塔アーカイブ

2008年11月号

対談 〈読み〉の冒険
 
  栗木京子 VS 吉川宏志
 
  (記録)吉田淳美
 
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●作者名は歌の読みを左右するか
 
吉川 こんにちは。吉川宏志です。こんなに聴いている方が多いと緊張しますね。「〈読み〉の冒険」という、結構いいタイトルだと思っているんですが、「冒険」って、本当の意味は危険を冒すということなんですね。「読み」って結構怖いところがあって、自分はこういう意味だろうと思い込んでたら、他の人の読みは全然違ったとか、驚かされることがしょっちゅうありますね。その怖さを含めて話ができたらいいかなと思っています。

 あと一つ、最初に話しておきたいのですけれども、「読み」の問題って、今、短歌の世界以外でも大きな問題になっているみたいなんです。私は、学校教育関係の仕事をしているんですけども、教育現場でも「読解力」がすごく重視され、大きな話題になっている。日本の学生の読む力が落ちてる、とか、読んだことを説明する力がすごく落ちてるってよく言われています。「読み」の問題は、短歌だけにとどまらない、もっと広い問題だと思っています。

 それでは話に入っていきたいと思うんですけれども、栗木さんと私で資料を作ったところ、共通する歌が一首ありまして、
 
  フセイン像の頭を靴にたたきたる少年にながきよろこびあれよ
                 竹山 広
 
っていう歌が、奇しくも両方挙げてあったので、そのあたりから、お話を聞けたらと思っています。
 
栗木 栗木でございます。よろしくお願いいたします。これは竹山広さんの『遐年』という歌集の歌で、吉川さんが去年出された『風景と実感』という評論集の中にも入っています。角川の「短歌」という総合誌の去年の一月号に座談会がありまして、その中でも取り上げられてる歌です。今日もお越しいただいてる奥田亡羊さん、「心の花」の、竹山さんと同じ結社ということもありますが、この、「ながきよろこびあれよ」に注目して語っておられます。独裁者であったフセインが倒されて、フセイン像が引き摺り下ろされるっていう、あのシーン、メディアを通して見た方も多いと思います。その時に、長崎で被爆された竹山広さんが詠ったからこそ、「ながきよろこびあれよ」というところに特別な意味がある。そしてまた、奥田さんはね、フセインはとにかく倒れて、喜びに沸いているけれども、本当にこの少年たち、この国の人たちが解放されたんだろうか、まだまだ、苦難が待ってるんではないだろうかという、ちょっとシニカルなね、深いまなざしがあるんではないかというふうに読み取っておられて、そこが話題になってたわけです。

 私はね、この竹山さんの歌を初めて読んだ時に、むしろ「ながきよろこびあれよ」という部分よりも、上句の「フセイン像の頭を靴にたたきたる」のほうが印象に残りました。靴で叩いてる少年たち、普通だったら、蹴ったらいいわけですよね。日本人なら、たぶん蹴る。フセイン像は下向いて降ろされまして、地面に着いた訳ですから、当然足が届くわけです。それをなぜ、蹴らないか。それはイラクでは足というのは大変に聖なるものとされているから、その足で、フセイン像みたいな、穢れたものに触れるってことは出来ないからです。でもやっぱり何らかの形で叩きたい、だから自分たちの靴を脱いで、靴を通して叩いてる。竹山さんはそこを細かく見ておられる。ただ単に感情的に、自分は被爆者で、一方の少年たちは苦しめられた国民である、共通点がどうこうって言うのではなくって、国の習俗や国民性まで実に細かく認識して詠んでおられる。そこがすごいって思いました。何故そこのところがね、問題にならなかったんだろう、というふうに、座談会を読んで思ったんですね。だから、読みっていうのはね、このようにいろんな切り口があるなあということです。署名読みって言うのかな、その人の署名がついているから、何となくこういう切り口で読んでしまうっていうような怖さも、その時に感じました。
 
吉川 靴で頭を叩いている場面自体は、テレビの映像で何度も流れたので、そんなにすごい表現だとは感じなかったのですが、奥田亡羊さんと笹公人さんの対立がすごくおもしろかったのですね。奥田さんは、作者のシニカルな目がこの歌にあると言う。「ながきよろこび」とあるが、今は喜んでいるけれども、その喜びも内乱などが始まって長くは続かないだろうと予感して歌っている、というふうにおっしゃった。それに対して、笹公人さんという若い歌人が、その「読み」は、竹山広さんという歌人を知らなければ出てこない「読み」ではないかと批判したのですね。

 この歌は、作者名をはずして読んだら、イラクの少年に、フセインが倒れてこれから平和な生活が待ってるからよかったねと、呼びかけている歌のように読めるのではないかと、笹さんが言ってたのですね。僕は奥田さんの「読み」が基本的に正しいと思っているんだけれども、作者の過去の作品によって、歌の「読み」がすごく左右されるのは面白いなと思ったんですよ。

