塔アーカイブ

2010年6月号 

追悼座談会

 森岡貞香の歌を読む

出席者 花山多佳子(司会)・吉川宏志・澤村斉美・なみの亜子(記録・編集)
テープ起こし 干田智子

*書体の関係上、漢字表記が原文と一部異なります。

■第九歌集『九夜八日』

花山 昨年一月に、森岡貞香さんが亡くなられました。そのちょうど一年目の日付で、息子さんが『九夜八日』を出されました。第九歌集です。この前の歌集『敷妙』から、九年たってるんですよね。森岡さんの場合お歳だったということもありますが、いつも歌集を出すときにすごく手を入れられる。人に編集してもらうのはだめなのね。だから出版の間隔が空いてしまって、歌集が少ないですね。『九夜八日』のあとがきに息子さんが、「もし母が存命で本人が歌集を編集した場合は、全く違った本になった筈であるということです」と書いてらして、確かに今までの歌集とはちょっと違う感触なんですけど。皆さんの印象はどう?

吉川 今までの歌集と比べると、少しゆったりした感じはありますね。森岡さんの歌集は一首一首が強く立ち上がってくるところがあって、一首と一首の間の空白が大きい感じがするんですけども、『九夜八日』はゆらゆらとした感じで続いていくような。

澤村 例えば『百乳文』など、森岡さんの一番鮮やかな部分が出た歌集と比べると、文体がシンプルだなと思いましたね。

なみの 私も読みやすさを感じました。それまでの歌集に比べて、一首一首が自分に入りやすくて。これはもしかして自分が第一歌集からずっと森岡さんの歌を続けて読んできて、森岡さんの調べが身体に入ってきたところがあるからかなあ、とも思ったんですが。文体がなだらかです。一首に突き出たところやひっかかるようなところが、あまりなくて。

花山 ご本人とすれば、かなり直したい部分があっただろうなと思うんですよね。その直し方も助詞を変えたり、ややこしくしていく場合もあれば、反対に簡潔に切断していく場合もある。順接を逆接にしてみたりね。今回はそれが出来なかったわけだけど、そこに味も出てますね。『九夜八日』はまた事柄が全然ないでしょ。何もない日常のなかでよくこれだけ作れるな、と思うわけですよね。

吉川 でも森岡さんの歌の特徴は、よく出てますよね。一首目に引いた「薔薇のつる雪の重みに下りゐしなほくだりこむと椅子にゐておもふ」(※)という歌、これと巻頭の「毛氈の毛深きがなかに踏みこんでゐる椅子の足ずんぐりとして」という歌なんか、森岡さんの歌の、静止している物体の力を捉えるうまさ、おもしろさがある。確かに今は静止しているんだけども、その背後に力があって、その力が止まっている物体の存在感を作り出している。「薔薇のつる」が今は雪の重みで下っていて、そこで止まっているんだけども、そこから「なほくだりこむ」という力を感じて、それを「椅子にゐておもふ」って詠む。この「椅子にゐて」が妙におもしろいんですね。単に見ているだけでなく、その見ているものの重みが椅子にいる自分にかかってくるような。二首目では「椅子の足」が「踏みこんでゐる」がポイントですね。体感で作っていこうとする方向性は変わっていない気がします。

花山 静止してるものの、その先の動きを継続して詠み込むところは、やはり特徴的ね。

澤村 体感という話が出ましたけど、私の引いた一首目は、「地を這へる木の根の凹みばうつとして其處よりの黒瀧向川寺なる」(※)。山の中のお寺でしょう。古い木がたくさんあって、地面に埋まっているような木の根が絡み合っている。そこに窪んでいるところがあるのを、第三句で「ばうつとして」と入れるところが、森岡さん的なリズムの作り方だなと思います。言葉で地図を作っていくというか、視覚によらないで、体感で物のありようを認識していく。「ばうつとして」というのは目で見た感じだけじゃなくて、木の根の窪みのあたりを踏んだ感じがぼうっとしているのだろうと。

花山 森岡さんの場合は空間の意識、続きの意識が強いのかな。木の根の窪みが何かぼおっとして、「其處よりの黒瀧向川寺なる」って言って、そこからその寺の感じ…という非常に不思議な形になってる。

