塔アーカイブ

2008年4月号

古賀泰子さんインタビュー

 (聞き手)木村輝子・万造寺ようこ・藤井マサミ
 (記録) 干田智子

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●短歌との出会い

木村 今日は古賀さんに、古賀さんが今まで歌を通じて出会ってきた方々のエピソードなどをお話ししていただきながら、「塔」の歴史にも触れるということでお話を聞いていきたいと思います。よろしくお願いします。
 初めに、古賀さんが歌を始められたきっかけをお話ししていただけますか。

古賀 私は小さい時から作文が大好きだったんですよね。大きくなって、女学校の時に一番感動を受けたのは啄木なんです。啄木の歌を読んで、ああ、いいなあと思って、それが、今思えばきっかけだと思うんです。その頃「少女の友」という雑誌に投稿欄がありましてね、昔のことですから短歌とは言わないで和歌、その和歌は題詠だったんです。私、題詠というのは昔から嫌いで、そこには出さないでね、「口語和歌」というのがあって、まあ言ったら短詩ですね、短い詩、それの方にどんどん投稿してたんですね。そうすると、誌上に出たんです。誌上に出るのはなかなかなんですが、時たま出るので、それが楽しいので作ってたんですね。

 例えば、「道端の草で鼻緒をすげてやる朝の散歩の帰り道です」、そういうの割りといいとこに載ったりしてたんです。それからどんどん作ってましてね。また気ままなもので、好きな題が出た時は、題詠も作って出してました。それも誌上に載ったことがあるんですよね。そういうふうにしてだんだん和歌というのが好きになって……

木村 それは少女の頃ですか。

古賀 ええ、少女の頃なんです。

木村 女学校に入る前ですか。

古賀 女学校時代ですね。

万造寺 昭和何年頃ですか。

古賀 昭和で言ったら十一、二年ぐらいです。

藤井 付録に「啄木カルタ」というのが出て、それが十五年。私は小学生で夢中になったの。

古賀 だから、「少女の友」に投稿したのが、女学校の三年ぐらいからだったと思うんです。

木村 そのころ大阪府ですか。

古賀 ええ、東京と大阪と半々なんです。

木村 女学校は大阪?

古賀 だからね、東京が半分で、大阪へ転校したわけなんですね。

木村 それが三年生って書いてありますね。

古賀 三年生。三年の二学期から大阪です。

木村 大阪府、正式名称は?女学校の。

古賀 そのころ森小路に住んでましてね、東京から森小路に来たんですね。叔父がいましたんで、その叔父にこの辺で府立の女学校どこへみんなが行ってるって母が聞いてくれたらね、叔母が、この辺だったらみんな府立の寝屋川と言うから、編入試験受けて、それで入ったんです。

 そこには「野崎参り」とか作った今中楓渓という先生がいてね。その方は「覇王樹」の有名な歌人だったんですよ。私は三年生の時に転校したから、三年の時は作品出してませんけどね、四年、五年とそこにいましたので、作品出したら、いいところにちゃんと入ってました。

 その先生が短歌の、女学校全体の大きな歌会、他の女学校からも来るんですよね。大きな歌会の批評とかそんなのとてもうまかったですね。でも、ご本人の歌はやっぱり何か違うのね。うまいことはもちろんうまいですよ、もう有名な先生でしたから。東京によく行かれてね、学科は歴史を教えてらしたの。でも、歴史なんか本読んだらわかるからと言ってあんまり教えてくれないで、歌の話とか東京へ行った時の話とか、そんなことばかり話されましたね。

 歌とはちょっとずれるけど、国語の先生がものすごく優秀な先生だったんですね。東京高師出て、最初は大阪の天王寺師範の先生だったんだけど、ちょっと病気なさって、体弱くされたんで私らの学校へ来られたんです。すごく熱心でね、歌のこともいろいろ聞いたし、それからいわゆる今では唐詩といいますね、昔は漢詩、李白の歌とかね、そんなのよく教えてくださって、そういう文学的な教養をその先生から習ったと思いますね。

木村 で、啄木に感銘を受けて投稿を始めて、それから「アララギ」へ入るわけですか。

古賀 それでね、師範の時、昔の師範学校ってね、いわゆる高等科、今の中学校ね、資格も取らなきゃならないでしょ。だから、自分が専門とする教科も特別に取るんですよ。私は万葉と源氏があるというんで国語を取りましたけどね。昭和十三年に入学したんだけど、もう十二年から日支戦争が始まってましたから、万葉集は習ったけどね、防人の歌ばっかりやってね。相聞歌なんか教えてくれないの。でも、先生もそこは良心的ですよね。教えないんだけど、レポートを書いてこいってね、万葉の巻何から何までね。その辺は額田王とかああいういい人がみんなあるでしょう。

 源氏は源氏でね、新卒の先生だったのね。その方ももう下ばっかり向いて、いいとこ一つも教えてくれないの。でもやっぱりレポートはちゃんと書かせるんですよね。それで、今もその先生に感謝したいこと一つだけ。有名な長恨歌、あれはちゃんとプリントしてみんなに配ってくれた。あれが源氏と結びつくんですよ。だから、それは今も感謝してます。

 それでね、万葉集のレポートを書く時にね、調べたいことがあって学校の図書館へ行ったんですね。その時、今井邦子さんの本があったんです。それを何かの参考になるだろうと思って借りたら、「アララギ」のことがいっぱい出てくるわけね。考えてみたら、女学校の五年の時は文学史を一応習ったんです。ちゃんと「アララギ」も習ったのね。だけど、師範へ来てからこの「アララギ」という雑誌が今もあるかどうかわからないわけよね。先生だって一々そんなことは言わないでしょう。それで、私は図書館へ行って、今出てるかどうか調べたら、ちゃんと出てるんですよね。

 それで、今までは投稿とかやってたけどね、ちょっと本式に歌を作ろうかなという気になって、結局「アララギ」に申し込んだんです。ちょうど昭和十四年の九月号ぐらいから送ってもらったと思いますね。その頃はまだ師範の学生でしたから「アララギ」用の歌も作らないから、ちょっと読むだけにして、「アララギ」というとこは六カ月は乙会員というのになって、今で言う添削なんですよね。だから、十首出す、そしたらちゃんと丸とか批評とかで送り返してくるんですね。その乙会員を六カ月しないことには甲会員になれない。