 竹山広さんはご存知のとおり長崎で被爆された方ですが、こういう歌があります。
 
  おそろしきことぞ思ほゆ原爆ののちなほわれに戦意ありにき 『残響』
 
 原爆の落とされた後でも、自分には、戦争を続ける意志があったんだという歌を作ってるんですね。人間の感情というのは、時代状況によって、如何にコントロールされやすいかということを、竹山さんはすごくよく知ってる人なんですね。竹山広さんは、フセイン像の頭を叩いている少年は、今は喜んでいるんだけども、それは実は現在の状況に左右されているだけなのではないかということを詠ってるんだと、僕は思うわけね。「ながきよろこび」という平仮名表記に、ほんとうの「長き喜び」ではない、という含みがあるんでしょう。でも、それはあくまでも過去の作品を知っているからそう読めるわけであって、過去の歌という文脈の力がすごく大きいなと思いますよね。

 そのあたりどうですか。最近そういうこと言うと怒る人がいて、過去の作品を知ってるからわかるというのは、おかしいんじゃないかと言われたりする。それだったら、有名な歌人は得で、無名な人は損じゃないかと、怒る人がいるんです。まあ気持ちはわかるんですけども、ただ、歌というのは一首だけを切り離して読むことも重要なのだけれど、過去のテクストを踏まえて読むことも同時に必要とされるのですね、たぶん。
 
●解釈できない歌の魅力
 
栗木 でもね、やっぱりケース・バイ・ケースで、長年やっててもあんまり作者像の刷り込みが歌に反映しない方もあれば、その逆もある。例えばちょうど、前登志夫さんの歌を、私も吉川さんも第一歌集の『子午線の繭』から引用しています。前登志夫さんは吉野の歌人と言われてて、今年の春、残念ながら亡くなられましたが、前さんは第一歌集の時点から、世界をはっきりと持ってらしたという感じがするんですね、そして、例えば私が一番で引用した歌、
 
  いくたびか戸口の外に佇つものを樹と呼びてをり犯すことなき
 
 この歌ね、何かいいなあと思うんですけれども、でも厳密に解釈しろと言われるとなかなか難しい歌なんですね。『子午線の繭』の刊行は、昭和三十九年なんですが、昭和三十年に前さんは詩のほうから短歌に移ってこられた。昭和三十年くらいの時期はまだ戦争の影が歌の世界にもあって、戸口の外に佇つものっていうのを、例えば帰還兵士とかね、それからまた、生きて還れなかった戦死者の魂みたいなふうに捉える読みもあっていいかもしれません。

 あるいは、前さんの歌集読んでると、盗賊とかね、そういう言葉も出てきますから、夜盗とかね、そういう人を想定してもいいかもしれない。で、最後の「犯すことなき」っていうのが、何が何を犯すのか解からないんだけれども、それでも正体不明の戸口に佇つものを木と呼ぶという、そして、何か自分たちの生活の中にいつか、出入り自由に受け入れているというところがね、いいなあと思いますね。それは山の歌人ならではの世界だからなのではないかな。これ普通の住宅街のね、垣根の木だったら、成り立たない歌だと思うんですね。吉川さんはどうですか、今の歌。
 
吉川 僕も、すごく好きな歌なんですけど、不思議な歌で、「いくたびか」というのが奇妙なんですね。何か怖い歌だと思います。「犯すことなき」っていうのがほんとうにベストの結句か、というのはわからないんだけど、妙に生々しいんですね。「犯すことなき」って言ってるけども、逆に犯されている感じ。「犯すことなき」って、否定しているんだけれども、否定することによってかえって強く犯される感じが出てくるんですよね。これって言葉の不思議な部分だと思います。さっき栗木さんがおっしゃったように、僕も何となく戦死者の霊が帰ってきてるというイメージは持ちますね。なぜ、そんなふうに感じられるのか、説明するのはとても難しい。

 僕は聖書の一節を思い出したりするんですね。「マルコ伝」の中に、イエスに失明を癒してもらった人が言った「人を見る、それは樹の如き物の歩くが見ゆ」という不思議な言葉があるんです。勝手な連想なんですけど。
 
栗木 あの、話が急に飛びますけど、今年は東京ディズニーランドが二十五周年なんですね。最初はディズニーランドね、こんなに大盛況になるとは予想してなかったらしいんですが、リピーターが多くて、今もうすごくはやってますね、人気があります。その人気の秘密はどこにあるんだろう、という座談会が、「婦人公論」に載っていました。遊園地事情に詳しい芳中晃(よしなかあきら)さんって方の発言で、なるほどと思ったことですが、ディズニーランドは入園ゲートを入ると地図をくれる、マップをくれる、そこに、アドベンチャーランドとかファンタジーランドとか、まあ乗り物もいっぱいありますから、地図が描いてある。その地図のね、方向とか縮尺ですね、門からどれくらいの距離だとか、そういうのが、わざといいかげんにしてあるというんですね。全くいいかげんだと、迷っちゃうので困るんだけども、だいたい方角は一緒なんだけどもピタッとカーナビで見るみたいに正確には描いてない。そこがいいんだって言うんですよ。

