短歌時評

コントラストの危うさ / 大森 静佳

2014年1月号

 昨年の第五十九回角川短歌賞と第一回現代短歌社賞はともに二作同時受賞であった。角川短歌賞の選考会では、吉田隼人「忘却のための試論」は芸と挑戦性、伊波真人「冬の星座」は感覚と安定感が評価され、対照的な二人という構図が華やかに示されている。同時受賞の場合はどうしても必要以上のコントラストのもと面白く論じられがちだが、対比が強まるほどに見落とされるものも確かにある。
 
 「現代短歌」十二月号発表の現代短歌社賞は大衡美智子「光の穂先」と楠誓英「青昏抄」。三百首という応募歌数が特徴で、若手だけでなく結社等で地道に歌を続けてきた人にも広く開かれた賞として期待があっただけに、選考会での曖昧な批評が残念に思われた。気になったのは楠作品をめぐる以下の発言である。
 
 春日真木子「なぜとらなかったのかということになりますけど、私はなんだか陰陰滅滅を感じてしまいました。(略)三十歳ってのは冬の時代を生きてきたと言われている世代だから割に暗さへ向く傾向があるのね」(略)
 
 沖ななも「ここでこの賞を受賞してから、あるいは暗さを卒業できるかもしれないという気もしますしね」
 
 一体、「暗さ」とは何だろうか。「暗い」とか「明るい」というのは個人の印象を述べたに過ぎず、批評になっていないのではないか。そもそも、なぜ暗くてはいけないのか。様々な疑問が残る。「明るさに向く歌が先を拓くと
思う」という春日の立場表明は潔いが、選考会では「暗さ」という印象が具体的に突っ込まれることなく、印象批評のまま終わっている。おそらくは「生と死がなひまぜになつた夕ぐれに亡兄に似た人影のたつ」といった歌や自省的な作風を受けてのことであろうが。
 
  腕と同じ数だけ腋窩はあるだらう千手観音に向かひゐるとき

  狂ふとは狂ふおのれを知らぬこと 白壁に吾が影の伸びゆく
 
 私は「青昏抄」(抄出)を暗いとはあまり感じなかった。この作品は教師としての日々と亡兄の記憶を主題とし、選考委員では外塚喬と沖ななもが一位に推す。落ち着いた文体ながらも、千手観音の腕の付け根一つずつに「腋窩」を見る視線の深さ、二首目のような認識の怖さ、例歌は引かないが身体部位の遊離感覚が鮮烈だった。確かに「死」、「霊」、「影」といった語が見られ、亡兄の影を意識しているナイーブな青年像が浮かぶが、その悼みの思いは抑制された言葉でごく自然に他の歌に溶け込んでいる。それよりも楠の最大の魅力は、千手観音や白壁の影のような「物」を凝視するうちに視線や認識がふと深いところに沈んでしまう凄み、そしてそれを定型において無理なく響かせる言葉の力にあるだろう。
 
 一方でもう一つの受賞作「光の穂先」については、明るさを衒いなく詠んでいるとして春日が一位に推しているが、次のような歌の皮相な「明るさ」が私は気になった。
 
  すんすんすん雪割草の芽が伸びて歓喜の歌を歌ってる ほら

  滴れる至福のごとき母の尿琥珀の色を深めて溜まる
 
 「歓喜の歌」や「ほら」は歌の景に対しあまりに素直で平板な表現だし「至福のごとき」は介護の歌として不用意ではないだろうか。
 
 現代短歌の価値観が揺れ定まらない今、新人賞の選考はどんな歌を求めていくのかを話し合う重要な場だ。印象批評ではなく、もっと言葉や技法に基づく誠実な批評が交わされるべきだと思う。そして私は読者として、二作を並べた際の印象に引き摺られず慎重に読んでいきたい。芸と安定感、暗さと明るさ。選考会で浮き上がるコントラストというものの危うさに意識的でありたい。

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