木村 そうすると、それは送り返してくれるだけで、それを載せてくれるわけではない。

古賀 それはもう添削だけね。だから、六カ月過ぎたら本に出せる会員、甲会員というのになるわけですね。私が今でも嬉しかったのはね、十首送ったの。そしたら、十首のうち七つ丸がついてね、大きな字で「素直にて良し」って書いてある。土屋文明先生がされてるというのを聞きましたけど、あれは先生の字ではないと思うんですけどね。

それを田中栄さんに言ったら、すごいじゃない、そんな十首出して七つ丸がつくなんて。なかなかそういうことはないらしいんですね。だから、最初からまあ「アララギ」とは肌が合ってたんじゃないかな。

万造寺 その時の選者は土屋文明だったんですか。

古賀 その頃の選者は、今の「塔」と同じでね、茂吉でしょう、それから文明、結城哀草果、それからその他何人かが選をしていて、それをこっちからは指定できないんです。だから、一月は茂吉でも、二月は文明だって、誰かが割り振りをして下さってたんですね。今の「塔」と同じような、そういう組織だったんですよね、戦前は。

●戦争とアララギの歌、土屋文明との出会い

木村 それが十四年でしょう。

古賀 ええ、そうです。それでね、私が歌を本当に出し始めたのが昭和十六年から、その一年間はもう全部載ってます。それも二十首出すんですよ。二十首出しても一首だけの場合もあるんです。私も一首の時ありましたよ。だから、二首採られたらまだいい方、三首だったらものすごくいい。でも、年間通じて出したのが昭和十六年だけなんですよ。十七年になったら戦争中でしょう、紙がなくなるわけね。そうするとね、二カ月に一回しか出せなくなって、十八年になったら三カ月に一回しか出せない、そういうふうになっていったんです。十九年になったらちょいちょい空襲とかありましたからね、私も何かだんだん歌えなくなって、はっきり言って戦争中に戦争の歌を私一首も作ってません。それは今でも割と誇りに思ってるのね。

 アッツ玉砕とか、サイパン島が落ちたとか、そういうのがあると新聞に大きく出るでしょう。そういうことを歌ったって自分個人とはかけ離れていて、歌えないのです。肉親に何かあったというのなら歌えたと思いますけどね。だから、短歌というのは個性の個ね、個がなかったら私はやっぱり歌えないもんだと思いました。だから、戦争中に戦争のことは一切歌えなかったんですね。

万造寺 「アララギ」の中にはやっぱりそういう戦争歌というのはたくさんありましたか。

古賀 ありました、ありました。戦地へ行ってる人のための欄もあったんですよ。戦地から歌作って送ってくるんです。全く「アララギ」といえども、とにかく戦時体制ですよ。でも、私はもう歌えなかった。

 私も戦争中に出した一首だけあるんですね。昭和十八年だったかな。「卒業証書父受け取りて帰り来ぬ汝が征きてより五日経にけり」、弟が戦争に行ったから、父が弟の卒業証書をもらいに行ったんですよ。繰り上げ卒業になるわけね、戦争中だから。

木村 弟さんの卒業証書を。

古賀 そうそう、下の弟。海軍に行って、一体、どこへ行ったかわからないんですよね。とにかく行ってしまった。だから、あの頃一首きり。それは「アララギ」に出てます。

万造寺 当時当局の命令で、結社を統合しました。小さな結社は集められましたよね、三つ
で一つとか。それは「アララギ」はなかったわけですね。

古賀 それはないですよ。「アララギ」はもう「アララギ」で。だって、私「アララギ」会員だったんだもの、そんなことあれば、覚えてるはずよ。それはなかったと思いますね。

 それで、二十年に戦争終わったでしょう。私がびっくりしたのは、「アララギ」のその年の九月号出たんです、ちゃんと。それは大体選者級の人とか古い会員で「アララギ」に何十年て投稿した人とか、そういう人しか入ってませんが、出たんです。八頁の薄い本が。

万造寺 この「アララギ」は貴重ですね。会員にはみんなやっぱり配られたんですよね。会員はその時、何人ぐらいいたんですか。

古賀 何人くらいかなあ、多かったですよ。最初から「アララギ」って人数多いもの。

木村 戦争が終わるまでは文明さんには一回も直接お会いしたことはないのですか。

古賀 いや、土屋先生と初めてお会いしたのは、もっと早いです、昭和十七年。十七年に来光寺に茂吉、文明が見えるというんでね、それで私も一遍はとにかく行きたいと思って行ったんですよね。そしたら、茂吉はどうしても用事があって見えなくて土屋先生だけが来られてね、あの時、大体二百人ぐらい集まりましたね。だけど、その中でもう若い女性なんて四、五人ぐらいしかいないんです。その中に後から考えたら諏訪さんもおられたわけだけどね、その頃知りませんからね。もう隅っこの方で四、五人固まってひそひそと話していました。

 全然批評も当たらないわけ。偉い人ばっかりが順番に批評して、最後に先生がこれは平凡だねとかね、これが歌かねとか。平凡だねと言われるのはまだいい方なんですね。私の初陣の「アララギ」の会ね。

 その会の時は私本当はあんまり好かないんだけど、風景とかそんなんがいいかなと、アカシアの歌をとにかく出したわけね。そしたら、先生が「まあまあ平凡だね。」って言ってくれたのね。それから、私の歌から二つぐらい置いてまたアカシアの歌を男の人が出してたんですね。そしたら、先生がふっと返ってね、これは前のアカシアの歌の方が良かったなあと言ってくれてね、それでものすごく嬉しかった。私その時びっくりしたのはね、歌一首のことではるばる広島からも長崎からも、全国的にたくさん来てるでしょう。歌でこんな人が集まるのかな、自分が将来そんな身になるとは夢にも思わなくてね、もうあっけにとられていましたね、確か十七年のことです。