澤村 それも寺の境界があるというんじゃなくて、その木の根のあたりから自分は寺の感じを感じたよ、自分がその寺の空間に入っていくよ、というんですよね。

吉川 「其處よりの」の「の」が、何かおもしろい。「其處より」でもいいんですよね、意味だけで言えば。でも「の」を入れちゃう。それが不思議に効きますよね。

花山 「椅子にゐて」も「ゐて」が余計なように思われるのよね。歌会なんかに出すと、これが何かかったるいって言われそうなところ。何もこんな断らなくともとか。ここがいいわけですが。

吉川 いつも不思議なんですけどね。例えば『黛樹』の、「芒のはら芒の奥の光り光りて喪(な)きなる人を摺りいだしけり」(※)の「喪きなる」の「なる」って何だろうと思うんですよ。「喪き人」でしょう、普通なら。「喪きなる」が文法的に合ってるのかなとも思ったり。

花山 何か、文法間違いじゃないか、と言われることもあるみたい。これは古語ふうなんでしょう。

吉川 ぎりぎり間違いではないんでしょうね。「喪きなる」の「なる」は断定ですか。これがおもしろいんですが。

花山 でも、ひっかかる人は絶対ひっかかって、いやだという人がいる。

なみの 言い方としてヘンていうのが結構ありますよね。強引過ぎるんじゃないかとか。

花山 ごく初期は、そうでもなかったのよ。だから、意識的にするようになったのかしら。

吉川 「喪き人」だとちょっと突き放しちゃってる感じがするんですが、「喪きなる人」というと、どこか間近に見えてくる。死者が生々しく見えてくるという効果は、あるのかもしれない。「喪き人」なら、本当にもういないということで終わっちゃうんだけど、「喪きなる」と言うことによって、かえって死者が眼前に蘇ってくる感じはあるんですね。

なみの 何かその「喪き」はずの「人」が尾っぽのようなものをひいてる気配…。

澤村 意味上は確かにこの「なる」は要らないんだけれども、でも「喪きなる」って詠むことによって、あの「人」はもういないんだ、っていうのをなぞってる感じが出てくると思うんですよ。

花山 一種の反芻みたいなところがあるのね。意識の反芻の感じが。

澤村 「椅子にゐて」もそう。詠んでいる「私」がこの椅子という低い位置にいるのをなぞることで、「薔薇のつる」が自分の方に入ってくる感じが出るんですね。「椅子にゐて」という位置を出すことによって。

吉川 椅子に絡みつくような感じもするんですよ。読んでいると、「つる」が椅子のほうにまで来ちゃうような感じもあってね。そのあたりが怖い感じもする。

なみの 全体の調べもずるーっずるーっといくところがあるから。

■助詞の働き

花山 森岡さんの助詞の特殊な用い方は、『百乳文』から際立ってきた気がするのね。そこで初めて、森岡さんが何をやろうとしているのか一般的にも見えたところがあった。吉川さんが『百乳文』から引いた歌「房垂るる葡萄の下に入りたるは鵯どりに或る時間の過ぎむ」(※)でも、この「は」は相当に目立つでしょう。

吉川 『百乳文』には衝撃を受けましたね。この歌「房垂るる葡萄の下に入りたるは鵯どりに」、ここが変なんですね。「入りたるは鵯どり」であったと。入ったのは鵯であったとすっと読んで、そこで鵯に「ある時間が過ぎむ」と、何か急にねじれちゃうんですよね。ここで何か妙な空白ができちゃう。どうつながっていくかわかんなくなって。

花山 私は全部下までかかると読んでたのね。「房垂るる葡萄の下」に入ったのは、つまり鵯に時間が過ぎるのであろう、というふうに読んでいたのよ。どう読む?

なみの 歌意をとるのに悩みます。『百乳文』にはそういう歌が多いんですが、これは葡萄の下に入った鵯にとある時間が過ぎるだろうと。その中身には茫とした定め難さがあって揺れるんですが。この「或る時間」が「は」でつながっていることで、不思議に膨張してくる、「時間」がにわかに奥行きをもち出す。

花山 「は」によって、これから過ぎる時間というものを今の状態から推し量っていくみたいな、そういう時間の歌になってくる。

吉川 言っていることは単純と言えば単純でしょう。「或る時間」というのは上の句の葡萄の下に入っていくことですわね、普通に読んだら。それを「入りたるは」とつないだところで何かズレが生じる。その言葉のズレによって時間のズレが感じられるのかな。小鳥って確かにすっと木の中に入っちゃって、ふっと消えることがある。で、すぐ出てきたりする。よく映画で一瞬だけフィルムを飛ばすことがあって、流れはつながってるんだけど、ふっと時間が飛んじゃうことがある。その感じに近いものを僕は思いますね。

