短歌時評

必然性を問う / 梶原 さい子

2013年1月号

 「短歌」十一月号では、第五十八回角川短歌賞作品として、塔の藪内亮輔の「花と雨」が掲載されている。二〇一二年の塔短歌会賞に続く受賞であり、全選考委員が◎を付けた、圧倒的な力を見せての受賞でもあった。

 死に向かう家族を持つ時間をモチーフとし、全体は翳りを帯びたひかりのようなトーンでまとめられている。そのトーンに絡め取られる思いがする、抑制された迫力が底の方からうねりくるような一連だった。

  肉体のなかを肉体がくぐり抜けてくるやうな息だぎりぎりのこゑ

  川の面にあさくさしこむ俄雨さしこまれながらわづか流るる

 「物を見る目に力がある」「この人の個性、独立性は描写にある」という評どおり、確かな技量がしっかりと土台にある。

 一方、

  うざいだろ?それでいいんだ蒼穹(おほぞら)にゆばりを流しこんでる。神も

などの、時折挟まるやや生な述懐の表現について、確信が持てているかというところが気になった。詩的発見が口語の烈しさと結びつくとき、発見自体よりも表現に目が行ってしまい、その良さを味わいづらくなるのはなぜだろう。私たちは大震災後、今までならば許容できていた、言葉のある過剰さに何とも言えぬ空しさが感じられることを経験し、まだその感覚は回復しきっていないと思う。

 あるレベルを超えた「描写」の先の+αとも言うべきインパクトや個性を求めるとき、どんなものがよいのか。それ以前に、それは必要なのか。思案と試行と納得の過程が要る。その方法や文体を選んだ「必然性」、「説得力」のようなものが、今まで以上に私たちの歌に求められているのではないかと感じるのだ。

 「短歌研究」十一月では先月に続き、創刊八十周年の特集が組まれている。その前身とも言うべき、『短歌講座』の月報「短歌研究」の第一號(昭6・10)巻頭では、北原白秋が、個としての自分の歌の本質と表現を磨くことの大切さを叙している。また、第三號(昭6・12)では、山下陸奥が「異色と個性」という題で、「眞に價値あり人を動かすところの新しいものは決して偶然には生れない」「個性に從って、どこまでもそれを深く掘り下げ、どこまでも突きつめてゆけば、おのづから異色が生じる」「自己の個性は、外部から支配するところの種々のものを取りのけて眞に好むところのものを搜り、心を潛めて自分の性格を反省すればおのづから發見出來る筈である」と述べている。これらは、定型、自由律、写生、プロレタリア、モダニズムと、形式や方法を集団ごとにせめぎ合っていた当時の状況を反映する文章だが、八十年後の今にも当てはまる。「外部から支配するところの」――。支配とは、気付かぬうちにもされているものだ。それは、伝統から学ぶのとはまた別のことであり、かえって、いくらでも新しい歌に触れられ、歌の評判を情報としてすぐ得られたりする今だからこそ、それらに「支配」されてはいないか振り返ってみるべきかもしれない。それは、自分の歌に、表現に、自分なりの「必然性」があるかを問うということだ。

 たとえば、短歌研究新人賞として鈴木博太の「ハッピーアイランド」が評価されたのは、原発事故をニューウェーブの手法を再利用しながら詠うその底にある、福島という風土への理解と心慮が、「必然性」として文体を保証していることが、かろうじて感じ取れたからだと思う。

 表現の必然性を改めて問うこと、そして、そこから生まれる言葉への信頼を地道に積み重ねていくことが、言葉への許容の範囲をまた広げてくれる道でもある。

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