●戦後のアララギと高安国世との出会い

古賀 それで、戦争が終わってからはね、もう「アララギ」に載る人というのはごく少ないでしょう。だから、結局地方で「アララギ」を作れと土屋先生が言われた。まあ「アララギ」地方誌ですよね。先生の方もちゃんと見当つけて、例えば大阪だったら大村吾楼という人ね、あの方は中村憲吉の弟子なんですよ。大村吾楼さんに関西地方の歌誌を作れと言われて、それが「高槻」なんです。「高槻の梢にありて頬白のさえずる春となりにけるかも」というあの赤彦の歌のね。それが昭和二十一年の四月号創刊、三月かな。とにかくその辺の創刊。終戦の明くる年だったですね。石橋の宣真女学校、今は宣真高校になってますけどね、そこで初会合というのがあったんです。みんな集まってこういう本作るからってね。
その時、初めて高安先生に私会ってるんですよ。やっぱり因縁というのか、私の歌、他の批評者の人は別に褒めてもくさしもされなかったけどね、先生がぱっと立ち上がってね、何か「さみどり」というのが入ってたのかな、ここではこの言葉がものすごく効いてますって、えらく褒めてくださってね。その時初めて、ああ、この人が高安さんという人かなと思ってね。その前の来光寺でも見えてたんだけど、そんなの知りませんから。

万造寺 この戦後の「高槻」には、高安国世と高安やす子、両方載ってますね。

古賀 やす子さんは茂吉の弟子。「明星」におられたわけですが「明星」では飽き足らなくなって、「アララギ」に来て茂吉の弟子になられたということでした。高安先生は、全部お医者さんの一家なのね。お父さんからお兄さんみんなお医者さんでしょう。だから、あの先生ももう親兄弟にしては絶対医学へ行くべしとね。本人も最初はそうだったんですよね。医学部を目指してたわけだけど、どうしても文学部へ行きたくなって。だから、あの先生はお母さんの血を継がれたということになるわけね。やす子さんはもう有名な歌人。

木村 お母さんの本を十二、三歳の頃よく読んだって書いてありますね。

古賀 ものすごくきれいな方、品のいいね。誰にでも声かけてくださるしね。気軽な、いい方でしたね。

木村 関西に来られた文明さんが高安先生に一番初めにお会いしたのは、お母さんのお使いで手紙を持って行かれた時だとか。

古賀 お母さんが茂吉の弟子だからね、君は文明の方がいいだろうという、それで文明さんの弟子になった。またそれが本当に高安先生って土屋先生を尊敬してね、私もそれに感心、感動することがありましたね。

木村 昭和十一年に大阪で歌会が終わった後に、文明さんが十津川から熊野まで歩いてみようということになって、同行者を募ったら、その中に高安先生も手を挙げられたんだけど、お母さんがそんなところを歩いていったらあなたは体が弱いから死んでしまうから行ってはいけませんって、止められて、やめられたそうですね。

古賀 体のことも厭わず、手を挙げるくらいそれだけ尊敬されたらね、土屋先生の方だってやっぱりかわいいじゃない。

木村 古賀さんとはお年は何歳ぐらい違うのですか、高安先生と。

古賀 その前に大事なこと、「高槻」ね、「高槻」というのは大村吾楼さんが編集、発行してたわけでしょう。それでできたのが昭和二十一年。それまで高安先生は選者ではなかったんですよね。昭和二十三年から選者になられたわけ。「高槻」では先生の歌は光ってたんですよね。他の人は本当に「アララギ」的な歌でしょう。先生はそこへ、私が何かいいなと思う、何か新しい感じのする歌を作っておられたんですね。選者ではないけどね、先生の歌が好きだから一生懸命読んではいたんですね。二十三年の何月からか忘れましたけど、とにかく先生が選者になられたんですよね。私もこういう性格だから、あんまり素直なことないからね、先生が選者になられてすぐぱあっと行くということはなくてね、やっぱり本当に先生との相性はちゃんと合うかどうか確かめ、そういうとこが私用心深いのね。

 そしたらね、大阪の毎日新聞社ね、月に一回先生の講話と、それから選歌の会があったんですよ。それで、私の歌と合うかどうかわからないからそこへ応募して、その会に行ったんですよね。トップには出なかったけどね、三番目にちゃんと出てたのね。それで、先生も何か褒めてくださったからね、ああ、これだったら高安先生の選になってもいいなあと思って、それで出したんです。それがそもそも大きな転機というんでしょうかね。

 一番最初のときも二番目の時も、私の歌が高安選のトップに続いて出たのね。私もうびっくり仰天してね、女学生時代から歌は好きですけど、歌でどうこうという気持ちは全然ないわけね、好きだから作ってるだけでね。歌人になろうとか、歌でどうしようとか、そんな気全然ないでしょう。ところが、二回も続けてトップに出たら何か責任を感じるわけね。これはもう下手な歌は作れないと。何とかいい歌を作らないといけないなあという気になってきたわけ、自分でね。本当に続けていいのが作れるかどうか心配でね。

 そういう時、思ったらすぐ行動するからね、先生に手紙出してね。私は残念ながら母親が病気だったでしょう。だから、歌会というのに行けなかったんですよね。だから、横のつながりが本当になくてね。もう先生だけが頼りなわけで、月に一遍先生に歌を見ていただけないでしょうかって、手紙を出したんです。

 先生からすぐハガキが来てね、僕も一度お目にかかりたいと思ってましたからいらっしゃいと言ってくださってね。だから、昭和二十四年の一月から個人的に指導受けることになった。あの頃は学校へ勤めてても、何時まで学校にいないといけないってあんまり厳しいことなかったんですね。だから、四時半ぐらいだったらもう帰っても平気だったのね。だから、四時半ぐらいに出ると、先生のお宅に着くのが六時過ぎでしたね。本当に一対一で教えていただきました。

 ノートに私の歌を十首ぐらい書いて、それを先生に差し出したら、先生が丸をつけてくださって、これはいいなあとかね。それがあの時考えたら、先生の方は本当に「アララギ」的でね、これは何か作者のいる場所がわからないとか。私は、「アララギ」に入っててもそういうことは案外考えないで作る方なので、作者がどこにいようと作りたいように作ってたので、先生の方は位置がわからないとか言われてね。そんなふうに、とにかく十首出したら、丸をつけてくださって、それを返してくださる。それが四、五年続きましたね。

