塔アーカイブ

2010年1月号 

座談会
「新聞歌壇をめぐって」

   出席者 永田和宏(司会)
       河野裕子・花山多佳子・栗木京子
   記録・編集 なみの亜子・芦田美香・干田智子
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○投稿体験

永田 今日は、投稿歌をテーマに話し合っていただこうと思います。ここに集まっていただいた方は、それぞれ「塔」の選者であるばかりでなく、新聞歌壇あるいはいろんな短歌大会の選者などやっておられます。「塔」という場の中での選歌と、自分が顔も知らないような一般的な投稿者の作品を相手にして選歌をするなかで、いろんなことを感じておられるのではないか。選ぶ側と選ばれる側の問題、それから結社の中で作品を出すことと、もっと一般的に何の関わりもないところで作品を出す、その投稿する側の心持ちとか、さらには今の歌壇、現代短歌の中で歌を作っていくということと、選歌を受けて作品を出すということに、どういう意味があるのか、そういうことも含めて話をしていただけたらと思います。従来、選歌の問題というと、多くは結社内での選歌の問題として論じられてきたんだけど、現在では新聞や短歌大会などへの投稿が、結社内の会員にもより身近なものになりつつある。そんな問題をもうちょっと場を広げて論じたいというのが今日の趣旨です。
 まず取っかかりとして、自分が投稿してたときの投稿体験からしゃべってもらおうか。投稿歌人として知られる河野さんから。

河野 私が投稿したきっかけは、読者がなかったからなんですよ。高校の頃、汽車の中で歌を作って、それを学校のホールから電話するの、母に。「もしもし、こんな歌作ったよ」って。母しかいなかったの、読者は。

栗木 文芸部とか入ってなかったんですか。

河野 入ってたんですけど、まだ中学、高校では短歌をやっている人はいなかったし。とにかく、読者が欲しかったのね。それで、中学のときから出しまくりました、小説も、詩も、短歌も。俳句だけ出さなかった。

栗木 『叙情文芸』だけじゃなく?

河野 それは高校のときです。中学のときには、何とか時代とか。

栗木 『中学コース』とかね、寺山修司なんかも出してた。

永田 『蛍雪時代』。

河野 木俣修とかが選歌していて、「用も無きに勉強部屋をのぞきては声をかけゆく近ごろの母」なんていうので、特選に選ばれた。

栗木 完成されてる。

河野 私は中学頃からすごく内向的になってしまって。もう本当に自分の行き場がなくなっちゃったのが、投稿して活字になると、自分の居場所ができるのね。

永田 何年ぐらい続いたの。

河野 大学に入ってからもやってました。

栗木 本名で出してたんですか。

河野 はい。この間実家に帰ったとき古いノートが出てきて。黄ばんだ紙に、あらゆる新聞の住所と選者の名前が書いてあった。

永田 それが角川賞の応募につながったの。

河野 いいえ、私は戦略的でない。ただ、私居場所が欲しかったのよ。さみしかったんだ。近藤芳美さんに初めて会ったとき、「河野さん、あなたは大きな字を書くねえ」って。それから会うたびに必ず決まり文句のように言われた。選者に字を覚えられるぐらい出したの。

花山 選者は決めてなかったということ?そういう意識はないのね。

河野 全然なかった。生方たつゑさんとこにも出したなあ。生方さんが私の歌にではないけど、「短歌は短いからたくさんのことを書いてはいけません」て評してらしたりしたの、よく覚えてるんですよ。それと投稿していると、ほかの人の歌まで何となく覚えちゃって。それってありますね。

栗木 お友達みたいになっちゃうのよね、気持ち的に。私はね、高校生のときに一度だけ朝日歌壇に出して、近藤さんに採っていただいたことがあった。

河野 それは何のきっかけで出したの。

栗木 やっぱり何か短歌に惹かれるものがあったんでしょうね。別にさみしかったとか、居場所がなかったっていうわけではなくて、気まぐれに出して、「恋う人が明日戦地に行くならば我待つと言い母待たぬと言う」というような歌だったと思うんですけど。近藤さんてね、そういう傾向の歌をよく選んでらした。高校生の頃ですね。

河野 高校生でそんな歌作るんですか。

栗木 母と自分が逆になったらだめなんですよね、この歌は。私なら待つけど、母は戦争を体験してるから待たないと言った、っていうところに。

花山 近藤さんを意識したわけじゃないでしょう?

栗木 じゃない。でも、採ってくださるなら近藤さんだろうなと思ってたら、近藤さんの十首の一番最後に採ってくださってて、コメントもくださった。それで、何となく、あ、こんなものかと思っちゃった。それ以後は出さなかったという…。

永田 そういうことってあるねえ。こんなもんかの続きで言うと、僕は高校のとき二首だけ作った。というのはね、高校の国語の先生が、ガリ版に落合直文以下、近代の二百首くらいを自分で鑑賞して書いてくれたんだね。それがすごくよくて、受験勉強中なんだけど、それを読むときだけはもう本当に日溜まりみたいなもんで、ああ、いいなあと思って。近代で覚えてるのは大体そのときの歌だな。で、これなら作ってみようというので、「京都新聞」に出した。二首作って、一首目が入選、二首目特選。

栗木 恋の歌ですか。

永田 いや違う。最初は文化祭の歌、二首目は…。まあ、やめとこう(笑)。それで栗木さんが言ったとおり、ああ、歌ってこんなもんかと。それで終わっちゃった。

栗木 生意気なんだけどね、今から思うと。

花山 最初に特選なんかもらうのは、よくないことなのね。

永田 選者になったら、もうその気持ちは痛いほどよくわかるわけだよね。大体大学生の歌ってあんまり来ないじゃない。まして高校生の歌なんて来たら、大喜びで何とか採ってやりたいと。

花山 それが仇になるのね。

永田 教訓だな。こういう高校生もいるんだからあんまり若いものを甘やかしたらいかん。

花山 私は一回も投稿経験がないのね。大学まで短歌を作ってなくて、作ろうと思ったときに結社を探して入って。結社人間なわけよ。

河野 あなた投稿しそうな感じだけど。

花山 全然思い当たらなかったのよね、一回も。高校のときなんかは、新聞に載ってる死刑囚の島秋人の歌なんかを、熱心に見てたりしたわけ。だから投稿欄があるのは知ってたのに、そこに自分が出すっていう感覚がまったくなかった。

永田 ぼくは全く逆だな。投稿欄はほとんど読んだことなかったけど、あ、こんなのあるんやと思って出した。それ以前も以降も、投稿欄は見たことがなかった。まして、明治ならいざ知らず、結社なんてものが今どきあるなんてことも思い及ばなかった。

花山 だから、あの人たちが投稿して載っている、ということすらもよくわかってなかったんじゃないかな。葉書に書いて出すとか思ってなくて、結果として見てただけで。「塔」に入っても、周りの人が投稿したりしてないでしょ。まず話を聞かないし、もし永田さんあたりが投稿してて、やってみろとか言ったら、気がついてやったのかもしれないけど。

永田 「塔」にはやはりやっぱりアララギの雰囲気が残っていて流れを汲んでいるんで。僕らの先輩なんかは「塔」でやるべきだと、ほかに目を向けるなという気分があったね。総合誌なんか読むのは、あんまり奨励してなかったように思う。

花山 そうは受け取ってはいなかったんだけど、ただ「塔」はすごく同人誌的な感覚で、みんなそういう出し方してたのよね、若い人は。年に二回の作品特集みたいなのに、まとめてわっと出すような。

栗木 それノーチェックで活字になるの?

