で作らない。あれは何だろうな、私よくうまく言えませんが、ともかく。

 それから、何が言いたいかなあ。五句三十一音、五・七・五・七・七という詩型なんですが、短ーい詩型で、本当にメッセージが少なーいのですが、短いこと、短い詩型だからこそたくさんのメッセージができるということも言えるわけで。短歌っていうのは推理空間ですよ。推理をしていく空間。五・七、五・七・七の間には大変大きな空間がある。その空間がない歌はすごく速く読めてしまって、すうって行ってしまうんです。でも、その空間をたっぷり持っている歌というのには非常に奥行きと味わいと、何とも言えない感銘のようなものを与えるものがあります。それを昔永田和宏さんはどういう言葉で言ったかというと、「一首の滞空時間」というふうに言いました。滞空、とどまる空、一首は滞空している時間が長い歌がいいんだという言い方をしたことがありますけれども、歌は短いからこそたくさんのことを言えて、そして非常に深く心に入ってきて、そしてゆったりとした響きのよろしさというものを感じさせてくれるものがある。そういうことを作りながら私は思い続けてきたわけなんですが。

 あと十五分でおしまいかな。それでですね、さっき永田和宏さんが薄かった時代の「塔」を見せながら皆さんにお話をしましたけれども、私もこの間ふと思い出したんですね。あれはいつの歌だっけと思ってひっくり返して探しました。田中栄さんが亡くなられましたけれども、覚えているんですね。

  命あるうちに会いたしと言い来しが月の光をへだててねむる

命があるうちに会いたいと言ってきたけれども、私は会うわけにはいかない、ただ月の光を隔てて私は眠っているんだよという。「命あるうちに会いたしと言い来しが月の光をへだててねむる」、「塔」の開いて右側の、下の右の端っこの方に載っていました。それで、歌集をひっくり返しまして探したら、『水明』という歌集に載っていて、それは昭和五十六年の作品でした。私がまだ塔に入る前から読んで覚えていた歌なんですね。そういうふうに歌っていうのは何か長く覚えていることができて、そして心に深ーく入って忘れることがないというところがあります。

 それから、いろいろ自分なりに思うんですが、何で私は短歌を四十年も作ってきたんやろと思いますね。ここには六十年作ってこられた方もいらっしゃるし、あるいは若葉集に入ったばっかりで、初めてやり始めた方もいらっしゃるし、二十年、三十年の方もいらっしゃるし、いろんな方がいらっしゃると思うんですけれども、歌っていうのは、俳句もそうなんですが、あんまり楽しい時とか、いい時とかにはあんまり作らないですね。やっぱりあんまり世の中よくないとき作る人の方が多いし、不思議な文芸で、その方が何かいいのもできるし、よく読んでもらえるところもありますけども、やっぱり日常語でしゃべっているだけでは理解してもらえないということはよくある。そして、人にしゃべっても、何かの本を読んでも、お話を聞きに行っても治らない自分というものがあります。その時どうするの。歌を作っているとですね、せっせ、せっせ、せっせ、せっせと、はい、はい、はいと、作っているとですね、この間実感したんです。おおっ、下手くそやけど何でもいいから作ってしまえ、あれ、もう五時になって鳩ポッポが鳴き出しましたよと思って作っていたんですが、やっぱり歌を作るというのは、自分で自分を治す力があるんじゃないかと思いますね。もうね、どうしようもなくなった時には自分で自分を治していくしかない。どうしようもない何かがある時にはね、日常の言葉で言えないものをね、歌を作る時は言葉のレベルがちがうんですね。作っている歌の意味が自分でもわからないことがあります。自分の歌はこうですよって説明したり、私はこれだからこういう歌を作って、この言葉を選びましたと言う人がいらっしゃいますが、それは短歌というのはちょっと違うんじゃないかと思うんですね。自分でもこんがらがって、訳がわからんけど作ったっていう歌があると思いますが、それでいいんじゃないでしょうか。そして、それを誰かが読んで、受け止めてくれる人が百人のうち一人でもいたらそれでいいんじゃないでしょうか。

 だからね、歌っていうのは、作ることで自分を治していくという、自分のこんがらがってしまっている何かをどこかで抑えたり、バランスをとったりして日常に戻してやる力をどこかで持っているんじゃないかということは実感として思いますね。

