塔アーカイブ

2008年9月号

座談会

 結社とのつきあい方

高島裕・吉岡太朗・山下洋・川本千栄・前田康子

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●自分にとっての結社

江戸 今日は皆さんに「結社をどう捉えていらっしゃるかを漢字一文字で表してください」という難しい宿題を出しておりまして・・・(笑)。

高島 裕   「恩」
吉岡 太朗  「内」
山下 洋   「時」
川本 千栄  「開」
前田 康子  「揺」

江戸 この漢字を選んだ経緯や理由、説明というようなことをそれぞれお話ししていただこうかと思います。
 まず、高島さんからお願いできますか。

高島 僕は「恩」という字で、本当にこのとおりだと思っているんです。結社の中で先輩方とか、歌仲間にいろいろ教えてもらったりとか、批評しあったりとかという中で初めて歌というものの型というか、こういうものなんだというところを自分の体に刻みつけることができたと思うんです。それがなかったら絶対に歌というものをわかってないと思います。そういうことを既存のものへ鋳型にはめ込むことなんだという考え方もあるかもしれませんけども、たとえその鋳型を壊していくという道を選択するにしても、これを知らないというのはやっぱりちょっと通用しないだろうなと思うので、自分が、短歌を通じてどういうふうに自分を生かしていくか、表現していくかということをわからせてくれたのが結社なので、僕の場合は。結社に入ってなかったら今の自分は絶対ないから、歌詠みとしての自分はないし、結社の経験があったからこそ自分一人でやっていける。そういう意味でもやっぱりこれは結社というもの、結社を構成しているいろんな人たちの恩によって今自分は歌を詠んでいられるんだと思うので、そういう意味で。

江戸 じゃあ、順番に聞いていきましょうか。吉岡さんいかがですか。

吉岡 私は「内」という漢字を選びました。大変悩んだ末なんですけど、「内」っての、結社が内側で、私が外側みたいな、そういう二項対立なんです。今、どこの結社にも所属してないんですけど、あいさつがわりに誘われるというか、そんなような状況なんです。ありがたいことではあるんですけど、でもそれで何かすんなりそこに入ってしまうっていうことにちょっと抵抗があって、今いろんな歌会とかに顔出させていただいて、割と自由にやってます。それで、今の状態で短歌に対する考えというのをある程度固めておいて、入るにせよ入らないにせよ、まずは外側でしばらくやっていきたいなと思ってるんです。それで結社というのは内側だと思ってて、いずれ入るかもしれないけど、でもまだ私の場所ではないなと思ってこの漢字を選びました。

江戸 内と外ですかあ。それは何か枠があるという感じですか。

吉岡 短歌っていう枠ですけど、私の中に持ってるイメージでフィールドがあって、その中にいろんな建物がぽんぽん、ぽんぽんとあって、それが結社、結社に限らなくて何か団体とか。私はそのフィールドあたりを行き来してるような感じで。

江戸 歌壇って感じではないのですよね。

吉岡 歌壇って言われてもあんまりよく分からないかな。

江戸 では、山下さんお願いします。

山下 多分、普通の人ってやっぱり意識して自分で選んで初めて結社に入りますよね。でも、僕は全然違うので・・・たまたま「京大短歌会」やった工藤大悟くんに「楽友会館ついて来るか」と言われて、「ほんなら一遍行ってみようかな」という感じ。

前田 なるほど。

山下 その後、ずるずるといて、『京大短歌』が休刊になったから、そのまま「塔」に入ろうか、という。だから、形式を自分から問うて選んでやってきた人間じゃないんで、友達づきあいでぴょっと連れていかれて、そのまま置いてくれはるし、ずっと続けてるという感じの人間なのです。多分、今「塔」にいる人の中でもそういう人間少ないと思うんです。結構新しく入ってきはった人も、いろいろしてからとか、どこか別のとこにいてからとかいう方も多いと思うんで、そういう意味では非常に世間知らずです。

川本 そうなんですか。 

山下 意識的に自分の歌を作るというのは、ある程度しばらくしたら作り出しているから、短歌とはというのはあるんですけれど、結社とどういうふうにしてうまいことつき合ってきたかというのは、どうももうひとつうまいことぱっとしゃべれないんです。ここで「時」って書いたのは、僕自身が長いことそれなりに長い時間居れたのは、結局いろんなところで時間を一緒にいる人と共有できてきたということがすごく大きいと思うのね。だから、この間ずっと歌会で一緒した人も、それから歌会で一緒になってなくても、そんな感じ。例えば、前田さんは入会されたときの歌からもうほとんどずっと読んできてますし、ずっと読んできた人とは勝手に時間を共有してるような気持ちになっていますから、それがあって自分は歌を続けてられるなあと思う。だから、選んで「塔」に入ったわけじゃないけど、「塔」にずっと置いてもらったおかげかなというふうには思っています。