花山 そう。つまり採るか採らないかだから。

永田 僕の場合は特に、同人誌の「幻想派」とほとんど同時に「塔」に入ってるので、そういう感覚は大きかったね。

花山 「塔」に出すのも一種の投稿歌だ、みたいな感覚がなかったんじゃないかな。

栗木 新人賞も一回も応募してないでしょう。

花山 それも気がつかなかったのよ。河野さんが角川短歌賞取って、初めてそんな賞があるってことに気がついたの。

河野 私もまたいいかげんなんですよ。角川賞がどういう賞なのかも知らなかった。

栗木 一人でやってるから、そういう賞に目がいくんじゃないかな。

河野 何もわからないの。ただ、「短歌の登竜門」とか書いてあって、その前年の受賞者の作品なんか読んで、ああ、これぐらいなら私でもできるんじゃないかなあ、と。永田がやたらと「桜花の記憶」を褒めるから、ああ、さようでございますか、とも思って。

永田 あの年はね、僕は塚本邦雄さんから年賀状もらって、僕が選者になるのであなた出しなさい、とあったの。でも、塚本もこんなこと言うようになったか、何で選なんか受けなきゃならんのだと。選歌なんて悪だ、と刷り込まれるように思ってたから遂に出さなかった。あれは痩せ我慢もいいとこで、出しときゃよかったな(笑)。

栗木 私も裕子さんと一緒でね。一人で何となくやってたから、あ、こういう方法があるんだと思って、角川に出しました。模擬試験を受ける感覚です。大学生で二十歳だから、まだ結社に入ってないし。

河野 ただ、私の場合はですね、ちょうど締め切りが後期の試験の真っ最中やったんですよ。後期の試験も何も勉強しなくて…。

栗木 賭けたわけだ、角川賞へ。

河野 賭けたわけやないけど、出した限りは絶対取ろうと思ったんです。賞の値打ちもわかんないし、システムもわかってないけど、出す限りは絶対取ろうと。あれが自分の不思議ですよね。だから、最後の最後まで粘ったの。二月末日が締め切りだから、明け方まで、大判のコクヨの原稿用紙買ってきて、それで一首ずつ短冊形に切って貼って。十六畳のお座敷をあけててね、雪が吹き込んでくる、寒いの。それでも汗かきながら一首一首並べて、順番考えて清書したのね。あのときの集中力は何だったんだろう。出してからは応募したことも忘れて、桜の花が咲く頃「カドカワタンカシヨウオメデトウゴザイマス」って電報が来ても、一読ようわからんかった。

花山 昔は電話じゃなくて電報だったのね。

河野 それぞれ聞いてると、みんな場というものをあまり知らなかったんですね。今みたいに周知徹底してなかった。

花山 ただ、一回経験したかったと思ってるの、投稿の醍醐味を。

永田 僕も一度も出したことないからな。惜しかった気もするね。

○歴史を背負う

永田 みなさん、それぞれの投稿の自分史があって、今選者としても活躍しているわけですが、「塔」の選者であるのと同時に、それぞれがまた別の場でも選者をしています。自分の選歌欄の紹介と、その特徴みたいなものも含めて、簡単に説明してもらえますか。

栗木 私は、二〇〇八年の五月から「読売新聞」の選者です。その前、二〇〇五年から三年余は「日経新聞」でしてましたが、兼務はできないということで、「日経」をお断りをして、「読売」の清水房雄さんの後を受けました。「読売」は、昭和二十五年に土屋文明さんが選者になってから、文明選歌欄が売り物だったんですよね。後の「朝日新聞」の共選につながる新聞歌壇のブームのきっかけを作った文明選歌欄を、清水さんからアララギの末裔である私がバトンタッチされるというのは、やっぱり体が震えるような感激がありましたね。よくぞお声をかけていただきました、みたいな。「日経」も岡井隆さんと二人で居心地がよくて、すごく迷ったんですけど。

河野 決断には文明さんが大きかったですか。

栗木 大きかったですね。新聞歌壇ていうのは、何かそういう歴史を背負うというかね。

河野 ありますね。

栗木 「読売」では岡野弘彦さん、小池光さん、私、俵万智さんの四人で、選者別に投稿するようになっています。共選ではないので、栗木指定で来るんですよね。二週間ずつ一遍に新聞社から来て、大体六百五十から七百ぐらいですかね。

花山 私は東北圏の「河北新報」で選者をしています。だいたい宮城の人ですが、何となくあの辺一帯の新聞。あとは、「読売新聞」の地方版もやってるんですけど。「河北新報」の方は、扇畑忠雄さんの後を継いで、佐藤通雅さんと二人の共選なのね。両方にコピーで一週間に一人三首ずつが、二百ぐらい来るのよ。「読売」地方版の方は今は東北圏で、福島と、山形と、それから長野と新潟の四県。これがやっぱり毎週、一日と十五日に来るんだけど。

永田 四つの県から来るわけ。

花山 四つの県からそれぞれ袋に入って。

河野 おもしろいシステムですね、それ。

花山 葉書だから見にくいですね。「河北」の方はコピーだから、繰りやすいけども。私は今たまたま全部東北なの。そうするとやっぱり、地方のカラーっていうのがすごく出てるのね。特に地方版というのがそうみたい。カラーが出る。

河野 いや、実感としてよくわかります。

栗木 行事とか、お祭りとか、稲刈りとか。

花山 自然の歌が多い。それがとてもいいのね。

永田 僕も簡単に紹介します。僕は今「朝日新聞」ですが、最初は鹿児島の「南日本新聞」という新聞で、ここはすごくおもしろい。選者に、その県の歌人は誰もいないんです。

栗木 それも珍しいですね。

永田 珍しい。新聞社の方針なんですね、これは立派だと思います。葛原妙子、大西民子、山本友一さんたちがやっていた。でね、葛原さんの歌読んでると、あ、これは鹿児島の選歌から来た言葉だってわかることがある。葛原さんに「」って言葉が何度か出てきます。おもしろい言葉があるなあと思ったけど、自分で鹿児島の選歌したら「ヨナ」がいっぱい出てくるわけ。これか、と思った。選者も地方からの影響を受けるんですね。僕は大西さんと山本さんと三人でやってたんだけど、その後、お二人が高野公彦さんと石川不二子さんに代わった。この歌壇のもう一つの大きな特色は、全部葉書が直接来ること。ほかにはないな。

栗木 ぱらぱら来るわけでしょう。

永田 毎日毎日来る。編集部は誰の選者に何枚いっているか、全然把握してない。ユニークなシステムですよ。「京都新聞」もやってたんだけど、そちらはもうとても回り切らなくなって河野さんに頼んで、三年ぐらい前からやってもらっています。「産経新聞」も武川忠一さんと一緒に七年くらいやったんですけど、「朝日」から声がかかってそちらの選者に。「朝日」の一番特徴は、共選ですね。しかもコピーじゃなくて、その場に集まってやる。

花山 その結果はその場でわかるの?