花山 例えば鳥が見えていてそこで消えたとしても、鳥にとっては継続した時間があるわけでしょ。そういうのを出そうとするとこうなるわけだけど、そういうのをずれととるのか。森岡さんの場合ね、助詞でもって時間をリアルに、時間そのものをつかもうとしてやっているような気がする。だけども、読むほうはそこでずれとか、妙に凹凸があるとか、変なものを醸してるっていうふうに読んで、それが魅力ってこともある。短歌では説明しちゃったらもう終わりじゃない? 時間とか空間というのはつかめないし、自分の意識とその空間や時間との関連ていうのを表出するというのは無理よね、べたっと言ったんじゃ。森岡さんは、それを「てにをは」でやろうとする。

吉川 さっきも言ったけど、フィルムを途中で切ってつないだ印象があります。ピッと切った部分のフィルムがどこかに消えている。途中が飛んじゃう。時間のつなぎ方が不思議なんですね。そこがこの歌はおもしろくて、成功してるんじゃないかな。

澤村 その例えでいくと、私は「房垂るる葡萄の下に入りたるは」は、フィルム映像なんですよね、ぴょっと鳥の動くところを映している。で、この下の句の「鵯どりに或る時間の過ぎむ」がナレーションのような感じがしますね。映像があって、〜そうして鵯にある時間が過ぎるのであった〜 みたいな語り手の声が流れる。具体的な映像に別の位相からの説明が入る。だから一首では縦に歌が流れているんですけど、二つの位相の表現を同時にできる。それが、この「は」の効果だと思うんですよね。

なみの 私は叙述の順序にひっかかるところがあったんだけど、なるほどそう読めば。

澤村 例えば「入りたり」みたいにして切ってしまって、「鵯どりに或る時間の過ぎむ」になると、それはこれを詠っている人間の認識語りに終わっちゃうんですよね。それを「は」一語で、あくまで鵯の生来の体内時計を見抜いたかのような叙述方法に持っていく。

花山 ただ、この歌の場合「或る時間の過ぎむ」という言葉で言ったために、わかりやすくなってるのね。ああ森岡さんの歌の作りはこうなんだって見えてくるところがあって、『百乳文』はそうやってみんなが気がついた歌集だった。もう歌集の一番最初から、「今夜とて神田川渡りて橋の下は流れてをると氣付きて過ぎぬ」と来たでしょう。相当にやってる? っていう感じ出てる。「今夜とて」の「とて」はとか。「今夜とて渡りて」と言って、「橋の下は流れてをると氣付きて」だもの。普通はやらないよって感じでしょ。でもこうまでやらないと、森岡さんはずっと評価されないままだったかもしれない。

■ 戦後と表現の変遷

吉川 『百乳文』の「子供らのあそびにまじる棒切れがそそのかしをりあそびながらに」も好きな歌なんだけども、子供が棒切れで遊んでいるんじゃなくて、棒切れが子供をそそのかしているという表現。これが森岡さんの発想の中心にあるような気がする。人間は自分が主体的に行動していると思ってるんだけど、実は、物によって動かされている面があるのではないかという疑いがある。

花山 ある意味では人間が受動的ね。人間の主体を受動形にするような歌は初めから多いけど、この場合は「棒切れ」が「そそのかしをり」っていうことで、とてもいきいきした感じが出てくるわね。

吉川 「まじる」という語の選びがすごいですよね。これは深読みなのだけれど、そうした発想の背後にはやはり戦争体験があるのではないか。戦争中は、個人はただ受動的に生きるしかない。情況に流されていくしかないんですね。人間は決して自己判断で生きているわけではない。戦後的な〈主体〉を疑うような発想を持っていたような気がしますね。

澤村 棒と子供らで、動かしている主体が逆転してるわけですよね。『百乳文』ではかなり意識的にそういう叙述の仕方をしてると思うんですけど、逆転の叙述自体は結構早い段階から見られます。第二歌集の『未知』に「ぬかるみは陽にかがやけりとどまれる影なるときにわれが佇む」がありますけど、私が立っているから影ができるんじゃなくて、とどまっている影から私が立つっていうのがある。

吉川 そうそう。『白蛾』の歌なんだけど、「わが夫の墓などなかりし青山墓地にてをとめ子なりしをさなかりにし」(※)。これ最初すごくびっくりした。妙な歌ですよね。夫が死んだときに墓ができたんだが、そのできる前から自分はそこで遊んでいて、幼かったという。これが最近の歌集だったらわかるんですけども、夫が亡くなって間もない時期なんですよ。

