短歌時評

当事者性と秀歌性 / 川本 千栄

2012年4月号

 角川「短歌」三月号は「震災大特集 3・11以降、歌人は何を考えてきたか」と銘打った座談会を載せている。この座談会の眼目は被災地在住歌人として佐藤通雅・田中濯・三原由起子を交えていることであろう。意外なことであるが、被災地在住の歌人を交えた座談会はこの特集まではほとんど無かった。そして彼らの発言の中で最も印象に残ったのは秀歌性の問題だ。

 昨年も総合誌等で大震災に関する座談会があった。それらにおいては秀歌性よりも現場性・当事者性を重視する発言が多かったように記憶する。例えば、「短歌研究」十二月号の座談会では島田修三が「すぐ後ろに津波が来た人の歌はやはり迫力があるんだよね(…)現場にいる人たちの肉声を伝えてくるときに圧倒的に短歌は強いんだよね」と、佐佐木幸綱が「原発の歌で痛感したのは比喩が効かないことだ」と発言している。このように技術的に上手い歌よりも、事実の重大さに語らせた歌を重視する発言が多数見られた。

 機会詩において当事者性が強い衝迫力を持つことは当然ではあるが、当事者性を重視し過ぎれば、秀歌性が軽んじられたり、当事者で無い者が詠う方向を封じられてしまう危険がある。地震・津波に関しては、被災地在住ではない歌人たちの多くが「当事者では無い」「しかし歌人である以上秀歌を詠まなければならない」という二重の軛に囚われて、歌が詠めない状況に陥ったのではないか。

 被災地在住歌人はこの当事者性と秀歌性の関連をどう考えているのかという点に注目したのだが、〈当事者であれば秀歌で無くても構わない〉という意見は見られなかった。例歌が挙がっていなかったのが残念だが、佐藤通雅は「今回の震災詠で修辞が役に立たなかったと言われるが、残るのはきちんとした歌ですよ」と発言しているし、田中濯は「歌はうまくなきゃダメなんですよ。それが大前提です」「短歌における機会詩的なものはあってもいいですが、ダメな歌はダメですと言わないといけない」等と繰り返し発言している。

 同じ理由で、長谷川櫂の『震災歌集』や和合亮一の『詩の礫』が、短歌や詩としての粗さと、それを粗いままに出版した姿勢を厳しく批判されている。三原由起子は「早く本を出して、それを歴史の証言として後々残したいという気持ちが先に出ていることが感じられます」と、表現者として目指すべき方向のずれを指摘している。

 それでは震災詠における秀歌とは何であろうか。その答えは簡単に出てくるものではないのだが、詠う側の方法論として、田中は一貫して〈私性〉と〈思想性〉を主張している。例として前衛短歌の時代の岡井隆を挙げ、「私性をきちっと、高い技術と意識を持った状態で、今、自分たちが作るんですよ」と述べている。また詠うべき対象として原発災害を挙げている。〈私性〉を回避していてはこの災害を詠えない、という田中の意見に私は頷く。賛否両論あろうが、態度論・精神論に終始せず、こうした具体的な方法論を持つことは必要だ。意識的な方法での作歌を経て初めて、秀歌性を問える歌が生まれるのではないか。

 また、原発問題には当事者で無い人間はいない。実家が原発から十キロ圏内にあるという三原の「とにかく訴えていかないと、それで社会につながっていかないと、私達の犠牲は無駄になってしまう」という発言を私は重く受けとめた。私の住む関西では、一日たりとも「日常」が失われなかった。関西で「普通に」暮らし続けることは、この震災に於いて何を意味するのか。またその日常生活に組み込まれている原発の存在。私について言えば、そこから詠うしかないのだと思う。

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