永田 誰が何を選んだかは、わからない。

栗木 でも、よく選が重なりますよね。

永田 重なるねえ。共選というシステムは、なかなかおもしろいシステムだよね。やっぱり近藤さんがやってたということがあって、栗木さんが言ったように、時事詠の歴史というのか、特色というのは今でもありますね。

栗木 「朝日」だけ特別ですよね、政治性というかね。

永田 僕は近藤さんの後任だったこともあり、その特色は残したいと思って意識的に採っています。最近も総選挙特集って自分で言ってるんだけど、十首のうち七首まで総選挙の歌かな。それが二首佐佐木幸綱さんと重なってたけど、そういうことは多少意識しますね。社会に敏感に対応するというのは新聞歌壇の一つの意味だと思うから、その辺は若干大切にしたいとは思っているね。

河野 私は四十四歳のときから。一九九〇年からですから、ほぼ二十年になりますね。「毎日新聞」です。

栗木 画期的でしたね。裕子さんがその若さで大新聞の選者になったというのは。

河野 私、ぼーっとしてる人間だから、記者が私の顔をまじまじ見詰めながら選者を依頼されたときには、わかんなかったんですよ。何言うてはるのやろて。そんなんで二十年やらしていただいて、一番初めに実感したのは、朝日歌壇とは違うなということ。毎日歌壇は文芸色が強い。歌としてのレベルの高さを感じましたね。それから、あのとき窪田章一郎さんもいらして、それから土屋文明のところの小市巳世司さんがいらして、それから私と、あと玉城徹さんがいらした。

永田 あなたは高安国世さんの後任だね。

河野 そうでしたね。高安先生の後任ということで、ああ、「毎日」が「塔」に帰ってきた、って誰かがおっしゃったことが印象に残っているんですけれど。いろんな選者と一緒にやらしていただいておもしろかったのは、さっきの話と逆で、玉城さんだけは決して時事詠をお採りにならない、頑固に。そして選評は最初は二行だったのがある時期から三行になったのに、玉城さんだけは二行をずっとお通しになった。そういう存在がいらした。それが私なんかのような好き勝手やる人間にとってはある意味の重石になってくださって、玉城さんがいてくださるから好き勝手ができるんだっていうのがあって。選者の心が本当に初めてわかったような気がいたしました。いろんな方の歌を読むことによって、短歌の広がりというのが実感としてできてきた。ああ、千何百年も続いてきた短歌という詩型は、こういう無名の人々のたくさんの歌という車輪が片一方にあって、もう一方に非常に高度な日本語をまわす車輪があって、二つの車輪があったからこそ続いてきたんだ、ということを本当に実感いたしましたね。
 例えば昭和天皇が亡くなられたときには、激動の昭和の歌がわあっと来るんですよ。枕詞みたいに激動がついた歌。ひばりが死ぬとひばりが死んだ、湾岸戦争があると油まみれの鵜の歌が、もうそれが一週間わっと来て一週間でわっと引いていく。その逃げ足の速さと反応の速さというのに気がついたときに、ああ、これは何ていうか、国民詩型というのか、私が知っていた短歌の世界とは全く別の世界があって、そういう多くの方たちが支えてきた詩型だと気がつきました。短歌の歴史の長さの理由の一つが、自分なりに納得できた。だから、幅広くいろんな人の歌を読んで選歌をしていかなきゃいけない、それが選者の責任であるということを考えましたね。

永田 その辺どうですか。岡井さんが昔「常民の思想」と言ったことがあって、僕も何年か前にもう一度とりあげたことがあったけれども、あれは中央歌壇の中だけで生きているのとは全然違う視点が、地方に行って得られたということなんだよね。我々も結社の中だけ、歌壇の中だけで歌を作っていたのが選者になり、近藤さんの言う「無名者の歌」に接するようになって、決して短歌というのは歌壇だけのものではないということを実感するよね。

栗木 でも、近藤さんが「無名者の歌」に注目したときに、上田三四二さんはそれはダブルスタンダードだと批判的でしたね。新聞歌壇などに出してくるのはもう文学ではないんだと。昭和三十七年の座談会でしたか。

花山 当時はやっぱり文学性に価値を置いたっていうことで。

栗木 昭和三十年代って、療養者の短歌を集めた「試歩路」というアンソロジーとか、山田あきさんが監修した紡績工場の女工さんの「糸の流れ」とか、それから国鉄マンの歌集とか、いわゆる勤労者のアンソロジーみたいのがどんどん出て、民衆短歌運動が起こった頃ですよね。マルクス主義の影響もある。伊藤整がわあっと持ち上げるわけですよ、こういうのがすばらしいんだっていうふうに。第二芸術論であれだけぼこぼこに短歌のことを言ってた小説家たちが、短歌には民衆の命があるとかって、手の平返したみたいな…。当時と今とは違いますけどね。

永田 それはやっぱり、文明の流れを引いているよね。勤労者の文学、働く現場の歌にこそ価値があるって文明は言ってて、それはちょうど第二芸術論の前だったから、あそこで一回切れちゃってね。ただ、今の新聞歌壇は、それとはまた違うところにある。

○新聞歌壇という場

栗木 今は、生活即短歌とか、そういう肩に力の入ったものではないですね。もうちょっと何か射幸心というか、一発当てたいみたいな、ゲーム感覚っていうかね。

河野 でも、多様ですよね。作風がいろいろありますよ。

永田 さっきの「常民の思想」のにもかかわるんだけど、新聞歌壇の選歌をやり始めて、あ、ここに一つ全然我々とは別のソサエティがあるという、それはすごく感じるね。つまり、投稿者同士は一度も会ったことがないんだけど、毎週のようにあの人は今どうしてるだろうかとか、会ったことのない人の消息を別の人が心配するという。文学的な達成ということの他に、もうちょっと読者の問題というか、読んでくれてる安心感と、その人の作品を心待ちにしている期待感みたいのがあって、それが月刊の結社誌よりも、ひょっとしたら強いのかもしれない。

河野 強いと思います。濃密だと思いますよ。投稿なさっている方はお気づきでないかもしれないけど、選者の側というのはすごくなついちゃうんですよね、投稿される方に。休まれると何で休まれるんだろうと心配しますし、ずうっと毎週必ず出してこられる方がぱたっと来なくなっちゃうと、ご病気なさったのかしらとか。

花山 そういう歌が出たりね。

河野 そう、出ますね。あの方どうなさったんでしょうと、名前も指し示して。そういう濃密な関係があって、選者はなついちゃう以上に、自分の選んだ歌が半分自分の歌になってしまう。そうすると、判断できなくなっちゃうのね。