江戸 では、川本さんお願いします。

川本 「開」という字なので、吉岡さんとある種反対の感覚ですね。歌を始めて十七年ぐらいですが、私が短歌を始めた頃はネットというものはなくて、全く一人でやってました。図書館で石川啄木や与謝野晶子の歌を読み、自分でいいと思う歌をノートに写し、まねをして歌みたいなものを作るのですが、そのあとどうしていいのかわからない。今なら短歌の本を入手する方法を知っているので、家に短歌の本がたくさんあるのですが、その頃は手に入らなくて。『みだれ髪』『一握の砂』『桐の花』等、図書館の文学全集に載っているものは読むけど、それ以外の歌集で一般の本屋で売ってるのは、『サラダ記念日』だけ。

江戸 あはは。そうでしたよね。

川本 短歌総合誌や結社の存在も知らないし、もちろんネットもないから、図書館の本と自分しかなかったんです。この世で短歌をやっている人はもう絶滅していて、新聞歌壇だけがこの世にあると思ってたんですよ(笑)。だから、俵万智が読売歌壇の選者になった時に、もうこれしかないと投稿するようになったんです。半年ほど投稿したら初めて新聞に載り、その後ぽつぽつと載るようになって、すごく喜んでたんですけど、だんだん飽きてきました。毎週一首ずつ投稿し、今週は載った載らないと一喜一憂して、それがこのまま永遠に続くのかと思ったらとても閉塞感がありました。その頃、河野裕子先生が近くに来られ、その講演を聞いて、なるほど集まって歌の勉強をしてるところがあるのかと分かって、先生に、「どうやって勉強したらいいんですか、新聞に投稿するだけやったらもう嫌になりました」と言ったんです。すると「じゃ、歌会にいらっしゃい」と言われるので、「私は筆で字を書けないし、十二単衣も着物も持ってないので歌会には行けません」と言ったのを覚えています(笑)。その後初めて歌会に行った時、目の前が開けたように思いました。

江戸 で、そのまま開かれっ放しですか。

川本 そうですね、閉じないですね。

江戸 では、前田さんお願いします。

前田 私は「揺」という字を選んだんですけど、私は割と結社とは何かって考えたときに、自分が入った当時の結社ではなく、最近の結社ということを考えました。「塔」は会員が千人近くなってきて。だから、結社とは何ですかと言われたときに、すごくふわふわしてつかみにくいものっていうふうに自分で思うところがあるんですよね。それは今、さっき川本さんがおっしゃったような、これとこれしか道がないって限られた短歌の世界じゃなくて、ネットもあるし、歌会もいろんなとこでやってるし、いろんな選択ができてしまうっていう感じがして。千人会員がいても、やはり人の出入りが激しくて、いい意味で揺れているっていう感じがするんです。その揺れるっていう意味もあるし、そのいい意味での揺れ方に揺さぶられている自分っていうのがあるのかなっていう感じでこの「揺」っていう字を選んだんです。

江戸 うんうん。

前田 だから、吉岡さんの「内」っていうのと川本さんの「開」っていうのがあって、その間に私がいるのかなっていう。山下さんの「時」っていうのに乗っかって揺れているっていう、そういう感じで結社を今はとらえています。

江戸 今皆さんがおっしゃってくださったのは自分にとっての結社っていうことなのですよね。お聞きしながら考えていたのですが、やはり、結社に入っていないことのメリット、デメリットっていうのはやっぱりあると思うんですね。高島さん、吉岡さんは結社に入られてませんよね。少しお話を聞かせていただけますか?

●結社の経験

高島 結社がいいのか悪いのかということを何か超越的な視点から言うとすれば、どっちとも言えると思うんです。表現っていうのは個人でやるものだから群れる必要ないんだという考え、それはそれで一つだし、いや、何ごとも人とのつながりの中で伝えられていかなきゃいけないし、培われなきゃいけないんだという考えもあるでしょう。両方とも別にどっちとも言えると思うんですよ。ただ、自分にとってどうだったのかという話にしかならないと思うんですよね。今現在の自分、一人で個人誌やってるじゃないですか。この個人誌の発行を重ねていきながら日々一人で歌を作っていく、一人という状態が多分僕的にはすごく自然なんだと思うんです。それは、結社が嫌だとかいうことじゃなくて、歌に向かっている自分は、一人でいるという状態がすごく自然なんだろうということです。だから結局、個人誌発行するのも、初めは印刷屋さん通すのも嫌なんです。なぜかというと、印刷屋さんと話しなくてはいけないから。だから、歌を作って発行するまですべての過程で他人と全く関わらず、一人でしているんです。

江戸 そうですか。じゃあ今、高島さんは歌会などには出られてないんですか。

高島 そうです、全く出ないですね。「未来」を退会してから、一度「sai」という同人誌の集まりを京都でやりましたね。でも、それからは、身近に、日常の中で集まったりというのはないですね。

江戸 では、ふだん短歌のつながりがあるのは、結社にいらっしゃったときにお知り合いになられた方ってことですね。

高島 やっぱりその結社、「未来」にいた人とかはやっぱり特別の感慨があります。この間も青磁社のシンポジウムに行って、そこでやっぱり大辻隆弘さんだとか、岡崎裕美子さんにお会いすると、懐かしいね。

江戸 それは、やっぱり人を求める気持ちはあるってことですよね。

高島 ある、はい。ただ、さっきも言いましたけど、歌を作ってる状態というのはやっぱり一人、だから、歌人同士のそういう楽しみはちょっと我慢しておいたほうがいいのかなと、思って暮らしています。

前田 で、それわかるんだけど、じゃ、ずっと選歌の目を潜ってないということですね。それに対する不安感というのは全くないですか?