木村 それは二十三年に選者になられたからでしょう、そのすぐ後からですか。

古賀 二十四年の一月からでした。私は二十三年に復職した。昭和十九年から二十三年の三月までは家におったんです。お手伝いさんが徳島の子でね、都会は空襲が激しくなるから返してくれというのね。戦争中は、普通の女の子はみんな工場へ徴用されるじゃないの。だから、代わりの人がいない。そしたら私が辞めるしか手がないでしょう。病気の母親一人ほっとくわけにいかないから、思い切って辞めて、もうこれで一生教師にはなれないと思ってたんですよね。

 そういう時だったんだけど、上の弟が結婚して、その妻が母の面倒を見てくれるようになったので、復職することにしたんです。二十三年の四月から、今淀川区になってますけどね、三津屋小学校に復職した。まだその頃は東淀川区だったんです、三津屋もね。東淀川区でたった一つの戦災校だった。それで、校長さんが学校を見に来て、よかったらお願いしますって。私の性格でしょう、学校見に行ってね、こんなとこ結構ですなんて言える人間じゃないですから、これも何かのご縁だろうと思って、じゃお願いしますと言って、復職したんです。

木村 その年に高安先生が選者になられたんですね、二十三年に。

万造寺 それは古賀さんの三十代ですか。二十代?

古賀 歳からいったらもう二十代の一番最後ぐらいです。

木村 高安先生は。

古賀 高安先生とは七つ違いだからね。先生が大正二年生まれ、私が九年生まれ。近藤さんと先生とは同年なのね。近藤さんの方が二月生まれだから、向こうがちょっと上になるんですね。とにかく月一回北白川まで通って歌を見てもらって、一番嬉しかったのは、終わったら先生が、先生がですよ、紅茶をいれてくださってね、あの時は本当楽しかったね。

藤井 その頃和子夫人は。

古賀 醇ちゃんの世話が大変だったの、奥さん。でもおしゃれな方でね、外国からの黄色とグリーンのきれいな毛糸を買ったから古賀さんもこれ買わないって言ってくださってね、私はどっちも欲しいから両方買いましたね。

木村 歌集で言うたら『真実』の頃ですか。

古賀 そうなりますね。

●「塔」の創刊のころ

万造寺 それでは、「高槻」から独立して「塔」になった辺を。

古賀 そうそう、大事なことは、昭和二十七年から高安先生が「高槻」の編集をされるようになった。それを機会に先生は「高槻」の名前を変えて「関西アララギ」にされたんですよね。で、高安国世編集ということになった。それが大事なことなんですよ。ところが、なかなか難しかったんです。若い人はものすごく高安先生を支持してるでしょう。でも、「アララギ」から来た割りと年のいった人は、高安先生の編集というのを好まないですよね。

木村 その前に「フェニックス」というのが創刊されたのね。

藤井 それは、「アララギ」とちょっと系統が違うの。

万造寺 「高槻」が「関西アララギ」と誌名が変わって二年後、三分して、「塔」と鈴江氏主宰の「林泉」と大村氏編集による「関西アララギ」に事実上の分裂を見たのであるって、伊藤由紀夫さんが「塔」創刊について書いていらっしゃいますね。

藤井 確か二十七年に「関西アララギ」になっているはずです。

万造寺 その二年後に三分してるんですね。二十九年、ちょうど二年後、二十九年に「塔」ができたわけですものね。

藤井 「フェニックス」と「ぎしぎし」は若い人たちが中心で、破壊活動であるって岡井さんは書いている。

古賀 京大の医学部の人たちがやってたんですよ、こういうグループでね。

藤井 これに入ってる「塔」の人は諏訪さん?

古賀 諏訪さんは終わり頃入ってると思います。それから、加藤和子さん、あの人は入ってる。私はそういうとこは全然関係してない。先生だけに見てもらってた。

万造寺 「塔」の二十五周年記念の増刊号に「総目次・執筆者索引」というのがありますが、それを見ますと、最初のころに河村盛明、太宰瑠維、野場鉱太郎などの名前がよく出てきますけれど、どういう人たちだったんですか。

古賀 太宰瑠維でも河村盛明でもね、もう先生にとにかく新しい雑誌を作ろうって言ってね、熱心でした。「塔」ができてしばらくはちゃんと歌も出してたんですよ。でもいつの間にか「未来」へね、そこらが私はわからないんだけど。

木村 「塔」を作ろうといった時に、一番熱心だったのは二上令信さんだったって書いてありますが。

古賀 令信さんも京大の学生だったでしょう。「塔」の初めのころは、あの人が編集で一生懸命やってくれたわけなんですよね。それから、医学部では鈴木定雄という人がすごく熱心だった。医者はドイツ語が要るでしょう。だから、先生は、ドイツ語を医学部に教えに行かれてたわけ。その時にドイツ語だけでなしに、自分はこういう短歌をやってるということを言ったら、医学部で短歌が熱心になって、それでああいう会ができたわけなんですね。野場鉱太郎さんはもう亡くなりましたけど、熱心な人でね。私が歌集出した時に批評を書いてもらった。電話がよくかかってくるの。それが、また長い電話で。でも、だんだんあの人らは歌を作らなくなった。河村盛明なんかいい歌たくさん作ってた。太宰さんも。

木村 「塔」の創刊の時のそういういろんな人が活躍されている時に古賀さんはどうされてたのですか。

古賀 おりました。私もメンバーの中に入っていました。田中栄さんはずうっと「関西アララギ」で大村吾楼選だったんですよね。それでね、「塔」になる時、大村先生のとこへ行って断って、それから「塔」の方に田中さんは来たんですよ。だから、高安先生はもう田中さんをものすごく大事にされてた。だって、わざわざ大村呉楼のとこ出て自分とこへ来てくれたでしょう。だから、高安先生は田中さんに一目置いていらっしゃった。本当に大事にされてた。

藤井 あの創刊時代の人たちを高安先生は大事にしてはったですね。

古賀 それでね、創刊の時、みんなでたくさん寄って名前を考えようとしたんです。いろいろな案を出してね。あの時「地上」という名前にしてたんですよ。ところが、先生がよく調べられたら、もう「地上」という歌誌が既にあったわけね。それを知らなかったの。でも、高安先生がそれから考えて、「塔」にしようということになって、みんなから了解を得て「塔」になったんですよ。結局、「塔」というのはね、あれ「アララギ」とも読むわけね。だから、「アララギ」に通じるからというんで「塔」という名前にしたんです。そういういきさつがありましてね。