花山 新聞の全国版というのはコンクールに近いようなとこもあるけど、地方のは完全に一つの場の感じがするのね。選者もこの人が大体どういう生活してて、どういう人生の人かっていうのがイメージできてくる。それで、今度はいいとか、悪いとかっていう判断がつくっていう。

永田 そこの家の子供が生まれたときから、大学生になるまでやるわけだよ。

花山 そう、やっぱり一種の継続性があるってことよね。一般のコンクールや何かだと、完全にそれが一首の問題になるんだけど。

河野 入れ込み方が全然違うのよね。

栗木 だからね、いつも常連さんで出してくる人が「朝日」で入選してたりするの見ると嫉妬を感じたりして。裏切ったわね(笑)みたいな。今度から少し考慮して選ぼうとか。

花山 地方から全国版に出す人もいるんだけど、地方版のそこだけしか出さない人もいる。やっぱりすごく一つの場だなあって感じ。

永田 ただね、地方の新聞では、メンバーの固定というのが選者として辛いね。新しい人をできるだけ採ろうと思ってるんだけど、どうしても固定しちゃう。

花山 でも、何人かは相当レベルが高いわけよ、骨格もしっかりしていて。

河野 話がちょっと戻りますけど、高安先生の代からずうっと投稿なさってる方いらっしゃるのよね、何十年も。本当に何なんでしょう。そうやって同じ方とずうっとおつき合いする。そうするとね、選者と投稿者ってお会いしたこともないし、お名前とその字と作風しかわかんないんだけど、ものすごくなつくっていうのか、濃い関係ですよ。

栗木 そうなると、採られなくても裕子さんが読んでくれればそれでいいっていうね。もうほとんど私信ですよね。

河野 本当にそうです。だから、常連の方はすごく大事。それから、新人が来るとめちゃくちゃうれしい。

栗木 ちょっと添削して採っちゃったりしますよね。

河野 今回は何人新人がいるかなっていうのが、いつも楽しみ。新人でいいますとね、「毎日」がインターネットを導入しまして。インターネットの歌は新鮮なんですよね。

栗木 「読売」もインターネットから来ます。あんまり採れないですね。

河野 そうですか。「毎日」は結構いいです。若い人が多いし、ご年配の方でも、インターネットを使っておられる方には飛んだ歌が多いんですよ。だから、結構採れるんですよね。常連さんもうまいんだけど、やっぱり自分の文体を持ちすぎていらっしゃると…。

永田 インターネットの話は「朝日」にもあるんだけど、ちょっと見きれないだろうっていう怖れもある。数が多すぎて。若い人をどういうふうにして採れるかというのは、最大の悩みですよね。特に地方歌壇のね。

河野 でも、どの新聞にも必ず短歌俳句欄があって、そういう国は世界中探してもないんじゃないかな。国民すべてが詩人になれちゃうシステムって、「あれはもう床の間だよ」なんて言う人もいるけれど、紙媒体が衰微しかけている時代に、歌壇、俳壇がまだ頑張っているのは、どういうことなんでしょう。

花山 意外とそれがメインになってる、目玉になってる感じはあるのね、地方紙なんかも。

河野 でも、その人口は少ないんじゃないですか。

花山 そう思うんだけど、投稿してなくとも熱心に読んでいる人はいるみたいね。

永田 あるスターが生まれることがあって、そういう新聞歌壇の中で。

花山 ホームレス歌人とかね。

永田 今はそれがすごくて、「朝日」では公田耕一さんというホームレスの歌人の歌がなかなか良くて、毎月百通近くはその公田さんを心配する歌とか、公田さんの歌に出会ってよかったとか、いっぱい来るわけ。もうファンレターなんだよね。

栗木 ほかのホームレスからも来るんですか。

永田 採られたことがないけれど、公田さん以降、来ますね。僕と幸綱さんが最初に共選で採ったんだけど、この人ひょっとしたら田園調布でベンツに乗ってるのとちがうか、とか(笑)。

栗木 私も大学の先生か何かじゃないかなと。塚本邦雄をかなり読み込んでますね。

永田 でもそれを見て、これまで作ったことがないけど作ってみようと思ったとか、そういう話を聞いたので「朝日」を講読することにしたとかっていう歌が、結構来るんだよ。

河野 よくわかるんです。そういう反響があるというのは、新聞媒体の持っている、ある意味のよさだと思うんですよね。何か人間関係が疎遠になっているときに、そういう方がいて短歌を出してくる。それを読んでわっと反応が来るというのは、人間のあいだに隙間ができちゃってるから、そういう一つの象徴が吸収力をもつというか。一つの社会現象というのか、今の世相というのを反映するんでしょうね。私なんか若いときに、「コスモス」を見ながら共感しましたもの。ああ、こんなさみしい人もいるんや、私もいていいんや、そういう共感ね。

永田 自分だけじゃないんだ、と感じる人は多くて。自分は決して一人じゃないという救われ方かも知れないね。そういう共感の歌は大抵採れないですけれど。

河野 採れない。採れないけれども、共感してどうしてもやっちゃうという。

永田 新聞歌壇というのはね、採れない中に新聞歌壇の特色というのがよく出るのかも知れない。一般読者には伝わらないけれど。

○投稿歌の傾向

河野 新聞歌壇で思うのは、プロが作れない歌をお作りになるということね。プロはある程度作り込むでしょう。

栗木 技巧に走っちゃうけど。

花山 それだけで暮らしてるから、歌人って。

河野 新聞の方がある意味で社会の先端を詠まれるんです。失業しちゃったとか、派遣切りに遭ったとか、ひとり暮らしで誰からも電話がかかってこなかったとか、今の社会のある一つの断面と言うか。無意識のうちに投稿してくる。そういうものを選者は幅広い目で見て、少し添削してでも出していくのが、読者への一つのメッセージだと思うんですよね。

花山 でもその投稿する人っていうのは、やっぱり投稿する人同士にしか興味はないのよ。

栗木 あんまり総合誌とか読んでない。

花山 いや、読んでる人もいて、比べると一般の人の方にとても感動的でいい歌が多いっていうふうに言って、歌人の歌には感動しませんと言い切るの。それはそうよね。そういうとこあるわけだから。歌人の歌読んでもさっぱり伝わってくるものがないっていう。そうすると、投稿者っていうのは基本的にお互いにしか興味がない。歌人には興味がなくて、ただ採ってくれる人としての歌人には興味がある。その歌人の作品に興味があるわけではないっていう人が多い。

永田 逆にね、いわゆるプロの歌人の側も新聞歌壇の投稿者にはほとんど興味がない。プロの歌人って言われる人たちはほとんど興味を示さないけど、何が違うかと言ったらね、一作だけで比べたら甲乙つけがたい歌を作れるのよ、一般の人も。桑原武夫的の第二芸術論の論理だね。だけど、十首続けて作れるかというと、やっぱり違ってくる。

花山 歌集にしたときの話はまた別として、ただ普通に読んだ場合ね、一般の人の歌のほうに惹かれるってこと、あるんだよね。

栗木 即時性なんかすごいと思いますよ、本当に。固有名詞の入れ方なんかもうまいなあ。一首で勝負だから、オバマの「イエス・ウィ・キャン」なんかも多かったし、オリンピックの北島康介とかね、ソフトボールの上野さんとかね、すぐそれ入れて、一首でちゃんと意味が通じるんですよね。