 それで何故いいかげんにしてあるかというと、ディズニーランドっていうのは、あくまでも、ウォルト・ディズニーの頭の中のランドであるから、実際の縮尺に合ってなくてもいいんだって言うんですよ。ディズニーランドへ行った人は、言ってみれば、現実の遊園地ではなくて、ウォルト・ディズニーの頭の中の遊園地で遊ぶ、というわけです。短歌に置き換えて言えば、優れた歌人の優れた歌を読んでいると、例えば、前登志夫というアミューズメント・パークの中に、私たちはもう、すぽっと入っている、だからその中では別に方向が南南西とかね、縮尺が百分の一とかそういうものはいいかげんでいいんだ、そういうところが、この歌の「犯すことなき」の読みなのかもしれません。正確に解釈できなくてもいい、そういう魅力があるかなと思いますね。
 
●作者になったつもりで読む
 
吉川 そういうところありますよね。本当にケース・バイ・ケースで、ある程度は自由に読んだほうがいい歌もあるし、逆に作者の思いに寄り添って読まなければいけない歌もある。
 
  対岸にキリンは首の見えいたり時間ゆるやかにそよがせながら
                永田和宏『華氏』
 
これね、二十年ぐらい前に、僕は歌会に行き始めたのですけど、その時、ちょうど永田さんが歌会に出てて、この歌を出されたわけなんですね。それで、この歌を批評した人が、こう言ったんですよ。京都の動物園って、周りに疎水があって、水路の向こうにキリンがいるんですね。それで、その人が言うには、自分だったら、「対岸にキリンの首は見えいたり」と作っちゃうと。ところがこの作者は、「対岸にキリンは首の見えいたり」と作っていて、そこがすごくおもしろい。対岸に「キリンの首」が見えてるんだったら当たり前にすぎない。そうではなくて、対岸にキリンがいて、その首が見えているんだっていうふうに詠んでいる。するとすごくキリンの存在感が伝わってくるということをおっしゃったんですね。それを聞いて、「ああ、こういうふうに歌って読むのか」って、感動した覚えがあるんですね。

 それで、今改めて考えてみると、「自分だったら、どういうふうに作るか」っていう視点からの「読み」を、短歌を作っている人は必ずしていると思うんですよ。ある程度無意識のうちに、そんな「読み」をしている気がするな。自分が歌を作った時のことを思い出しつつ読んでいて、「あ、自分とはこの人は作り方が違うな」と、感じますね。その時に、〈他者〉というものの存在を強く感じる。そこが短歌の「読み」の非常に重要な部分かなと思うんです。「読み」の問題の根底には、〈他者〉と〈自己〉をどう捉えるか、という大きな問題が横たわっている気がする。

栗木 大きいことを大きくボーンとね、大向こうに対して歌うということは、難しいけれども、割合できるかもしれない。だけれども、このキリンの歌は大きな情景を詠みながらそこに助詞という細かいものを効かせて、それで世界をダイナミックに変えているわけですよね。

 あの、永田さんの歌、私も引いてるんですが、三番の
 
  月光の領するところひとつかみふたつかみほど梅の林あり
 
 最新歌集『後の日々』の歌です。これ月光がね「領する」、ぱあーっと、まるで支配するように降り注いでいる。そこに「ひとつかみふたつかみほど」っていうところまで読むと、普通ひとつかみふたつかみっていうと、手の上に載るぐらいのものですから、まあ草花とか木の実とか、そういうものを想像する。けれども、最後に「梅の林あり」というところで、アッと思うのです。

 山麓のところどころに梅が植わっていて、その中に綻びかけた梅が、梅の林になってる一画が、幾つかあるんでしょうね。それを「ひとつかみふたつかみほど梅の林あり」と詠ったことによって、それまでの人間の認識の尺度が、突然何かこう、超自然っていうんですか、自然を大きく越えた、いわば神の目線みたいなね、天空からの目線のようになったところがね、すごい力技だなあというふうに思ったんです。

 それで、この歌、実は今年の二月でしたか、広島で、四国中国合同歌会というのがありまして講演をする機会があって、そこで引用をしましてね、その時はこの「梅の林」ってところを空欄にしといて、私講演の時によくやるんですけど、穴埋め問題を作るんですよ。それで、これがキーワードだと思いますけど、皆さんならここにどんな言葉を入れますか、と問いかけた。そして「梅の林」だからいいんですっていうことを、寒い中けっこう汗かきながら一生懸命しゃべったんですよね。

 それで、その会にちょうど永田さんも来ておられて、話が終わった後で、「永田さんせっかく来ておられたから、私が正解を言ってしまわずに、ご本人から正解言ってもらえばよかったですね」って言ったら永田さんが「いやー俺ね、こんな歌作ってたこと忘れてたんだよ」って言うんですよ。(会場笑)それで「もしあそこで指名されてたら、梅の林っていう言葉だったってことを言えなかったと思うな」って言うから、私はガッカリしました。でもね、後でああそうかもしれないって気もしたんですよ。

 作者が力瘤を入れてここで決めてやるぞ、と使った言葉が読者に百パーセントね、これが決め技だって伝わったらかえって面白くないかもしれない。作者としてはそんなに意識せずに使った言葉が、ある読者にはものすごく響いた、そういうことこそ歌を読む大きな喜びなのでしょう。そういう歌の方が私はかえって値打ちがあるような気がしました。
 
吉川 その問題では、「梅の林」以外に、会場の人からはどういう答えがありました?
 