高島 そう、それが大事なんです。結社に入ったり、結社だけじゃないんですけど、いろんな人と批評し合ったりするじゃないですか。そこで批評眼とか、自分が作った歌に対する自選能力とか、うぬぼれるわけじゃないんですけど、結構そこは訓練受けたなという感じがしてて、自分の中でハードル設定できるようになってるというふうに自分では思ってるんです。だから、自分の中で一定のハードル越えてないものは出さないし、もしできても捨てるし。だから、客観的に見ておまえの歌なんかだめだと言われるかもしれないけども、ただ自分としてはハードルを自分なりに設定できるようになったということがやっぱり結社をやめて一人でやってるということの条件ですよね。それがなかったらやっぱりできない。

前田 選歌できるようになったっていうその感覚というのは私いまだにないからわからなくて、いつそういうふうに感じ取れるんですか。

江戸 そうですよね。その感覚っていうのは、やっぱり岡井隆さんの選を受けていて得られた?それとも歌会の批評を聞いて?それともほかに何か?

高島 もちろん歌会の中での批評し合う、それはやっぱり大きいですよね。岡井選歌欄の中の若手の歌会も行ったし、あるいは結社外の人との歌会も経験しました。その中でやっぱりいろいろ言われていくと大体わかってくるじゃないですか。わかってくるというか・・・まあ感覚として、うん、この辺なのかなと。たとえば「この歌はみんなには受けないかもしれないけど、これ自分的には絶対出したいな」とかいうのもあるし、そういうことも含めて、それをやっぱり結社をはじめ具体的に人との、歌仲間と日常的に接するような時間、僕の場合六年間ぐらいあったわけですけども、その期間の間に自分の中に培ってきたという思いがあるので。ただ、でも今一人でやってますけども、自分に甘くなることはやっぱり考えられるので、常に自分の歌に対してはなるべく厳しく見るように努力してますね。そこは誰も叱ってくれないですからね、「あんた最近何やってるの、この歌は」なんて。

江戸 ということは、現在、叱ってくれるような存在の方は、いない?

高島 今はいないですね。ただ、発表した歌に対して、手紙とかきたりするじゃないですか。それで何となく反応わかるというか。だから、おまえだめだと言われなくても、ああ、この反応はあんまりよくないとか。
 例えば、岡井さんってそんなに厳しく叱ったりしない人ですけど、やっぱり口調でわかるっていうかな、これはあんまり認めてくれてないんだなとか。それは岡井さんに限らず誰でもそんなにはっきりおまえはこれだめだとか、これすばらしいねとかいう表現じゃなくても、表情とかで全然違ってきちゃうんで、そういうとこも含めて、本気で褒めてるなとか、社交辞令みたいなこと言ってるなとか。そういうところで何となく感じ取ってやっていましたけどね。やっぱり結社にいた経験というのは絶対外せないですね。それなかったらそれもできないわけですから。

江戸 短歌って読者がいて成り立つものだとよく言われますよね。読者論とかにもなるんですけど、結社にいたら結社誌が必ず発行されて、「塔」で言うと多くの人が必ず手に取って、自分の歌は読まれているかどうかわかんないですけれど、手には取ってもらっているという、そういう感覚っていうのはあるんです。でも、それがないところで活動されている高島さんと吉岡さんのお二人は、何かすごくこう、私らとは環境的には溝って私は大きいんじゃないかなと思うんですよね・・・。吉岡さんどうですか。

吉岡 結社に入ったことがないので、入ったらどうするかまだわからないんですけど。

江戸 例えば、現在高島さんが「文机」という個人誌を配られてるわけですよね。それは読者がいるっていう感覚をそれで多分持たれてると思うんですね。でも、吉岡さんの場合って、賞は取られてあの三十首はまず読まれましたよね、たくさんの方に。その後はどうなんですか。感覚として。

前田 ホームページには載せてありますよね、歌が。

吉岡 歌会の記録ですね。短歌を発表するというふうには載せてないですね。「京大短歌会」に所属ながら、京都文教大学で短歌会を主宰してるんで、基本的に私の、読者というか、短歌の発表の場というのは歌会がほとんどです。文教の歌会と京大の歌会、あと「塔」の旧月歌会にもお邪魔させていただいたこともあるし、神楽岡歌会という超結社の歌会や、「未来」の加藤治郎さんの彗星集の歌会、それに早稲田短歌会の人たちとよく合同で歌会したり、向こうでやってる若手のガルマン歌会というところも行ったことあります。他にも新首都の会っていうとこ出たり、そうやっていろんな場所で一応歌会してるから、歌会が短歌活動のメインになってますね、今は。

