短歌時評

「興趣」に思う / 梶原 さい子

2013年2月号

 十一月二十八日、岡部桂一郎氏が亡くなった。九十七歳。モダンで鋭く、しかし、
どこか懐かしさの滲む作風で、独自の存在感を持つ。いくつかの同人誌への参加は
あったが、結社には属さずに来た。

  みちのくの夜空は垂れて電柱に身をすりつける黑猫ひとつ     『綠の墓』

  月と日と二つうかべる山国の道に手触れしコスモスの花    『戸塚閑吟集』

 二〇〇三年に『一点鐘』で迢空賞、詩歌文学館賞、二〇〇八年に『竹叢』で読売
文学賞を受賞しているが、塔では、それ以前の八十七歳のときに岡部桂一郎特集を
組んでいる(2002・4)。
 その中のインタビューがめっぽう面白い。結社に属してないこともあり、今と
なっては得難い、貴重な機会となっている。
 この中で、岡部が、六回、口にしている言葉がある。それは、「興趣」だ。

「うっかり絵の具がとんでそれをカバーしようとする。しようがないからいじって
いると、だんだん像があらわれてくるという、これはいちばん私の心をひらいて
くれた。心やすらぐわけですよ。これは写生とか写実ということじゃないですね。
興趣。」

「その人のいちばん満足できる、安心できるもの、そういうものにつながっていく、
それが興趣」

 興趣とは、「あじわいのあるおもしろみ。おもむき」という意味だが、岡部の言う
興趣とは、どういうことだろう。

「なぜそれ(興趣)がなつかしいのかというとね。よし、私はいっちょうやって
やろうかという、いざないですね。さそいかけですね。」

「自分の個性が人に訴えると思ったら、とんでもない間違いなんですよ。それが、
今の現代短歌を小さくしてしまっている。変に芸術なんて言葉をね、抜いてしまった
ほうがいいと思っている。

 つまりは、着想を「いざない」と捉え、それに応じる、そういう心があるという
ことだ。歌を自分が作り出したなどと思わない方がいいと。

 しかし、それは、偶発性に倚りかかっているのではない。「いざない」を「いじ
っている」時間と分かち難くあるものだ。岡部が寡作である理由とも繋がろうが、
昵懇な着想や言葉との関わりからひらかれてくるものがあったのだ。

 このあたりは、若いときからの短歌観に八十七歳までの「時間」によって培われた
ものが混じり合い、ひとつの境地に至っているところだと思う。岡部はそもそも
反写生、脱写生の表現第一主義で、人工的に作り出された感動、美、真実が確実な
存在であることをめざした。(「樹木」第三號1951・7)

 それが、「しばしば倦」み、「襲ってくる短歌離反の嵐」がありながらも詠み続ける
年月のうちに、その軸の立ち具合に少しゆとりが生まれ、いい塩梅なところにいつか
着いていた。そこには、いざなう存在を認める姿勢、いわば、その存在への敬意とも
言うべきものがある。敬意とは、言葉をただのモノとして扱っていないということだ。
 だから、言葉にこだわり表現を突き詰めても、表現に驕りが滲まない。生きながら
長く詠ってきたその根本に、「心やすらぐ」「いちばん満足できる、安心できるもの」
につながる喜びがあったことが、嬉しい。
 自分の歌を「興趣」と語った、そんな歌人は去ったけれど、歌は残った。歌は残って
いる。

  
  あしたより雨ふりつづく森のみゆ終るいのちをわれは疑う(2010・1「短歌現代」)

  
  いい歌だ 「一膳飯屋の扇風機」死んだら墓に入れてくれぬか(2012・1「歌壇」)

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