 だから、村田弘子さんという方が、この間『余るひかり』という歌集をお出しになりまして、ちょっと私も帯文を書いたりいたしましたけれども、村田さんにお子さんが三人いらっしゃるんですが、二番目のお嬢さんの茉莉子さんがですね、校正刷りを読んで「お母さんてこんなに寂しかったのね」とおっしゃったんですって。「お母さんてこんなに寂しかったのね」。私はそれを聞いて、ああ、そうだと思いました。宮崎の「塔」の全国大会で何年か前に永田和宏と対談をしました時に、『家』っていう歌集を私は出したばっかりだったんですが、そのとき永田和宏が『家』についてしゃべって、「あなたはこんなに寂しかったのか」ということを一言言ったのが忘れられないのです。永田和宏さんとはもう四十年もつき合ってきて、のべつまくなしに私は何でもかんでもしゃべって、これほど一番気を遣わなくて楽ちんな人はないんですけれども、その永田和宏さんがそんなことを言って私はびっくりしました。この人でさえもわからんことがあったのかと。そういうね、本当に人の心というものは大変わからないもので、自分は自分だから自分が一番よくわかっているとみんな思っていらっしゃるかもしれないけれど、自分ほどわからないものはなくて、心という言葉はあるけど、心という言葉も私にはわかりません。ただ、歌を作って、作った歌を眺めていると、ああ、そうか、私ってこんな輪郭を持っているのかということをふと思ったりするんですね。自分のありようの輪郭のようなものが作った歌によってもう一度戻ってくるようなことがある。だって、私ってなあにって言われたって答えようがありませんが、作った作品というものがそういうことをふと教えてくれるのではないかなということがあります。

 もう時間がないので終わりの方にいきますけれども、それでさっきちょっと申し上げましたが、歌を作るきっかけは病気をしたとか、伴侶を亡くしたとか、事故に遭ったとか、いろんなことがあったのをきっかけにして歌を作られる方が大変多いんですけれども、そのことはとてもよくわかります。いろんなことがあったから歌を作れば自分を治していくことができるんだよということ今申し上げましたけれども、そのことさえもしない人がいますね、できない人が。言葉にすることによってかえって傷ついてしまうということがある。言葉にさえもしない、できない。それでも短歌を作っていらっしゃる方は、もう一切人事は作らない、植物あるいは自然、湖の歌ばかりを作る、そういう方もいらっしゃると思います。あるいは一生言えないことはもう言わないまま、作らないまま終わってしまわれる方もあると思います。私はそれはその人その人だからそれでいいと思います。私みたいにあることないこと全部言って全開して言ってしまうのも一つの手なんですが、それができない方もたくさんいらっしゃるということもよくわかるんです。

 それで、大変今日は近場の話で終わりますが、資料に「時間について」という項目を一つ立てました。もう本当に止めることなく歳月が過ぎる、どうしようもなく歳をとる。ね、昨日私二十歳やったのよと思うんですが、何を言ってるんですか、あなたは六十一ですよと、しようがない、すいませんとしか言いようがない。ただただ歳月は過ぎるんです、時間は。見えないけど、残酷に過ぎるんですね。だからね、やっぱり文芸とか文学とか、表現をしていくということの一番大きなテーマは時間ではないかと思うんです。時間ほど不条理な、理不尽なものはありません。どんなことをしても過ぎていく。そういう時にどういうふうに歌を作るかということなのですが、私は永田和宏さんという人が十九歳のときから知っていて、永田和宏さんがまだ産毛を生やしていて、成人式に行く前から知っているんですから、本当にもう長いつき合いなので、ずうっとそばで歌を作るのを見てまいりました。この間出した『百万遍界隈』の歌の中でこの歌を読んだ時に、あなた、この歌をあなたの代表作にしたらいかが、と言いました。

  母を知らぬわれに母無き五十年湖に降る雪ふりながら消ゆ

私は母親から一度も叱られることなく育った人間です。母は私になんにも教えなかった。私を叱ったことはたった一回もなかったのです。そういう母親に育てられました。ところが、永田和宏は母親の顔さえも知らなかった。三歳で引き離されて、そしてそのことがこの人にとってどんなに大きな大きな空虚であるかということをやっぱりそばにいながら感じながら暮らしてまいりました。そして、母を知らないということがどういうことであるかということは、私が母親に叱られないで、母さえいてくれればと思って大きくなった私とこんなにも違う人がいるんだということを本当にありありと感じながら毎日暮らしているのですが、私の言葉で言うよりも、この間作者自身が書いた文章がありますので、読ませていただきます。ゆっくり読みます。

 〈私の母は、私が三歳のときに亡くなり、私は顔も覚えていない。〉

名前を知ったのは大学に入ってから千鶴子さんという名前であったということを知ったらしいんですが、

〈母を知らない心許なさはいつも私の心にあった。歌を始めた頃から母は大きなテーマであった。歌を始めたときから母は大きなテーマであったが、母の歌はどうしても作れなかったのである。〉

配慮の人ですから、あちこちいろいろ考えるんですね。作れなかった。

〈自分の根っこのところにあるあまりにも切実なテーマは、あまりにも辛いことは言葉にできない、あまりにも切実なテーマはなかなか時が熟するまで歌えないものなのだろうか。この一首は、母の死後五十年を経て、母の年齢をはるかに超えてようやく何かがふっ切れたときの歌だったのだろう。母が死んで五十年たった。母が死んでやっと五十年たって正面から母の歌を作ることができた。私の五十年、それは何であったのか。湖は故郷の琵琶湖である。その水面に触れる前に消えてしまう雪のように、私にとっての五十年という時間ははかなかった。〉