木村 ここに永田さんが引いてるんですけどね、「発足のことども」というので、太宰瑠維さんとか、伊藤由紀夫さんとか、田中栄さんとか、坂田さんとか、加藤和子さんとか、澤辺さんとかに聞いてるんだけど、その時あれは「地上」だったんですよ、大多数でね、だから私は「地上」になると思ってたんですよ。ところが、「塔」になったのでびっくりしたようなことでって。

古賀 みんなで集まって決めた時は「地上」だったんですよね。先生がよく調べてみたらば、「地上」というのは既にそういう名前の歌誌があるので、それで先生が考えて「塔」にされたわけ。、幾つもみんなが意見出していろいろ言ったんです。結局最後には「地上」にしようというふうになって、それがだめになって「塔」に。「塔」で良かったですね。
だから、もう創刊号の頃はみんな燃えていましたね。だって、私らの本ができたというんでね、本当に嬉しかったです。でも、「関西アララギ」では、高安国世選の私らは憎まれてましたね。

藤井 大村呉楼さんはちゃんと「関西アララギ」の誌上で喜んで「歓送」と書いてくれてます。

古賀 あの先生は大物だからそういうことには動じない方。いい先生でしたよ。

藤井 そして、『真実』の批評もちゃんと「関西アララギ」に載せてくれています。大村呉楼さん。

古賀 あの頃の大村先生が編集してる時、私ら校正なんか大分行きましたもの。それでね、お正月なんかでも、会員の人にみんな来い来い言って呼んで、二階にご馳走をいっぱい出してくださってね。私も一遍だけ行きましたけど。宝塚線の石橋なんですよね。まあ本当にご馳走いっぱい並んでてすごいなあと思ってね。だから、そういうふうに本当に弟子をかわいがられて、太っ腹の人だったですよね。

木村 「塔」ができた時に古賀さんは「関西アララギ」を辞めたわけですか。

古賀 だって、「関西アララギ」から抜けて「塔」になった。もちろん辞めなきゃ。我々の新しい本を作ろう言うて高安選歌からなったんだから、もちろんそうです。

藤井 東京の「アララギ」には入ってたんですか。

古賀 ええ、入ってましたよ。

藤井 そこら辺が私ちょっとわかりにくい。

古賀 それは高安先生が「アララギ」にも出しなさいって言われてたんです。

木村 まだ「アララギ」の会員だったわけですよね。

古賀 そうです、もちろん。だから、両方出してた。「アララギ」はずっと続けてましたよ。

万造寺 いつまで続けておられたんですか。

古賀 土屋先生が選を辞めるまでは続けました。私もそれは本当言ったら惜しいとこで辞めたんだけどね、二首なんか出たら先生の方が喜んでね、古賀さん、今度二首出ましたね言ってね、私は、はあ、二首だと思っていても、先生の方が喜ぶぐらいね。それで、「アララギ」でも何かだんだん批評にも採られるしね、割と認めてくれてね、「アララギ」の誰々の批評をお願いします、そんなんも二、三遍来てね、「アララギ」でもちょっといいとこまでいってたですけどね。

木村 それは戦後のいつぐらいですか。

古賀 それは土屋先生が病気になられて選をされなくなったんですよね。それで、私はぴしっと辞めました。「アララギ」は取ってるけどね、投稿はもう全然せず、私は土屋文明の弟子と思ってたからね。

木村 それはいつ頃のことですか。

古賀 先生が病気になられたのはいつだったんかな。それはちょっと私は思い出せないんだけどね、先生が病気になって文明選をやめられたと同時に私も、「アララギ」は取ってるけども、投稿はもう全然しませんでした。

万造寺 そしたら、それまでは「塔」に例えば十首出して、「アララギ」には二十首出してというようにされていたのですか。

古賀 文明選の時ははがきに三首だったんです。一番最初、五首の時代が何年間かあってね、やっぱり土屋先生もだんだんとお年になられたか、三首になったんですよね。だから、三首出して、その中で二首採られたらものすごいいいわけでしょう。そんなふうにとにかく土屋先生が選を辞められるまでは両方出してた、それが何年かね、私もちょっと。そうだ、文明全集見たらわかる。

藤井 わかりました。七十二歳、昭和三十七年。

古賀 やっぱり私が三十八年て言った、合ってました。

藤井 心筋梗塞。

古賀 そうそう、それでもう選歌辞められた。だから、有名な土屋文明選歌というのはなくなったわけ。と同時に私も「アララギ」に出すのはやめました。

万造寺 できた頃の「塔」を見ていますと、藤牧久枝さんとか、田中義郎さんとかよく知っている名前がたくさん出てますね。この岡田恒子さんというのは。

古賀 岡田さん、今は角田さんという。

万造寺 ああ、角田恒子さんになってられるのですね。もうこの頃から出てますね。

古賀 今もちゃんと歌出しておられる。あの人は中学校の先生だったんです。

万造寺 加藤和子さんもよく出てきますね。この方は「五十番地」を今もやってらっしゃるんですか。

古賀 そう、今も、荻野さんとご一緒に。加藤和子さんは上手だった。

藤井 この人の歌を模範とせよと、私、入会当初澤辺さんから言われた、。

古賀 うまかったですよ。だから、和子さんは、「早春」とかのグループで鍛えられてるからうまかった。銀行へ勤めていらっしゃったわけね。いい歌がたくさんあったんです。

藤井 黒住さんは「アララギ」ではないですね、たしか。

古賀 いや、何かちょっとしばらく出してるのよ、あの人も。

万造寺 澤辺さんは。

古賀 澤辺さんもちょっと出してると思う。確か出してたん違うかな。「アララギ」本誌には出してなかった、「関西アララギ」の時から澤辺さんもいましたからね。二上令信さんは、京大の時からでしょう。

