短歌時評

直喩を考える / 大森 静佳

2014年11月号

 一度読むと忘れられない言葉がある。例えば私にとっては「秀でた比喩とは、二つのものの生の相似を瞬間に摑む精神の早業である」という葛原妙子の言葉がそうだった。比喩というもののエッセンスが凝縮された美しい言葉だと思う。それはすなわち、「AはBのようだ」というときのAとBは、表層ではなく生や存在の根源で何かを共有していること、そしてそれを捉えるのは頭や理屈よりも直感でなければということだろう。

 
 古典和歌以来の比喩は、近代においては主にアララギ派によって排除される傾向にあったが、その後前衛短歌や九〇年代のニューウェーブの歌人たちによって果敢に開拓された。近年、特に震災以降は修辞や比喩の無力さがさかんに語られるが、実際はどうだろうか。短歌的喩(吉本隆明)やメタファーはやや影を潜めているが、歌集や総合誌にはおもしろい直喩の歌が意外なほど溢れている。

 
 最近では、井辻朱美の十三年ぶりの歌集『クラウド』が好例だろう。

 
  殺された英雄たちの帷子のようにひかりて時を駆ける鮭たち
  いつまでもおのれの息に酔うごとく海が返して寄せて夕映え

 
 一首目はなるほど鮮やかな比喩で、鈍い銀色の鱗は帷子に似ている。単なる帷子ではなく、殺された英雄の痛みという物語性にまで踏み込むところが井辻ならでは。まさに「生の相似」を鋭く摑んでいると言えよう。また「時を駆ける」は長い時間をかけて母川回帰する鮭の姿と、戦場を駆けまわった英雄のイメージを二重に映す。その意味では、定型の円環構造を十分に生かした歌でもある。二首目は一首目ほどの飛躍はないがしみじみといい歌で、波のリズムの夢のような恍惚感が上句の喩に託されている。

 
 これらは物の存在の仕方を追求した歌で、喩によって世界を鮮やかに更新しようという使命感を帯びる。その意味では、どちらかと言うとクラシックな直喩の歌と言えるだろう。

 
 一方、新鋭短歌シリーズ第二期の中畑智江『同じ白さで雪は降りくる』と田丸まひる『硝子のボレット』も直喩の効いた歌が多くあるが、目指すものが井辻とは異なる。私たちにはむしろ以下のような歌のほうが、現代の比喩の型として見慣れたものかもしれない。

 
  南国の木の実でできたお茶碗がわたしの離島のように在る午後    中畑
  離してはいけないはずの手をきみは傘の柄くらいに思っていたか
  読みさしの本の栞を抜くような夜を重ねてばかりでごめん      田丸
  下着入れに忍ばせている石鹼のような感情ひとつ渡せない

 
 中畑の一首目は木の実の茶碗を自分の「離島」と見て、自分という島からもう一人の自分が離れて浮遊している寂しさ、寄る辺なさを詠む。二首目、傘を握るように何気なく握っていた手が、実はかけがえのない手だった。感情語はなくても、比喩によって切なさが出ている。田丸はストレートに自分を晒す恋や性愛の歌が多いなか、ここに引いたような喩によって屈折を滲ませる歌がおもしろい。喩の複雑さはそのまま想いの複雑さでもある。

 
 中畑と田丸の歌から気づくのは、どれも一首の主題は感情の淡い屈折であり、それが喩の部分の具体的でなまなましいイメージに支えられている点だろう。不動の〈私〉が喩によって世界を塗り替えるという従来の感覚からは遠い。むしろ喩によって初めて〈私〉が揺り動かされ、覚醒する。現代の儚く息の浅い〈私〉やもどかしく入り組んだ感情は、くっきりした重たい喩によってやっと世界に繋ぎとめられているのではないだろうか。

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