花山 『白蛾』はわりとあるんですね、そういう感じが。それはやっぱり戦争で夫を亡くしたときに強烈にそういう意識が出た感じがする。この歌も、自分の夫の墓なんかないときに「をとめ」で幼かったという感覚は、そこが夫の墓だからよけいにそう思うというか。

吉川 時間が逆流してますよね。こういうふうに歌うのは不思議ですね。

なみの ご主人を亡くされた、そこが森岡さんの何か時間の起点になっているというか。そこだけが森岡さんにはっきりした時として在って、そこからの奥行きだったり遡上だったりするものとしての時間をもってしまった。それ以後も、とりとめのなさはとりとめのなさで深まりつつ、やっぱりそういう時間だけはずっと鮮やかにあって、いつもそこに引き戻される、引き寄せられるような感じ。

吉川 ある意味で時間が凍結しちゃっていて、何があっても、そこに絶対戻っていく。

花山 でもいろんな人が同様の体験をしてるけど、森岡さんのようにはなってなくて、普通に時間は流れて忘却したり、単なる回想になったりしていくでしょう? そこが不思議よね。ただ、自閉的では決してない。森岡さんは本来かなりいきいきと外界に関心をもって生きるタイプで、悲哀や悲しみっていうのも反対にいきいきするような歌い方をするでしょう。現実への関心は、常に外に開かれている感じがするの。

吉川 戦争が終わり、夫が死んだところで時間を止めちゃって、でも自分は生きているというか。二つ時間があるような。

花山 なるほどね、二つ時間があるっていうのはおもしろいかもしれない。『未知』あたりから、病気も回復して外界への関心が広がっていく。

吉川 『甃』も素材が外に広がってますよね。

花山 この時期は婦人代表団で中国に旅行したり、NHKラジオの仕事を始めて、工場とか公害とか取材やインタビューに行ってるんです。

澤村 返還前の沖縄にも。『甃』に「機にねむり下方なる南支那海にをみなの髮の漂ひてわれ」があって、これは沖縄に行った一連の最後の歌。沖縄戦で亡くなった女性にすごくシンパシーを感じている一連で、最後に結構強引なんですが「漂ひてわれ」として、「われ」も同化させる。ちょっと攻撃的な歌い方で『甃』は、いろんな意味で積極的なんですよね。「企業体は翅音をし感じたり透きたる扉を男走り出づ」って結構謎な歌で、当時どんどん成長し始めた企業、経済の流れに乗り始めた組織というものへの、ちょっとした批判もある歌なんじゃないかと。

花山 なるほどね。企業体が翅音を感じる、なんて何か虫の生態っていう感じ。『甃』って相当ケッサクだと思うのよね。

澤村 ケッサクですよ〜。そうやって『甃』でやりきって、もう次の歌集からぱたっと社会的なことを歌わなくなります。日常にギアチェンジしてます。

花山 次の『珊瑚數珠』ではまたモードが変わって美的に。

吉川 『珊瑚數珠』は名歌多いでしょ。

花山 歌は変わっていく、変わるべきという考えですね。

■無意識、忘我、身体

吉川 例えば『九夜八日』の、「汝の車に東京灣の下ゆくと兩壁あかるくなびきてやまず」(※)の歌。ポイントは、壁が「あかるくなびきてやまず」というここなんですね。車で東京湾の下のトンネルを潜ってるときに、壁が窓の外を動いて見えるのをどう表現するか。普通なら壁が流れていくとか過ぎていくとか言うんだけども、「なびきてやまず」と歌う。動詞を変えることによって、物の見え方が変わる歌が、かなり多いように思うんですね。我々は動詞は決まっていると思いがちですが、本当は変えられるものなんです。例えば「雪が舞う」と慣用的に言ってしまうのも、雪は舞うものだと皆が思い込んでいるから。その動詞を使うこと自体が、身の回りの物を、決まった枠組みの中で見ていることなんですよ。けれども動詞が揺らぐことによって、自分の〈主体〉も変わってしまうことがある。〈主体〉とか〈私〉というと、みんな名詞で考えちゃうわけ。でもそうじゃなくて、森岡さんは動詞の側から考えた。そこがすごいところなんじゃないか。

なみの 吉川さんの歌の作り方と、通じるところがないですか?