永田 だけど、投稿歌の多くは一時的で消えちゃうんだよ。僕は選歌をやっていてそれが惜しいと思う。歌集もほとんど出さないし、年間賞になっても年間賞で一回載って消えちゃう。僕はみんなからまたかと、言われながらテレフォンカードの二つ穴の歌を…。
[後注:「逝きし夫のバッグの中に残りいし二つ穴あくテレフォンカード」(南日歌壇より)]

花山 盗作が出たのよ。「河北新報」におんなじ歌が来て。

永田 すばらしい(笑)。残る残らないということはすごく大事だ。僕はね、例えば平成百人一首でも編むのであれば、そういうところにやっぱり入れたいと思う。歌人として残らなくても、この一首の作者という形で残ることが大事。防人の歌みたいになるのかもわかんないけど、それは選者にとって結構大事な問題じゃないかな。今、新聞歌壇の歌残そうなんて考えてる人、あんまりいない。

花山 結構残したいって思うし、歌集出してほしいと思ったり。

永田 でも、だめなんだよね、あちこちで採られた歌を全部入れたような歌集は…。

河野 あれはあきません。一番あきません。

栗木 かえって相殺しちゃうのね。

河野 自分はいいと思ってるんですよ。話がまた別にいっちゃうけど、震災があったときに、すごくいい歌が来たんですよ。ああ、これはいいなあ。で、よく見ると住所が全然違うの、静岡あたりなんだよね。何で震災に遭ってらっしゃらない方がこういう歌を出されたのかなと思って、お電話したんですよ。そしたら、こんな国家一大事のときに歌を作らないではいられないって、その人に成りかわって作ったって。

栗木 じゃ、ニュースを見ただけで作った。

河野 そう、テレビの。だから、そういう力はやっぱり短歌にあるんですよ。もういても立ってもいられなくなって、自分も成りかわって作っちゃったという。

栗木 でもそれは一つの題詠みたいな感じになっちゃうから、問題あるような気もする。

河野 いや、やっぱり真剣やったと思うよ。自分にできることはそれしかないみたいな、その一生懸命さ。

栗木 例えば誰か亡くなったりすると、最近の古橋廣之進が死んだとか、忌野清志郎が死んだとか、もう何か挽歌専門みたいに追悼歌を必ず出してきて、それもそこそこうまいっていう人がいるんだけれども。それは一種の才能かもしれないけどね、ちょっと私は距離を置いちゃうなあ、そういうタイプは。

永田 それとね、時事詠の問題がさっき出たけど、何か起こるのを鵜の目鷹の目で待ってるという感じもあって、どんな題材でもいいから今新しく起こったことを歌にするという傾向が、特に「朝日」の場合感じられるね。

栗木 採るからね、よく。

永田 そう、よく採られるから。でも、こんな一人の人間があらゆる時事に対して興味を持てるはずがないだろ、と思うわけ。

栗木 結構調理法が一緒なんですよ、素材の料理の仕方が。

永田 それが嫌なんだよね。歌集でも、一冊の歌集の中にあらゆる時事が入ってるというと、これは嘘だろうと。

栗木 テレビでも何か事件があると、新橋の酔っぱらいのお父さんにコメント求めたりするじゃないですか。それから巣鴨のお年寄りにも。そういうのに短歌的なアレンジをしたみたいな歌がわっと来るんですよね。うまいのもあるんで採っちゃったりもするんだけど。

永田 よく言うんだけど、一昨年、もっと前かな、「イナバウアー」から始まって、次の年が「千の風」、その次が「後期高齢者」。投稿歌壇の流行語っていうのがあるのよね。

○地方版の豊かさ

花山 やっぱり地方版には、とても生活に根差した自然の歌とか生活の歌が多いの。

永田 その話しましょう。大事な問題です。

花山 地方はあまり時事詠が出てこなくてね、生活に根づいた歌を延々と作ってる感じで。

河野 選者をなさってる方は都市にお住まいの方が多いでしょう。そういう方は農耕の現場とか、労働の現場をあんまりご存じない。でも私「西日本新聞」なんかやっていますとね、多いんですよ。日本人は農耕民族ですから、そういう農耕の現場、生活の現場の歌をもう少し採ってほしいし、目配りしてほしいなあって選者に思うんですよね。毎年同じところに同じものを植えて、同じときに同じものを穫って、同じ場所に稲を干して、そして同じようにっていう、その同じことをずっと毎年毎年繰り返していらっしゃる。そういう生活をしていくことの意味というか、人間はこういうことを何十年も何百年も続けてきたんだ、そのことの重さっていうのか、時間の大切さっていうのか。暮らしのありのままの中の歌の大切さを、もうちょっとプロの歌人たちが意識してほしいなあと思うんですよね。選者はどうしても生きのいい、新しいレトリックの方に目がいっちゃいますけれど。

花山 それがね、NHKの短歌大会などでは、自然のいい歌とかそういう生活のいい歌を採りたいと思っても、意外と平板なわけよ、ああいうところに出る歌が。

栗木 この間、花山さんが「波」という題なのに漁業の歌がなくて、比喩的な波ばっかりだったと書いてたよね。確かに、と思った。

花山 それで結局人事の歌ばっかり。人事というか、すごい機知的な目立つ歌が入ってくる。ツボを心得た歌とか。

永田 コンクールなんかでは、どうしても人事の歌がおもしろい。目立っちゃうんだよね。

花山 例えば漠然としたいい自然詠だなと思っても、そういうのをやっぱり選びにくいってとこあります、特選的にはね。

栗木 深刻なことをくすっと笑わせながら歌う、みたいな歌が結構はやってて、そういうのがコンクールでは上位に選ばれたりするんだけど、あんまりよくないなと思う。悲しい歌とか暗い歌がもっと上がってこないと、みんな無理しちゃうような気がするのね。

花山 地方では、やっぱり自然詠なんかあそこに出るのよりずっといいわけ。とても感心するような。

河野 とてもいいのがあります。

栗木 意外にそこに、社会の動きが反映されてたりするのよね。重油が高くなったから、漁船が出ないとか。

花山 もちろんその農業の問題とも絡んでくるんだけど、やっぱりその場によっていい歌が本当はあるの。あるんだけど、それが一般の目に触れるとこに出てきてないと感じる。

永田 それは選歌するときにいつもそう思うね。僕も何度も「朝日」にも書いてるんだけど、やっぱりいい自然詠を採りたいって。

花山 東北なんかは、本当にすごいみずみずとしたものを感じるのね、自然の。それは全然違う。やっぱり全国版でも違う。

永田 自然がある、ない、という問題かな。

栗木 茨城県土浦市の短歌コンクールで少し前から選者をやってるんだけど、そこへの応募には、結構自然のいい歌ありますね。霞ヶ浦とかね、筑波山とかね。

河野 私一番それ感じたのはね、秋聞社に呼ばれて選歌したときでした。入院なさってる方が、今年の稲の出来はどうだって聞かれたっていう歌を読んだとき、ああ、そうだ、農耕民族なんだって本当に思いましたね。だから、そういう面をやっぱり大事にしていかないと。もっと自然な大きな歌を。