木村 前に土屋文明さんのとこへ行ったという話をされてたじゃないですか、家まで。それはいつの話ですか。

古賀 私が土屋先生のとこへ一番初めに行ったの、あれ何年頃かな。昭和三十年代だと思いますね、二番目の北天満小にいた時だったから、昭和三十五、六年ぐらい違うかな。

藤井 二回行ってるでしょう。

古賀 二回行った。二回目はあんまり覚えてない。

木村 一回目は何をしに行かれたのですか。

古賀 先生に会いたいから行ったの。「塔」の会員でしょう。先生の家ぐらい行ったっていいじゃないの。それで、着いたと同時に東京駅から電話かけて、「アララギ」会員の大阪の古賀でございますけど、今ちょうど東京へ参りましたんでお宅へお伺いしてもよろしいでしょうかって言ったら、ああ、来なさい、来なさい言ってくださってね、道順を教えてくださって、まだ東京は市電が通ってる時でしたね。だから、青山何丁目で降りて、どういう通りを行って、どう曲がってどうしてって、そしたらわかりますから、丁寧に教えてくださって、それでいろいろ話してね、高安君元気かとかいろいろ。

藤井 あの当時、歌人というのは、割と見知らぬ者でも受け入れてくれた。私も吉野へ行って、前さんの所へちょっと電話でもと思って電話したのよ、そしたら、家へ来なさいって言われるの。びっくりしてね。バスに乗ってこうしてこうしてと言って。それで行った。私以外にも大勢行ってるの、学生やらね。高安先生の所もよく若い人が不意に訪問したりされてたと思うよ。そういう時代だったね。

古賀 土屋先生の場合は周りがだめなのよ。もう偉い人にしてね、お前ら近づく人と違うみたいね、そういう囲いを張ってしまってるんです。私なんかそんな囲いなんかへっちゃらだからね。会員だから何も行って悪いこと一つもないでしょう。何も悪いことしに行くわけじゃないしね。先生の話聞きたいからね。

 もう一つはね、うちの父より一年上なんですよ、生まれがね。だから、私も父が早く死んでるじゃない。何か懐かしいなあという感じがするわけ。だから、恐らく学生時代なんかでも土屋先生とうちの父なんか、どこかですれ違っているかもしれないしね。あの先生は一高、東大でしょう。うちの父は一橋だったでしょう。だから、どこかで、きっと神田の本屋ぐらいで、会ったことがあるかもしれない、そういう気持ちがあるからね。みんな土屋先生は怖い怖いと言う。私は全然怖くなくてね、それで行ったんですよ。

 でも、あの先生よく気が付くんですよね。私、一回目の時の思い出が強烈なんで、二回目は全然覚えてないんだけど、その時ちょうど八月の末だったんですよね。そしたら、先生がもう「アララギ」できてますからね、あんたのとこの家には着いてるだろうけど、帰りの車の中で読んでいきなさい言って九月号をくださったの、もう印刷できていたからね。それで、私もありがとうございます言ってね、そこまででやめておけばいいのにね、私も心臓強いから、先生済みませんけどサインお願いできませんか。そしたら先生がね、僕は雑誌には絶対サインをしないことにしてるが、ちょっと待ちなさい言ってね、それで先生の愛弟子で夭逝された徳田白楊という人があるんですよね。その人の歌集を持ってきて、ちゃんと先生がその歌を書いてね、これを上げるからと言われて有難くいただきました。

 それ言ったらね、田中さんとか黒住さんなんかね、先生の家の周りぐるぐる回ってて入れなかったって。それでね、二人の言うことには、あんたは女やから得してるって。そんなことないですよ。

藤井 黒住さんはね、高安邸へ初めて行った時ね、どうぞと言われて、ソファに坐って沈み込んでびっくりしたんだって。

古賀 それでも、土屋先生って頭いいね。びっくりしたのはね、毎日新聞社で大きな会があったんですよね。そしたらね、高安先生もさっき言ったようにもう土屋先生様様でしょう。私に一緒にご挨拶に行きましょうって言われるのね。私なんか戦前からやっぱり土屋文明の弟子でしょう。なんでそんな挨拶なんか行くのかなと思うけど、先生が一緒に行きましょう言ってるのを嫌です言うわけにいかないからね、それで先生の後について行ったんですよね。そして、先生はちゃんと挨拶して、私もお世話になってます、古賀でございます。そしたらね、そこまではいいんだけどね、それから私びっくりしてね、あんたたちと一緒に出してた何々さんは今頃どうしてるか、って訊かれるの。これにはもうびっくりしましたね。「アララギ」に私の作品が出るじゃない、その私の近くにおった人の名前をはっきり言われるのよ。もう何て頭のいい人だろうと思った。

藤井 奈良で歌会があった時なんか、作者が名前言うでしょう、名前言うて立って先生の批評受ける時、直立不動でね。そしたら、文明さん職業をぱっと言われるのよ。

古賀 とにかく、私はどんな記憶力なんだろうかなと思ってね。私なんか現に目の前来てるんだからね、名前を言うて、それはわかるのは当たり前ですよ。だけど、あんたらと一緒に「アララギ」に出てた何々さんは今頃どうしてるって。

万造寺 最初の「塔」ですが、会員は何人ぐらいだったんですか。

古賀 少なかったですよね、二百人ちょっと切れたんじゃないかな。

藤井 二百人いない。

古賀 百三十人ぐらいかなあ。創刊のとき、百人はいたと思いますよ。

木村 全国大会のときは少なかったよね。

古賀 全国大会なんか少ないもんよ。たくさん来たなと思うんで四十人ぐらい。でも、あれ私は気に入ってたね。まず先生が九時から十時頃まで講義をしてくださるわけね。それが先生、訥々として話をされるの。だけど、すごくいい話をされてね、歌のいい話。

藤井 前夜にね、準備のためにすっと部屋へ行かれる。そこで構想を練らはるらしい。それでお話ししはるから。いい話やった。

古賀 歌会もよかったね。もう本当の純粋な歌会でみっちり。

木村 高安先生が『真実』を出された時の当時の反応はどうでしたか。

古賀 『真実』の時の出版記念会は天龍寺でしたね。

木村 他の分野の人たちも来たんですか。

古賀 ええ、他のとこからも来てましたね。だけど、人数にしてはそんなたくさんじゃなかった。結局「関西アララギ」の時に第一歌集出されたでしょう。だから、「関西アララギ」ではみんなちゃんといいこと書いてるのね。なのに、「アララギ」ではあまりいいこと書かない。