江戸 それも新しいですよね。ネットじゃなくて、歌会を巡るっていうね、何か原始に戻ったというか、結社誌よりも活字になっていない何か生の……

吉岡 そうですね。何か生で批評を受けると、やっぱりその場の空気が伝わる。本当に自分の歌読んでもらってるなという感覚があります。それはすごく怖い面もあるし、毎回緊張するんですけど、そういう経験ってすごく貴重だと思ってます。

江戸 活字だけの高島さんと、歌会という座というか、場というか、そういう文芸としてとらえて活動されている吉岡さんは対照的ですね。

山下 歌との距離というのは人によって全然違うし、いろんな人がいるわけやから、当然違うと思うんですよ、みんな一人一人が。歌会のようにそのときに一首なり二首という形の、一応匿名で読む。紙上の場合は、作者名がある何首かの固まりで毎月見るでしょう。一年なり二年なりある人の歌を、おもしろいからってずっと読んでると、結構いろんなこと考えたりしますね。

前田 何か、歌とは別にいろいろな人の人生が無意識のうちに体の中に入ってくるというのが、ちょっと結社というのはおもしろいなあと私は思うんだけど。

●選と読者

川本 私はそこまで考えたことがない。もうこれしかないという選択で入ってきたんで。

江戸 でも、編集長の妻として、言っちゃあなんだけど、どっぷりでしょう、結社に。

川本 流れでそうなっただけで、一つ一つは選択じゃないんです。私自身が意思決定をした瞬間というのは、「ああ、そんなのあるんやったら入ろう」と思った時だけでね(笑)。あとは編集長のヨメはんになったのも、私が選んだわけでもなく、気がついたら家に山のように紙があるなあという感じなんですけど。私が結社に入ったのは十年前で、その前後からネットが急速に広がりましたよね。その時期ネットだけで歌をやってる人が結構多くて、ネット歌人と言われていたのに、今それが死語になりつつあるのは、ネットだけで短歌をするのはそれなりに閉塞感があったのかなと思うんです。私がずっと一人で新聞投稿してたのと同じようにね。吉岡さんももう十年早かったらネットだけだったかもしれないけど、今どんどん生身の歌会に出て行っておられるし、その他にも、ネット上である程度名前のあった人たちが今結社に入ってますよね。当時は、この人達はネットだけで一生行くのかなと思ってたけれど、やっぱりそれはできなかったのかな。ネットって、オフラインで生身の人と会うこともできるけど、一種のメディアだと思うんです、新聞にしてもネットにしても、メディアです。結社はメディアではなく、中間の位置にあると思うんです。読者はどちらであっても持てますよね。歌会に行けば出席者は第一の読者だし、個人誌を発行しても読者を得ることはできる。結社誌にしても読者はいて、おっしゃるように、人の人生をずっと受け止めていくことができるけど、結社で決定的なことは選者がいることだと思うんです。

山下 僕はあんまりきっちりと知らないけど、選って必ずどの結社もしてるの、結社誌って。

江戸 どうなのかな?されているんじゃないですか?

前田 結局、選歌されるってことがキーポイントね。

川本 それが安心感。

高島 多分選歌ってのはメッセージなんでしょうね、選者からの。もちろんそれに異議を唱えてもいいと思うんだけど、そこでそういうメッセージがもらえるということがやっぱり選者がいるということだと思うんです。

山下 でも、すごく気に入ってた歌だったら歌集出すときに入れたりしない?僕は、大分というわけじゃないけど、幾つか入れた。「没になったけども、これは入れる。」という歌がありましたよ。

前田 吉川宏志に「悪い」って言われても、永田さんが採ってくれるのは絶対入れる(笑)。

川本 選者として取れる歌かどうか聞きたいんですよね、その選を受け入れるかどうかは置いといて。

江戸 私はあまり気にしませんね。その辺の揺れ方って人によって違いますね、やっぱりね。

山下 そうでしょうね。

川本 師風の継承をして師匠と似たような作品を作ったら、面白くないような気がするんですけど。じゃ、何を集まって伝え合ってるのかというと、何してるんでしょう、一体(笑)。

前田 その結社の中で安住しながらも、ちょっとずつはみ出そうとしてるんじゃないですか?そうでもない?

江戸 そうですね。私は常にちょっとはみ出したいと思ってる。

前田 それが江戸さん流の結社とのつき合い方ってことですね。吉岡さんが、もし自分が結社に入ったらと仮想した場合ね、どういう姿勢をとります?今でも一応「京大短歌」には属しているわけで。どうですか?