永田 歌壇になってはだめなんだよね。新聞歌壇などの投稿者の欄が歌壇のミニチュアになってはだめだね。レトリックばかりが勝った歌が来ると、あんまり採りたくなくなっちゃうのね、なぜか。もうちょっと素朴に作ってくれよという。

花山 そういうことをやろうやろうという気配が、すごく見えるのね。「河北新報」は地方でもちょっと都会的だから。何とかひねろうひねろうっていうのが、見えますね。機知的に頭で何かちょっとやろうっていうのが見えると、もう採れないし。でも地方版のほうはもう少し、骨格がしっかりしてるわけよ。そんなよそ見しない歌が出るの。

栗木 よく勉強してますよね。

花山 場が広がると投稿する歌の方向が、機知とかそこだけで競おうっていうふうになるのが、まずいと思ってるのね。

永田 全く逆の感想だけれど、「南日本新聞」やったときに、えっ、ここは本当に地方の新聞なのかと思った。すごくおもしろいの。

栗木 先端的なんですか。

花山 それはレトリックが?

永田 そう。何でかと思ってね、しばらくして、あっ、これは葛原妙子なんだと気がついた。つまり、選者の個性が知らず知らず投稿歌壇全体に影響を与えてるということもあって、どういう歌を採られるかっていうことも一つ大きいし、もう一つは、やっぱり投稿者っていうのは、選者の歌を勉強しようと思うわけさ。そうすると、葛原さんの歌を読むと、自ずから影響があらわれる。あんまりそれをしてほしくないけどね。

栗木 逆に言えば、地方は地方に根差した選者がやったほうが、いいのかもしれない。

河野 またそれをやっちゃうとね、固まっちゃう。風通し悪くなる。

栗木 ああ、微妙なとこですね。

永田 それとね、この間ちょっとびっくりしたのは、「朝日」の年間賞で採った人の歌でね、相撲取りが投げられるとその向こうに永遠に大口をあけている女性がいるという歌。びっくりしたのか、あっ、ていう顔が、写真に撮られてるんでしょうね。とてもおもしろい歌だったんで年間賞に採ったら、その作者のコメント曰く、永田先生の『作歌のヒント』に「画面の隅を見ろ」と書いてあったと(笑)。

花山 テレフォンカードの歌もそうだけど、そういうぱっと目立つ歌には流通性がすごいあるでしょ。だから、いろんなとこへ伝染するのね。これがツボだみたいな感じで学んじゃうわけよ。それで、いろんなとこで何か似たり寄ったりの歌になるっていう。

○結社誌との違い

河野 私のようなものは、一人でこの家にいると呆然としちゃうのよ。もうどうしようって。そういう時に選歌するといいの、精神が安定する。行きどころなくなっちゃってどうしようかなと思うと、葉書見ながら選歌するの。そうするとつながってくるのよ、やっぱり。河野さん、選歌してる暇にあなたいい歌作りなさいよ、って言われる。だけど、むしろそうではなくて、ああ、この人とつながってるんだ、この人はこういう生活なんだとか、私にはプラスなんですね、自分のために。選歌がなくなっちゃったらさみしいなあと思う。

栗木 私は、新聞なんかの選歌と「塔」の選歌と比べると、「塔」の選歌のほうが苦しい。新聞の選歌はいい歌だけ選べばいいでしょ。落とした歌に、言っては悪いけど、責任持たなくていい。でも「塔」の場合は採った歌はもちろんだけど、落とした歌に対してきちっと責任持てるか、なぜいけなかったのかって、いちいち問い合わせは来ませんけれども、自分の心の中でなぜ落としていいか、先月と比べてどうなのか、っていうふうに。

河野 そう、苦しい。身体張ります。

栗木 一番苦しい。体調悪くなる。

永田 全体から何首か採っていくという作業と、一首一首を採るか落とすかその都度決定していくというしんどさ。これは全然違うな。

栗木 NHKの大会なんて何万首と来るでしょう。だけど、そんなに大変じゃないんです。

花山 確かに「塔」のはたいへん。結社と投稿欄の違いはある意味で、選者の方の責任意識の差かもしれないね。

河野 「塔」には各選者が七人いらして、それが最後に回ってくるでしょう、何選歌欄て。やっぱり全然違うんですよね。何ていうのかな、その選者選者の迫力っていうのかな、好みっていうのか。それにこちらも負けるまいとするときの勢いというものもありますね。

栗木 消耗しますよね。

花山 選歌してる自分だってかなり迷うもの。結局またもとに戻したり、来月したら違うだろうと思いながらやったりね。

河野 百葉集や新樹集選ぶときには責任感じますもの。それはやっぱりものすごい真剣ですよ、本当に。そして、印つける。そして、もう一回やり直すときに、さあどうする。そのときにバランス感覚を働かせるのか、前も選んだからどうしようかとか、やっぱりそういうことを考えちゃいけないのかなとか。新聞選歌でも、そういうところあるでしょ。篠弘さんなんかバランス感覚が働いていらっしゃるけど、私はそれをあんまり考えない方で、続けて同じ人選んじゃうんですよ。

栗木 私もあんまり考えないかな。選歌といえば、宮柊二さんは「コスモス」の歌を全部読まれたんでしょう。高野公彦さんが宮柊二を殺したのは戦争とお酒と選歌だっていう歌を作ってるけど。

花山 でも昔の選者は、アララギの文明とか佐藤佐太郎でも、これは駄目だ、というのがはっきりしてるじゃない、昔の結社って。佐太郎もこれは「俗、俗」と言って切った。あれやってみたい、「俗」ってそれ一言で済んだらいいなあって思うけど、今は結社もそうじゃないし、新聞なんかもそうじゃない。反対にその差が見えないっていうか。

永田 一人の中でも一つの尺度で選歌をしてる人は少なくなってるし、そこが逆にしんどいとこだよね。どこに評価の基準があ
るんだっていうことは、選んでる本人もわかってないわけだから。その都度その都度。

河野 でも、ぶれちゃだめなんだよな。ぶれないで幅広くという逆説を、一緒にやらなきゃいけない。選歌がしんどい、責任を感じるのは本当ですけど、育ってほしいというのがすごくあるんですよ。若い人に。

永田 今結社に入らないで歌を作り続ける層は、若者にも年寄りにも増えてるという。この間ちょっとびっくりしたのは、角川賞の応募で一番目立つのは「所属結社なし」、これが全体の七割近くを占めてるんじゃないかな。彼らは結社の存在を知らないんじゃなくて、結社に入らなくてもやっていけると思ってる。出す場がいっぱいあるから、今。