栗木 時間がなくて聞かなかったんですけど…
 
吉川 ああそうですか。
 
栗木 たまたま、寺山修司にね
 
  一つかみほど苜蓿(うまごやし)うつる水青年の胸は縦に拭くべし
 
っていう、ものすごい名歌があります。苜蓿って、しろつめくさ、クローバーのことです。「ひとつかみふたつかみほど」は多分、寺山修司の歌から来てるので、だから「ひとつかみふたつかみほど苜蓿あり」とかね、そういうんだったら、まあきれいな歌だし普通ですねと、コメントしたのですが。

吉川 この歌も、自分だったら、梅の林を「ひとつかみ」なんててとても歌えないなと感じますね。その時に紛れもなく〈他者〉を感じる気がしますね。それが大事なことなんだと思います。逆に歌を読む時に、何でも自分に染めて読んじゃう人がいて、よくあるケースなんですが、歌会で、例えばフランスに旅行して名所に行ったという歌が当たったときに、「私もこの場所に行ったことがあるので、よくわかります」とおっしゃる人がいるんですよ。あれは、歌を読んでるんじゃなくって、自分を語っているんですね。それが歌会ではけっこう多いですね。他にも例えば、私も同じような経験をしたことがあるから共感したとか、それはとても大切なことなんだけど、歌を読む時は共感をしつつ、どこかで、作者は自分とは別の人間なんだ、他者なんだって意識する必要があると思います。自分のことを語るだけではなくて、歌を通して他者に触れるということが、最も大事じゃないかなっていうことを、最近よく考えますね。
 
●間(ま)を読み取る
 
吉川 ちょっと話題変わりますけど、
 
  かすかなる心の陰も読み合いて過ぎ行く一日一日の落葉
               高安国世『街上』
 
この歌の読み方を、僕は間違っていたことがあって「一日一日(ひとひひとひ)の落葉」っていうふうに続けて読んでしまったんですね。それが、「塔」の先輩に教えられたのですけど、「かすかなる心の陰も読み合いて過ぎ行く一日」で一回切れるんだと言うんですね。ここに間(ま)があるんだと。

 短歌では、間を読み取ることが大事なんだということを教えてもらった気がします。この歌を解釈しておくと、直接には書かれていませんが、たぶん妻のことを詠んだ歌なのでしょう。妻と自分のどちらにも「かすかなる心の翳」つまりかすかな鬱屈があって、それをお互いに察知して、気を遣いながら過ぎていった一日だった。そんな一日にも、ずっと庭の木は葉を落としていたんだなあという哀感を歌っているんだと思います。「一日」と「一日」のあいだの間、そこにすごい作者の思いがあるんですね。この歌って、文字だけを追って読んでたら、間があることに気づかないでしょう。目に見えない間をいかに読み取るかっていうのがすごく大事な気がするんです。短歌は、読者が間を発見して読む詩型なのかもしれない。

 さっきのディズニーランドの話、いいかげんな地図を自分の足で歩いて行って、あ、こ
こにジェット・コースターがあんだなと気づく。そういう体験ってすごく大事だという気がしますね。間を読むというのはとても身体的な行為であるように思います。歌の中に身を入れて、手探りをするように読まなければ、間は発見できない。

栗木 この高安国世先生の歌は、意味としては、一日一日の落葉、っていうふうに読めるんだけれども、五七五七七の区切りだと「過ぎ行く一日」で七で切れて、結句「一日の落葉」で七、という七七になってる。句跨りになってるんですね。塚本邦雄さんが、そのあたりを開発されたわけですが、意味は繋がってるんだけども、句の切れ目としては分れている、切れているようで、切れていない独特の間合い。

 この歌を読むと思い出すのは、上田三四二さんが大病を患われた後の歌で、

  死はそこに抗ひがたく立つゆゑに生きてゐる一日一日はいづみ

というのがありますね。この歌だと「生きてゐる一日」の四句目が字余りになっている。

 高安先生の歌は、「過ぎ行く一日」だから七音なんですが、上田三四二さんの歌は「生きてゐる一日」だから八音、そこに何だか更に含みがある、屈折がある。大きな病を宣告されて一日、また一日っていうふうに、何か一滴一滴雫の滴りを受け止めるように時を慈しみながら過ごしているっていうね、そういう感慨が字余りによって出た。先生の歌の方は落ち葉ですから、ここはなだらかに、字余りなどをせずにね、句跨りだけで詠みたかったのかなというのはわかりますね。

吉川 やっぱり、体感というか、リズムで読むっていうのが、大きい気がしますね。

●身体で読む

栗木 今の、体感で読むとかリズムで読むことのつながりでいくと、吉川さんが六番で挙げておられる、河野裕子さんの歌ですよね、

  酸いやうな感触と思ひ匙を舐むとほい杉山に陽あたるを見て

 これなども、本当に地図があってないような、道があってないような、そういう感覚の迷路へ、手探りでね、河野さんという作者の感覚の中に、視覚だけではなくて、「酸いやうな」の味覚とかね、それから触覚、触る感じとか、そういうものを総動員しながら入っていくという不思議な奥行きがあります。これも「とほい杉山に陽あたるを見て」の「とほい杉山に」が字余りですよね。この字余りも効いている。何かこう、あてどない感じね。