木村 どんなふうに。

古賀 もうとにかく「アララギ」流でないとかね、その書き方が嫌みなの、ものすごくね。

藤井 岡井さんも批判的でしたね、『真実』に。

古賀 でも私『真実』好きですね。

藤井 他の結社では高安さんは『真実』が一番いいって言う人多いですよ。

●「塔」の会員に知っていてほしいこと

古賀 今の会員の人に知っててほしいのはね、やっぱり「塔」は「アララギ」系ということ。私それをいつも思うんですよ。それも何も知らないで入ってきたりするのね。やっぱりどういう系統か、どういう集まりかということぐらいは知っててくれないと。「塔」は純然たる「アララギ」系ですよ。それを承知で入ってもらわないと。

万造寺 文明さんは、例えば「塔」はどんな具合だねとかいうふうな、そういうような気がかりは別に持たれなかったんですか。

藤井 ちらっとは思ってられたのと違うかな。でも、本拠ではないと。本拠は「関西アララギ」で、「塔」は……

万造寺 「関西アララギ」が本拠で、だから「塔」はちょっと、だけど高安先生のことは気にしてらした。

古賀 それでも、土屋先生は例えば「未来」は近藤さんでしょう。「塔」は高安先生でしょう。「歩道」は佐藤佐太郎でしょう。だから、自分の弟子たちがそういうふうにしていいのを作ったということは喜んではおられたんですよね。ところが、それがまた「アララギ」の滅びるもとになってる。優秀な人がみんなもう自分の歌誌を持ってるわけでしょう。だからね、私は「アララギ」なんかもっと続くと思ってたんだけど、あそこで滅びたのはそれが大きな原因だと思いますね。それで、やっぱり後を継ぐ人が経営手腕を問われますね。難しいですね。「アララギ」もう少し続いてほしかったですね。だって、惜しいですよ、あそこまで来てね。「心の花」はまだ続いてるでしょう。それを思ったらね、「アララギ」だってもうちょっと続くべきだったと思うけどね。

木村 高安先生は文明さんのどういうところを尊敬してたんですか。

古賀 やっぱり結局一番最初言ったように、高安先生のお母さんが茂吉でしょう。だから、親子で同じ選者にはなれない。それはお母さんの意向でもあり、茂吉の意向でもあったみたいね。だから、茂吉は進んで文明先生を推挙したわけ、文明さんのとこ行きなさい言うてね。土屋先生は高安先生の歌をちゃんと買っておられたんですよ。だから、そういうところにも縁があるわけね。高安先生も文明さんを尊敬するのは、認められてるということもあるからね。それに近藤芳美といういいライバルがいましたんでね、よけいに。

藤井 「塔」で文明研究を何年かしたんです。歌会の前に。高安先生よく出席してくださって、文明さんの写実をものすごいと言われましたね。だから、写実という面ではとても尊重するんだけど、高安先生はそれに情のところがちょっとあるじゃない、ロマンチックな、そういうところはやっぱり「アララギ」から少し逸れるのかしら。それは口に出しては言わはらへんかったけれども、私はそう判断します。文明さんの歌のこういう写実はとかいうことは言わはった。それから、何か人間の生活を歌ういうことを大切にと。

古賀 だからね、今藤井さんが言われたようにね、「アララギ」の写実ね、文明先生はその範囲が広いと私は思う。私が文明先生好きなのはね、割と人事詠が多いんですよ。「金の事にて交わり絶てり」とかね。で、土屋先生も若い頃は本当は小説家になりたかったの。だから人を詠む歌が良い。私はそれが好きなの。私も写実写実というけど、風景の写実とかね、そういうのは私はほとんど詠んでないんですよ。あんまり好きでない。ちらっとでも人の息遣いが何か通ってる、そういう歌を私も作りたいわけだしね。大体「アララギ」に出した歌だってみんなそうなんですよ。私、題詠は嫌いだけど、自分に題を課して、「アララギ」に煙突の歌を一年半続けて出した。一回も没にならなかった。だから、ある時は煙突の歌で二首稼ぎました。それはね、三津屋というとこは昔工場街だったんですね。教室から煙突が見えるわけ、いろいろ。それが私おもしろくてね、毎日その煙突眺めててね、それを題材にして、とにかく煙突の歌を作ってね。

藤井 それ高安先生が言われてました。もう古賀さんは煙突の歌を一年じゅう歌うんだよと言うて。だから、同じ素材を何回も何回も歌えって、模範にと言われた。

万造寺 『溝河の四季』の歌ですね。

古賀 本当言ったら「川」なんだけどね、「ミゾカワ」というのはね。だけどね、文明先生の歌にやっぱりあの「河」を書いた「溝河」というの一首あるんですよ。だから、私安心してあれ使ったわけ。あれは先生から歌集出しなさいと言われてね、私はとんでもないことだと思って、私なんかまだまだ歌集なんかって言ってるのにね、選歌もしてあげる、出版社もちゃんと面倒見てやる、すべて僕がちゃんと責任持つって、そこまで言われて嫌ですって言えない。同時に「塔」の合同歌集ができつつあるとこだった。私さっき言ったようにね、母親の病気の看病で歌会に行けなかったんですよね。そこで合同歌集ができつつあるということも知らなかったんです。先生が個人歌集を出しなさいって言われるから、それで出したんです。私はもう一生に一冊でいいわと思ってね、その時、あなたの歌集を塔叢書第一篇にすると言われて、それも驚きでした。自分の歌だってろくに覚えないからだめなんだけど、「子らの描く暗き空には並ぶ煙突」というのね、あれも「アララギ」に採られて誰か批評してくれてましたけどね、楽しかったですよ、煙突。

万造寺 街の中でそういう溝川が流れててという、そういう工場地帯だったわけですね。

藤井 同じ川でありながら四季がある。

古賀 四季があるの。その辺に写生に行ったんですよね。川の色も四季によって違うんですよ。私はこれいいなと思ってね。

木村 それで、子供たちが働いてたりするわけですね、学校休んで、炭俵運んだり。

古賀 先生に見てもらいに行った時ね、また先生が、学校の歌をどんどん作りなさいと言われるからね、私も正直だから、なるべくちゃんと見て学校の歌をどんどん作ろうと思ってね。何ぼでも材料はあったのよ。戦後でしょう、だから、教室にいるより子供が、外で生き生きとしててね。そうすると歌ができるんですよ。病気の子をお見舞いに行ってね、女の子がスカート広げてとかね、ああいう学校の歌を楽しんで作ってたんです。でも第二歌集の時ほとんど学校の歌は作ってない。第二歌集はもうほとんど相聞歌です。第三歌集は、先生が亡くなってから初めて。だから第一歌集も第二歌集も先生の序文がちゃんとある。私の宝物です。

藤井 第二歌集の名前は?

