短歌時評

口語短歌における「辞」の変革 / 大森 静佳

2014年2月号

 角川「短歌年鑑」(平成26年版)の特別論考で小高賢「批評の不在」と島田修三「聖域のほとり」がともに永井祐の歌を話題にし、特に小高は永井らの歌が「分からないという声が一方にありつつ、いつのまにか認知されてゆく」現状を危ぶむ。『日本の中でたのしく暮らす』刊行からまもなく二年。ささやかな肯定感を求めて生きるナイーブな若者像といった時代論や世代論から語られることの多い歌集だが、私はいったんそこから離れて歌の作りそのものを吟味する必要を感じている。と言うのも、永井の歌の肝はモチーフや時代感覚よりもむしろ辞の部分にあると思うからだ。
 
 かつて菱川善夫は「実感的前衛短歌論—『辞』の変革をめぐって」(『短歌』昭和41年7月号)で、安定した辞の規定力とその余韻のうちに「自己」の詩の充実を目指したのが近代短歌であり、第二芸術論を経て、そうした辞の安定性を拒否することで時代の危機と不安の中から人間の悲劇を見つめようとしたのが前衛短歌の功績であったと指摘した。菱川は塚本邦雄の「心に酢満つるゆふべの祝福とわかものが肉充ちし緋のシャツ」(『緑色研究』)や「壮年のなみだはみだりがはしきを酢の壜の縦ひとすぢのきず」(『感幻楽』)を引き、文法的に揺らぐ「と」や「を」にリズムの逡巡と人間的な生々しさを見出す。ここで私の興味を引くのは、ここ三十年ほどで浸透した口語短歌においてこのような辞の不安定さによる逡巡がどう引き継がれてきたのかということだ。そもそも口語は文語に比べると助詞、助動詞の種類が少ないため辞によって一首に折り目や破れ目を作るのが容易ではない。例えば「きみがこの世でなしとげられぬことのためやさしくもえさかる舟がある」(正岡豊『四月の魚』)や「ねむらないただ一本の樹となってあなたのワンピースに実を落とす」(笹井宏之『ひとさらい』)などはアイロンを掛けたての皺一つないハンカチのように美しい。このような辞の滑らかさによって、喪失の予感や切なさの気配を一首に充満させる。これは、ニューウェーブの記号短歌など幾つかの例外的試みはあったにせよ、俵万智以降の口語短歌が持ち続けてきた魅力であり危うさであったと思う。
 
  あの青い電車にもしもぶつかればはね飛ばされたりするんだろうな  永井祐

  会わなくても元気だったらいいけどな水たまり雨粒でいそがしい
 
 永井祐の歌はそうした従来の口語短歌とは明らかに異なる。「はね飛ばされるんだろうな」、「元気でいてほしいな」とした場合と比べてもわかるように、引用歌二首では「たり」と「けどな」に生々しい逡巡がある。永井は感情と意識の中間で煙のように揺れては消えてゆくものを慎重に掬い取っている。電車を見たときにふっと湧くイメージ、それは「死への意識」などというものからはかけ離れた茫々として得体の知れぬものだ。つまり、永井の歌は人間の意識のカオスにかなり忠実に寄り添おうとしている。その生々しさは、「たり」や「けどな」という辞によって輪郭のはっきりした表白を遠ざけ、一首に辞による皺を付けることで、ぐにゃっと捻れるように読者の意識に食い込んでくる。強いて言えば、こうした辞の手法にこそ現代という時代の不安が表れていると思う。その意味で永井祐は近代短歌から前衛短歌への辞の変革を口語において再生したと言えるのではないだろうか。
 
 また、口語の辞と「私」の意識の捻れという文脈で言うなら、永井や斉藤斎藤に加え、昨年末に新鋭短歌シリーズ(書肆侃侃房)から次の歌を含む歌集『あそこ』が出た望月裕二郎の作品についても今後の批評が待たれる。
 
  われわれわれは(なんにんいるんだ)頭よく生きたいのだがふくらんじゃった

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