吉川 この歌もね、二十年ぐらい前に歌会で出会った歌なんですよ。で、僕は、「どこがいいのか、さっぱりわかりません」って言っちゃって、後で、えらい怒られて(笑)、何でこれがわからないの、とか言われて。あ、作者じゃないですよ。先輩の誰かに。

 これね、多分、匙っていうのはかき氷の匙かなと思うんですよ。「舐める」とあるから。あれはだいたい鉄の匙でしょ。それで、舌に当たるとちょっと酸っぱいというか、冷たい金属の味があって、その触感と杉山を見ている感じとが、どこかで響き合っているんですね。杉山に陽が射しているしーんとした感じと、自分の体感とがどこかで繋がっている。そこを読み取るのがすごく大切なことなんだと思うんですが、それがね、わかるまで時間かかるというか、やっぱり十年ぐらいかかるかな、という感じ。(笑)

栗木 吉川さんは一発で共感した歌かなと思った。

吉川 いやいやもう、全然わかんなくて、やっぱり修行を積んで…(笑)。

栗木 修行前だったのね。先日「塔」でも、新かな旧かなの特集がありましたけれども、この歌には旧かな遣いの独特のニュアンスがある。「酸いやうな」「酸い」ってのは、酸っぱいっていう意味ですが、ちょっと方言なのかな。

吉川 方言っぽいですね。

栗木 ちょっと古い、おじいちゃんおばあちゃんが使ってたような、「酸い」っていうの、で、そこに「やうな」というね、それから「とほい」のこの、旧かなですよね、そういう全体の感じが独特です。それで、最後に「見る」という視覚が出てきます。視覚を生かした歌はね、聴覚とか触覚の歌よりもシャープになりがちなんだけれども、この歌の場合はね、何かこう全体的に語感に紗がかかったみたいな感じになって、この「見る」は、ほんとに見てるんじゃないみたいなね…

吉川 ああ、そうですね。

栗木 まるで水中で物を見てるみたいな奇妙な感じをもたらす、というところが、この歌の魅力なんでしょうね。総合的なものなんですよね。

吉川 今日は「読み」がテーマですが、「作る」ほうの立場から言うと、風景を歌に詠む場合、見ているだけではダメなんですね。どこか体感というか、触るという体験が要るという感じがしますね。

 「体感」と言えば、栗木さんは「身に沁む」という語の使われた歌を二つ挙げておられますね。

栗木 私の引用歌の五番と六番の歌は、同じ「身に沁む」でも古典の歌と近代以降の短歌とでは受け取り方がずいぶん違うということで、引用してみました。五番の歌は、斎藤茂吉、

  かへりこし日本のくにのたかむらも赤き鳥居もけふぞ身に沁む

という『ともしび』の中の歌で、これは、茂吉がヨーロッパに医学のために留学していまして、大正十四年の一月に帰って来るわけですよね、日本に。ところが、前年の暮れに青山脳病院が全焼してしまうというショックなことがあった。そのいろんな思いがあって「かへりこし日本のくに」を見ている、その時にたかむらだけじゃなくてね、赤い鳥居に日本を感じたっていうところも、これも、吉川さんの『風景と実感』の中に引用されている歌で、そこにも詳細に語られていますけれども、赤い鳥居とたかむらの取り合わせが、やっぱり眼目であって、だからこの歌の「身に沁む」っていうのは、本当に身に沁みた、その時の個としての、個人の茂吉にとって身に沁みたといっていいと思うんですね。

 ところがね、六番の「身にしむ」になりますと、

  夕されば野辺の秋風身にしみて鶉鳴くなり深草のさと

っていうね。俊成の歌なんですが、この「身にしみて」を、まあたとえば私なんか古典に疎いものが「ああ、俊成さんはこの時何か心に憂さを抱えてたんでしょうかねえ、失恋したんでしょうか、出世のことで頭を悩ましてたんでしょうか」なんて言うと、国文の専門家に叱られる。無知だ、とか言われるわけです。

 これは、伊勢物語を背景にしている。在原業平が、深草の女の所に通ってたんだけれども、どうもなかなか忙しくなったりして、ちょっと気持ちも離れて、来られなくなっちゃった。その旨を、それとなく告げると、あなたが来てくれなくなったら、私はどうしましょう、草深い深草の鶉となって、鳴きながら待っています、なんていうふうなことを言うもんですから、情にほだされて、ああやっぱりこの女を大事にしようと思った、そういう話が全部この「鶉」「深草」っていう背景にある。だからこの「身にしみて」は、俊成の個人的事情で身にしみたんじゃなくて、伊勢物語の業平と深草の女の逸話を踏まえてなければいけない、というふうになってしまう。それで私は、古典って嫌だなあ、面倒くさいなあと思うんですよね。

 でも最近はね、何もそんな読み方しなくてもいいんではないか、古典だって詠んだのは人間なんですから、そこに俊成の「身にしみて」というのをね、勝手に私が想像して、いわゆる近代的自我っていうことですけれども、それを投影して読んでもいいんではないかな、というふうに思ってはいます。まあ、ただ言葉というのは、ほんとにその時々の使われ方で、同じ「身にしみて」でも、ずいぶんテクストが違うというか、受け止められ方が違うなあというところは、確かにありますよね。

