短歌時評

「当事者」とは誰か / 川本 千栄

2012年5月号

 角川「短歌」四月号の時評は小高賢「当事者になるということ」である。小高は
角川「短歌」三月号の「3・11以後、歌人は何を考えてきたか」という座談会の
司会者だった。この座談会や「歌壇」三月号の評論で佐藤通雅がしきりに〈当事者〉
という言葉を口にしており、この言葉が小高の琴線に触れたようだ。

 ただ、この〈当事者〉という語を短歌の評論に用いるには明確な定義付けが必要
だろう。
 佐藤は「〈当事者〉が即、実体験の有無ではありえない」「圏外にいても、自分の
問題として主体的に受けとめる人は、すべて〈当事者〉となりうる」と述べる。また、
小高は「現地を見聞したかどうかの先にある〈当事者〉を自分で選ぶかどうかの選択」
と述べる。二人の話をまとめれば、〈当事者〉かどうかは、この震災に自分がどの
ように関わっていくかの意志の問題ということになる。私もこの意見には賛成である。

 とは言うものの、私は先月の時評で、この語を〈現地在住者〉を指して使っていた。
実際、〈現地在住者〉と〈当事者〉とはなかなか分ち難い。佐藤は「歌壇」の同じ
評論で、遺体安置所である体育館に入れなかった逸話を述べ、「直接の〈当事者〉
でないものを拒む、静かながら厳しいなにかが、そこにはあった」と書くが、この
〈当事者〉は先に述べた、自分の問題として震災の〈当事者〉たろうとする人では
なく、〈現地在住者〉、その中でも特に震災の犠牲者とその親族を指すと取るのが
妥当だろう。佐藤も用語を混用していることになる。〈当事者〉という言葉は斯く
も難しい。

 〈当事者〉という言葉は現在、短歌以外の言論の場でも大きく取り上げられている。
三月半ば、佐々木俊尚著『当事者の時代』(光文社新書)という本が出た。帯には
「いつから日本人の言論は、当事者性を失い、弱者や被害者の気持ちを勝手に代弁
する〈マイノリティ憑依〉に陥ってしまったのか」とある。

  (…)メディアの記者は、〈マイノリティ憑依〉し、自分の側へと物語を引き寄せ
  ようとする。それは当事者のつくる物語とは位相が異なっている。(…)

 そしてそのメディアの紡ぐ物語と当事者のつくる物語の差異に気づくのは本当の
当事者だけだ、しかし今回の震災での圧倒的な津波の現場は、誰の目にもその位相
の差異をくっきりと際立たせてしまった、と作者は説く。メディアは弱者や被害者
の立場で物語を紡いできたのだが、その欺瞞を無化するほどに、今回の津波は圧倒
的だったのだ。

 これは多くの機会詩・社会詠をメディアに頼って詠んできた歌人たちの在り様に
も変化を呼ぶだろう。この震災を歌に詠む際、メディアを通した情報に頼って歌を
詠んだとしたら、それはこの作者の言う〈マイノリティ憑依〉に限りなく近いもの
になってしまうからだ。そして、それは出来事の〈当事者〉たらんとすることとは
違う。

  売上げの一〇%を義援金に、などと誘ふ
  春スキー場  高野公彦「短歌」六月号
  冷房を前提として建てられしビルの鏡面
  に映るあおぞら
       吉川宏志「短歌研究」八月号

 復興を願う気持ちに付け込む商魂。システムとして毎日の生活に組み込まれて
いる過剰な電力消費。高野も吉川も〈現地在住者〉ではないが、こうした素材を
詠うことで震災の〈当事者〉の位置を選ぼうとしている。

 この震災に自分は関わろうとするのか。関わるのならどこに自分にとっての
問題点があるのか。こうした思考から、〈現地在住者〉である無しに関わらず、
優れた歌が生まれてくると私は信じる。〈当事者〉の問題は短歌の〈私性〉の
問題とも関わっていると思うのだ。

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