栗木 インターネットで発表したり、ブログで発表したり、それなりの反響もあるみたいですね。感想を書き込んでくれる人がいる。

河野 でも、私ね、やっぱり歌会を経験した人としてない人と、全然違うと思うんですよ。

栗木 インターネットの歌会と顔を合わせる歌会は違いますからね。実際に椅子を運んだり、お茶菓子配ったり、そこからやるっていうのが大事なの。

永田 投稿する場はあるんだけれども、結社に属さないと強制されるってことがないよね。文学は自主的なものだから、強制されて出すのはだめだなんて若い頃言ってたけど、ある程度強制される、締め切りがあるってことが大事で、それで作り続けられるのね。それが一つの問題。それと、文学というのは必ずしも文字だけで持続できる世界ではなくて、栗木さんが椅子並べてって言ってたけど、人間関係で成り立つ部分というのも結構多いので、やっぱり文壇なんかがあるのもそれなんだよね。それぞれの人間関係があって続いていく部分がある。前に人物交流史としての短歌史の重要性ということを書いたことがあるけれど、結社にも新聞歌壇にも別の形の交流が「場」としてある。

栗木 何かの雑談のときに、例えば亡くなった田中栄さんが土屋文明から「歌人は作れば作るほど下手になるタイプがいる、おまえがそれだ」って叱られて落ち込んだとか、そういう話を聞くことがものすごい栄養になるでしょ、自分にとってのね。「語り」というのかな。それがあって、じゃあアララギを遡って読んでみようかとか、縦の流れに対しての関心を持ったりしますよね。その辺が結社のいいところで、自分だけで投稿したりネットだけでやってると、どうしても狭くなって、同世代の歌はライバルとして読むかもしれないけど、世代の違う人の歌には目がいかなくなっちゃう。投稿だけで自足してる人は、短歌史なんか勉強しないでしょう。それがやっぱりまずい、大局的な流れで見るとね。

○モチベーション

花山 歌の継続という意味で、どう考えるかという問題ね。結社にずっといてもどうしようもないというんで、投稿し出す人もいるだろうしね。反対に投稿してても空しいと思って、結社に入ってくる人もいるだろうし。自分の心の問題として継続ということを考えた場合ね、昔だとアララギなんかどんどん深くなっていく式の、何か、自分で続ける満足度、モチベーションがあったと思うのよ。でも、今ってそうじゃないじゃない。

栗木 結論を急ぎすぎない方がいいのに。

河野 そうなの。そのとき一喜一憂しないで、続けてほしいと心から思うんですよ。

花山 今は一種の評価主義っていうか、外から評価されないと意味がない、みたいな傾向があって、応募も投稿も、どこか外で評価されたいっていうことでいくじゃない。

栗木 それも、わりとダイレクト主義みたいなのがあって、何かちょっと先輩の誰々さんに評価してもらうより、いきなり永田さんに評価してほしいとか。一対一の関係を求めるっていう人が多いような。

永田 それは少なくなってるんじゃないかな、むしろ。昔はやっぱり主宰者っていうのは絶対で、その先生にさえ見てもらっていれば自分はいいんだというところがあったのよ。今は、外部からの評価をみんなが求めるようになってきて、例えば歌壇的に注目を集めたい。注文を受けたりとか、そういう場で活躍したい。必ずしも先生だけを信頼して、その先生さえ見てくれていればいいという人は少なくなってる。これはどの結社でもそうだね。ある種のカリスマ性のある主宰者がいなくなってきたってことにも関係してると思うけどね。

花山 その先生さえっていうのは、そこに何かがあるんだよね、そこに従うことにね。どんなに歌がだめだって言われても、一種そこにいる満足感があったわけでしょ。

栗木 俳句なんかは主宰選というのがあって、句会で主宰に特別な権威がある。主宰が選んでくれればそれで満足して帰る人が多いわけでしょう。短歌の場合は、それがもっと平等主義っていうのか。

河野 「塔」は他と比べると、選評の欄が多いんですよね。取り上げられる場がとても多くて、あまり注目されてない人の作品が選ばれるとすごくうれしいの、私は。結社はそういうところを大事にしていかないと。

花山 そうは思うんだけど、反対にその本人は、指針がなかなか見出せないわけよ。こっちの人はこれがいいって言って、こっちの人はそんなのは駄目っていう、その合間にみんな生きてるわけじゃない。かつては自分の選んだ先生の、例えば土屋文明の歌が非常にいいと思い、それが自分の指針になる先生だから、その人がこれペケって言ったら、自分もわかりましたって。何かそこで考え直すところにも意味や生きがいが感じられる、そこで幾ら否定されても。だけど、今はみんながいろんなとこでね、そっちは否定したけどこっちはいいって言ってくれた、じゃ私いいのかしら…という感じで、幾らたっても歌の方は一向によくならないわけよ。むろん、昔のスタイルでも歌が一律になっちゃうわけだけど。

永田 ある種の歌壇の中のグローバリズムなんだよね。いろんなところから情報が入ってくるし、どの場に出てもやっていけるというか、一応の場が与えられる。僕の若いときのように、春日井建や高安さんを書き写したというような、その人間に絶対的にのめり込むというプロセスを経ないままに歌壇に出ていく感じがする。軸がないから、自分の歌の善し悪しや、人の歌の批評の原点をどこに置くかというところにすごく不安に思っているところがあると思う。

花山 本人のモチベーションが、それでどこまで続くのかっていう感じなのよね。昔はやっぱりそういうことで別に誰からも評価されなくとも、自分が一生やっていくっていうモチベーションはあるわけで。

河野 そう、添削でも他の人がしたら嫌だけど、宮先生ならいいわっていうのは、やっぱりあった。そういう世代ですから。

花山 そこからいずれ脱するとしても、何かしらは自分の指針ていうのができてくるわけでしょ、途中から先生を否定したとしても。

永田 清水房雄さんなんか見てても強く感じますね。あのお歳になられても、文明があの時どう言った、とか、鮮明に覚えておられて、ご自身の軸の一つになっている気がする。

河野 そうなんです。「西日本新聞」は清水さんとやってたのよね。もう完全に違うわけ。清水さんの批評のスタイルは、あかんのを挙げて、全部びしびしびしびしって切らはるの。だめな歌ばかり。私はだから楽ちんです、好きなことやってて、泳ぎやすかったの。よくも悪くも絶対に自分はこの位置からぶれないんだっていう、それがなくなってきている。

栗木 「読売」では、岡野弘彦さんが確固としていらっしゃるかな。戦争の歌とか、古典の本歌取りみたいな、そういうのもかなりきめ細かく採っていらっしゃいますね。

花山 選者の問題だけじゃないと思うけどね。例えば結社の中で若いときにすごく注目されてたとして、それがだんだん目立たなくなってきた場合に、やっぱり今ってみんなつまんなくなっちゃうわけじゃない。そうすると、あっちこっちに投稿し出すみたいな。

栗木 私はね、入って一年か二年ぐらいの人はあんまりちやほやしないことにしてるの。三、四年頑張ってくれてから、溜めておいた分を褒めようかなって。

永田 継続性っていうのはすごく大事。死ぬときまで歌を作り続けていく人以外、歌人と呼びたくないということを話したことがあったけれど、おもしろいときだけ出て頑張って、それで舞台から降りていくっていうのはあんまり寂しいよね。若いときはどうしてもその若さで取り上げられる。でも自ずから取り上げられる機会は少なくなっていく。そういうときにどう続けていけるかと。そういうときにもう一回投稿にいっても全然構わんと思うわけ。投稿で十首の中に選ばれる、そういう喜び。それが作るモチベーションになれば、それはそれでいいんじゃないかと思うけどね。