吉川 そうですね。茂吉の歌は、一回調べたことがあって、茂吉の『ともしび』以前の歌集を全部調べたんですが、鳥居を詠んだ歌はないんです、この歌まで。この歌で初めて鳥居を詠んだ歌が出てくるんですね。これは茂吉が海外に長いあいだ留学して、日本に帰ってきて、初めて、ああ、鳥居ってのは面白いなと思ったと思うんですね。普段だったら、鳥居ってそんなに珍しくもないでしょう。だから見えなかった――歌に詠もうという気にならなかったと思うんですね。それが、外国で鳥居がない暮らしをずっとしてきて、やっと帰ってきた時に、ああ日本には鳥居があるんだと、しみじみと見えてきたんだと思いますね。そんなふうに風景の見え方を調べていくと、とても面白いなあって思っているんですよ。

 俊成の歌は、「身にしみて」という表現について、鴨長明に『無名抄』という歌論書があるんですが、この「身にしみて」が、言い過ぎではないかという批判があったみたいですね。ちょっとオーバーっていうか。当時でも強い言い方だったみたいですね。

 でも、やっぱり「身にしみる」というのは、大事なことなんじゃないかな。『伊勢物語』の知識によって感じるだけではなく、秋風や鶉の鳴き声を身体で感じる。ここに俊成は、何か歌の根幹に触れるものを感じたんじゃないでしょうか。まあ、これは僕の勝手な想像にすぎないわけなんだけど。

 あの、栗木さんのあげられた吉岡さんの歌は、どうですか。全然違う歌ですけれども。

●〈私〉をどう捉えて読むか

栗木 ええ、若い世代の歌も、と思って、八番の吉岡太朗さんの歌なんですけど

  抜けてきた全ての道は露に消え連続私殺人事件

っていうんですね。『猫町歌会』って今在籍している大学の、仲間とやってる歌会に提出した歌らしいんですが、「短歌研究」の今年の七月号の座談会「若い歌人の現在」、この中に自選歌五首を出してくださいっていうスペースがあって、その五首の中に載っていたんですよ。で、自選五首の中に選ぶっていうことは、作者としては、かなり思い入れの強い歌だろうなと思ったんですが、でもね、私にはどうもピンと来ない。「抜けてきた全ての道は露に消え」という、なかなか端正な出だしなんですけれども…

吉川 古典的ですね。

栗木 古典を踏襲してますよね、露に消えちゃうあたりがね、それが結局まあ、私(わたくし)というようなものは、昨日の私と今日の私と明日の私は違う、日々新しい、日々更新されるっていうようなことを「連続私殺人事件」という言葉で表したんですが、ちょっと軽すぎやしないか。それが若さと言えば言えるんだけれども。ただ、なんたって自選五首に選んだくらいの自信作なんですから、ひょっとして、もっと深い意味があるんじゃないか、という気もしてならない。塚本邦雄さんのね、『夕暮の諧調』という評論集がありまして、その中に「写実街の殺人」と言う言葉が出てくるんですね。塚本さんはご承知のようにベタな写実を否定して、新たな虚構の世界というもの、イメージの世界、抽象の世界を作り上げた方ですが、だから塚本邦雄の「写実街の殺人」というのを踏まえた上での、「連続私殺人事件」なのか、と思ったり、いやいや、たぶん本人はそこまで思ってないだろうなと考えたり、それで、最終的にはそんな深読みをする自分に疲れちゃうんですよね。

 この歌はどうでしょう、吉川さんは、評価します?

吉川 そうですね。僕全然この歌は知らなかったんだけど、けっこう面白いかなと思います。今ってこういう感覚って、あるんじゃないですかね。最近の殺人事件の裁判のニュースなどを見てると思うんだけれども、精神鑑定とかあって、あの時人を殺した〈私〉と、現在の〈私〉は違うんだ、だから罪は無いんだっていう論理ってけっこうあるでしょ。それが、すごく面白いって言ったら不謹慎なんだけど、なんか〈私〉っていうのが、昨日・今日・明日とばらばらに存在していて、どんどん過去の〈私〉が死んでいくって感覚が、今すごくある感じがしますね。そのあたりを、軽く歌っているのかなって気がして、なかなか面白いなと思います。

 上句がうまいんですよね。過去はどんどん消えていって、常に〈私〉っていうのは今しかない。〈私〉をどう捉えるかという現代の問題と深く関わってくるんでしょうね。

栗木 そうやっていくらでも読みの解釈はできて、深い読みも浅い読みもできるわけなんだけれども、吉川さんが引用しておられる、二番の永井さん、この方も二十代の方ですか。三十ぐらい?まあ若手ですよね。こうした歌について、私たちみたいな三十年近く歌をやってる人間が、解ったようにして後付けをしながら読んでるけれども、実のところは、ものすごく薄味の歌なんじゃないかと。それにこっちが、勝手にマヨネーズかけたり、タバスコかけたりして、自分好みの味にして、褒めたり貶したりしてるだけじゃないかっていうふうに、ふと不安になることがあります。永井祐さんの「わたしは別に」の歌、どう詠みましたか。