吉岡 流されたくはないですね。でも、流されたくないから流されないようにちゃんと武装してから結社とかに入ろうと思ってるし。自分にとっての短歌っていうものをある程度確立してからじゃないと、と逆に思ってます。

前田 じゃ、今はその準備期間、武装期間ってこと?(笑)

吉岡 それは、大学生という立場も結構関係してて、大学生活っていうのはいろんなことをやろうという期間でもあるんです。短歌に限らずいろんなことに石を投げてみて、投げたときの反応で逆に自分ってものをわかろうかなっていう、そういう時期だと思いながら、いろいろやってるんです。でも、動き回ってはいるんだけど、本質的には立ち止まって考えてる時期かなと思ってて、だから、結社にしても、今は保留かな。

前田 じゃ、就職したら入るってこと?(笑)

吉岡 就職したらというか、状況が変わったら入るかもしれないです。

前田 何か自分の人生設計に合わせて結社に入るっていう感じしますね、あまりいい言い方じゃないようだけども。結社に入るって、結社と結婚するって誰か言ったじゃない?だから、やっぱり準備をして、どの人がいいか調べて、この人だったら大丈夫というところに行きたいという。慎重派なのかな。

川本 「未来」はこんなところで、ここがよくてここが嫌、「塔」は、「心の花」は、という様に、間違いのないところに入りたい、どこにしようかなみたいな感じですか。

江戸 どうなんでしょうか。吉岡さんに限らずですね、結社を選ぶとして、決め手になるのって人なのか、組織としてのシステムとかいろいろなことがあるじゃないですか。何なんやろか。

吉岡 特にこれというのはあんまりないですね。それに、そんなに設計的というわけでもなくて、今はそういう時期だからそうしておこうというだけで・・入るとしたら割とぽんと入りそうな気がします(笑)。

●結社の閉塞感

山下 「塔」にいても、僕いつも何か、自分の歌を読んで、「自分は常にひとりぼっちやな」と思ってる。「誰とも似てないし」と思って・・・。それは微細な差なんだろうけれど。

川本 よそから見たらみんな似たような歌に見えるんじゃないですか。一緒に歌を出して一緒の先生に意見を聞いているのだから、だんだん均質化していきますよね。だから、人の出入りも必要でしょう。ずっと同じメンバーでやってたらやはり似た歌になると思いますよ。

江戸 それは、ずっと同じ歌会に出てたらそういう危機感って持つときありますよね。今、「塔」的な批評、「塔」的な歌っていうふうに言われているって聞いたことがあります。それが何なのかというのははっきりとはわかりませんが、内側にいるとそういうことに無自覚になってしまうことがあるのかもしれません。つまり、結社に入ってることによる閉塞感と安心感、入ってないということによる解放感と不安感がありますよね。いいときもあれば悪いときもあるというか。だから、結社にいても、歌会に出ないでいい時期も、はっきり言うと少しはあると思うんですよ。それは、結社誌に歌を出し続けることによるゆるやかな繋がりだけの時期、一人でずっと作り続ける時期、また歌会に出ていろんな人とかかわり合う時期・・・というように、やっぱり歌人である以上、波ってあると思う。そういうことに、「別にどっちでもいいよ」って言ってくれるのが結社かなっていう感じがします。

川本 「塔」的と言われると気になりますけど、歌会でずっと同じような批評をしていたら似たような歌になってくるというのはあるでしょうね。でも、それ以前に、最初、高島さんがおっしゃったように、歌ってこのレベルなんだ、というのをまず知らなければだめでしょうね。同じような歌ばかりになってくると言っても、同じレベルで同じように作り続けるというのはある程度力量が無いとできない話でしょう?

江戸 たとえば、「塔」の場合、「新樹集」や「百葉集」は、結社の色を作ってる場所やなって思う時がありますね。

川本 それに気づかず染まっていく人もあるし、江戸さんみたいに、染まった場合一回その色を取り除いてみようというのもあるでしょう。色を取り除くのなら結社を出て行けとは言われないしね。その結社の色を一度鮮明に出してみましょうという場合もそうですよね。

江戸 歌もやし、やっぱり批評やね。批評が均一化してくるでしょう。
 いいって思うその感覚、共通感覚が強すぎて、怖くなるときがあります。吉岡さんはいろんな歌会に出ていらっしゃる中で、歌会ごとのカラーってありますか。

吉岡 あります、あります。もうどこへ行っても違うし、形式も違えば、評のタイプの全然違う。やっぱり「塔」の旧月歌会は、割と言葉のレベルで評しているかなと思うけど、「京大短歌」は言葉の背後にあるものをとらえようとしてるし、ほかのとこだとまた違ってくるし。

江戸 そうかあ。歌会ごとの色って、やっぱりあるんですね。あたりまえだけれど。それにどっぷりつかるのは、怖くないですか?