花山 だけど、じゃあこの次はどうやったら採られるだろうと腐心していく。それでもやってもやっても採られない、でモチベーションをなくしていく。そういう感じがちょっと多い気がするの、見ていると。

河野 だから、そういうときに私めはですね、お電話するんですよ。ああ、ちょっとこの頃お元気ないなあ、だからここどう、いかがいたしましょうかっていうようなことをちょっと、ここに数詞が入るとおもしろいんですけどとか。そうすると、すごくうれしいみたい。

花山 何か言ってあげるのはいいだろうなとは思うけどね。なかなかそういかない。

栗木 私はどっちかというと、ある程度距離は保っていたい。

河野 それは全くそうですよ。距離は必要ですけどね、もうへちゃってるっていうのがわかるんですよね、何年もその人の歌を読んでると。そういうときに一言ね、はがき一行がすごく励み。

花山 例えばそのときにこの歌をちょっとこうすればいいんですよ、っていうのはコミュニケーションとしてはすごくいいと思うんだけど、それが結局何かテクの問題になっちゃう。テクニックというか、レトリックというか、ここをこうしたらよくなりますよっていうことぐらいしか、言えないでしょ。

河野 そういう問題ではなくてね、生の声を聞くというのがうれしいと思うんですよ。私はそう。ちょっと入り込みすぎなのかな。

花山 だからね、今どこかにそういう依存の傾向がある、というのかしらね。投稿でもそうだけど、結局見出されるのを期待する。添削がいい例かなと思うんだけど、カルチャーなんかでも、添削してくださいっていうふうに来られる。指摘するだけじゃやっぱり嫌だって感じ。じゃどうやって直したらいいか、その例を出してくださいみたいな感じで、その相手がどう思ってくれるか、外側が一つの基準になっていくっていうのかな。

栗木 他力本願というかね。私はコンクールの講評では添削はしませんと言ってるのに、してくださいという方がいて。添削したら失礼じゃないですかと言うんだけど、いや構いません、と。

花山 コンクールに出す歌を選んでほしいとか、つまり全部が何かこう外向けの。

栗木 それで選ばれてうれしいかなとか思うけどね、私なんか。

永田 少し前の時代には、歌は選ばれないことが普通だった。ところが、今は選ばれることのほうが普通になってきちゃったので、そこの期待度が全然違うんだよね。文明選歌欄は一首の世界だから、選ばれない作者がいっぱいいるわけでしょ、一首も載らない作者が。そういうある種の鍛錬というか、訓練の厳しさに耐えるという世界だったものが、手取り足取り、カルチャーセンター式にみんなを育て上げるということが常態化してしまったところが、問題なんじゃないかな。結社にもそれを求めていて、「塔」の中でも、今の選者は甘すぎるっていう意見もあるし。

花山 採られても採られなくても自分はやる、そういう感じがちょっとないかな。

河野 私が「コスモス」に二十何年いた理由の一つに、言い方が悪いかもしれないけれども、私は決して「コスモス」に全面的に寄りかからない、私はむしろ違うからこそいるんだ、という心構えがありましたよね。

栗木 相入れないからこそ。だから、惹かれるっていうのもありますよね。

○選者の立場から

永田 我々は結社という場でも歌を作る、それから歌壇という場でもそれなりに読まれている。もう一つは、新聞歌壇その他のコンクールも含めて、作者を知らない場で歌を選んでもいる。この三つの場での仕事にどう対応するか。選者は身過ぎ世過ぎだという考え方だって成り立つだろうし、結社こそ大事という考えもあるだろうし、また一般には、あわよくば選者になれればというのはある種の夢ではありますよ。自分がそうした今の立場をどんなふうに考えているか。最後に話してもらいましょうか。

河野 今心から思っていることは、作ることも選ぶことも私は全身かけてやるし、どちらも本当に自分を安定させてくれているんですよ。来た歌は誠意を込めて読もうと思うし、歌を作るときには正直に作ろうと思う。もう本当にそう思うんです。他の人は野心もおありだろうし時間もおありだろうし、立場も全然違うだろうと思うけど、これがもう私の精いっぱい。だから、体力のある限り歌会にも行きたい。人の前で一生懸命しゃべりたい、聞きたい、人の批評を。言い残しておきたいし、聞いておきたい。本当にそう思う。

栗木 私は、例えば総合誌なんかの巻頭を飾っている歌と、新聞歌壇で選ばれる歌が全く違うものっていうふうに思いたくないですね。やっぱりいい歌はいいのであって、もともと朝日の共選が始まった昭和三十年というのは、
一方では前衛短歌運動が盛んになっていった時代でもあって、結局、そうした相反する動きが両輪となって短歌全体をもり立ててきたように思うんです。岡井さんなんかも、スタンダードを二つに分けたくないとおっしゃってますし、私もそうですね。ただ選ぶ側とすると、場によって選ぶ歌の傾向が違ってくるところがあって、それは気をつけたいかな。送られてきた歌を読んで、ぱっと直感で選ぶ。楽しいし、幅が広がるところがあります。

花山 「塔」の会員は年配から若い人まで層が厚いから、そうしたなかでの選歌は、格段に難しいわよね。本当にそっちじゃなくてこっちがいいと思うのか、と突きつけられてくるものがあって迷うし、複眼的にもなるし。そこでの直感でっていうところ、わかる気もする。それが新聞なんかの場合は、こっちが投稿に育てられてるところがあるのね。何か脈々としたものが残っている喜びがあって、言葉一つにしても全然知らないものに出会う嬉しさとか。そのへんが、違うところかな。ことに地方の投稿歌はおもしろくて、葉書一枚が自分を広げてくれるところがあるのね。

永田 僕にもそういうところはあって、特に時事を新聞の選歌から教わってるよね。世の中の動きを実感するというか、世の事件にこういう見方や感想があるのかと、選歌のたびに感じる。短歌が続いていくためには、新聞歌壇は大事な一要素だと思うようになった。自分が歌を作るときにも、励ましになるんだよね。歌はそうやって死ぬまで作らないと駄目だ。選者になることで、謙虚になった気がする。歌人であるということに対して、謙虚になった。選者である限りは、歌を読む力だけは誰にも負けたくないと思う。ただ投稿歌一首一首を考えたら、いい歌を残していくメカニズムが歌壇のなかにない。それが惜しいし、淋しいことだと思うね。「塔」にも継続して投稿している人もいるけど、それはレベルの違うことをやっているわけで、ダブルスタンダードだっていいじゃないか。そこに幅ができるわけだからね。

栗木 自分のなかで、期限を何年間とか決めて投稿してみるのもいいんじゃないですかね。

永田 ではこのへんで。

(二〇〇九年九月二一日/於 塔発行所)

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