私、何でこの人この言葉を使ったのかと思ってびっくりしました。もう考えられないぐらい時間をフル回転させて仕事をしている人が、私にとっての五十年という時間ははかなかったなんて言葉を使うんだろうかと思ってぎょっとしたわけなんですけれども。

 それから、次の資料にもありますけれども、永田嘉七というのはお父さんの名前でして、

  五十年ひたすら妻の墓洗ふ

それから、もう一つの句。

  仏より柩の重き雪の葬

永田嘉七さんは若い時に俳句を作っておられて、リタイアしてからまた句を作り始めたのですが、初めの「仏より柩の重き雪の葬」というのは、永田和宏さんのお母さんのお葬式の時の句。仏より柩が重い、痩せ果ててしまって。この句は昭和二十五年ぐらいに作られたらしいんですけれども。そして、それから五十年たって「五十年ひたすら妻の墓洗ふ」。期せずして「五十年」という言葉を使いながら同じ人の歌と句ができているわけでありますけれども。

〈父の句である。私の歌とほとんど同じ時期に作られたのだと思うが、私の父の句集にこの一句を見出したとき、同じ五十年という時間を、すぐ近くに生活をしながら全く違った時間としてそれが意識されていたことに改めて驚いたのであった。〉

永田嘉七さんという方は、もうこれがまた息子の永田さんがいるとしゃべりにくいんですが、散文が歩いてるみたいな人で、何しゃべっても、「あ、さようか」しか言わない。私が何を言っても「あ、さようか」と言ったらもうぴゃっと帰ってしまうんですね。お茶一杯とくとくと飲んだら、もう「あ、さようか、はい」って帰る。何とかもうちょっと味わいのある何か言うてくれんかなあと思って私はしばらく立って見ているんですが、その「あ、さようか」の永田嘉七さんがですね、『西陣』という句集を出されて、句を読んで、あら、まあ、あの嘉七さんがこういう人やったんやって。だからさっきから言ってるんですよ。人の顔見てしゃべって、あの人は、あいつはおもろいやつやとか、あいつはあかんやつやとか、けったいなやつやとか、一言のもとで印象批評で終わってしまいますが、その人はどういうものを感受性として持っているのか、誰にもわかりません。自分にもわからない。自分で歌にしてみなきゃ、自分の心の形みたいなものは。

 だから、嘉七さんの「五十年ひたすら妻の墓洗ふ」に、あらまあと思ったのです。そして、嘉七さんがですね、この方はもう大変しっかりしておられて、もうじき九十歳になると思います。嘉七さんという人はね、奥さんが三回代わっているんですよね、これが。自分の人生で妻が三回も代わるだなんていうのは決して幸せな人生ではないと思うんですよ。それがあっけらかんで、いつも「さようか」なんですね。その「さようか」の嘉七さんにこういう句があって、ああ、あの嘉七さんはやっぱりお盆が来るたびにお墓に来て、ただただ黙って水をかけて洗っておられるけれども、こういうことを思っておられたんだなあということを思いますね。もう一度、永田和宏の文章に戻ります。

 〈「五十年ひたすら妻の墓洗ふ」、父の句である。私の歌とほとんど同じ時期に作られたのだと思うが、父の句集にこの一句を見出したとき、同じ五十年という時間をすぐ近くに生活をしながら全く違った時間としてそれが意識されていたことに改めて驚いたのであった。自分は顔さえも知らない母。私には初めから不在としてしか意識されなかった母との時間は、父にとってはひたすら墓を洗って過ごす喪失の時間であったのか。父の一句を得て私の歌は一層私にとって大切な一首になったような気がしたのであった。〉

今日は「塔」の会員の他にも百人ちかく、いろんな方がお見えでいらっしゃいますが、この間ふと思ったのは、私は私の歌に堪えるということがとても大事だということでした。自分の歌に堪える。自分の歌に堪えるということは本当に大変難しいことだ。いろんな時期があって、いい時も悪い時もあります。かっての自分ならばもっといい歌が作れたはずなのに、ああ、できないということが必ずあるんですね。もっといい、若い時にはもっと自分には勢いもあったし、よかったのに、今それが自分にはできない。でもね、やっぱりそれは自分の歌に堪えるしかしょうがないんじゃないかと思うんです。堪える、堪えて、そしてその水準にまで達せなくっても、やっぱり作り続けることがとても大事。作り続ける、よくても悪くても作り続ける。短歌というものは一生かかって一枚の布を織るみたいに、一目一目、一首一首を作っていけばいいのではないかなあということをこの頃思っているんです。一目一目織るみたいに一首一首を作っていく。やめないで。私八十五点の歌を作れるから、ちょっとやめて五年ほど休んでおこうかと思ってね、五年ほど休んだら絶対に八十五点は取れない。もう二十五点ぐらいに下がってしまっています。だから、やめないで作り続けること、それがとても大事ではないかなと思います。

 お話ししたいことはいっぱいあるんですけれども、あまり一貫性のないことばかりお話しさせていただきました。折があればまたお話しする機会があればと思います。どうもありがとうございました。(拍手)

ページトップへ