吉川 これはね、今年の角川の座談会が一月号にあって、その時に黒瀬珂瀾さんという若い歌人が、この歌はすごく切実な歌だって言うんですね。この歌、切実なんですかってびっくりしたんだけども。

  わたしは別におしゃれではなく写メールで地元を撮ったりして暮らし
  てる         永井 祐

地元を写メールで撮ったりする暮らしが、なぜ切実なのかがわからなくてね。それは、歌としてはほとんどの読者には伝わらないんではないかと思うんだけれども、ある世代の思い入れ、というのがあるのね。東京などの都市に出て行けず、「地元で暮らしてる」っていうことに、すごくコンプレックスがあるみたい。と言っても、すごい田舎に住んでいるわけではなくて、都市の近郊の町なので、そんなに不便というわけじゃないんですよ。僕にはその屈折感がよくわからない。ただ、ある世代にはあって、別の世代には伝わらない価値観や微妙な言葉の感覚の違いというのは、今かなりあるみたいで、それが短歌の中で読めないという問題が出てきている気はしますけれどもね。どうすればいいのかは、ちょっとわからないんだけれども。

栗木 「別に」とか「撮ったりして」とか、曖昧さを匂わすような表現ですよね。それから「わたしは別に」っていう出だしの字余りの、ちょっとつんのめるようにして歌いだすとか、そこに込めた作者の、何かきっぱりとは言えないけれども鬱屈した思いというのを読み取ろうとすれば読み取れるんだけど、でも、そこまでして読むほどの歌かなと…

吉川 僕も昔は、こういう歌って全否定してたんだけども、今は、ある程度はこういうことかなと一応読んでおくっていうか、保留しておくことが必要かなという気はしますね。今、わからないからといって、切り捨てるわけにもいかない、わからなくても、ある程度までは読んでみて、それでもだめだったら、私はわからない、でもわかる人もいるんだろうね、というふうに言えばいいと思うんですね。

栗木 吉川さんの口から、そういう言葉が出るとは…ま、全否定はしないけれども、あんまりこちらがおもねるような読みはしなくていいような気がするんですね。

吉川 そうですね。

栗木 解らない歌は解らない。口語が緩んでるところは緩んでる、そこが全部いけないっていうわけじゃないけども、この永井さんの歌もね、私ぱっと思い出したのが、東直子さんの歌です。

  そうですかきれいでしたかわたくしは小鳥を売ってくらしています

東さんのこの歌を初めて見た時にはね、この文体新しい、と思ったんです。それの焼き直しっていう気がする、永井さんの歌は。永井さんという歌人独自の文体の創出というところまでは、行ってない。何だか中途半端な感じがしてしまって、あんまりそれを切実さがあるとかね、若者ならではの気持ちがあるっていうふうに読まない方がいいんではないかなと思います。

●空白部分を読み込む・言葉の流れを味わう

吉川 読み込むってことで言うと、

  飾らるることも知らずに笑いたる母そののちは五年とわずか
                  小高賢『眼中のひと』

この歌について、最近よく書いたり話したりしているんですけれども、遺影を詠んでいるんですね。生前のお母さんが、遺影として飾られることも知らずに笑っていた。五年経って、そのときの笑顔をしみじみと思い出しているんですね。とても悲しいいい歌だと思います。この歌のおもしろいところは、「遺影」や「写真」といった言葉を一切使っていないんですね。亡くなったとも言ってない。読者の側が、いかに空白部分を埋めているかということが、この歌について考えると、よく見えてくる。

 そこがけっこう難しいところでもあって、さっき言ったように、自分勝手に埋めちゃってもだめだし、逆に、空白部分を想像して埋めなくてもダメだし、バランスっていうかな、匙加減が必要なわけで、すごく読者の力が問われる気がしますね。

栗木 そういう意味で言うと、私が引用した、九番と十番は日高堯子さんの『睡蓮記』という新しい歌集の作品で、最近読んだ中で、この日高さんの『睡蓮記』は、私一番感銘深かったんです。引用した二首もね、どちらもいい歌だと思うんですが、年老いたご両親の介護をしていらして、その中で日高さん自身も、もう六十歳になって、自分に迫ってくる老いとかね、そういうものも感じている。それこそ切実で、切羽詰った感じが強いんですけれども、まあそういう中の歌でね、

  空くだる瀧(たぎち)のやうにまつしろな山藤の花に死後はなりたい

っていうんですよ。きれいな歌です。空から降ってくる真っ白い瀧のようにして白い山藤が咲いている。そういう歌にね、結句は「死後はなりたい」って言ったところにね、美しさゆえの、彼女のその時の痛みっていうのが託されている。ものすごく共感を覚えるんだけれども、この歌なんかは、どこにこの歌の一番の見せ所があるっていうのが、解りやすい、手わざが見えるっていうか、そういう歌なんです。でもね、私はどっちかって言うと十番の歌の方が、後々まで心に残るかなっていうふうに、思ったんですね。