吉川 それはもう完全に僕が真似しているわけ(笑)。森岡さんの対極が佐藤佐太郎じゃないかと思う。佐太郎の歌で「旱天の冬の屋上に飼はれゐるものにおどろく鵜の眼は緑」、これ僕の好きな歌なんですが、屋上に何かが飼われていて、驚いて近づいていったら鵜がいて、眼が緑だったという。遠近法がとても鮮やかです。この遠近法がリアルなんだけど、森岡さんの場合この遠近法自体を疑っているところがある。遠近法って学習するもんなんですよね。遠近法以前にはもっと混沌とした認識があるはずで、それを森岡さんの歌は垣間見せるところがある。

花山 普通は一種の構図があるわけだけど、そうじゃなくて意識でやっていく。私も『白蛾』からよく典型として引くんだけど、「薄氷の赤かりければそこにをる金魚を見たり胸びれふるふ」(※)の歌、こういう言い方で歌っていく例はあまりないんじゃないかな。

吉川 茂吉の影響なんですかね。

花山 私も鑑賞でそう書いたんだけど。「煙草の火赤かりければ見て走りたり」の、忘我の状態で走っていくのをああいう方法で作るっていう無意識の出し方は、やっぱり学んでいるのかな。

澤村 まさに忘我だと思うんですけど、遠近感の喪失と、あと物の輪郭の喪失という状態が結構早く『白蛾』とか『未知』で出てきてて、『白蛾』の歌で、「街角を黄の眼玉となり曲り來るみな自動車にて梅雨の暗き日」(※)の「黄の眼玉」、そこだけがすごくクローズアップされるんですよね。遠近感も、ヘッドライトの輪郭も喪失している。余談ですが、例えば『アンナ・カレーニナ』の最後で、人生もうどうしようもなくなって主人公が電車に飛び込む。線路に向かって走っていくときに忘我の状態で、そのときの描写が周りはもう流れるようなんですね。輪郭とか遠近感を喪失してる。ここだけしか見えないという状態。そんなふうに、文学上の忘我の系譜ってある気がして。森岡さんの初期の『白蛾』、『未知』、『甃』ぐらいまでそういう歌が多いですが、じゃ、そういう文体をもたらしたのは何なのか。茂吉経由かもしれないし、もっと実体験的なところで、戦後の自分をむき出しにして生きていかなきゃいけない状態、忘我の状態を本当に身をもって体験しているところから出てきているのかもしれない。

吉川 フロイト以前にニーチェも無意識に注目していたところがあって、大正元年に『ツァラトゥストラ』が翻訳されて入ってくる。ニーチェの表現って、無意識を刺激するところがあるでしょう。だから歌人にも衝撃を与えたみたい。若山牧水も読んでるんですよ。茂吉もかなり読んでます。外国文学を経由することで、短歌にも無意識の表現が生まれてきたんじゃないか、と最近考えているんです。

花山 でも読んだからってできるわけじゃない。それを表出できたということよね、茂吉は。応用できたっていうか。

澤村 もっと早く明治期に、「無意識」として概念化されてはいないかもしれないですが、樋口一葉が書く小説なんかで女主人公が、世の中から逃れるように走る。その時にやっぱり周りが流れる。ぼあーって。概念としてはないかもしれないけれど、表現としてはある。

花山 森岡さんも自分が歩いていくんだけど、周りが流れる。『未知』の「ほのあかりいづくよりさし雨のなかうす青く急(はや)く流れき野菊は」という歌も。

吉川 『敷妙』にも「なに見ればとて大き林檎の眞赤きを目にうつしをり悲しいよ母よ」(※)があります。お母さんが亡くなったときの歌ですが、本当に見ているんじゃなくて、何を見ればいいかわからず目に映しているだけなんだよ、と歌う。そう歌うことで何かわけのわからないものを伝えたいたいんですね。本当は言葉で意識できないからこそ「無意識」なんだけど、言葉をずらすことによって、無意識のようなものが立ちあらわれてくる。そういう試みを必死にされていた気がする。

なみの 先に概念があったんじゃなくて、歌を作っていくうちに気付いていったんでしょうね。森岡さんもやっていったら、なんかおもしろいおもしろい、ってどんどんはまり込んで。そうやって表現を掘り進んでいた。

吉川 多分そういうことでしょうね。身体感覚としてわかっているんだけど、言葉で言えないものがある。それをあえて言語化することによって奇妙な感覚が生まれてきた。

花山 反対に後で意識的になるとか。短歌には、作ってみて急に気づかされるというか、ああ、こんな変なものが出たという感じがあるってことね。

吉川 「かなかなのしきりのこゑは昨夕に或ひはをとつひのゆふべに似たる」、この歌すごく好きなんですね。

花山 こういう歌がいちばん多いかな。「をとつひの」とか「きのふ、けふ」といふの。現実になって、過去になって、既にもう未来、こういう考え方っていつもある。あと「きのふの」っていうのが非常に多いのね。