古賀 『見知らぬ街』。あれで賞をもらったんですよ。二十年間を置いてるわけ。私、歌集は一生に一冊で結構だと思ってたから。

万造寺 この歌集については『見知らぬ街』の著者のためにと野場鉱太郎さんが批評を書いてるし、それから「白珠」の松岡裕子さんも「新しき批評の形」という題で書かれています。二上初子さんも「ある一女性の戦後史として」という題で書かれてるんですね。

古賀 池本さんも書いて下さいました。それから、大分経ってから、清原日出夫さんの奥さん、佐藤伸江さん、あの方も書いてくれましたね。だけど、私第二歌集ね、先生が初稿が出た段階で序文を書いてあげるからと言われるから、初稿が出て送ったんですね。それから先生が序文書いてくださったのね。それで、歌集ができた時も先生ものすごく喜んでくださってね、私は二十年間作っててこれだけしかできないのかと思って悲観してた。そしたらね、先生がすごく褒めて序文を書いてくださって、恥ずかしくなってしまって。

万造寺 その頃から「塔」の編集をなさるのですか。

藤井 江畑さんも来て、そのメンバーが大阪歌会のメンバーになって。

古賀 ちょうど私の批評文の初校が出た頃からです。その五十二年からうちで編集・初校・再校・発送までするようになったの。それまで大阪歌会もうちでやってたんですよ。何しろ、私はまだ現職だったので大変でした。

●大阪歌会の立ち上げ

木村 大阪歌会はいつから始まったの。

古賀 一番最初はね、岡田恒子さん、今の角田恒子さん、あの人が中学校の教師やってたんですよね。そこの作法室か何かで。

藤井 それは大阪歌会よりもっと前のこと?

古賀 だから、一番最初の大阪歌会は角田恒子さんが音頭取ってくださってね、角田さんが結婚で退職したから、大阪歌会が消えたんですよね。それで、私がうちでしましょうということになって、うちで大分しましたね。

藤井 校正や発送に集まってくるメンバーで歌会もして、それは昔の婦人会館で。

古賀 だから、高安先生も二回ぐらい来てくださったですよね。五十二年からは編集から何からしてくれと言われたから、じゃ歌会はもうやめ、みんなもそう言ってくれてね、歌会までここでするというのは大変だから、それで若い祐徳さんが、婦人会館を探してきてくれたんです。

万造寺 古賀さんが編集に関わられるより前はどなたが編集をやっていたんですか。

古賀 私らの前が川添さん。

藤井 それで、その前が私、その前が永田さん。その前が澤辺、黒住さん。

木村 古賀さんの後が光田さん。

古賀 一緒にやってたんですよ。

木村 昭和五十六年から編集は光田和伸氏が引き継いでくださった。

古賀 だけどね、発送とかみんなうちでやってたの。私はもう全部やめるって言ってるのにね、ちゃんとうちで集まるんだもの。編集はしなかったけど、発送はずっと相変わらずうちで。もう、しょうがない。

木村 光田さんの次が誰ですか。

藤井 光田さんの次は永田さん。

古賀 永田さんになっても十年近くはわが家ですべてやりました。調べてみたら、発送は平成六年十二月二十一日が最後のわが家での発送でした。それで十八年六か月間わが家でやって来た「塔」の発送の仕事は終わりになったんです。たくさんの協力者があって出来たことです。

木村 古賀さんが「塔」の歌でどんなことを大事にしたいなと思ってらっしゃいますか。

古賀 「塔」の歌で、それは高安先生の主義に準ずると思う。自分をしっかり持って、あんまり右顧左眄しないで、自分の歌を作るべきだと思う。それが一番大事ですよ。だから、人が新しい歌作ったからといって何も真似することないしね、自分は自分の個性をしっかり持って自分の歌を作るということ、それ一番大事。私はそう思いますね。、歌壇でどうこうとかそんなんではなしにね、本当に歌が好きだったらやっぱり自分の歌を大事にして自分の歌を作ることだと思いますね。何も人のために作ってるんじゃないからね、自分のために作ってるんです。

 今の「塔」は人数は増えてるかわりに、もういろんな歌があるじゃない。だから、迷う人はやっぱり迷うわけよね。こんな新しいのを作ってるとかね、そんなことはあんまり考えんでよろしい。自分は自分の歌で通したらいいわけよ。自分の歌を大事にして、一生懸命作っていきたいと思いますね。それが一番やっぱりいいんじゃないかな。

木村 いつもよく言われてますよね、「私」が歌えるから歌が好きだって。

古賀 そうなの。歌ってそんなもんですよ。歌集なんかでもそうだけどね、生きてるわけでしょう。その人の生きた姿が出てるから歌集というのはおもしろいんですよね。だから、私は頭で作った歌とかそういう歌は嫌い、はっきり言ってね。だったら小説書く方がいいですよ。生の軌跡、生きてる軌跡ね、それが出てなかったらその人の歌集と言えないですよね。こっちもそういう歌集を真剣になって読みたいと思うしね。言葉のおもしろさとか、そういうことだけで作ってる、そういう歌は私は感心しないね。その人という人が浮かんでくる、そういう歌集がいいと思いますね。

木村 古賀さんが一番感銘を受けた歌ってありますか。

古賀 亡くなった人で言えば、斎藤史なんかやっぱり私尊敬する。あの人は最初、十代は本当にロマンチックな歌作ってたんですよね。だけど、長野県に疎開してから、お母さんとご主人と両手に病人抱えて、あれだけ生きてきたわけでしょう。だから、自分をしっかり歌ってるわけね。死ぬまであの人は歌を離さなかった。だから、私ああいう人は尊敬します。ただ自分はうまいからとかでなしに、本当に自分の、あの人も最後になるほど何か赤裸々に歌ってるわけね。ああいう歌はいいと思う。自己をしっかり持つということが一番大事だと思う、結局は。

木村 まだまだ伺いたいことはたくさんあるのですが、きょうはこのくらいで。ありがとうございました。これからもお元気で、ご活躍下さい。

(於古賀泰子宅 二〇〇七年十二月二六日)

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