短歌時評

強烈な現実のこちら側 / 大森 静佳

2014年4月号

  星明り信号がない道路では見えないものが見えたあの冬   安田亜美

 『また巡り来る花の季節は』(講談社)から宮城県の高校生の作品を引いた。この本はNHKの番組「震災を詠む2013」に寄せられた短歌を収録したもので、選者は佐藤通雅と東直子が務めている。この歌に添えられた短文には「東日本大震災の起きた後、信号や家の光が消え、いつもは見えないたくさんの星が見えた」とあるのだが、星々以外にも東北が目撃したものがあるということを膨らみのある下句が滲ませているのがいい。素直な文体がかえって哀切だ。

 東日本大震災とそれに続く津波、原発事故によって、現実はすでに歌を呑み込みかねないほどの強烈さを抱え込んでいる。詠むことはもちろん、今は特に〈読む〉ことの難しさを感じている人も多いのではないだろうか。震災の日に東北にいた人と東京にいた人と関西にいた人とでは同じ歌を読んでもそこから感じ取るものはどうしても違ってきてしまうだろう。そんな中、関西圏から女性中堅歌人二人の歌集が刊行された。澤村斉美『galley』と尾崎まゆみ『奇麗な指』である。

  死者の数を知りて死体を知らぬ日々ガラスの内で校正つづく  『galley』

  たをやかに光よこたふ海峡に淡路なる力瘤は浮かびぬ  『奇麗な指』

 新聞社の校閲部で働く澤村は、記事を通して言葉、数値、写真といったものにきわめて敏感に心を寄せている。関西在住の記者として、この歌のような疚しさやもどかしさをまっすぐに詠んでいるのも印象的である。神戸市在住の尾崎は第二歌集『酸つぱい月』で阪神淡路大震災の多くの鎮魂の歌を作っている。そうした神戸の街ともっと広く存在への哀悼のイメージは、東日本大震災を経て再び『奇麗な指』で呼び返される。この歌ではかつて地震に遭った淡路島が今は傷と力強さの象徴として海に浮かんでいる。すべてを抱きしめる時間の迫力が景に出た一首。澤村は校正記者としての環境から、尾崎は阪神淡路大震災の記憶から、それぞれの個人史を踏みしめて現在を詠っていると言えるだろう。それでは、次のような歌はどうか。

  人は生く粗くさびしい画(ゑ)のなかを水の行き場をこしらへながら  『galley』

  せしうむをうちがはに閉ぢこめたから露草の藍色が汗ばむ  『奇麗な指』

 澤村の歌は一首で読むと人々が洗濯や炊事に水を使いながら暮らす生の切なさを詠んだ秀歌に思えるのだが、原発事故を扱ったこの連作「水の行き場」の中に置かれると全く違う怖さで迫ってくる。粗く寂しい現代の文明のなか、汚染水の行き場を探して人々は右往左往する。「こしらへる」という立体的で粘りのある語の選びがいかにも澤村らしい。「人は生く」の思い切った初句切れも効いている。二首目は、句跨りを繰り返す奇妙なリズムや露草が耐えきれずに浮かべる「汗」の幻想性に尾崎の魅力が存分に出ている。

 澤村と尾崎は、震災を個人史に力強く引きつけて詠みながらも、自身の内なる表現世界と格闘している様子が窺える。それゆえに、この二冊の歌集は読者の心を鋭く打つのだ。特に引用歌にある原発問題は、この国に暮らす以上は誰もが避けて通れないものである。でも、倫理だけでは狭くなる。息苦しくなる。強烈な現実には、おそらく強烈な表現意識でしか立ち向かえない。その表現をどうしていくか。今後も震災詠、原発詠がそれぞれの立場から静かに長く詠み続けられることを願う。また、読む側としては、表面に見えやすい主張や倫理にとどまらず表現が志向するものにより深く眼を向けていかなければと思う。

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