前田 それはやっぱり昔からずっと言われてることね。

川本 でも、結社そのもののカラーを消すことはできないでしょう。消すのなら結社を作る意味もないでしょうし。

高島 でも、それがないと形がないね。やっぱりそれで閉じこもってしまうとやっぱりまずい。自家中毒になりますね。

川本 自分にとって結社が必要か、それって最初から答えがわかってませんか。だって、必要じゃなかったら結社をやめてるでしょう?

山下 いやあ、今の自分にとって結社が要るかどうか、そういうことってあんまり考えたことがとりあえず僕はないですね。多分「塔」に入ってなかったら短歌はしてなかった、少なくてもここまでしてることはなかっただろうと。それだけです。

●結社の懐・短歌の懐

川本 結社って懐が深かったり、深くなかったりするけど、短歌自体は、とても懐が深いもののような気がします。まるで底なし沼のような。

前田 そうそう、歌壇も広いし、歴史も膨大でしょう。それをどう自分に取り込んでいくかっていう枠として結社が一つあるっていうのを私はいつも思うんですけど。

川本 そうですね。短歌とは何か、と考えたら、禅問答みたいで答えも無いですよね。

前田 そういう大きな海を一人でやっぱり行くってことでしょう、高島さんは。それに対する不安はないんですか?

高島 いや、好きでやってることですからね。人にどれだけだめだと言われても、おまえなんかやめてしまえって言われても、いや、やめないと思ったんです。

前田 結社にいてておもしろいのは、例えば自分が幼子を持ってるときってあるじゃないですか。そうすると、そういう人たちの歌ばっかりが見えてくるわけ。いろんな地方にいる人の子どもの歌。ヨガをしていると、ヨガをやってる人の歌を意識したりとか、多分無意識のうちにそういうふうに読んでいる所もあると思います。

川本 私、今前田さんが言われた素材上の問題は、あまり結社に関係無いような気はする。同じことを総合誌でもできるんじゃないかな。

前田 私の読み方はベタな感じの読み方だとは思います。一ヶ月に一度のスパンで作品を読むわけだから、伝わり方が総合誌とは全く違う所がある。例えば「塔」でなら、落合けい子さんの最近の病中病後の歌などに注目しました。

江戸 それって共同体意識があるってことなんだろうか。

川本 それは例えば「塔」だからできることで、生活を素材としない歌が主体の結社だったらできないっていうことでしょう。

江戸 でも、そういう読みだけじゃないでしょう、歌って。

川本 例えば、ニューウエーブ系の歌とか、生活に密着しないような、言葉を言葉として扱ってるような歌ばかり載ってるような結社誌だったら、前田さんは今読んでる読み方ができなくなるわけでしょう。

江戸 方法的にこういう歌い方をしているのがおもしろいから、気になるってこともあるでしょ。素材だけじゃないですよね、歌を読むというのは。

川本 そうですね。江戸さんの歌の特色をつかんで、江戸さんみたいに自分も詠んでみたいという憧れが意識の中にあります。河野美砂子さんへの憧れとかね、いろいろ。それもある。

山下 僕はね、本当にもう「塔」しか読んでないんで、長い間。「塔」以外のものを読むこともないし。

川本 それもすごいな。総合誌も全然読まないんですか。

山下 総合誌はもうだからここ十五、六年は買ったこともない。

江戸 総合誌は必要ないという感じですか?興味がない?それはそれでいいと思いますが。

山下 結構、今自分が読書時間をたっぷり取れるような状態じゃないんですね。あと何年かして退職になったら時間ができて読むかもしれないけど。今の「塔」のやったら、「塔」読んでるだけで大体一月終わりますね。そやからいいかなと(笑)。

江戸 逆に、川本さんは総合誌必要派ですか?(笑)。

川本 必要というより、読まなきゃとは思ってます。総合誌の種類も多いので読めてないけどね。

江戸 読まなきゃっていうのは、なんで?

川本 やはり視野が狭くなりますよね。いくらヘテロでありたいと言ったって、やはり等質集団ですよ。等質集団の中の微細なヘテロだと私は思うよ。それなら違うところも見ておかないと。

江戸 それは歌会にも言えて、「塔」の歌会だけじゃなくて、超結社の歌会にも出たいっていう意識を持ってる人もいらっしゃるでしょ。それってどう思いますか。

川本 それは行きたいですよ。全然批評が違うらしいけど、私は「塔」の歌会しか出たことがないので。吉岡さんみたいにいろいろなところの歌会に出るのが理想だけど、毎月の「塔」の歌会に出られるかどうかというのが実情です。

山下 ただ、やっぱり違う論点で意見が、明らかにくっきり出てきますね。だから、そういう意味では他の結社の人と一緒に歌会するのおもしろい、多分ね。行ったことないんですけど。だから、でも、「塔」の歌会に「塔」以外の人が来たという経験はあっても、自分が出かけたことはないからなあ。