  葉生姜のうすくれなゐを買ひ帰らんゆふぐれはいつも生きるを愛す

 何か、悲しい歌でね。葉生姜、あの葉っぱのついた生姜のね、うすくれないの、その生姜を買う。ま、ささやかな買い物ですよね、牛肉五百グラム買うんじゃないわけだから。そういう何気ない夕暮れ、夕暮れになると、いつも生きることをもうちょっと愛してみようかと思う、っていうふうな歌でね。ただ、なかなか説明が難しい。この部分が特にいいとか言いにくいんだけども、読者がほんとに心を添わせて読んで感銘を受ける歌って、なかなか解説がしづらいですよね。

吉川 そうですね。この二首とも結句が目を引くんですよ。「死後はなりたい」とか、「生きるを愛す」とか、結句が目立つんだけども、じつは結句の前に「空くだる瀧のやうにまつしろな山藤の花に」とか「葉生姜のうすくれなゐを買ひ帰らんゆふぐれはいつも」とか、長々と、ぐにゃぐにゃと入っていくでしょう。ここが歌では大事なんです、ほんとはね。万葉集でも、結句が決まっている歌は多いでしょう。「見れど飽かぬかも」「生けるともなし」とか、同じ結句の歌がいくつもあるじゃないですか。だけど、結句に達するまで、屈折を重ねながら長く歌っていく部分で思いが伝わってくるわけで、日高さんの歌も、多分そういう歌だと思うなあ。「序詞(じょことば)」というのも、そういうものなんですね。

 「生きるを愛す」とか、「死後はなりたい」とかいうのは、この部分だけだったら、よくある普遍的なものですよね。そこに持ってくるまでの、柔らかでゆったりした言葉の流れを味わうことが大切なのでしょう。どうしても我々は、「死後はなりたい」とか、結句の方にすぐ目が行っちゃうんだけども、そうではなくて、結句に行くまでのゆるやかな流れ、そこを見るのが大事という気がします。

●ユーモアの歌を読む難しさ

吉川  時間が少なくなってきたので、一つだけ付け加えると、

  「好きだつた」と聞きし小説を夜半に読むひとつまなざしをわが内に
  置き                横山未来子『水をひらく手』

 この歌が最近面白くて。恋人が「好きだった」と言った小説を、夜に読んでいるんですが、「ひとつまなざし」だから、君のまなざしを、自分の中に置いて読んでいるんですね。「読む」って、こういうことがありません?単に私が読むんじゃなくて、自分と誰かが混じりながら読んでるっていうかな、そんな感じを受けるときがあるんですよ。「読む」というのは、自分だけの個人的な行為だと思っちゃうんだけど、じつはそうではなくて、どうも自分以外の〈他者〉も入ってきて読んでいる。それが「読む」という行為の不思議さっていうか面白さだと思うんですね。さっき、「読み」の問題の根底には〈自己〉と〈他者〉の問題があると言ったのだけれど、〈自己〉というのは決して単一なものではなく、複層的に存在している。このあたりを横山さんはすごく敏感に感じとって詠んでるなという感じがします。感心したんだけれども。

栗木 すごく立体的な視点のある歌ですね。単なる追体験というんではなくて。「好きだつた」、私ね、この過去形が切なくて好きなのね。「好きだよと聞きし小説」とか「好きですと聞きし小説」だと絶対だめなんです。「好きだった」と聞いたってところで、「好きだった」と言った人と作者との関係が、多分もう終わってんじゃないかなというね、何かその余韻の中で、小説を読むというのがひとつのよすがになっているようなね、そんな印象が残る。こういう細かいところが意外に歌にとって大きな梃子になるってことはありますよね。

吉川 時間なんで、最後にもう一言言わせてもらえますか。

  何十人何百人の死を診たるあなた自身がここに死にゆく
                  広瀬俊子『白川集』

 最近出た「塔」の会員の方の歌集の中の一首です。作者のご主人は、病院のお医者さんだったんですね。何十人、何百人の死を診てきた人が、最後に自分自身の死を死んでゆく。とても冷厳な事実が詠まれていて、すごくいい歌だと思うんです。今日は「塔」の大会なので、「塔」の人の歌をおもに取り上げましたが、身近なところにいい歌ってたくさんあると思うんです。ただ、せっかくいい歌があるのに、なかなか知られていかないという寂しい現実も一方ではある。だから、いい歌を、どんどん紹介する、いいと思った歌を、どんどん人に伝えていくということを、皆でがんばってやっていくことがいま一番求められているかなって、思っています。

 栗木さんも、最後に何かおっしゃってください。

栗木 じゃ、私も一言。清水房雄さんの歌、四番の歌ね、

  何時死んでもをかしくない年齢になりたりと今日別々の手紙に書きぬ

 何かね、読んでてにやりとしちゃう、一種のユーモアの歌っていうんでしょうかね。悲しみの歌とか、喜びの歌とか、恋の歌よりも、実は一番読みが難しいのが、ユーモアの歌じゃないかなと思うんですね。ここがこうだからこう面白いんですって、論理で説明できないのが笑いとか、ユーモラスな味わいなんであって、だから読みのひとつの訓練としては、ちょっとウフフと思う歌があったら、この歌のどこが面白いんだろうかって、あえてその読みに挑戦してみることがね、有効な訓練になるかな、と思いました。そのあたりで。

吉川 栗木さん、どうもありがとうございました。

栗木 ありがとうございました。(拍手)

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