短歌時評

〈破れ〉を支えるもの / 大森 静佳

2015年1月号

 渡辺松男の『きなげつの魚』は、第四十六回迢空賞を受賞した『蝶』に次ぐ第八歌集。渡辺と言えば、あらゆる存在の悲哀を独特の感覚とのびやかな言葉で捉える異色の歌人である。その奥底には世界への懐かしさと深い孤独感がひりひりしているのだが、なかなか語るのが難しい歌人でもあった。

 
  あしあとのなんまん億を解放しなきがらとなりしきみのあなうら
  樹は港しらざるままに逝くべきを鳥は港とおもひて樹に来

 
 『きなげつの魚』で特に強く惹かれるのは例えばこんな歌だ。歌集の背景には、最愛の妻を亡くし、さらに自身も難しい病におかされるという悲痛な日々がある。一首目、こんな形の挽歌もあるのかと言葉を失った。人は生を享けて死ぬまで、この世に無数の足跡を残す。それを「解放」と表現したところに、悲しみとともに清々しい祈りが感じられる。そして亡骸となった「きみ」はもう足跡を残すことはない。二首目、港は往還の場所である。誰かを迎え、また送り出す寂しさの場所。人間は、例えば大切な人を亡くしたときにこの世が「港」であることを痛切に知るのかもしれない。せめて愛する樹にだけは「港」を知らずにいてほしかったが、鳥は来て、再び去ってしまう。なめらかな調べが胸を打つ。

 
  払暁や地球が服をぬぐところ
  亡き母はもう死にません桃の花
  死ののちの父のむすうや渡り鳥

 
 渡辺は、一昨年『隕石』という初めての句集も出している。一句目は渡辺らしい大らかな見立てが楽しい。あとの二句も感覚は渡辺の歌に通じるもので、いい句には違いない。だが、歌と比べると言葉がやや平板な印象を受ける。音数の少ない俳句では、渡辺の言葉たちはどこか窮屈そうだ。

 
  ひまはりの種テーブルにあふれさせまぶしいぢやないかきみは癌なのに
  耳のおくのみづうみ荒れてゐるけふはまゐつたな死が憎くてならず
  われはわれ以外にあらずとめちやくちやなことおもへる日臼は石臼

 
 渡辺の魅力は、その浮遊する魂の在り方以上に、言葉の力による部分が大きいのではないだろうか。『蝶』から引いた一首目の「まぶしいぢやないか」、この呟きの切なさ。二首目の「まゐつたな」の途方に暮れて俯く感じ。これらは、わずかな含羞とともに思わず漏れ出た口語である。渡辺には〈白鳥はふっくらと陽にふくらみぬ ありがとういつも見えないあなた〉や〈ああ母はとつぜん消えてゆきたれど一生なんて青虫にもある〉といった初期の代表歌があるが、これらの下句は力強く外に向かって言い放たれた口語であった。それが近作では、ゆるやかに内面的な口語へとシフトしつつある。どちらかと言えば、たどたどしく静かにくちごもる文体へ。それでいて、逞しく外へ向かう言葉よりもむしろ豊かな普遍性を獲得しているように思える。

 
 おそらく、こうした文体の変容の裏には死生観の微妙な変化がある。先ほど挙げた初期の二首のように、従来の渡辺松男の世界はあえて言えば私たちに馴染みある東洋的な思想で温かくくるまれていた。しかし、その死生観が『蝶』のあたりから破れてくる。「死が憎くてならず」も「われはわれ以外にあらず」もかつての渡辺ならば決して言わないようなフレーズだろう。今、父母や妻の死、また自身の病を背負った渡辺は、真実の前に、受け入れがたさを受け入れがたさのまま詠っている。と言って、物語には寄りかからず、言葉の力がしっかりと死生観の「破れ」を支えていることに深い感銘を受ける。渡辺松男の今を、私たちは見つめていかねばならない。

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