江戸 私も、超結社の歌会って刺激的やし、時間があれば出たいって思ってますね。なかなか余裕がありませんが。

川本 「塔」の中でも旧月とほかの歌会とでは批評が全然違うと思う時もあります。

前田 やっぱりモチベーションを上げるっていうのは大切ですよね。だから、毎月毎月の短いスパンで。あとは私の一つ世代の上の花山さんや栗木さんがどういう仕事をしているかを細かく見られるっていうのは大きいな。それは、歌壇の雑誌でも見られるんだけども、やっぱり塔で毎月の歌を読むことによってそれを得られるっていうことが一つかなと思いますね。

川本 それから私は、多分山下さんと一緒で、結社にいるのが嫌だとか考えたこともないほど、結社にいることが日常化してるんだろうなと思います。
 結社が退屈じゃないのはなぜかと考えたら、積極的に関わってるからだと思いますね。お客さん的な目線で毎月歌を十首出して、これは選を通ったとか、あの人はこんな歌作ってるとか言って読んでいる時よりも、誌面作りの一員として参加する方が面白い。それから、全国大会や歌会に行くようになると、生身の人間のつき合いも増えてくるので、いいかなと思いますね。

江戸 全国大会はほんといいですよね。

川本 いいでしょう。歌会だと基本的に地理的に近いところの人としか会わないけれど、全国大会なら本当に全国の人に会えますよね。

江戸 結社にいる醍醐味を味わえるって感じがする。全選者がだーっと並んで、わあーっと全国から人が来てっていう、お祭りみたいですよね(笑)。

川本 顔を知ってて読むのと知らずに読むのでは、歌の立ち上がり方も違いますよね。似たような名前の人がいて、結社誌上でややこしいと思っていても(笑)、どちらか片方の人と会ったら、全然読み方が変わる。

前田 何かそういう形の他人との関係の仕方ってないじゃないですか、日常的に。ふだんの生活では、あの人はどこどこの人で、こういう人で、自分と気が合いそうだからしゃべるっていう感じじゃないですか。でも、結社に入ってるっていう保証があって、それで毎月こういう歌を詠んでる、自分の感性にちょっと近い、じゃしゃべってみようかって、まず何か歌があってその人と会うっていう。

前田 すごい特殊な出会いでしょう、結社の中の人とは。

川本 同じ結社を選んでそこにいるからっていう出会いですね。

前田 普通に暮らしてて短歌をしてなかったらそういうことはあり得ない。

川本 普通は人間関係だけの付き合いだけど、結社ではそこに一本歌があるっていうのがね。

山下 お互いに読者であるという関係がすごい大きい。やっぱり同じ結社にいるということはお互いに読者である、ということ。

●結社をやめた事情

前田 高島さんが結社を去った理由を改めて聞きたいですね。

高島 直接には結社をやめる方向に背中を押す事情があったんです。ただ、その直接のきっかけというものがなくなった後でも、戻ろうというふうには思わなくて、やっぱり一人で続けようと思ったということは、結社をやめたことにはやっぱり自分なりに必然があったのだと思います。最初に言ったように、最終的にはやっぱり一人でいるという状態が歌に向き合うときの自分にとって一番自然だということだと思うんです。

江戸 そうなんですか。

高島 ただ、もう一つ言うと、さっきもお話ありました、歌本位なのか、そうじゃないのかという話ありましたけども、結社というのは事務作業とか、編集の打ち合わせだとか、そういうことあるじゃないですか。僕、編集委員だったんですけども、名ばかりで、結局行ってもどうしたらいいのかわからないというか、普通に職業とか仕事では、事務処理とかいろんなことしますけども、責任持って、歌に関してどうしてもそれ僕できないんです。だからそこですごいいろんな人に迷惑かけたと思うし、すごい僕申し訳ないなと思うこといっぱいしてると思うんです、「未来」の会員の人たちに。頑張ってる人は、一部の人はすごく、へとへとになるまで頑張るじゃないですか。僕そこに入っていってそういう組織のための仕事を一生懸命やろうというふうにはどうしてもできなかったんです。だから、自分が個人誌出すためだったら別に、ホチキス止めしたり何なりもするけど、みんなでいっぱい集まって、その中で自分の中で責任を分担してというような、そういうことがどうしても僕できなくて。

江戸 書き手である自分と、社会生活してる自分というものって分けたいっていう意識もありますよね。今おっしゃった結社の作業などは、社会生活に近いものなのでしょうか。

高島 その社会生活の部分というのはどうしても歌になじめなかったんです。で、僕がどんなに迷惑かけても、みんな怒らないし、かえって何か申し訳なくて、行きづらくなって、というのも一つありましたね。だから、今でも結社じゃなくてそういう事務作業みたいなことにはかかわらないようにしてます。絶対人に迷惑かけると思うから。

江戸 社会生活や、しがらみなど、そういう何か些末なことから逃れるって言ったら変ですけれど、そういうものを超越したところで歌とかかわっていたいということですよね。だから事務の仕事とか、いわば人間関係にしたって、結局、短歌以外の生活でも経験できるというか、しなきゃいけないことじゃないですか。それを短歌の生活でまたしないといけないことへの抵抗感。それは感じる時ありますね。