澤村 『未知』で初めて出てくるんですよね、「きのふ、けふ」っていう意識は。『未知』の一首目の「ぬかるみは踏み場なきまで足跡がうごめきてをりきのふも今日も」。何でわざわざ「きのふも今日も」って持ってくるのか。ただ、「きのふも今日も」って言われることによって、風景が二重映しになりますよね。今目の前にあるそのぬかるみに足跡がたくさんついている景色に、昨日の残像が薄く重なる。そういう不思議さが出てきますよね。「かぎりなくみみずもつれて地中より出でてをりそこにきのふは佇ちし」も、今ここにあるのは「みみず」がもつれて地面から出てきてるとこなんだけど、そこに昨日立ってた自分の残像を見る。でも実体の自分はこっちにいるんですよね。ちょっと幽体離脱的というか、上の空の意識というか。「きのふ、けふ」という修辞が出すのは、そういうおもしろさ。

花山 同じ場所での「きのふ、けふ」というの、夫の死から発しているような気がして。『白蛾』の「昨日のあさいでし玄關を一日經て入りゆくに既にいのちなきひと」、これは普通の歌なんだけど。「昨日死にし今日かも」という時間。

なみの どんどん深化する。挑んでますよね。一方で先ほど森岡さんは閉じていない、という話がありましたが、例えば当時まだ珍しかっただろう自動車の歌なども、森岡さんはよく歌っている。いきいきと働く心のある人だったんだなあと、そこも今回再発見でした。

吉川 車の歌だと、『九夜八日』の「あとさきの混みあふときを汝のくるま走れずなりぬわれもろともに」が好きです。渋滞を詠んでいるだけなんだけど、重々しいリズムとのギャップに、妙なユーモアがある。「われもろともに」がすごく可笑しい(笑)。

なみの 調子がこれだから笑えるんですね。

澤村 『未知』に「オフェリア」という一連があって、「オフェリア」なんて歌に一言も出てこないのに、なぜかこのタイトル。でも、最後の方に「みぎはより片足ずりしあふむけのさみしき一瞬ただ曇天」、山の中の沢に行って、足を滑らせて仰向けにこけた。水に落ちた自分はオフェリアだっていうんで、きっとこのタイトルなんです。可笑しかったです。このときに転んで自分が水に背中から浸かったときの感覚が多分強烈に残ってて、後の『珊瑚數珠』にこんな歌が出てくるんですよ。「歩道橋いゆきつつ顏の浮くごとしかかるたぎつ瀬ありきとおもひき」。歩いてて、顔の表面が何かこう浮くような感覚がしたと。これはあのとき自分が水にひっくり返ったときの感覚だ、と反芻してる。ユーモアとは違うかもしれないけど、何か可笑しさがあって。

吉川 手を骨折した時にも、何首も歌ってますね。折れた感覚が残っているとか。

花山 ああいうのになると、結構いきいきとしつこく歌うところはあって。面白がるというか。

なみの でもお若い時の『白蛾』には、肋骨の手術も含めて病弱な人の日常があって。病みやすい人の身体感覚というか、とても鋭敏に繊細に感じる分ける身体を感じます。

吉川 『白蛾』の「手術場へ這入らむとして擔架ゆれわれにくひこむ赤き目かくし」、この「くひこむ」ですけど、同じ歌集に「月させば梅樹は黒きひびわれとなりてくひこむものか空間に」もあるでしょ。自分の身体の感覚を表した言葉が外界にも使われる、そういう相互関係がある気はしますね。動詞が自分の身体とつながっていて、それが外界を見る場合にも同じように働く。

なみの 「くひこむ」というと、それが身体をもたないものであっても、すごく身体的な感覚として伝わってきますよね。ただ歌の言葉としては強いから使うのに用心しそうなのに、森岡さんはそこを恐れずに使ってくる。

花山 『未知』ぐらいまではそうよね。身体と外界が一体化するような感じで使っていくんだけどね。…話は尽きないけれど、今日はこのへんで。かなり森岡さんの歌の魅力に迫ることができて良かったと思います。

(二〇一〇年三月二九日 於 京都教育文化センター)

*は「森岡貞香の歌を選ぶ」に選出した歌

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