高島 そこなんです。僕が結社やめたっていうことの本質的な意味はそこだと思う。僕「未来」の誰のことも嫌いじゃないです。「恩」という字を選んだことでもわかると思うんだけど、ただやっぱり、例えば一人の先生の周りにいろんな人が集まってという形で結社というものがあるわけで、そうするとそこですごくちっちゃなこととか、何でこんなつまらないことを・・・こんなことで褒められたいの?とか、あなたこれが嬉しいの?とかいうことをやっぱり何回も見ますよね。

江戸 何か自分が消費されていく気がしますよね、その場にいると。

高島 歌ってそういうもんじゃないでしょって。

●批評と歌

高島 いろんな人の声が残っています、残響として。あともう一つ、吉岡君の話聞いてて思い出したんだけど、歌会行くときってすごい緊張するでしょ。普段自分で作りためてる分では、ああ、これでいいかなと思う。いざ歌会に出すとなると、ちょっとこれは出せないよなとか思うでしょう。あの緊張感を常に思い出すようにしている。臥薪嘗胆ですね。だから、それはやっぱり一回結社にいたときに批評を受けた、厳しい批評を受けたときの感覚を忘れないという。だから、胆を吊して薪の上に座ると。

江戸 私は、さっき言ったみたいに、歌会に出なくてもいい時期って人によってあるし、それはそれでそういう自分の世界だけを一方的にっていうか、人の批評を気にせずに広げられる自由さっていうのも時には必要だとおもいます。

前田 でも、あまりにも自由になり過ぎてしまう危険を感じます。

川本 私にはそれはないですね。選は受けたいな、どうしても受けたい。というより、選が無いのなら結社にいる意味は私には無い。

江戸 ああ、そうですか。私には発表の場であるっていう意識が一番強いですね、結社誌は。

川本 私には発表という感覚も、読者に満足されるようなものを作り続けるという意識もなくて、まず、選を受けたいんですね。読んでくれる人がいて、その人と結社誌を通じて知り合えるというのは、うれしいけれど二番目の事であって、まず選を受けられること。選者の選が無い同人誌だったら私は多分続かないと思う。

江戸 もしかすると、川本さんほど選をされること自体に、私はこだわってないのかもしれないですね。私はいい歌も作りたいし、いい読者にもなりたい。いい歌ができたりいい表現ができたりするということは、同時に批評もできるってことだなと思うんです。批評をする/されるいう場が結社であり、大事なんだと思います。だから、選をされるっていうのもあるけれど、逆に自分が批評する人になる、つまり選者による選だけではなく、誰もが誰かの歌を批評する/されるっていう感じかなあ。

前田 それから、一人の歌人が変化していくのってはっきり見えるときがあるよね、結社にいると。入ったばっかりの頃からの成長をつぶさに見られます。

川本 それもありますね。それと、歌会で批評をし合うことによって、自分の批評眼ができていくということもあります。そういう批評眼を持たない作品の垂れ流しは良くないと思いますね。

山下 やっぱり批評するっていうのすごい大きい、それはそう思う。歌会に行って、人の歌の批評してるうちに気がつくことってすごくたくさんある。物すごくたくさんあるね。それと、ああ、こういうこと言ったなあと覚えてたら、次自分が歌作るときにそれがはね返ってくるね。多分出して読んでるだけやったらそうならへんと思う。選者の選は受けるとは思うけど。人の歌について自分が何か言うっていうのすごく大きい。

川本 真剣に読まなかったら言えませんもんね。

江戸 返ってくるからね、自分の歌に。褒めるのは簡単ですけれど、歌を批評したり批判したりすることは難しいです。

前田 しゃべってるうちに自分がああ、自分ってこういうこと考えてたんだって気づくこともある。

江戸 そうかあ。じゃあ、歌会は出なあかんわ、やっぱり(笑)。

山下 でも、休む時期があってもええん違うかなという気はする、僕も。それと、批判せんでも、人の歌についてしゃべって、しゃべってる途中にその歌がわかってくることってよくあるじゃないですか。何かこの歌ようわからへんな、でも当てられたしなあとか言いながら、考えながらしゃべってて、しゃべってる途中に、こうかなとわかってきたりすると、それって結構印象に残ってたりして、自分が歌作るときにまた影響したりしますよね。その人の歌の真似になるとかじゃなくて。それはやっぱり結社にいたらそういう場は得られやすいというのは事実かなという気はしますね。そうでないと、自己再生産をしてくだけやったかもしれない。僕自身、おんなじような歌いぶりで、おんなじような歌を繰り返し繰り返し作るということになってたかもしれない。

江戸 今日はみなさん、ありがとうございました。今ちょうど、雨が降り始めました。

(二〇〇八年四月一三日 司会・江戸雪
       於 京都アバンティホール)

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